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鉄仮面のマリア ※本編完結済み  作者: 春志乃
第1話 降り注ぐカレーうどん
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1-8



 無垢な黒髪と野暮ったい眼鏡の下に隠されていた真実は、結弦を驚かせると同時に納得もさせた。

 鉄仮面というのは彼女に対して無粋な呼び名だと思っていたけれど、こんなに美しい秘密が隠されていたと言うのならば強ち間違いではないのかもしれない、と。

 柔らかに波打つミルクティー色の髪、雪のように白い肌、そして、長い睫毛に縁どられた菫色の可憐な瞳。

 結弦がこれまで出会ったなによりも、彼女は美しい人だった。

 でも、結弦が彼女に願ったのは笑顔だ。ほんの少し前、パスタやピッツァを食べながら結弦の話に楽しそうに笑ってくれていたのに今の真理愛は恐怖におびえて泣いている。


「ちゃんと隠しておかなかったから……っ」


 悲痛な声で彼女が漏らした言葉に結弦が覚えたのは、途方もない怒りだった。

 真理愛をこんな風に傷つけて泣かせたやつらを殴りたいと心の底から思った。


 


 小鳥遊結弦が畠中真理愛の存在を意識したのは、今年の頭、まだまだ寒い日が続く二月の喫煙室だった。

 結弦は時折、気晴らしに吸う程度に煙草を嗜む。喫煙ルームに入った時は誰もいなかったが、結弦が煙草に火を点けて間もなく三人の男性社員が中へ入って来た。

 一人は同じ営業一課、もう二人は営業二課の男性社員で結弦より一つ下だ。彼らは忙しなく煙草に火を点け、まずは一つ紫煙を吐き出した。他愛のない雑談の中、ふと一人の女性の話題が上る。

 それが経理課の畠中真理愛のことで、しかも聞いていて気分のいいものではなかった。

 親しいわけではないが、落ち着いた服装の女性で仕事が丁寧で真面目な人だ。

 彼女の服装を馬鹿にして、丁寧な仕事ぶりを鬱陶しいと評価する彼らに、いよいよ、嫌悪感がじわじわと顔を出して気分が悪くなる。結弦はさっさと煙草を消して戻ろうと決め顔を上げた時、三人の社員が顔を強張らせているのに気付いた。その視線の先を負って結弦も息を飲む。

 そこに居たのは、正に彼らが話題に上げていた経理課の畠中真理愛だった。

 座っている姿しか見たことがなかったから、彼女が随分と背が高いのを初めて知った。

 喫煙室のガラスは、煙を遮る役目しかないので防音ではない。彼らは大きな声で話していたから、彼女にも聞こえてしまっただろう。あんな悪口を聞いてしまって、大丈夫だろうかと思った時、真理愛は、結弦の予想を裏切った。

 彼女は、形の良い桜色の唇に緩い弧を描いたのだ。

 呆気にとられる男たちを他所に、たおやかに微笑んだ彼女は小さく会釈をして、颯爽と去って行く。

 顔なんか鼻と口しかよく見えないのに、とても綺麗で、そして、強い人だと思った。真っ直ぐに伸びた背筋と迷いないその足取りがとても誇り高く、尊いものに結弦には思えたのだった。

 今思えば、あの瞬間、結弦は恋に落ちたのだ。

 その日から、どうにか真理愛の視界に入れないかと苦心したが、これがなかなか難しかった。領収書を一つ二つデスクの引き出しの奥にわざと入れておけば、領収書が足りないと催促に来た彼女と会えるかもしれないが、彼女が来るとも限らないし、そもそも仕事が出来ない人間だと思われたくなかった。

 真理愛という女性は、所作の一つ一つが丁寧で、仕事も同じだけきちんとしている。休憩室でいつも手作りと思われる美味しそうなお弁当を食べていて、食べる前と後、必ずいただきますとごちそうさまという言葉を口にする。そういったことを一つずつ知る度に彼女への恋心が育っていった。

 だが真理愛は、人と関わるのがあまり好きではないようで、更に言えば男が苦手なようで、結局、半年以上もの間、結弦は見ていることしか出来なかった。

 契機が訪れたのは、つい三か月ほど前のことだった。

 結弦は、鮫島君人という社員について上司から相談を受けていた。

 鮫島は、結弦の同期の男性社員だった。威圧的でプライドの高い男で結弦とは根本的にそりが合わないので、同期といっても仕事上の付き合いしかない男だった。


「鮫島が担当しているJ社との取引で、少しおかしい点がある。探ってほしい」


 内密に、と結弦に頼んで来たのは、営業部部長の翠川だった。

 忙しい仕事の合間を縫って探った結果、鮫島に横領の疑惑が浮上したのだ。請求書を捏造し、差分を自分の懐に入れていたのだ。J社はそれを黙認していて、見返りに鮫島はシュエットの製品情報を横流ししていた。その上、鮫島は、年内にはうちの会社を去り、あれこれシュエットにとって大事な情報を携えてJ社へ行くつもりのようだった。

 証拠を完璧に固めた結弦はそれを翠川に提出し、鮫島を呼ぶために会議室から営業一課に戻ろうとした時、廊下で怒鳴り声を聞いた。


「お前らの仕事は誰にだって出来るんだよ。つーか、お前ももっと色気のある格好しろよ。そんな色気もくそもねぇようなダサイ格好じゃ、こっちの気分だって上がらねぇっつーの。それにさぁ、女なら愛想笑いの一つでもしてみろよ。能面みたいな面しやがって、だから鉄仮面なんて呼ばれんだよ」


「……鉄仮面でもなんでも構いません。私は自分の仕事に誇りと責任をもって取り組んでおります。それに服装は社内規定を順守しております。ダメなものはダメですし、もう期日はとっくに過ぎているんです。今日中に提出して頂かないと……」


 聞こえてきたのは凛とした真理愛の声だった。慌てて飛び込んだオフィスで、真理愛は一歩も引かず、あの人同じように背筋をまっすぐに伸ばし、鮫島と対峙していた。

 だがそれは鮫島を煽ってしまったようで、馬鹿な男は拳を振り上げた。


「生意気な女だな! だから忙しいって言ってんだろうが!」


 結弦は無我夢中で二人の間に割って入り、鮫島の拳を受け止めた。


「鮫島くん、暴力はいただけないな」


 鮫島が驚いたように目を瞠る。


「第一、忙しい忙しいって、君、僕の半分も契約なんて取れていないじゃないか。それなのに毎度毎度、経理さんに迷惑ばかりかけて……そうそう、翠川部長が君に話があるって言うから呼びに来たんだ。心当たりはあるでしょ?」


 真理愛を傷付けようとした男にじわじわと怒りが湧いて、自然と声が低くなる。ふふっと嘲笑うように目を細めれば、鮫島は息を呑み、徐々に顔色を失っていく。

 鮫島は蒼白な顔のまま遅れてやって来た翠川と共に営業一課を出て行った。

 結弦は、すぐに真理愛を振り返った。真理愛は、急に現れた結弦に少なからず驚いているように見えた。


「えーっと……畠中さん、だったかな? 大丈夫かい?」


 本当は知っているのに、まるで正解かどうか自信がないように彼女の苗字を口にした。

 けれどすぐに、顔を背けられてしまった。


「……ありがとうございます。助かりました」


 いつも通りの淡々とした口調でお礼を言って、真理愛は足元に散らばった書類を拾うためにしゃがんだ。手伝うよと声を掛けて同じようにしゃがんだ時、初めて彼女の細い手が震えていることに気が付いて、同時に、どう言葉にしていいか分からない感情に襲われた。

 悪口をたおやかな微笑み一つで交わして颯爽と去って行ったあの日から、彼女はとても強い人だと思っていた。けれど、本当は弱い部分だって当たり前のようにあるのだと気付かされて、胸がぎゅうと締め付けられるように痛んで苦しい。

 あの日の微笑みは確かに綺麗だったけれど、できれば楽しそうに笑う顔を見たい。

 結弦は、ドキドキとうるさい心臓を押さえつけながら、余裕な大人の顔をして彼女に拾い集めた書類を渡したのだった。




 鮫島の件をきっかけに、結弦は真理愛に声を掛けるようになり、暫くして二言三言の雑談なら交わしてもらえるようになった。

 甘いものが好きらしく、たまたまおやつにと貰ったマドレーヌを渡した時、微かに笑ってくれたので、その日から彼女の為にお菓子を用意して時折、渡すようにした。

 男性に苦手意識があるというのは交流の中で確信に変わった。男性社員が声を掛けると結弦に限らず身構えていた真理愛だったが、お菓子の効果は絶大で少しずつ肩の力を抜いてくれるようになった。

 だが、なかなかどうしてガードが固く、全くと言っていいほど相手にしてもらえなかった。嫌われているわけではないと思うのだが、会話をすぐに切られて逃げられてしまう。

 品のない人たちが、彼女のことを経理課の鉄仮面と呼んでいるのを結弦も知っていた。淡々として表情が変わらないからというのが理由らしいが、そもそも鉄仮面とは、無表情という意味ではない。十七世紀のフランスに実在した正体不明の囚人だ。

 人前に出る時は必ず仮面を被っていて、囚人だというのに監獄長自らが世話をして、衣食住も優遇されていたと言う。正体はルイ十四世の双子の兄弟であるとか様々な有力者の説があるが、未だ正体は不明のままだ。

 確かに真理愛は、淡々とした口調で表情にも乏しいがよくよく見ていれば、数字がきっちり収まると嬉しそうに口元を綻ばせているし、問題があった時は不機嫌そうにやって来る。好みのお菓子を食べた時は好奇心に少し声を弾ませてお店を尋ねてくる。

 そういうところが可愛いなと結弦は、ずぶずぶと恋の沼の深みにはまっていった。

 どうすればもっと近付けるだろう。あわよくば恋人、最終的には夫になりたいと悩みながら歩いていたら、隙をつかれて最近言い寄って来ている女子社員にぶつかられ、カレーうどんを零しそうになった。つけまつげに縁どられ、カラーコンタクトで強調されたその目が悪魔のように細められていて、咄嗟にこの女子社員にかけるのだけは回避せねばと反対側にお盆を逸らしたら、たまたまそこに座っていた真理愛の膝の上にカレーうどんの汁をぶちまけてしまった。あの時は、頭が真っ白になった。

 スカートもブラウスも果てはパンプスまで台無しにしてしまい、どんぶりの破片で怪我までさせてしまった上、公衆の面前で彼女を辱めてしまったことにどうお詫びすべきかと悩んでいた結弦だったが、無理矢理誘ったディナーを彼女は楽しんでくれたようだった。

 彼女を送り届ける車中でどうにか服の件を納得してもらい、彼女のマンションを訪れた時、強引にでもディナーに誘って良かったと心の底から神様と水原に感謝した。

 もしカレーうどんの汁を零していなければ、もし強引に結弦がディナーに誘っていなければ、真理愛があの男に襲われていたかもしれなかった。

 セキュリティが中途半端な真理愛のマンションには残していけなかった。エントランスからエレベーターホールへは、住人と一緒なら誰でも入れてしまうのだ。

 ディナーで、要約するとイケメン過ぎて目立つので近付きたくない、男として意識していないと言われて凹んだりもしたが、逆にそれを逆手にとってやろうと思った。男だと思われていないのならば都合がいい。とにかく、結弦からしてみればストーカーに真理愛の部屋がバレていること、侵入しようとしていたことのほうが重大だった。

 まさか素直に頷いてくれるとは思わなかったが、真理愛が恐怖と混乱で正常な判断が出来ない内に安全な場所へ連れていこうと彼女を促し、仕度を整え自分の家へと連れ帰った

 家の中を案内しても、彼女は不安げな顔のままだったけれど、唯一、キッチンにだけは顔を輝かせた。菫色の瞳をきらきらと輝かせて、炊飯器やレンジを楽しそうに見ていた。

 大きな眼鏡と長い前髪がない分、彼女の表情がよく見えた。わくわくとレンジ(スチームオーブンレンジというらしい)を覗き込んだり、言葉にはせずとも炊飯器に感動していたり、可愛いったらなかった。

 彼女が今夜、ここへ来る際に絶対に傷付けられたくないからと持ち込んだのは両親に貰ったという年季の入った裁縫箱と祖母に貰ったという赤く輝く銅鍋だった。銅鍋は使い込まれた風格があり丁寧に手入れがされているのが結弦にも分かった。

 結弦は料理を全くしない人間だが、真理愛は料理が好きなのだろう。昼も毎日、お弁当を作って来ているほどだ。この情報は本人から教えてもらったので安心してほしい。

 そして、名前で呼んでもらうことに成功したばかりが、食事を作ってくれると言ってくれた。嬉しくてついついはしゃいでしまい、お風呂を掃除してくると告げて誤魔化した。

 結弦は、料理は全くしないが掃除は好きだ。休みの日はバスルームをピカピカにするのが習慣になっているほどだ。

 お湯張りのボタンを押して、脱衣場に出る。そうすればきちんとお座りをして待っていた愛犬が出迎えてくれる。


「ジャスティン、真理愛さんのお手伝いをしっかりとするんだよ」


 ばっさばっさと大きな尻尾が返事と言わんばかりに左右に振られる。大きな頭をぐしゃぐしゃと撫でて、おいで、と声を掛けて脱衣所を後にする。


「さて、まだお風呂は沸かないから、明日の手配をしないとね」


 上機嫌に呟いて、結弦はスマホを取り出しながら、リビングへと向かったのだった。



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― 新着の感想 ―
[良い点] 小鳥遊さんの視点、ありがとうございます^^ 他人の悪口から興味をもってその人の好さを見つけるなんて流石です。 [気になる点] 会社の王子様と仲良くなったら女性社員からの虐めに会いそう [一…
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