1-5
「送って頂いてすみません。それにご馳走になってしまって……」
「最初から送るよって言ってただろう? それに部署は違うけど、僕は君の先輩なんだから遠慮しないでよ」
レストランは駅から離れていたこともあり、小鳥遊に口で勝てなかったのもあるが真理愛は大人しく助手席に座っていた。
小鳥遊の愛車は黒くて格好いいデザインだった。生憎とそういうことには疎いので車種はよく分からないが、多分、高いのだろうことは乗り心地も良くヒーターまで入っている座席から伝わって来る。
小鳥遊の運転は、とても丁寧で上手だ。貸してくれたひざかけもふわふわで温かい。控えめな音量で掛けられたジャズを聴きながら窓の外をぼんやりと眺めていると声を掛けられる。
「畠中さんは、休日は何してるの? どこか出かける予定は?」
「予定はないですが、天気が良いらしいので明日は溜まった洗濯を……あ、そういえばまだ服の代金を教えて頂いていません」
美味しい料理に夢中になって、すっかり頭から抜け落ちていた。
小鳥遊が「思い出しちゃったかー」と残念そうに言った。
「おいくらですか?」
「本当にいいんだよ。何はどうあれ迷惑をかけてしまったのは僕だからさ。水原さんにはここのところずっと言い寄られていてね。はっきり断っていたつもりだったんだけど、まだ言葉が足りていなかったみたいだ。油断していた僕が悪いんだよ」
そう告げる小鳥遊の横顔は、少し疲れているように見えた。
本人の意思に関係なく、いや、それを無視して言い寄って来る人間の煩わしさは真理愛もよく分かる。波風を立てないように、神経を逆なでないようにとこちらが気を遣えば、調子に乗る。かといって、冷たくあしらえば、何をされるか分かったものではない。当たり障りのないように、けれど、きっぱりと遠ざけるのは骨が折れるし、面倒くさいのだ。
「それに僕は君が言ってくれた通り、営業部のエースだからね。ちゃんと稼いでいるからワンピースの一つ二つ平気だよ」
「ですが、小鳥遊さんも被害者なのに……」
「君のそういう真っ直ぐなところは長所だね。警戒心が強いのに無防備なところは心配だけど」
赤信号で車が止まり、ハンドルに両腕をかけもたれかかった小鳥遊が顔をこちらに向ける。
そこにはなんだかとても優しい表情が浮かんでいて、けれど、優しさ以外のもっと激しい感情も秘められているような気がして、真理愛は知らぬ内に体を強張らせる。
「良い子だから、うん、って言って」
低く甘やかな声が本領を発揮して、背筋をぞくぞくっと何かが駆け抜けていく。伸びて来た手がそっと唇にかかっていたらしい髪を払ってくれた。その向こうでこちらを真っ直ぐ見据える眼差しに皮膚が焼けるような錯覚がして、心臓が激しく鼓動を刻み始めた。
真理愛はシートベルトを握りしめながら、ぶんぶんと頷いた。
「良い子だね。ありがとう」
そう言っていつもの柔和な笑みを浮かべると小鳥遊は、ぽんと真理愛の頭を一撫でして顔を前に戻し再び車を発進させた。
激しく頷き過ぎてずり落ちそうになった眼鏡を押えながら、真理愛はドキドキと激しく鼓動を刻む心臓を落ち着かせようと試みる。頬が異様に熱くなっている気がして「窓を開けて良いですか」と蚊の鳴くような声で尋ねた。
「ふふっ、どうぞ」
小さく笑った小鳥遊がボタンを操作して窓を開けてくれる。
冬の冷たく乾いた空気が真理愛の髪と頬を乱暴に撫でていく。どうかどうか、一秒でも早くマンションに着きますようにと願いながら、真理愛は必死に頬の熱を冷まそうと試みるのだった。
心臓のざわめきと頬の熱が落ち着き始めた頃、ようやく見慣れた景色が窓の向こうに流れ始めていて、マンションが見えた。
「あのレンガっぽいタイルのマンションです」
真理愛が指を差しながら告げると、了解、と小鳥遊が頷き、右折レーンへと入る。
我が家が見えて、ほっとしたのは一瞬で、見上げた先、三階の角部屋が真っ暗なことに気が付く。先ほどまでとは違った意味で真理愛の心臓が騒ぎ出した。
右折した車は、もう一度右折してマンションの敷地内に入り、エントランスの前で車は停まる。
「ベランダ側は道路を挟んで目の前が公園なんだね。いいなぁ、実は僕……畠中さん? どうしたの?」
振り向いた小鳥遊が少し焦ったように真理愛を呼ぶ。真理愛は、緊張と不安で冷たくなってしまった手でひざかけを握りしめ、言葉を探す。
「畠中さん、あそこ来客用の駐車場かな? 停めても平気?」
小鳥遊が指差したのは、エントランスの脇にある来客用の駐車場だ。真理愛が頷くと小鳥遊はハザードを付けて滑らかに車を駐車させる。ギアをパーキングに入れた小鳥遊が、室内灯をつけた。オレンジ色の灯りの下で小鳥遊が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「どこか痛いの? それなら病院に……」
「ちがっ、ちがうんです」
スマホを取り出した小鳥遊に真理愛は慌てて首を横に振った。
ふわふわのひざ掛けを握りしめ、深く息を吸って、ゆっくりと吐き出す。ちらちらと脳裏に真っ白な封筒が浮かび上がる。それを振り払うように口を開いた。
「わ、私、今朝、寝坊したんです。それで、慌てて家を出たものですから、その、電気をつけるのを忘れてしまったみたいで、へ、部屋が真っ暗で」
「いつもは電気をつけたままにしているの?」
小鳥遊が不思議そうに首を傾げた。真理愛は、逃げるように顔を俯ける。
「…………暗闇が、だめなんです。高校生の頃、真っ暗な家に帰宅した時に、家の中でストーカーと鉢合わせたことが、あって……っ、それ以来、部屋の、電気がついていないと、どうしてもだめ、家に、入れなくて……っ」
恐怖に震えてカチカチと歯が鳴る。思い出してしまわないように隠した秘密と共に固く固く閉じた記憶の蓋が開きそうになって、ひざ掛けを込められるだけの力を込めて握りしめた。
「手、痛くなっちゃうよ」
ふわりと大きな手が包み込むように真理愛の手に重ねられた。
その手は、陽だまりみたいにとても温かくて、優しい。
「……嫌なことなのに話してくれてありがとう」
ぬくもりと、穏やかな声音に顔を上げる余裕が出来て、伏せていた目を彼に向ける。
切れ長の双眸が気遣うように真理愛を見つめていた。
「一人暮らしってことだよね? ご両親は近くにいるのかな?」
一つ目の質問には頷いて、二つ目の質問には首を横に振った。
「ち、父の仕事の都合で、両親は今、フランスにいます」
「そうか……」
小鳥遊はそう返事をしたきり、押し黙ってしまった。
ちらりとカーナビの隅に表示された時刻を見る。もう二十一時になろうとしていた。小鳥遊にこれ以上、迷惑をかけてはいけない。近くに二十四時間営業のファミレスがあるから、そこで朝まで待って家に帰ろう。そう心に決めて真理愛が口を開こうとした時、少しだけ早く小鳥遊が口を開いた。
「畠中さんが嫌じゃ無ければ、一緒に行こうか?」
「一緒、に?」
「うん。絶対に君が嫌がるようなことや、怖いことはしないと誓うし、お部屋の中のものにも勝手に触らない。お部屋の電気をつけたら、すぐに帰るから」
「小鳥遊さんがそんなことをしないのは分かっています。でも……ご迷惑をおかけするわけにはいきません。近くに二十四時間営業のファミレスがあるので朝までそこで待ちます」
「迷惑なんかじゃないよ。それに女性が一人で一晩中なんてそれこそ危ないよ。そんなことするくらいなら僕と朝までドライブにでも行く? 明日から君も僕もお休みだしね」
「そ、そんなのはだめです! 小鳥遊さんだってお疲れでしょう?」
真理愛は慌てて首を横に振った。
「なら、僕の提案を受け入れて。……畠中さん、ここのところ残業続きなのもあるだろうけど、なんだか調子が悪そうだよ。水曜日なんて本当に酷い顔色で心配したんだ。お家でゆっくり休んだ方がいいよ」
心の底から真理愛を気遣う言葉と表情に、反論をしようと開きかけた口を閉じる。
ここで引き下がって、小鳥遊の言葉に甘えた方がいいのかもしれない。調子が悪い原因である真っ白な手紙のことや付きまとわれたことを知られれば、優しい小鳥遊はもっと心配するだろう。それに付けられたとはいっても、実際に姿は見ていないし、もしかしたらあれは謎の手紙に悩まされる真理愛の勘違いかもしれず、確証のないことだ。
「……分かり、ました。お言葉に甘えさせてください」
「こちらこそ、ありがとう。……降りられる?」
「はい、大丈夫です。あの、これ、ありがとうございました」
真理愛は、お礼を言ってひざ掛けを返し、シートベルトを外して車から降りる。
そして、小鳥遊と共にエントランスホールに入る。一瞬、習慣でポストを確認しようと思ったが、小鳥遊に見つかって心配を掛けないようにと一瞥しただけでエレベーターホールへ向かう。指紋認証でドアを開けて中に入り、一階に停止していたエレベーターに乗り込む。
「セキュリティがしっかりしているんだね」
「エントランスだけですけど……それだけでも安心できます。部屋の鍵は、こういうオーソドックスなものなので」
真理愛は、イルカのキーホルダーがぶら下がった鍵を取り出す。
「エントランスは何年か前にリフォームしたんだそうです。三階と四階は女性専用フロアなので、そこも安心できます」
「へぇ、そういうのもあるんだね」
小鳥遊が感心の声をもらす。
「ちなみに僕が住んでるのは、最寄りが□▽駅だから路線は同じだよ」
そんな話をしながら改めて小鳥遊を見上げる。目が合うと小鳥遊は微かに首を傾げた。
初めて出会ったあの日、小鳥遊の大きな背中は真理愛を守ってくれた。
真理愛にとって、男という生物は、父や祖父といった親類を除いて恐ろしい存在で、鬱陶しいものでしかなかった。本来なら小鳥遊の存在だって怖いものに分類されるはずだ。小鳥遊は鍛えているのか体も厚くて、背だって平均をはるかに超えている。けれど、小鳥遊のこの大きな体は真理愛にちっとも恐怖を与えてこない。
とても不思議だと思う。そもそも真理愛が、彼に抱え上げらえて平気だったことも、男性と二人きりで食事に行けたことも、料理を楽しんで美味しく感じる余裕があったことも奇跡だ。きっと他の男性だったら耐えきれずに逃げ出していた可能性の方が高い。
どうしてだろうと答えを探す真理愛の視線を小鳥遊は不思議そうに受け止めている。
答えが出る前に、エレベーターが三階に着く。
「畠中さんの部屋はどっち?」
エレベーターを降りると短い通路があって、突き当りの左右には廊下が伸びていて、それぞれの部屋のドアが並んでいる。
エレベーターの脇には階段があり、踊り場で非常灯の緑色の灯りが煌々と輝いていた。
「左です。一番奥の角部屋です」
なら、こっちだね、と歩き出した小鳥遊の後について行くも、角を曲がろうとしたところで小鳥遊が足を止め、自然と真理愛も足を止める。しかも小鳥遊は何故か「下がって」と真理愛に告げて、角から廊下を覗き込むように頭を傾かせる。
「どうしたんですか?」
真理愛の問いに小鳥遊は言い淀むように唇を震わせると、おもむろに明るいグレーのストールを外して真理愛の頭に掛けた。
「顔を隠して、僕の体の影から覗いてみて」
言われた通り、ストールで顔を覆うようにして小鳥遊の体の影から廊下を覗きこみ、息を飲む。思わず小鳥遊のコートの袖をぎゅっと掴む。
一番奥の角部屋――真理愛の部屋の前に人がいた。全身黒ずくめで黒いキャップを目深にかぶり、黒いマスクをしている。年齢や顔は分からないが、体格から男性だというのだけが分かる。ドアスコープのあたりを覗き込んでいたかと思うとガチャガチャと乱暴にドアノブを回し始めた。
小鳥遊に促され壁に隠れるようにして下がる。
「業者さんではなさそうだよね。知っている人かな?」
ふるふると真理愛は首を横に振った。
どくどくと騒ぐ心臓が不安と恐怖で口から飛び出て来てしまいそうで、声が出ない。
男がいる方からガタンッとドアを蹴るようなけたたましい音が聞こえて体が竦む。
「僕が声を掛けてみるよ」
「で、でも、小鳥遊さんに何かあったら……っ」
「大丈夫だよ。それより……」
タッタッタッと足音が聞こえて来て、口を噤む。
「こっちに」
ぐいっと腕を取られて、背中が壁に触れる。見上げれば、すぐそこに小鳥遊の顔があって、顔の横には彼の腕があった。俗にいう壁ドンの状態だと遅れて気が付いた。
「顔を見られないようにして」
小鳥遊が小声で言った言葉に素直に従い、被ったままだったストールを手繰り寄せ、彼の胸に額をくっつけた。
柔らかなムスクの香りの中に仄かに煙草の匂いが混じっている。その香りは、不思議と真理愛の心を落ち着かせてくれた。
足音が真理愛たちに気付いて、一瞬、止まったがすぐに動き出し、再び止まった。おそらくエレベーターを待っているのだ。
「見られる?」
耳元で内緒話をするように小鳥遊が言った。真理愛は小鳥遊の腕に手を添え、そっと覗き込んだ。
エレベーターの前に立つ男は、中肉中背で身体的な特徴はない。先ほどはしていなかった大きめのサングラスをしていて、顔はさっぱりと分からなかった。どこが落ち着きがなくスニーカーの爪先が苛立たしげに床を叩いている。エレベーターのドアが開くと男は逃げるように乗り込んで、姿が見えなくなった。
衣擦れの音に顔を向ければ、小鳥遊が鋭い目つきでエレベーターを睨んでいた。何を見ているのか視線の先を追えば、ドアの上の階数表示だった。男が乗ったエレベーターは、一階で止まり、再び上がって来たがそのまま八階へと昇って行き、また降りてきたがどこの階へ止まることもなく一階へと降りていき、エレベーターは静かになった。
「帰ったみたいだね」
ほっとしたように小鳥遊が息を吐き出し、真理愛もつられるようにいつの間にか詰めていた息を吐き出したのだった。
小鳥遊の大きな手が支えるように背中に触れている。そうでなければ、真理愛は座り込んでしまいそうだった。