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真理愛は小鳥遊に言われるままスーツケースに貴重品と着替えやスキンケア用品、ウィッグやコンタクト、真理愛の十歳の誕生日に両親がくれた木製のお裁縫箱とフランスの祖母が二十歳の誕生日にくれた銅鍋のセットを小鳥遊の車に積み込んだ。
コンビニで朝食のパンやヨーグルトとちょっとした食材を買い込み、自分でもどうして頷いてしまったのか分からないが、気が付いた時には小鳥遊の暮らすマンションのエントランスに立っていた。
地下の駐車場から、結弦に連れられて一度、エントランスへやってきた。広々としてまるで高級ホテルのような雰囲気だ。
小鳥遊が引きずる真理愛のスーツケースの車輪が立てるカラコロという音が広々としたエントランスに響く。小鳥遊のストールを借りてはいるが、ウィッグやコンタクト、眼鏡を外したままだったからなんとなく落ち着かない。
外から見ただけで正確な階数は分からないが、十五階建てくらいの大きなマンションだった。カウンターにコンシェルジュがいて小鳥遊に「おかえりなさいませ」と声を掛けた。
「ただいま。彼女は畠中真理愛さん。今日から暫く僕の部屋に住むから、何かあったら手を貸してあげてね。畠中さん、ここのコンシェルジュさんたちは、とても優秀だから困ったことがあったら頼ると良いよ。セキュリティの登録は明日しようね」
紹介されて慌てて「よろしくお願いします」と頭を下げた。コンシェルジュの男性は「こちらこそよろしくお願いします」と丁寧に頭を下げてくれた。
こっちだよ、と歩き出した小鳥遊に慌ててくっついていく。
パネルを操作して小鳥遊が先程通ったばかりのエレベーターホールへ入る。エレベーターは三基もあって、他に地下から乗ってきたものがもう一基あり、それはガラス張りの壁とドアの向こうにあった。地下専用かと思ったが小鳥遊は迷うことなくそのエレベーターに歩み寄り、またパネルを操作してドアを開け、中に入るとエレベーターのボタンを押した。すぐにドアが開いて、乗り込む。
手に持っていたコンビニの袋がかさかさと音を立てた。スーツケースも鍋や裁縫箱が入った大きなカバンも小鳥遊が持ってくれているため、せめてと真理愛はコンビニで買ったものを持っているのだ。
小鳥遊の給料が幾らかというのは下世話な話、経理である真理愛は知っている。だが、知っているからこそ幾ら優秀な営業マンといってもこんな明らかに億単位のマンションに住めるなんて、どういうことなのかと混乱する。
「明日、改めて部屋に行って必要な物は運び込んでおこうね」
「は、はい」
「あ、そうそう。大事なこと聞くの忘れてたんだけど、畠中さん、アレルギーとかある? 特に動物とか。犬とか好き?」
「いえ、アレルギーの類は一切ありません。犬も好きです」
真理愛の返答に小鳥遊は「良かった」と笑う。
十五階でチンと音がしてドアが開く。パネルを見る限り、ここが最上階のようだ。
広いフロアはドアが一つしかなかった。
「あ、あの、ここ」
「祖父母が僕のために建ててくれたマンションでね、生前贈与ってやつだよ。最上階をリフォームしてワンフロアぶち抜きにしたんだ。この下はジムとプールがあるよ。使いたかったら言ってね、貸し切りにするから」
「は、はい」
辛うじて返事をしながらその背にくっついて行く。
ドアを開け、小鳥遊が「ただいまー」と声を掛けるとカチカチと大理石のエントランスホールに爪がすれる足音がして何かが駆け寄って来た。
「ただいま、ジャスティン」
現れたのは大きなシェパードだった。警察犬でなじみ深いブラックと茶色の毛並みの立派な大型犬だ。キュンキュンと嬉しそうに鼻を鳴らしながら小鳥遊にじゃれつき、小鳥遊もスーツに毛がつくことにお構いなしに撫でまわしている。
「ジャスティン、畠中真理愛さんだよ。今日から一緒に暮らすから、良い子にね。畠中さん、拳を作って匂いを教えてあげて」
小鳥遊の言う通りに右手を握って差し出すとジャスティンが黒い艶々の鼻を真理愛の手にくっつけるようにして匂いを嗅ぐ。そして、黒いつぶらな目が真理愛を見上げ、ぶんぶんと尻尾を振りながら頭を差し出して来た。
「ふふっ、撫でても良いってさ」
おそるおそる手を伸ばし、大きな頭を撫でる。
ジャスティンは、もっと強く撫でろと言わんばかりに真理愛の手に大きな頭を押し付けて来て、真理愛はコンビニ袋を傍らに置いて、両手でジャスティンの頭を撫でた。
「可愛いです」
「ジャスティンは、警察犬の候補だったんだけどね、ちょっと人懐こすぎて警察犬にはなれなかったんだよ。それで縁あって、今年の夏に僕と家族になってもらったんだ」
確かにその言葉通り、ジャスティンは真理愛の足元でお腹を見せて撫でて欲しいと言わんばかりに真理愛を見つめていて、三秒と耐えられなかった真理愛はしゃがみ込んでジャスティンを撫でまわす。
ジャスティンは、ぶんぶんと毛ばたきのような尻尾を振っている。
「ほら、ジャスティン。中に入らせて、standup」
ジャスティンが立ち上がり、小鳥遊を見上げる。小鳥遊は床に置いてあったコンビニ袋を彼の口元に持っていくとジャスティンはぱくっと咥えた。
「kitchen」
ぶんぶんと尻尾を振りながらジャスティンが歩いて行く。
「すごい、賢いんですね」
「一応、警察犬候補生だったからね。畠中さん、軽く案内するね」
荷物はエントランスホールの真ん中に置いて、その背について再び歩き出す。
「まず、こっちがバスルームと洗面所ね。こっちはトイレ。あそこのドアをあけるとお庭があるよ。あの小さいドアはジャスティン専用。それで廊下を挟んでもう一つ、トイレがあるからそっちを畠中さん専用にしよう。その方が気を遣わないでしょう?」
「ありがとうございます」
どういたしまして、と小鳥遊は再びエントランスホールに戻って荷物を手に歩き出す。
「トイレの隣にある階段は二階に行けるけど、一人と一匹暮らしだから二階はあんまり使ってないんだ。それで階段下は物置になっているからね。それで奥に客間が二つあるよ。向かって右のドアはリビング、真正面がゲストルーム。左のドアは、僕の寝室だよ。ウォークインクローゼットがあるから、好きに使ってね」
ドアを開けて小鳥遊が中に入っていく。
ベッドが一つだけのシンプルな部屋だった。
「ごめんね、何もなくて」
「そんなことないです。あの、でも……本当にお世話になってしまっていいんでしょうか?」
少しずつ我を取り戻して来た真理愛は、おずおずと小鳥遊を見上げた。
けれど、小鳥遊は一瞬も躊躇うことなく「もちろん」と朗らかに笑った。
「気にしないでよ。僕がやりたくてやってるんだからさ。それより、こっち、今度はリビングとキッチンを案内するよ」
自然に手を引かれて、ゲストルームを後にする。
案内されたリビングは、柔らかな木目とアイボリーの家具で統一されていて、温かな雰囲気だった。ガラス張りになっている南側にはバルコニーがあってガーデンチェアやテーブルが置かれている。
ジャスティンが側にやって来て、頭を撫でて、と真理愛の手を鼻で突く。
「どうかな? さっき畠中さんのお部屋を見た時、そんなに好みは違わないと思ったんだけど……」
「素敵だと思います。……小鳥遊さんのイメージで勝手にモノトーンのお部屋を想像していました」
「よく言われるんだよねぇ。なんでだろうね。あ、こっちがキッチンだよ」
振り返れば、ダイニングテーブルのその向こうに広々としたキッチンがあった。ダイニングテーブルの上には、ジャスティンが置いたコンビニの袋がちょこんと乗っているが、真理愛は憧れのアイランドキッチンに顔を輝かせる。
「キッチン、見てもいいですか?」
「どうぞ」
作業スペースやシンク周りは掃除がしやすそうな滑らかな白い天板で、カウンター部分は柔らかな色合いの木目の天板がお洒落だ。流行りのIHコンロだけではなく、一口だがきちんとガスコンロが整備されていた。油跳ねに考慮してかコンロの前にはガラスの仕切りがあった。食洗器が内蔵されていて、収納もたっぷりとある。モデルルームのように掃除が行き届いていて、まるで未使用であるかのようにピカピカだった。
調理台の反対側には食器棚やトースター、炊飯器が置いてあった。更にもう一つ、それを見つけて真理愛は、顔を輝かせる。
「スチームオーブンレンジまであるんですね!」
ひとり暮らしを始める際に買おうかどうか散々迷ったがスペースがなく断念した代物だった。しかもかなり高性能のお高そうなやつだ。
これが一台あれば蒸し料理からオーブン料理まで何でも作れる優れモノだ。実家には同じくスチームオーブンレンジがあって、よくお菓子作りを楽しんだ。
しかも無造作に置かれている炊飯器も信じられないくらい美味しくお米が炊けると評判の職人が一つ一つ作成すると話題になった機種だった。テレビで紹介されて以降、生産が間に合わず、予約をしても年単位で待たなければならない幻の炊飯器だ。
だが、シンプルなトースターだけは使用感があり、この高級なレンジや炊飯器と並ぶには少々安っぽく見えた。
「小鳥遊さんもお料理されるんですか?」
くるりと小鳥遊を振り返る。何故かぽやぽや笑っていた小鳥遊がはっと我に返り、ごほんと咳払いを一つする。
「僕はあんまり。ここに入ったのが今年の夏なんだけど、その時に祖母がそこらへんを揃えたんだ。もっぱらコンビニのお弁当を温める用だね。炊飯器は使ったことがないんだよ。基本、外食だし、キッチンを作うのはお湯を沸かす時と朝、食パンを焼く時ぐらいかなぁ」
のんびりと小鳥遊が言った。
「そ、そうなんですか……」
一度、あの炊飯器で炊いたご飯を食べてみたいと思ったが、家主が使っていないものは勝手に使うわけにはいかない。
「畠中さん……ねえねえ、名字で呼び合うと会社にいるみたいで落ち着かないし、真理愛さんって名前で呼んでもいい? 僕のことも結弦って名前で呼んでね」
「えっ、あ、はい」
反射的に返事をした真理愛に小鳥遊――結弦は「ありがとう」と何故かお礼を言った。
「真理愛さんはお料理好きなの? いつも美味しそうなお弁当食べてるでしょ? 前に一度分けてくれた玉子焼き、すごく美味しかったよ」
何度か休憩室でお弁当を食べている時に結弦と会ったことがあるのを思い出す。
いいなあ、と言われて玉子焼きを一切れ分けたのだ。結弦はよほど卵が好きなのか、とても嬉しそうに食べていたのを思い出す。
「料理は趣味みたいなもので……あ、あの、もし小鳥遊さ、」
「ぶっぶー、結弦だよ、ゆ・づ・る」
結弦がちっちっとと人差し指を左右に振った。そんな些細な仕草でさえ様になっている。
「ゆ、結弦さん、が良ければ、私が食事を担当します。お口に合うかは分からないんですが、外食ばかりなんて体に良くないです」
ぱちりと目を瞬かせて結弦が固まった。
やっぱり差し出がましいことを言ってしまっただろうかと、真理愛が顔を蒼くし、謝ろうとしたがそれより早く、結弦が子供みたいに無邪気に顔を輝かせた。
「本当⁉ やった! 嬉しいなぁ! あ、もちろん僕も手伝うからね! 料理したことないけど!」
飼い主がはしゃいでいるからか、何故かジャスティンまでぶんぶんと尻尾を振って、きゅんきゅんと嬉しそうに鼻を鳴らす。
「でも、とりあえず、今日はゆっくり休んでね。家のものは何でも好きに使って良いよ。お風呂を用意してくるから、お部屋で荷物の整理でもしていて、仕度が出来たら呼びに行くよ」
「いえ、あの、シャワーだけお借りできればいいので、お構いなく」
「だーめ。疲れた時は、ちゃんと温まれば、それだけで体も心も楽になるからね。おいで、ジャスティン」
そう言って小鳥遊は、ジャスティンと共にリビングを出て行った。
真理愛は、部屋に戻ろうとしてコンビニの袋が置きっぱなしなのに気付いた。しまわなければ、と手に取り冷蔵庫へ向かう。ファミリータイプの大きな冷蔵庫は木目調で、部屋のインテリアに自然に溶け込んでいる。
だがしかし、両開きのドアを開けて真理愛は絶句する。
「……え、小鳥遊さん……何食べてるの?」
冷蔵庫の中にはミネラルウォーターがたっぷりと入っていたが、それ以外のものが何もなかった。食材を入れることさえないのだろう。汚れてもいない。恐る恐る野菜室、冷凍室と他の引き出しも開けていくが、冷凍室の氷以外は何も入っていなかった。小鳥遊の話では半年近くはここに住んでいるはずなのに新品同様、ピカピカだ。
真理愛は、コンビニで買った牛乳、ベーコン、六個入りの卵、バター、ヨーグルトなどをとりあえずしまいバタンと冷蔵庫のドアを閉じる。食パンは棚に置いて、おそるおそる色々な棚を開けてみた。
なんとなく開けた引き出しにはフライパンが一枚と小さな薬缶がしまわれているだけだった。食器棚にもお皿が数枚入っているだけだ。だがジャスティンのドッグフードやおやつ、缶詰はかなり充実していて、彼の愛犬への愛情が窺える。
最後に開けた引き出しには、未開封の調味料がたくさん入っていた。塩、砂糖、胡椒、醤油、酒、みりんと料理の基本の調味料だけだが、朝のオムレツの味付けに頭を悩ませ始めていた真理愛はほっと息を吐き出した。塩と胡椒、バターがあれば美味しいオムレツが作れる。
外食ばかりで料理はしないと言っていたが、まさか本当に毎日外食だというのだろうか。
真理愛は考えるのを止めて、今日から借りるゲストルームへと足を向けたのだった。