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真理愛の部屋のドアはよほど思い切り蹴られたのか少し凹んでいて、ドアスコープは外されて、ぽっかり小さな穴が開いている。鍵穴はドライバーか何かを無理矢理突っ込んだのか、傷だらけになっていた。
「畠中さん、鍵を貸してもらえる? 中の様子を確認しよう」
小鳥遊に促され、鍵を渡す。
イルカのキーホルダーが鍵とぶつかって小さくキンと音を立てた。小鳥遊が鍵穴に差し込んで回せば、ガチャリと音がして鍵が外れる。ドアノブはすんなり開いた。
小鳥遊がスマホを取り出してライトをつけ、部屋の中を照らす。真理愛もそれに倣って自分のスマホを取り出し、ライトをつけ玄関の灯りを付ける。
特に変わった様子はない。
「入って平気かな?」
こくこくと頷いて小鳥遊の背中について中に入る。
入って左手のトイレを確認し、右手の洗面所の電気をつけ、浴室も確認する。再び短い廊下に戻ってリビング手前の物入れも確認し、リビングへと入る。電気を付ければ、いつも通りの部屋があってほっとする。
パステルカラーを基調とした部屋は、荒らされた形跡も侵入された様子もない。
アイボリーカラーのソファも桜色のラグも異変はなく、お気に入りの観葉植物たちも青々としている。
「あとは、寝室だよね……」
「平気です、お願いです、大丈夫なのでついてきてください」
遠慮する小鳥遊に懇願して真理愛はリビングから出入りできる寝室へと進む。
ドアを開け、中へ入る。確かベッドの枕元に電気のリモコンが置いてあるはずだ。掴んだそれを無我夢中で押せば、パッと電気がついて朝、出かけた時のまま、脱ぎ捨てられたパジャマがベッドの上に散らばっていた。
本来ならそれを会社の同僚に、しかも男性に見られていることに恥じ入るのだろうが、変わりない部屋の様子に真理愛はついにその場にへたり込みそうになり、咄嗟に小鳥遊に支えられ、どうにかベッドに腰掛ける。足が情けないくらい震えている。
「畠中さん」
小鳥遊が目の前に膝を着き、真理愛の顔を覗き込んでくる。
「警察に通報しよう。変な話だけど、空き巣ならもっとスマートに行動すると思うんだ。わざわざドアを蹴ったり、ドアノブを乱暴に回したりすれば誰かの目に付くからね。でも、あの男は、この部屋の中を、君を狙っているように僕には思えたんだ。次に来る時は、鍵を開けられて侵入されてしまう可能性だってある。そんな場所に君を置いていくことは僕には出来ないよ」
切れ長の双眸は、どこまでも優しく、気遣わし気に真理愛を見つめている。
これ以上、巻き込んではいけない。遠ざけなければと思うのに、綺麗な黒い瞳がどこまでも優しくて、穏やかで目の前がじわりと滲む。
理性が止めるより先に唇が勝手に言葉を紡ぐ。
「……関係が、あるかは分かりませんが先月の中頃から、無記名の手紙がポストに投函されるようになって……っ、ずっと夕方だけだったんです。でも今週の火曜日から朝も投函されるようになって、水曜日は、え、駅から後をつけられたような気が、して……っ」
「心当たりは?」
真理愛は、必死に記憶を探る。地味な女に擬態するようになって、真理愛に声をかけてくる男性はいなかった。休日も出かける時だって、真理愛は必ずこの姿を貫いて、地味な服を選んでいた。
だが、ふと先月の終わりに本当の姿で出かけたことがあったのを思い出す。
「……でも、一度だけ、本当の、姿……で、近所のコンビニに行きました」
「本当の、姿?」
小鳥遊がきょとんとして首を傾げた。
「差し支えなければ、どういう意味か聞いても? あ、もしかして実は性別が違うとか?」
その言葉に慌てて首を横に振った。
ここまでしてもらったのだ。今更、隠しても小鳥遊は納得してくれないだろう。
それに小鳥遊は、いつも危ない時に真理愛を助けてくれる優しい人だ。きっと、真理愛の秘密を知っても大丈夫だと根拠のない自信を抱いた。
真理愛は、俯いたまま震える指を叱咤して眼鏡を外し傍らに置いた。茶色のカラーコンタクトも外してティッシュに包んで捨て、ウィッグを止めていたピンを外し、被っていたネットを外せば、緩やかに波打つミルクティー色の長い髪がふわりと落ちて背中に広がる。
伏せたままだった顔をゆっくりと上げれば、真理愛の秘密は露になる。
ぽかんと口を開けっ放しにしたままの小鳥遊と目が合った。
「目立ちたくなくて、いつもウィッグとカラコンをつけて、顔も隠したくて眼鏡をかけていたんです……母がフランス人で、髪も瞳の色も自前です」
「……隠すようになったのは、話してくれたストーカーのせい?」
躊躇うように小鳥遊が問いかけてきて、真理愛は小さく頷いた。
「私は母親似なんです。……母はフランスで若い頃、女優をしていたくらい綺麗な人で、私の自慢です。だから、本当は母の為にも隠さず、堂々としていたかったんです。でも、追い詰められて、疲れてしまって……」
詰まりそうになる息をゆっくりと吐きだして懸命に口を動かす。
日本人女性にしては高い百七十センチの身長。女性らしい曲線を描く体。ミルクティー色の髪に白い肌に神秘的な紫色の瞳。それらは全てフランス人である母からもらったものだった。
十代の頃から真理愛を妊娠するまでフランスで女優をしていたという母は美しい人で真理愛は、生き写しと言われるほどよく似てしまった。
そう、似てしまったのだ。
もしも真理愛が社交的で、目立つことが好きであったなら派手な容姿は真理愛の盾にも武器にもなっただろう。
だが、実際の真理愛は人見知りで、地味にひっそりと生きていきたいタイプの人間だった。外へ出かけるよりは、家の中で大好きな可愛いものや綺麗なものに囲まれて、裁縫や料理をしたり、こまごまとした家事をこなしたり、自分や大切な家族の生活を心地よく整えるほうが好きだった。
欧米なら、真理愛の容姿は然程目立つことはなかっただろうが、黒や茶が多い日本という国で真理愛の容姿は、特に幼少期、本人の意思に関係なく目立ってしまっていた。
日本へ来た十一歳の頃から高校卒業までは思い返したくないほど様々なトラブルに見舞われた。
絵に描いたようないじめもあったが、何より辛かったのはストーカーだった。中学、高校と、酷いストーカーに悩まされ、しまいには警察沙汰になり、それ以来、男性に対して恐怖を感じるようになってしまった。
高校三年生の時、父親が東京の本社に戻ることになったことも重なり、嫌な思い出だらけの地元を離れ、東京の大学に進学を決めた。
その時、本当の姿を隠して秘密にすることに決めた。
柔らかなミルクティー色の髪は黒髪のセミロングのウィッグの中に、可憐な紫色の瞳は茶色のカラーコンタクトの下に、美しい顔は前髪と黒縁の大きな伊達眼鏡で覆い、女性らしい体つきを隠すためにダボっとしたサイズと地味でダサイと言われるようなデザインを選んだ。
小鳥遊はただ黙って耳を傾けてくれていた。
「父の東京への転勤をきっかけにこちらの大学を受けて、その時、隠すと決めました。隠すようになったら透明人間になれたみたいでした。地元で試してみた時、私の携帯の番号をしつこく聞き出そうとしていた男性が私の横を私だって気付かずに通り過ぎた時、心の底から安心したんです。地味でダサい私でいれば、もうずっと安心なんだって……そう、思ってたのに……っ、どうして、また……っ」
抑えきれなかった感情が勝手に涙になって頬を滑り落ちていく。
小鳥遊の手が膝の上でスマホを握りしめたままガタガタと震える手に重ねられた。
「高校の時の、ストーカーも駅で勝手に私を見かけたっていう知らない人でした……っ、先月末、少し具合が悪くて、ウィッグをかぶらずコンビニに出かけてしまって、その時、目をつけられたんでしょうか、ちゃんと隠しておかなかったから……っ」
ぽたぽたと涙が小鳥遊の手の上に落ちる。伸びて来た大きな手がそっと包み込むように真理愛の頬に触れ、涙を拭ってくれる。
「勘違いしちゃだめだよ。悪いのは君を傷付けた奴で君じゃない。君は何も悪くないよ」
低く甘やかな声が真理愛の心を柔く包み込んでくれた。
「僕もね、自分の容姿が目立つ自覚はあるし、嫌な思いをしたこともある。今日も君にカレーうどんをかけちゃったわけだしね。でも、こんなことを言ったら怒られちゃうかもしれないけど、今は水原さんにちょっと感謝してるよ」
ふふっと笑う声が温かに落ちる。
「おかげで畠中さんとディナーに行けたし、あの男から君を守れた。……ねえ、畠中さん、さっきも言ったけどあんな奴がいた以上……またあいつが戻って来るかも知れない部屋に君を置いておくことはできないよ」
窺うように小鳥遊に視線を向ける。
小鳥遊は、どこまでも優しく穏やかに真理愛の手を包み込む。
「僕の家においで。ゲストルームが余っているんだ。お願い、僕に君を護らせて」