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※本日、二度目の更新です!
楽しくて美味しいランチでやる気も元気も補充して、午後の仕事も頑張ろうと声を掛け合い会社に戻った。
だが、人生とはそう何事もうまくいかないものである。
経理課のフロア前に藤原舞香が立っていたのだ。花音の怪我や入院ですっかり忘れていたが、一番懸念すべき人物だったかもしれない、と姿を見てから思った。
「ふーん、貴方が鉄仮面さん?」
真理愛の頭の天辺から足の先まで、じっくりと視線を走らせながら藤原が首を傾げた。
今日の彼女も上品ながら、フェミニンさもあるスーツ姿だ。
「何か御用ですか?」
威嚇するように真理愛の前に立ちはだかる橋本の頭をぽんぽんと撫でながら、真理愛は首を傾げた。十和子と佐藤も真理愛の隣と後ろで訝しむように目を細めている。
「用がないのでしたら、午後も仕事がありますので」
「貴女が小鳥遊さんの恋人だなんて、がっかりだわ。こんな野暮ったい人と私を比べるなんて……小鳥遊さん、見る目がないのね」
カチンという音が真理愛の中のどこかから確かに聞こえた。
「勝手にがっかりしてればいいじゃないですか」
真理愛は、ふふふっと笑いながら藤原を見下ろす。
「藤原さんががっかりしてくだされば、結弦さんも付きまとわれなくて安心すると思いますから、お好きなだけがっかりしていて下さい」
「な、なっ!」
藤原の頬が赤くなり、柳眉が吊り上がる。
十和子が「真理愛ちゃんって見た目から引っ込み思案そうに見えるけど、めちゃくちゃ普通に気が強いのよねぇ」としみじみ呟いた。佐藤が、うんうんと頷いている。
「あなたみたいな、野暮ったくて地味で失礼な女が、小鳥遊さんに釣り合うと思ってるの⁉ たかが経理のくせに!」
「思ってます」
「でしょう? 釣り合うわけが……は?」
心底意味が分からないと人間は、こんな顔をするんだなぁ、と真理愛は、きっと婚姻届けを書かされそうになったとき、自分もこんな顔をしていたんだろうと思った。
「だから、結弦さんに釣り合うか、釣り合わないかですよね? 釣り合うと思っていますが、何か問題でも?」
藤原は、口をはくはくさせて真理愛を見上げている。
「結弦さんは、一人で生きるって決めていた私に、僕は勝手に幸せになるからそばにいてくれなきゃいやだって言いました。でも、本当は結弦さん自身が幸せになることに自信のない人だから……しょうがないから、私が幸せにするって決めたんです。しょうがない人なんです。でも、しょうがないなぁって許せるくらいに愛しているから」
自分でも驚くほど、結弦を愛している。他の何に変えることのできない存在を得ることは、こんなにも幸福だと、少し前の真理愛は知らなかったのに。
「だからそこに釣り合うとか、釣り合わないとか関係ないでしょう? そもそも貴女は容姿でしか物事を計れないんですか? 生き方や性格、気遣い、心の在り方、そういうものがまず大事だと私は思っています。あなたは私を失礼だと言いましたが、プライベートにずかずかと踏み込んで、相手の気持ちを汲み取れないことは、失礼ではないんですか?」
藤原は、真っ赤な顔で黙り込んでしまった。
「それとたかが経理とおっしゃいますが、会社という組織の中で、経理も総務も人事も営業も必要だからあるんです。そこに優劣はありません。ご理解いただければ、幸いです。では、午後も仕事がありますので。……すみません、皆さん、道をふさいでしまって」
真理愛は、十和子たちを振り返る。
「せんぱい、かっこいい……けっこんしてぇ……っ」
橋本が絶好調にむせび泣いているが、どさくさに紛れて求婚されている気がする。
「いやぁ、マジで、格好良かったよ、畠中さん」
「真理愛ちゃん……愛されてるってすごいわねぇ」
佐藤と十和子にぽんぽんと肩を叩かれた。佐藤は「はいはい、お仕事よ~」と幼児をあやすように笑いながら、橋本を席へと連れて行く。
真理愛も十和子とともに自分の席へと向かう。藤原は、真っ赤な顔のままどこかへ走り去っていった。可哀想だとは思わない。自分で突っ込んできたのだから、自分の責任だ。と真理愛は、ふう、と息を吐く。
「でも本当、強くなったわね、真理愛ちゃん」
十和子が自分のことのように嬉しそうに言った。
「だとすれば……結弦さんのおかげです」
「うふふっ、やっぱり愛って偉大だわぁ」
そう言って笑う十和子に真理愛は「ですね」と笑って頷き返すのだった。
真理愛は十和子たちとともに帰りの仕度をして、更衣室へと向かう。身支度を整え、エレベーターに乗り込み、あっという間にロビーに到着する。
「真理愛ちゃんとこ、夕飯は?」
十和子が尋ねて来る。
「今日は結弦さんのリクエストで、肉じゃがです」
肉じゃがは結弦の好物の一つで、少なくとも月に二回は作っている。
「肉じゃがかぁ、最近作ってないな。明日は私のお当番なのよぉ。だから今夜仕込んで明日、肉じゃがにしようかな。やっぱり煮物は一日置いたほうが美味しいし」
十和子のところは、旦那さんと十和子で当番制で夕食作りをしているそうだ。
「ふっふっふっ、今夜の私は一味違いますよ。母が、美味しいイカの塩辛を送ってくれたので、塩辛ごはんです!」
橋本が得意げに胸を張る。
「っかー、お酒がすすむじゃなーい。いいな! 橋本ちゃんの実家、どこなの?」
佐藤が尋ねる。
「北海道です」
「いいなぁ!」
佐藤が心底羨ましそうに言った。確かに、北海道と言えば、美味しいものの宝庫というイメージがある。海鮮もお肉も乳製品も野菜もお菓子もどれもこれも美味しいもので溢れている。
「祖父と父と二番目の兄は、漁師で……はっ!」
橋本が突然、何をひらめいたのか真理愛を振り返る。
「私では焼くしかない海鮮、料理上手な先輩に託せばもっと美味しくなるのでは……!?」
「それは間違いないわねぇ」
十和子がうんうんと頷く。
「というわけで、先輩、次にまた送られて来たら、お知恵をお貸しくださいませ」
ははーとなんだか時代劇みたいに頭を下げる橋本に、真理愛はついつい笑ってしまう。
「私で良ければ……」
「真理愛さーん!」
嬉しそうな声に顔を上げれば、結弦が良い笑顔で駆け寄って来た。ジャスティンみたいだという感想は心にとどめておく。
「どうしたんです?」
「一緒に帰ろ」
「帰りません。御影さんに連絡……って、まさか!」
にこにこしている結弦に嫌な予感がした。
慌ててスマホを確認すれば「では、また来週」の文字が通知欄にあり、見れば結弦から連絡があったので、本日の送迎は花音様のみとさせていただきますねという旨が書かれていた。真理愛は基本的に定時退社なので、十五時までに連絡がなければ残業無し定時退社という取り決めをしたのだ。
「もう!」
「ね、帰ろ、それに見て、ほら!」
そう言って結弦がスーツのポケットから取り出したのは、何かのチケットだった。
「取引先の人に水族館のチケット貰ったんだ。来週の日曜日あたり行こうよ。さすがに今週はまだ興奮させるのも不安だからさ」
「頭を打ったの一昨日ですからね。でも花音ちゃん、喜びそうですねって……誤魔化されませんからね」
じとり、と恋人を睨むが、恋人はどこふく風だ。
「いいじゃないか、別に。うちの会社は社内恋愛禁止ではないし、一緒に帰るカップルや夫婦だっているよ?」
「……もー、どれだけ一緒に帰りたいんですか。帰るところ、同じなのに」
「ずっと一緒にいたいっていつも言ってるでしょ」
にこにこと子どもみたいな無邪気な笑顔に、真理愛は結局ほだされてしまうのだ。惚れた弱みとは恐ろしい、と日々実感ばかりしている。
「王子はほんっと、真理愛ちゃん大好きねぇ」
「畠中さん、あんまり甘やかしちゃダメよ、男ってすぐつけあがるから」
十和子と佐藤の声に、ここが会社のロビーだということを思い出して、真理愛は我に返る。だんだん羞恥に頬が熱くなっていて、ぺしりと結弦の肩をはたいたが、結弦は「大好きです」とでれでれしている。もう、ともう一発、はたくが彼はびくともしない。
「小鳥遊さんは、先輩のどこに惚れたんです!? 今後の活動の参考に是非!」
エアマイクを結弦に向けて、橋本が言った。今後の活動ってなんだろう。
「僕の一目惚れだったんだけど、真理愛さんって姿勢が良いでしょ? ヒールのかかとを鳴らしてさ、颯爽と歩く真理愛さんに、惚れちゃったんだよねぇ」
「んもう! 恥ずかしいからこれ以上喋らないで!」
真理愛は結弦の頬をひっぱるが、緩み切った彼の顔はどうにもならない。
この結弦の発言をきっかけに、翌週から、やけにヒールを履いた女性社員が増えるのを真理愛たちはまだ知らない。
「ほら、もう帰りますよ! 花音ちゃんが帰って来ちゃう!」
花音は、定時帰宅の真理愛に合わせて、放課後は児童クラブで過ごしているのだ。御影が先に花音を迎えに行って、真理愛を拾い、帰宅という流れができている。
「あ、そうだ。帰らなきゃ……じゃあ、皆さん、また来週」
結弦の挨拶に合わせて真理愛も頭を下げて、結弦とともにエレベーターに戻り、地下の駐車場へ行く。
彼の愛車の助手席に乗り込んで、真理愛はシートベルトを嵌めようと手を伸ばす。
だが、それは彼の大きな手に阻まれる。
「どうしました?」
「……藤原さん、来たんでしょ?」
やけに深刻そうな顔で結弦が言った。
「ええ、来ましたけど……誰に聞いたんです? 十和子さん?」
「ううん。椎崎課長。事件の時に連絡先を交換していて、それで……真理愛さん、僕に言うつもりなかったでしょ」
「いいえ、言うつもりでしたよ、家に帰って花音ちゃんが寝たら。だって、会社のできごとだからすぐに結弦さんに伝わるもの、隠せないわ」
ふふっと笑って、真理愛は恋人の頬を撫でる。
「彼女、私の品定めに来たらしいですよ。私を選んだ結弦さんにがっかりしたんですって。だから、そのままがっかりしていてくださいって言っちゃった。ちょっと今日の私は、意地悪だったかも」
困ったように眉を下げれば、大きな手がふいに真理愛の眼鏡を取ってダッシュボードの上に置く。そして、真理愛が目を白黒させていると、ぐいっと引き寄せられて、運転席から身を乗り出す結弦にぎゅうと抱き締められた。
「ゆ、結弦さん、ここまだ会社!」
「格好良かった。惚れ直したよ……課長、動画で送ってくれたんだ」
「えっ」
思わず離れようとしたが、ぎゅうとこれでもかと強く抱きしめられてびくともしない。
「水原さんの前例があるから、ってスマホで録画してくれたんだよ」
真理愛は、お弁当をひったくられて台無しにされた時のことを思い出した。たしかに目撃者は多かったが、人の記憶とは適当で多少、証言が食い違う。やはり動画で残っているというのは強いのだと警察官である正人も言っていた。
「……しょうがないけど、愛してるから許してくれるんでしょ」
「……もう、すぐそうやって調子に乗るんだから……」
真理愛はくすくすと笑って結弦の髪を撫でる。
「結弦さん、ほら帰りましょう? 本当に、花音ちゃん帰って来ちゃう」
ね?と真理愛が諭すと、結弦は真理愛を解放してくれた。
大きな手が名残惜しむように真理愛の頬を撫でていき、ハンドルの上に置かれた。
「じゃあ、帰ろうか。シートベルト、大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
カチン、とシートベルトをはめる。結弦は、それを見届けてから自分もシートベルトをはめた。
そして、車はゆっくりと動き出す。
「今日の夕ご飯、肉じゃがだよね。楽しみにしてたんだ」
「いっぱい作ったから、いっぱいお代わりしてくださいね」
「やったぁ」
無邪気に喜ぶ恋人の横顔に真理愛はくすくすと笑いを零すのだった。