その日の夜のこと 二人の時間
「ねえ、真理愛さん」
「んー?」
真理愛は刺繍する手を止めず、返事だけする。真理愛が刺繍しているのは、花音のスカートだ。ピンク色のスカートの裾にイルカの刺繍をしたらどうかと提案したら、とても喜んでくれ、最近は夜、こうして刺繍をしている。
イルカと貝殻、真珠、ヒトデ、お魚、海のモチーフでスカートの裾を彩るのはとても楽しい。
「今日の料理、すごく美味しかったよ」
「ふふっ、皆さんにも好評で、私も嬉しかったですよ。またこうやって集まれたらいいですね」
真理愛はキリのいいところで、手を止めて振り返る。
ソファに並んで座る結弦は、うん、と小さく頷いた。
花音は既にベッドの中でジャスティンと眠っていて、真理愛と結弦の二人きりの時間だ。
今日は朝からお客様が来て、結弦の誕生日のお祝いもして、花音も疲れたようで、お風呂から上がるとソファで眠ってしまったのを結弦が運んでくれたのだ。
「あのね、真理愛さん」
「はい」
「来年も……お祝いしてくれる?」
伺うような視線に真理愛は手に持っていた刺繍枠をテーブルの上に置いて投げ出されていた結弦の手に自分の手を重ねた。
「来年も、再来年も、ずっとお祝いしますよ」
「ありがとう。……昨日までの僕と、今日からの僕は、多分、違うんだ。……幸せというものに対して、もっと前向きになれた気がする」」
ほっとしたように緩められた目じりにキスをする。
「ねえ、結弦さん。もし、結弦さんが嫌じゃなかったら、この間見せてくれた結弦さんとお母さんの写真、リビングに飾りませんか?」
「どうしてか、聞いても?」
「私の山梨のおばあちゃんがね、言ってたんです。おばあちゃんの家には仏間があってご先祖様の遺影がずらって並んでて、子どものときは怖かったんです。昔の写真だから白黒で、今どきの遺影みたいに笑顔じゃないし……」
「確かに昔の遺影ってちょっと怖いよね」
「でしょ? でも、おばあちゃんが怖がる私に言ったんです。『これは窓だよ』って。『ご先祖様が可愛い可愛い孫やひ孫や玄孫をここから見てるんだよ。元気かな、元気だなぁって今ごろ、ニコニコしてるよ』って」
「窓……」
「お母さんの窓をここに作って、私にデレデレしてる結弦さんとか、花音ちゃんに頭が上がらない結弦さんを見てほしいなって思うんです。幸せですよって伝えられるように」
大きな手が真理愛の手を握り返した。むぎゅむぎゅと遊ぶように強弱をつけて握るその手を真理愛も握り返す。
「お母さんは、ゆーちゃんって僕のこと、呼んでたんだ」
「うん」
「今日、真理愛さんが抱きしめてくれた時、そのことを思い出したんだ。僕、すっかり忘れてて……でも、お母さんがニコニコ笑って、ゆーちゃん、ゆーちゃんって僕を呼んでくれていたこと、思い出した。思い出せたんだ」
「……悲しいことは強く重いから、隠されてしまうだけ。雪の下で春を待つ雪割草が生きているように、悲しみに隠れているだけで、幸せはちゃんとあったんですよ」
「うん」
結弦の声がわずかに揺れる。
「……お母さんは、花が好きだったんだ。庭の花壇でたくさんの花を育てていたんだよ。僕はその花に水を上げるのが好きだった。お父さんは、ああ見えて虫が苦手で、お母さんが芋虫を見せて怖がるお父さんを笑ってた」
「じゃあ、今度、結弦さんのお母さん専用にお花のフォトフレームを探しに行きましょう。お母さんは特別ですから」
「そう、だね。そうしたいな」
結弦が鼻をすすって顔を上げた。赤くなっている目じりと鼻先に真理愛は、ちゅっちゅっとキスを落とす。
「僕、今日は泣き虫だな」
「ふふっ、泣き虫でも可愛いから大丈夫ですよ」
こてんと甘えるようによりかかってきた結弦の頭をよしよしと撫でる。
「真理愛さん。……一緒におじいちゃんとおばあちゃんになろうね」
「もちろんです。おばあちゃんとおじいちゃんになっても、たくさんデートしましょうね」
「なら手始めに婚姻届っていう書類にサインしてみない?」
「あ、そうだ。今度の木曜日、花音ちゃん、遠足なんですよ」
婚姻届の下りはスルーして、真理愛は言った。真理愛の膝に倒れ込んできた結弦がごそごそと大きな体をなんとかして、真理愛の膝を枕に、ふてくされた顔でこちらを見上げる。
「聞いてない」
「だって結弦さん、残業で忙しそうだったから。私も今日の準備で忙しかったし……明日、帰りに花音ちゃんと一緒にお弁当箱、買いに行ってきますね」
「僕も行きたい!」
「間に合えば別にいいですけど……」
「間に合う、間に合わせて見せるから!」
膝の上で駄々をこねる恋人に「子どもじゃないんだから」と笑いながら、形の良い額をツンツンする。
「遠足ってどこ行くの?」
「工場見学だって言ってましたよ。アイスの工場に行くんですって」
「へぇ、楽しそうだね」
「とても楽しみにしている様子ですよ。……ところで、あの、迷惑だとか、困っているとか、そういうことは絶対にないんですけど……花音ちゃんは、いつまで我が家に?」
「あー……いつまでなんだろ。大丈夫、真理愛さんが花音を邪魔だと思ってるんじゃなくて、花音と家族の関係を心配してくれているのは分かってるよ」
大きな手が伸びて来て真理愛の頬に触れた。よほど、心配そうな顔をしていたらしい。
「家出って……あんまり長いとこじれちゃうから」
「そうだね。問題の先延ばしは、あまりいい結果を招かない。……ただ、花音はここだと自由だろう? あっちの家では常に親の顔色を、とくに父親の顔色を窺ってる」
結弦が悲しそうに目を伏せた。
「花音が帰りたいって言わないから、僕もどうしていいか分からなくて……とりあえず、凪咲さんとは話して夏休み明けにどうするか考えるってことにはなってるんだけど」
「どうにか良い落としどころが見つかればいいですが……」
「本当にね。でも、真理愛さんがいてくれるおかげで、僕は家出してきた花音のことも受け入れられた。一緒に住めるのは嬉しいけど、ほら、僕はその、生活力ってものがなかったから、僕とジャスティンだけなら生活できても、花音の健康を損なわない生活は無理だっただろうからさ」
「そうですね。本当に」
何も入っていない冷蔵庫を思い出し、真理愛は力強く頷いた。
今でこそ結弦も洗濯や掃除を少しずつとはいえ覚えているが、真理愛と出会う前の彼では到底、妹と暮らすのは無理だっただろう。
「ねえ、真理愛さん。僕と出会ってくれて、本当にありがとう」
「こちらこそ。大好きよ、結弦さん」
「僕も大好き」
大きな手に頬を寄せて微笑めば、結弦もうれしそうに笑ってくれる。さらさらの黒髪を優しく撫でながら、真理愛は幸せを噛みしめる。
この何でもない時間さえ、とても愛おしいのだ。
「真理愛さん」
「はい」
「僕の誕生日、当日なんだけど……」
切り出された話題に少し身構える。結弦が体を起こし、隣に座り直した。
真剣な眼差しに真理愛も背筋を正す。
「肉じゃがにしてもらうのは、ありかな? 僕、真理愛さんの肉じゃが、本当に好きで、好きで」
「ふふふっ、しょうがないですねぇ。誕生日は特別ですから、本当は照り焼きチキンの予定でしたけど……」
「待って、待って、え、どうしよう。僕は真理愛さんの照り焼きチキンも愛してるんだ!」
「じゃあ、特別に照り焼きチキンと肉じゃがにしましょうか? 誕生日だもの、好きなもの、たくさん食べてね」
「やった!」
無邪気に喜ぶ恋人に真理愛は、くすくすと笑う。
この幸せそうな彼を、どうか、天国から彼のお母さんが見ていてくれたらいいな、と願いながら真理愛は「デザートはどうしますか?」とさらなる幸せを積み重ねるべく、問いかけるのだった。
おわり
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
いつも閲覧、評価、ブクマ登録などなど、励みになっておりました。
続編も無事に完結できたのは、応援してくださる皆様のおかげです(*´▽`*)
続編では結弦の過去が明らかになりました。
優しくおっとり穏やかな結弦が抱える深い悲しみを、真理愛が受け止めてくれる、これが続編の作者が掲げていたテーマです。
悲しみを受け止めてくれる人がいることは、とても幸せなことだと個人的には思っていて、それが一生を誓った相手ならなおさらかな、と考えています。
鉄仮面のマリアは皆さまの応援のおかげで現在、幻冬舎コミックス様よりコミカライズして頂き、連載している真っ最中です。
なんと豪華なフルカラーですので、美しい真理愛さんが見放題という素晴らしいコミカライズです!
もしよろしければ最初の数話は無料ですので、お暇なときにお手に取って頂けたらと思います。
続編は完結しましたが、まだまだ書きたいことはたくさんありますので、番外編の更新を予定しております。
コミカライズの更新が水曜日ですので、それに合わせて水曜日の19時頃、毎週とはいきませんが更新出来たらなぁ、と思っております。
8日(水)は更新できる予定ですので、よろしくお願いします!
もし感想、レビュー、評価などなど頂けますと、今後の励みになり、私が幸せになれます!!!
これからもどうぞ作者ともどもよろしくお願いいたします!
春志乃