その1 推し活入門
「今夜は天ぷらなんですよ。だから何が何でも定時に帰りたいんです」
午後の休憩時間、結弦は缶コーヒー片手にそう宣言した。
同じく缶コーヒーを飲んでいた城嶋と池田が「いいなぁ」と声を上げた。
「真理愛さんが作ってくれる天ぷらは、衣がサクサクですごい軽くて、エビとか魚はふわっとしてて、野菜も甘みが引き立って、そりゃあ美味しいんです。それになんと今夜は北海道から直送のホタテも天ぷらにして食べるんです」
「お前、定期的に自慢してくんじゃねえよ。こっちはもう畠中さんの料理の腕前を知っている身だから、想像がより搔き立てられて腹が減るだろうが!!」
「そうですよ! って、だめです、どう見ても確信犯です……」
ドヤ顔をする結弦に池田が眉を下げ、城嶋は眉を吊り上げた。
「この野郎! 池田、これは何ハラに該当するんだ? これは何らかのハラスメントだろ!?」
「え? 何ハラ……何ハラなんですか、これは」
池田がスマホを取り出して調べようとしたところで「あの」という女性の声が聞こえて顔を上げた。
げっという声を上げなかっただけ結弦は自分をほめてあげたかった。
休憩所に顔を出したのは、藤原舞香だった。城嶋と池田が身構えたのが伝わって来る。
「小鳥遊結弦さん」
「は、はい」
水族館の一件から、随分と大人しくなっていたと思っていたのだが、また復活する気なのだろうかと缶コーヒーを握る手に力がこもる。
「今まで申し訳ありませんでした」
がばりと下げられた頭に結弦は城嶋たちと顔を見合わせた。
「拒否されていたのに、散々追い掛け回してしまい、本当に申し訳ありませんでした」
「ど、どうしたの、急に……」
あれだけ何も話が通じなかった人にいきなり話が通じるようになっても怖いんだなと実感しながら結弦は問いかける。
「お姉様に叱られて、私、自分を振り返ったんです!」
「「「お姉様???」」」
三人の声が見事にハモった。
藤原は、はい、と頷き両手を胸の前で合わせ、うっとりとした表情で頬を染めた。
「優しくて、美しくて、素敵なお姉様です! 私もお姉様のようになりたいと思い、まずは人間として筋を通すべく、謝罪に来た次第です!」
相変わらず行動力はすごいな、という感想しかない。
「お姉様に叱られて、私は目覚めたのです!」
「は、はぁ」
「小鳥遊結弦様、節度を弁えず、精神的にご負担をおかけしてしまい、本当に申し訳ありませんでした。謝って許されることではないでしょうし」
「いや、許すけど」
「これから先……え?」
「え? 許すの?」
藤原も何故か城嶋と池田も驚いている。
「だって、藤原さん、ちゃんと反省してるんでしょう?」
「……はい。思い返せばとんでもないことをしてしまったと……もし、私が異性に同じことをされたら、本当に怖かったと思います」
藤原は俯きがちに言った。
「うん、そうだね。僕は男だからさ、お化け屋敷みたいな怖さしか感じなかった。だっていざとなったら力で勝てるから。でも、怖いものは怖かったよ」
「……はい。申し訳ありません。お姉様に言われたんです、逆の立場だったらどう思いますかって……私、全然、そんなこと考えたことなくて、お姉様に言われて初めて、自分が同じことをされたらって考えたんです」
「うん」
「そうしたら、すごく怖くて……」
握りしめている両手がかすかに震えている。
「僕は反省して、ちゃんと謝ってくれた人は許すって決めているんだ。でもね、藤原さん、もしもこれから誰かを好きになったとして、あんなことはしちゃいけないよ」
「……はい。ありがとうございます」
ほんのわずかに震えた声に、きっと勇気を出して謝りに来てくれたんだろうな、と思った。誰かに許しを請う行為は、案外、立ちすくんでしまうものなのだ。
「藤原さん」
聞こえて来た愛しい恋人の声に結弦は勢いよく振り返る。
真理愛が橋本と一緒にこちらにやって来た。今日も隙のない鉄仮面スタイルだが、結弦には心配そうな顔をしているのが分かる。
「真理愛さ」
「お姉様!!」
「「「お姉様!?」」」
男三人の声が綺麗にそろった。
藤原はぱぁっと顔を輝かせて真理愛に駆け寄る。
「ちゃんと謝れましたか?」
「はい!」
「いい子ですね」
真理愛がぽんぽんと藤原の頭を撫でた。藤原の目がキラキラを通り越してハートになっているのは気のせいではないはずだ。
「藤原さん! 先輩は私の先輩なんですからね! そもそも藤原さん、先輩と同期じゃないですか!」
そこへなぜか橋本が割って入る。
「私は真理愛お姉様の一つ下ですわ!」
藤原が勝ち誇ったように胸を張り、橋本がきーっと歯を食いしばっている。
「結弦さん、大丈夫でしたか?」
「うん。大丈夫だけど……」
「藤原さんが私に謝りに来て、一番に謝るのは結弦さんにと言ったら、こんなに早く行動に移すとは思わなくて……」
真理愛が苦笑を零す。
「もうそこはいいんだ。僕は反省している人は許すことにしているし……それより、お姉様って?」
「よく分からないんですけど、水族館でナンパを追い払った時の私に惚れたとかなんとか。まあ、お姉様って言ってる分、言うこと聞くのでいいかなって。それになんだか、ほら、橋本さんとじゃれあってると子犬みたいで可愛いですよね」
うふふっと真理愛が笑った。
彼女が振り返った先で藤原と橋本が真理愛を取り合って揉めている。真理愛が「ほら、喧嘩しちゃだめですよ」とゆったりと注意に行く。二人はぴたっと喧嘩を止めて、真理愛を見上げる。
「うっ、真理愛さん、犬系キャラに弱いみたいなんですよね」
「まあ、最たるもんが、傍にいるしなぁ」
「うちのジャスティンはとびきり可愛いですからね……」
城嶋のつぶやきに結弦は深く頷く。小鳥遊家の愛犬は、賢くて格好良くて可愛い、死角無しのアイドルだ。
城嶋の「いや、お前だよ」というつぶやきと池田の頷きは、結弦には聞こえなかったし、見えなかった。
「ほら、そろそろ戻らないと。休憩が終わったら、あと一頑張りですね」
「はい、お姉様! お仕事、頑張りますわ! 失礼いたします!」
藤原は礼儀正しく挨拶をして、自分のフロアへ戻っていく。
「私たちも戻りますね」
「失礼しました!」
真理愛と橋本も一礼して、さっさと戻ってしまう。
結弦はその背を見送って、缶コーヒーの残りを一気に流し込んだ。
「……畠中さんって、鉄壁のガードなんすけど、なんていうかこう、ちょっと内側に入り込むと、人たらしなとこありますよね」
「それな」
池田の言葉に城嶋が頷く。
「なんつーか、鉄仮面スタイルの時はまじで取り付く島もないんだけど、あっちのスタイルの時は、ふわふわしてるっつーか、ゆるいんだよなぁ」
「……たとえ、城嶋さんでも真理愛さんに横恋慕は許しませんよ」
「おい、目が怖い。やめろ! 一般的な感想だろうがよ!」
「城嶋さん、小鳥遊さんはかなり強火の同担拒否ですから、迂闊なことは言っちゃだめですよ! 俺は仕事に戻ります!」
「見捨てるな池田ぁ!」
オフィスへ(走ると怒られるので)競歩で戻る池田を城嶋が追いかけていくのを、結弦も長い脚をこれでもかと活かして、笑顔で追いかけるのだった。
「どうして、藤原さんがうちにいるの?」
「天ぷらの作り方を教わりたいと言うので。それよりおかえりなさい、結弦さん」
「ただいま、真理愛さん」
ただいまとおかえりのキスを交わして、結弦はジャケットを脱いで腕に掛けた。
小鳥遊家のキッチンでは、藤原と橋本、そして妹の花音が真剣に何かの作業をしている。
もともと橋本が来ることは知っていた。なにせ、本日の天ぷらのホタテを進呈してくれたのが、他ならない橋本だ。橋本の実家からのぷりぷりの最高のホタテである。
「お姉様、これから、これからどうしたらいいんですか……!?」
「先輩、ししとうって穴をあけるんですよね」
「くるみちゃん、ハチの巣にしなくていいと思うのだけど……」
藤原は何か慌てていて、穴だらけのししとうを手に誇らしげな橋本と、その横で花音が頬を引きつらせている。
「今行きますね。結弦さんが帰ってきたら、揚げようと思っていたんです。もう揚げ始めていいですか?」
「うん、お願い。着替えて来るね」
ネクタイを緩めながら頷いて、結弦はリビングを後にする。
自室に行き、鞄を片付け、スーツをクローゼットに吊るし、部屋着に着替えて戻れば、天ぷらが挙がる良い匂いがする。ジャスティンがキッチンの近くをうろうろしていた。
「温度は一七〇度で、先に野菜類を揚げて下さいね。そして、野菜が終わったら、エビやホタテの出番です。温度を一八〇度に上げて、くっつかないように気を付けながら揚げるんです」
「天ぷらってもっとバチバチって油が撥ねるイメージだったんですが、そうでもないんですね!」
「投げ入れない限り、そこまで撥ねないですよ。でも、ししとうのような野菜は、かならず穴をあけて下さいね。中の空気が膨張して、爆発して危ないですから」
「「「はい」」」
真理愛先生の言葉に三人が素直に頷いている。
藤原もミーハーでついてきたのかなぁ、なんて考えていたが、彼女はメモを取りながら真剣に天ぷらと向き合っていた。
結弦はランチョンマットを敷いたり、カトラリーを並べたりして、準備をする。花音がご飯を茶碗によそってくれ、橋本がお味噌汁を配膳してくれた。花音は天ぷらうどんにしたいらしく、冷凍うどんをレンジで温め始めた。
「はい、できましたよ」
めいめいのお皿に盛られた天ぷらが配膳される。
どれもこれも美味しそうでよだれが垂れないように口元を引き締めた。
真理愛と結弦が並んで座り、橋本と藤原が向かいに座る。花音はいつものお誕生日席だ。
「いただきます」
「「「いただきます!」」」」
真理愛の掛け声に皆で手を合わせて、食事が始める。
「ホタテが、とっても美味しいわ!」
花音が目をキラキラと輝かせる。橋本が「ありがとうございます」と嬉しそうに顔をほころばせる。
「……私、天ぷらなんて初めて自分で作ったんです。びっくりするほど美味しいですが、あんなに手間がかかるんですね」
藤原がぽつりとこぼす。
「藤原さんは普段、お料理はしないんですか?」
橋本が首を傾げた。
「はい。実は日本に帰国して、初めて一人暮らしをしているんです。あちらにいた時は、叔父夫婦が治安が心配だからと一緒に住まわせてくれて、叔母に甘えっぱなしだったので。今は四苦八苦しながら試行錯誤する毎日です」
「僕もだよ。真理愛さんと一緒に暮らすまでは、風呂掃除ぐらいしか家事が出来なくて、今は真理愛さんに教わって、少しずつ出来るようになってきたんだよ」
「意外です。小鳥遊さんはなんでもできるイメージでした」
藤原が少し驚いた様子で言った。真理愛も「分かります」と苦笑する。
王子様と呼ばれるくらいの見た目に温厚な性格で本人のスペックが完ぺきなので、なんでもできそうなイメージがあったのだ。
「お兄さまったら、スクランブルエッグでさえまともに作れなかったのに、今は半熟の目玉焼きを作れるようになったんだから、お姉様はすごいわ」
「ありがとうございます。ふふっ、私も最初はあれこれ失敗もしましたから、練習あるのみですよ」
「あ、あの、でしたら……その、洗濯物の仕方を教えて頂けませんか? 今は全部クリーニングなんですが、それもなかなか大変で……」
「もちろん、いいですよ」
なんだか生きざまが僕みたいだなぁ、と思いながら結弦はサツマイモの天ぷらを頬張った。さくさくの衣と甘いお芋に抹茶塩が最高にマッチしている。
「あ! そうだ、真理愛さん。秋になったら城嶋さんにサツマイモ頼んでいいかな? 親戚がサツマイモ農家で、すごく美味しいサツマイモなんだって」
「本当ですか? 大学芋にモンブラン……シンプルに焼き芋もいいですけど、リンゴと煮ても美味しいですし、サツマイモは万能なんですよ! ぜひ、お願いします!」
真理愛がキラキラと顔を輝かせた。
「お芋繋がりで思い出したんですが、先輩、私の母方の従兄弟が北海道でじゃがいもを作ってるんです。収穫は秋なんでまだ先ですが注文できますよ! 従兄弟のじゃがいもすっごく美味しいんです!」
北海道の営業が入り、真理愛がますます顔を輝かせる。
「結弦さん、北海道産の新じゃがで作る肉じゃが、食べたくないですか?」
「食べたい! 買うよ、橋本さん!」
真理愛の肉じゃがは世界一美味しいのだが、それが北海道のとれたての新じゃがだったらと考えれば、財布の口は大きく開くに決まっている。
「毎度ありです~、あとでサイト教えるので、サイズを決めてください。私が注文すれば、おまけしてくれるのでお得です!」
「私もじゃがいも大好き!」
花音も楽しそうで、結弦はほっこりしながらみそ汁をすする。
「あ、あの」
パチと小さく箸を置く音がした。
「わ、私、帰ります……!」
「ええ?」
橋本が驚きの声を上げた。
「どうしたんですか、急に……」
真理愛もオロオロしながら問いかける。
「私、やっぱりここに居ちゃいけないと思って……!」
そう言って藤原が立ち上がった。花音も結弦もびっくりして目を丸くする。
胸の前で握りしめられた両手がかすかに震えているのに気づいた。
「私……本当に失礼で酷いことを、小鳥遊さんにも畠中さんにもしました。相手のことを何も考えずに、自分本位で、本当に、情けない……っ」
ぽたりと落ちたそれに、橋本があわあわしながらポケットを探りだす。きっとハンカチを探しているのだろうが、見つからないようだ。それより早く花音がぴょんと椅子から降りて、リビングからティッシュを箱ごと持ってきた。
真理愛が立ち上がり、藤原の下へ行く。
「藤原さん、ほら大丈夫ですよ」
「だ、大丈夫じゃ、ないです……。私みたいな、人間が、いていいところじゃ、ないです。皆さんの、優しさに甘えて、うっかりいきおいで来ちゃいましたが……っ、うっ、ほんとは、だめです……っ、泣くのだって、だめなのに……っ」」
ついにボロボロ泣き出した藤原に、真理愛が優しくその背中をさする。
「今日、藤原さん、ちゃんと私たちにも結弦さんにも謝ったじゃないですか。秘書課では同僚や上司にも謝ったんでしょう?」
「あ、やまりました……でも、それはっ」
「秘書課の方々のことは知らないですが、私たちと結弦さんは許しました。違いましたか?」
藤原が小さく頷いて「でも」と続けようとするのを、真理愛が人差し指でそっと彼女の唇に触れて止める。
「藤原さんが、心の底から反省して、後悔していると分かったから、私も結弦さんも許したんです。ね、結弦さん」
「そうだよ」
黒髪の隙間から涙にぬれた眼差しがおそるおそる覗く。
「世の中にはね、絶対に自分の非を認めない人間もいるんだ。そういう人はどれだけ相手を傷つけたって、自分が、自分の方がって自分を擁護してばかりいる」
結弦の脳裏に浮かぶのは、鮫島の姿だ。
ストーカー事件は「殺す」と叫んでいたり、手紙にも結弦への殺意がばっちり残っていたこともあり、結弦への殺人未遂事件に発展して、現在も取り調べやらなにやら続いている。水原のほうは、容疑を認めて、(反省しているのかどうかは別として)しゅんとしているそうだが鮫島は、未だに容疑を否認し、結弦のせいだと騒いでいるらしい。
「藤原さんみたいに後悔して、罪悪感に駆られることなんてないんだよ」
「けど……っ」
「うん。そりゃあ、本当に、藤原さんのしたことはよくないよ。僕の意思も真理愛さんの意思も、周りの忠告にも耳を傾けなかった。水族館にまで現れた時は、驚いたし、怖かったよ。でも、藤原さん、それをとっても後悔している」
「……ごめんなさい……っ」
藤原が震える声で告げる。
「うん。だから、もうそれでいいんだよ。……中には謝った人間をそれでも底辺まで落としてやろうっていう人もいるけど、僕も真理愛さんもそう思わないよ」
もちろん鮫島は別だけど、と心の中で付け足す。そもそもあいつが謝って来ることも金輪際ないだろうけれど。
「そうですよ。一度、間違えたからって全部がダメになるわけじゃないんですよ。間違ったことを認めて、次はどうするか、どうするべきか、を考えられる人にならないといけないのではないでしょうか?」
「次は、どうすべきか……」
「そうです。もしも次に藤原さんが好きな人ができた時とか」
ふふっと真理愛が笑って、ティッシュを抜き取り、藤原の頬に当てた。
「お仕事だってそうでしょう? 計算が合わないけど、知らないって投げ出したら、後々困りますし、課長に怒られちゃいますけど、どこか間違っているのかを見つけて、次はどこに気を付ければいいのかを考えたら、きっと、同じ間違いはしません」
「分からなかったら、僕らに聞けばいいよ。ちゃんと教えてあげるから。ね、花音、橋本さん」
「ええ。私、こう見えて、クラスのあいさつ係さんなのよ! あいさつの仕方ならばっちり教えてあげるわ!」
そうなんだ、と結弦は花音が(何をするかは知らないけど)あいさつ係なのを知った。
「私も運動部で鍛えた上下関係に関しては、なんとかできますよ! あと藤原さんにリュディヴィーヌ・デ・メノーシェお姉様を布教しようと思って、それと一緒に正しい推し活について、私と学びましょう!」
「おしかつ?」
「あとでちゃんと説明します!」
橋本が力強く言い切った。
よく分からないが、なんだか橋本がとても頼もしく見えた。
「さ、藤原さん、もう泣かないで。天ぷらを食べて、推し活とやらを教わってから、帰りましょうね。そもそも私も嫌いな人だったら家に上げませんし、結弦さんだって『出てって』ぐらい言ってますから」
「そうだねぇ。僕だってこの間までの藤原さんが帰って家に居たらドン引きだけど、今は真理愛さんのお友だちなんだから歓迎するよ」
「私だってそうですわ! お兄さまとお姉さまと仲直りして、舞香お姉さまは私にもちゃんと謝ってくださったもの。もういいのよ」
ふふっと笑った花音に、藤原がぼろぼろと泣き出してしまった。
「ふっ、うっ、ふえぇ、ごめ、ごめんなさいでしたぁ……っ」
「あらあら、よしよし」
わんわんと泣き出した藤原を真理愛が抱きしめる。藤原は真理愛の胸に顔を埋めて、子どもみたいに泣いている。
「お兄さま、今『そこは僕の場所だよ』とか言い出したら一週間、口きいてあげないわ」
花音の冷たい眼差しと鋭い言葉に結弦は開きかけた口を閉じた。
結局、藤原が泣きながら「たべててください」と言うので、結弦たちは天ぷらをしっかりと味わい、藤原も泣き止んだ後、冷めてしまった天ぷらをそれでも美味しそうに、真理愛と一緒に食べたのだった。
「これがリュディヴィーヌ・デ・メノーシェお姉様……お姉様、そっくりです!」
ゲストルームもあるから、金曜日だし泊まって行けば、ということになり、橋本と藤原がコンビニに最低限のあれこれを調達に行き(お供に日勤開けのコンシェルジュ佐々木を天ぷらというお土産付きで任せた)、お風呂も済ませて、のんびりタイムだ。
二人の寝間着は真理愛のものを貸し出している。
結弦は男というより、もはや、真理愛の彼氏というくくりなのか、橋本も藤原もすっぴんを気にする様子もなく、リビングのソファで橋本が持ち込んだ花園のエトランゼを熟読している。ジャスティンは橋本の膝に頭を乗せて、ぐーぐー寝ている。花音は良い子なのでもう寝てしまった。
結弦は真理愛と一緒にダイニングテーブルでコーヒーを飲んでいた。
「素敵ですわ、リュディヴィーヌ・デ・メノーシェお姉様!」
「舞香ちゃんなら気に入ると思ったんです!」
「くるみちゃん、教えてくれてありがとう!」
きゃっきゃっと盛り上がる二人は、随分と仲良くなったようだ。
「推し活の基本は、推しの幸せを願うことだと私は思ってるんです。でもだからって、推しが私が想像していることとは別のことをしたって、責めることはできません、でも、推しだから、幸せだけは願い続けたい」
「なるほど……」
藤原が真剣に頷いている。
「ちなみにお姉様は人気キャラクターで、このようにグッズなどがありまして」
どこからともなく取り出した何かを藤原に見せている。
「お姉様!」
気になって結弦も首を伸ばしてみるが、ソファの向こうはさすがに見えない。
「橋本さん、どんなグッズなんですか?」
「こちらです!」
真理愛が声をかけるとソファの背もたれから、ぴょこんと手のひらサイズのぬいぐるみが二つ、顔を出した。
橋本が心酔するリュディヴィーヌ・デ・メノーシェお姉様の偽りの姿と本物の姿だ。
結弦も花音が面白いと言うので読んでみたのだが、実はリュディヴィーヌ・デ・メノーシェお姉様には、真理愛と同じ二つの姿があり、橋本が真理愛をリュディヴィーヌ・デ・メノーシェお姉様だと思ってしまうのも頷ける。
リュディヴィーヌ・デ・メノーシェお姉様の偽りの姿は、長い黒髪で前髪も厚く重く顔がほとんど見えない姿になっている。本当の姿は、真理愛によく似ているが、髪の色は輝く金髪だ。ただし、目の色はどちらも同じ菫色である。
「これはオタクたちは、ぬい、と呼んで、ひとつの命として可愛がっています」
「こ、これはどちらで手に入るんですの?」
「舞香ちゃんが、もしリュディヴィーヌ・デ・メノーシェお姉様に惚れ込んでくれたらプレゼントしようと持参しました。安心してください、実用用、保管用、布教活動用の、これは布教活動用の品です」
「いいんですの? あ、お金、お金を払います!」
「お金は原作に落としてください。他のグッズもあるんですけど、買い方はまた教えますね。舞香ちゃん、はまると何もかも買い集めそうですけど、物には限度がありますから」
橋本の力説に真理愛が「ですよねぇ」と目を細めてこっちを見ている。結弦は全力で気づかないふりをした。
「舞香ちゃんには、推し活の一種であるぬい活が向いていると思うんです。ちなみに、こちらは私のリュディぬいちゃんです」
橋本が取り出したのは、同じ人形だが着ている服が違った。
「作家さんの作品で、こうやってぬいのお洋服を売っていたりして、着せ替えもできるんですよ」
「橋本さん、見せて下さい!」
お裁縫が大好きな真理愛が席を立ち、駆け寄っていく。
「すごい、精巧ですね……このレースも刺繍も可愛い」
「それにお姉様のぬいは、二種類あるわけなので、双子コーデなんかも出来ちゃうわけですよ!」
橋本がもう一つのぬいを取り出 す。
一方は青のドレス、もう一方は赤のドレスを着ていて、可愛らしい。
幼少期もお人形遊びが好きだったのかなぁ、と想像できるほど藤原の顔はキラキラと輝いていた。結弦を追いかけ回していた時より、楽しそうで何よりである。
「本当に、この子達、いただいていいんですか?」
「そのために連れて来ました。大事にして上げて下さいね」
「はい! ありがとうございます!」
藤原が嬉しそうに二つのぬいぐるみを抱きしめた。
「推し活ならぬ、ぬい活、楽しそうですねぇ。橋本さん、今度、この子のお洋服、作ってみてもいいですか? あれこれお裁縫はしますけど、お人形のお洋服って作ったことなかったです」
「い、いいんですか!? ぜひ!!」
橋本が勢いよく頷いた。
「ふふっ、じゃあ、橋本さんのこの子と藤原さんのこの子でお揃いにしましょうか。そうだ、明日、買い出しにしに大きなモールに行く予定でしたから、一緒に行って生地を選びましょ」
「「はい!」」
明日の予定が勝手に決まっているが、結弦の最優先は真理愛なのでなんら問題はない。むしろ真理愛が楽しそうで、何よりだ。
「じゃあ、話がまとまったところで、お嬢さん方、もう寝ようか。明日もあれこれするんなら、しっかり寝ないとね」
「「「はーい」」」
素直な返事に結弦は、くすくすと笑いながら空になったコーヒーカップを二つ持ってキチンへ行き、洗い物を済ませる。
真理愛がその間に藤原と橋本を連れて二階のゲストルームに行き、説明をして戻って来た。
「結弦さん、カップ、ありがとう」
「お礼はキスで良いよ」
「もう、ふふっ」
背伸びをした真理愛が甘やかすようにキスをしてくれる。真理愛がキスしてくれるなら、マグカップを百個洗ってもいい。
「真理愛さんも推しっているの?」
「いますよ」
「え!? いるの!?」
大きくなってしまった声に「静かに」と怒られて慌てて口を閉じる。
「だ、だれ?」
小声で問うと真理愛は「うーん」と人差し指を唇に当てて悩むそぶりを見せる。
「背が高くて、王子さまみたいなんですけど、橋本さんの言葉を借りるとゴールデンレトリバ―みたいな人です」
「それは男? 女? 会社の人!? 現実に存在する!?」
「存在してますよ。さ、寝ましょ」
「待って、誰!」
部屋へと歩き出す真理愛を慌てて追いかける。ソファで寝ていたジャスティンが「寝るの~」と追いかけて来た。
「結弦さんの推しは?」
「もちろん真理愛さんだよ!?」
「ふふっ、じゃあ、そういうことです」
「どういうこと!?」
「おやすみなさい」
唇にちゅっとキスされて結弦は黙ってしまう。真理愛は、投げキスもするとさっさとドアを閉めてしまった。ちゃっかりジャスティンは真理愛の部屋に入って行っていて、すでに廊下に姿はない。
「誰、誰なんだ、真理愛さんの推しは……!」
結弦はぶつぶつ言って、周囲の人間を思い浮かべる。真理愛はあまりテレビは見ないし、レシピ本以外の本もあまり読まない。
現実に存在しているということは生身の人間に違いない。
「一体、誰なんだ……」
頭を抱えながら眠りについた結弦が翌朝、こっそり聞いた橋本に「王子先輩のことでは?」と言われて、浮かれて「これが僕の推し活だよ!」と云十万のワンピースを買い、真理愛に叱られることになるのを、まだこの時の結弦は知らなかった。