4-4
レストランの食事はどれもこれも美味しかった。
結弦は海鮮をふんだんに使ったパエリア、真理愛はボンゴレビアンコ、花音はお子様ランチ。それ以外にもサラダや前菜を頼んだが、新鮮な海鮮を使っていると宣伝文句にあるように、ぷりぷりの刺身もうまみたっぷりの貝類も素晴らしかった。
レストランを出てすぐ、真理愛は花音と一緒にお手洗いへ向かった。結弦はレストランに入る前に行ったので、レストランの入り口で待っていてもらうことにした。
トイレ内にある化粧室で化粧直しをする真理愛を花音が興味津々な様子で見上げて来るので、彼女の唇にも色つきのリップを塗り直してあげ、髪の毛も出来る範囲で整え直してあげれば、花音は「お姫様の気分!」と嬉しそうに笑った。
「お姉さま、午後はまず一番にイルカショーよ!」
「そうですね。結弦さんと合流したら、ショーの会場に行きましょうか。席を確保しなくちゃいけませんもんね」
「ええ。楽しみだわ!」
ポーチにリップをしまい、バッグに片して、花音と手を繋ぐ。化粧室を出ようと歩きながら真理愛は花音に問いかける。
「イルカショーのあとは、遊園地に行きますか?」
「うーん、でも、まだ全部、見てないし……あのね、お兄さまがね、お土産を買ってくれるって行ってたでしょ? そこに時間をいっぱい使いたいの! お兄さまが、私の一番のお友だちの分も買って良いって言ってくれたから」
「なら、ショーのあとはお土産を……あら」
トイレを出てすぐ、真理愛は結弦の居場所が分かった。
「わぁ、お兄さま、モテモテ」
花音がくすくす笑いながら言った。
レストランから少し離れた場所に結弦はいる。だが、彼の目の前には女性が五名ほど群がっている。
「私たち、今日は大学のゼミの友達同士で来ててぇ」
「お兄さん、一人なら一緒にどうですか?」
「僕は家族で来てるから」
結弦がいつも通り、下手に手を取られないように腕を上にあげて、困り顔で女性たちを退けようとしている。
見知らぬ女性ばかりだし、助けに行かなきゃ、と真理愛が一歩を踏み出そうとしたところで女性が一人、結弦たちの間に割って入った。
「お待たせ、結弦さん!」
「ふ、ふふ、藤原さん!?」
結弦の頬と声が盛大に引きつった。真理愛も花音と顔を見合わせる。
「藤原って、今、お兄さまに付きまとってる女よね?」
「何で知ってるんです?」
「御影よ」
「もう、御影さんったら……!」
運転手が真理愛の脳内で「お嬢様は口が達者で」とへらへら笑っている。
「万が一、家に来たら追い払いなさいって言われたの。私、得意だから」
ふふんっと花音が胸を張った。確かに聞いた話では、これまでの結弦の彼女は追い払って来ているらしいので、頼りにはなるが、そうはいってもまだ小学生である。
「……でも、なんでここにいるのかしら」
「どーせ、お兄さまのことだから会社でうっかり『水族館に行くんです』とか誰かに言ったに違いないわ。お兄さまは、自分の言動が女子に監視されているんなんて、想像がついていないのよ、基本、ポンコツだから」
やれやれと花音が肩をすくめているが、事実、結弦は会社のロビーでチケットを真理愛に見せて来ていたので、真理愛はなんのフォローも出来なかった。
「ちょっと何? こっちが先に声をかけてたんですけど?」
「ごめんなさい、この人は私の恋人だから」
「違う! 全く、違うよ!?」
結弦が青い顔で首を横に振っている。
助けに行かなければ、とは思いながらも今の真理愛は鉄仮面ではない。この姿で助けに行って、顔見知りである藤原に本当の姿を見られるのは、少々、危ない気がする。
「お姉さま、助けにいかないの?」
「いえ、行きたい気持ちはたくさんあるんですが……私、今、鉄仮面ではないので、あの人は会社の良くない知り合いなので……」
結弦がちらりともこちらを見ないのは、真理愛を気遣ってくれているからだと伝わって来る。トイレから出た瞬間には目が合ったので、気づいていないわけがない。
でも藤原が登場してからは、頑なにこちらを見ようとしはない。
「……そうよね。お姉さまは、虫よけで身を隠しているお姫様だったわ」
「お姫様?」
「お兄さまが言ってたの。お姉さまは美しいお姫様だから、変な男が近寄ってこないように身を隠しているんだって、でも、確かに会社の人なら、バレちゃうわ……」
うんうんと花音が悩み始める。
だが、藤原は結弦が抵抗しない(できない)のをいいことに、調子に乗って腕を組もうとしている。結弦が意地で腕を下げないので、背の低い藤原はぶら下がっているだけに見えるが。
「お姉さまは、ここにいて。私が蹴散らしてくるわ!」
「だめです、危ないですよ。あの人、こんなところまで追いかけて来る執念深い変な人なんですから……!」
真理愛の手を離して駆けだそうとした花音を慌てて止める。
「お姉さまもけっこう言うわね……」
「私が行きます」
「でも、バレちゃうわ」
「もう結弦さんとの交際がバレてるんですから、怖いものはないですよ!」
そうだ。何を恐れる必要があるだろうか。結弦との交際がバレた時点で、女子社員の半数が真理愛の敵となったのだ。
だが、真理愛には信頼できる経理課の同僚たちもいるし、なにより結弦がいてくれるのだから、恐れることは何もない。
「い、行ってきますね……!」
「お姉さま、待って! 無策で行っちゃだめ」
今度は真理愛が花音に止められた。
「むさく?」
「作戦無しってことよ! お姉さま、お耳をかして」
そう言われて真理愛は体を傾けた。
こしょこしょと耳打ちされる作戦は果たして効果があるのかどうかは分からないが、日本語より得意なフランス語で挑むのは良い案に思えた。
「じゃあ、今度こそ、行ってきます!」
「ええ、行ってらっしゃい!」
花音に見送られ、真理愛は結弦に向けて歩き出す。途中、バッグにかけたままだったサングラスを装備して、女性たちの中へと割って入ったのだった。
トイレに行った女性陣を見送って、結弦はトイレの出入り口が見えるレストラン近くの壁によりかかり、二人が戻って来るのを待っていた。
腕時計に視線を落とす。この後は花音が楽しみにしているイルカショーだから、少し早めに行って席を取った方がいいだろうか。どうせなら良い席で見せてあげたい。
「そのあと遊園地……より、お土産見たいって言いだしそうだなぁ」
お買い物が大好きな妹なので、どうだろうか、と考えていると視線を落としていた床にいくつかの女性の足が見えて顔を上げる。
「お兄さん、今いいですかぁ?」
「わあ、やっぱりすごく格好いい!」
うわぁ、と頬が引きつりそうになるのを営業で鍛えた表情筋でなんとか堪えて、結弦はすぐさま両手を上にあげた。もはやこれは本能である。
「ごめん、何か用かな?」
ちらりと見た先で真理愛と花音がトイレから戻って来た。
助けては欲しいが、危ない目には遭ってほしくない大事な二人である。
「私たち、今日は大学のゼミの友達同士で来ててぇ」
「お兄さん、一人なら一緒にどうですか?」
「僕は家族で来てるから」
将来的に真理愛とは家族になるし、苗字は違っても花音は間違いなく結弦の家族だ。
しかし、次に聞こえてきたのは結弦の愛する真理愛の柔らかい声でも、可愛い花音の声でもなかった。
「お待たせ、結弦さん!」
「ふ、ふふ、藤原さん!?」
一気にホラー映画が始まったかと思った。
結弦と女たちの間に、なぜか結弦の最新のストーカー、藤原舞香が割り込んできたのである。
今日もフェミニン系でばっちき決めた藤原は結弦をキラキラした眼差しで見上げてくる。
だが結弦は、絶対に真理愛を巻き込むまいと決めて天を仰いだ。
真理愛の平穏は、あの鉄仮面姿である程度守られているのだ。いや、そもそもあの美しい真理愛の姿を知っているのは、会社では結弦だけでいいので、知られたくなかった。
絶対に真理愛があの姿で会社に行くようになったら、これまでブスだ、デカ女だ、鉄仮面だとか言ってたクソみたいな男どもが鼻の下を伸ばすに違いないからだ。
「ちょっと何? こっちが先に声をかけてたんですけど?」
「ごめんなさい、この人は私の恋人だから」
「違う! 全く、違うよ!?」
結弦は出来る限り精いっぱい首を横に振った。
「もう、結弦さんったら照れちゃって……」
藤原が自分の頬に手を当て、恥じらうように目を伏せた。結弦は多分、青い顔をしているだろうから、彼女の目には特殊なフィルターがかかっているのかもしれない。
『| mon trésor《私の宝物》』
細い手が結弦が上げていた腕を絡めとって下ろすように促してくるのに結弦は素直に従った。
『 mon ange!』
顔を向ければ、サングラスをかけた真理愛が微笑んでいた。瞳の色素の薄い真理愛は、夏場は屋外に出る時はサングラスが必須だ。あの鉄仮面眼鏡も、夏にはそういう仕様のものを使っているらしい。
『助けに来るのが遅れて、ごめんなさい』
フランス語でそう告げて、真理愛が結弦の頬にキスをする。女性たちがたじろぐのが肌で分かった。
真理愛がサングラスをわずかに下にずらして、大学生の女の子たち、そして、藤原に視線を走らせた。美しい紫色の眼差しに息を呑む音が聞こえた。
『この子猫ちゃんたちは?』
結弦の腕にしがみついている藤原の手で視線を止めた真理愛に慌てて結弦は口を開く。
『僕には君だけだよ!』
『ふふっ、知ってるわ』
弁明する結弦にくすくすと笑って、真理愛がそっと藤原の手を外した。藤原は呆然と真理愛を見上げている。
今日の真理愛は、黒のワンピースに白いカーディガンを肩に羽織っている。首元のスカーフはフランスのおばあさまから譲り受けたものだそうだ。一見、シンプルな装いだが、スタイルが尋常ではないので、彼女らがこのワンピースを着ても同じようには着こなせないだろう。その上、足元も「今日はたくさん歩くから」といつもより低めの五センチヒール(ヒール太め)だから、彼女らより頭一つ大きい。
ちなみにワンピースも靴も結弦がプレゼントしたものだ。某世界的ブランドの品でワンピースは七十万くらいだったが、真理愛にとびきり似合っているので、また買おうと思う。
「カワイイ、コネコちゃんタチ」
真理愛が片言の日本語で女の子たちに話しかける。
結弦の腕に絡められた彼女の左手の薬指でエメラルドが輝く。
「コノ人ハ、私ノ、コイビト。返シテネ」
とんでもない美女からのウィンクと投げキスに、女の子たちがキャーッと小声で悲鳴を上げた。結弦もあやうく死ぬかと思ったので、その威力はすさまじい。正面から受けて止めていたら、多分、間違いなく一回は死んでいたと思う。
「ご、ごめんなさーい!」
「お邪魔しましたぁ!」
「お幸せに!」
女の子たちは素直に去っていく。花音がその向こうでエア拍手をしていた。
「アナタモ、助ケテクレテ、アリガトネ、コネコちゃん」
真理愛は固まる藤原にも投げキスをして、行きましょ、と歩き出した。
結弦は「そんなに可愛さを振りまいちゃだめだよ!」と注意するが「何言ってるのこの人」みたいな顔をされて終わった。
「お姉さま、さすがだわ!」
「ふふっ、ありがとうございます」
抱き着いてきた花音を受け止めて、真理愛が笑う。
「さあ、急いでショーの席取りをしないと!」
「そうだったわ、ほら、お兄さま、お姉さまにデレデレしてないで、急いで!」
ぺしんと花音に尻をはたかれて、結弦ははっと我に返り、急ぎ足で歩き出した恋人と可愛い妹の背中を慌てて追いかける。
「あれ、営業部の小鳥遊じゃん」
「待って待って、王子って経理の鉄仮面と付き合ってるんじゃなかったの?」
「まさか鉄仮面の中身があれとか?」
「それこそまさかでしょ。あんな爆美女、隠しておく意味ないじゃん」
「じゃあ、どういうことだよ?」
「それは……分かんないけどさぁ」
この時、この場にいたシュエットの社員が実は、藤原だけではなかったことに結弦も真理愛も気づかなかったのだった。