3-2
「お兄さま、お姉さま、心配かけてごめんなさい」
ベッドの上で花音が申し訳なさそうに言った。
「ううん、命に別条がなかったんだから、いいよ」
ベッドの傍に置かれた丸椅子に座った結弦が、ほっとしたように表情を緩めて言った。
真理愛は、ベッドに腰かけ、花音の頬を撫でる。
花音は、体育の授業中に跳び箱に失敗して、頭を打ち脳震盪を起こしてしまい、小学校から救急車で搬送されたのだ。
色々と検査をしたが幸いなことに今のところ、大きな異常はなかった。だが頭を強打しているので念のため、今夜一晩入院して何事もなければ明日、退院できると言われた。
花音は、個室――それも高そうなホテルのような部屋――なので、真理愛と結弦も付き添いとして泊まる予定だ。ジャスティンのことは御影に頼んだ。
真理愛も鉄仮面スタイルは、車の中で解いている。病院と自宅や会社を行ったり来たりすることもあるかもしれないと思いややこしいことにならないように、本来の姿でいることにしたのだ。
「花音ちゃん、たんこぶ大丈夫です?」
「ちょっと痛いけど、平気。お姉さまも、来てくれてありがとう」
「花音ちゃんが呼んでくれたら、どこへだって行きますよ」
真理愛の答えに花音は、照れくさそうに笑って布団で口元を隠した。
それからしばらくして、花音はうとうとし始めた。真理愛が「眠っていいですよ」と促すと、花音はあっという間に眠ってしまった。あれこれあって疲れたのだろう。
花音が寝た後、交代でシャワーを浴びて、楽な格好に着替える。これは検査の間に真理愛が一度、御影とともに家に戻って持ってきたものだ。
真理愛がシャワーから出ると、結弦が濡れた髪のまま、ベッドに腰かけて花音を見つめていた。
「結弦さん、風邪引きますよ」
真理愛は、首にかけていたタオルで結弦の髪を拭く。
「……真理愛さん、ごめんね」
タオルの下から聞こえた謝罪に真理愛は、髪を拭く手にことさら優しさを込める。
「謝らないで、頼ってもらえて嬉しいんです」
「……ありがとう」
そう呟くと、結弦は再び黙り込んでしまった。真理愛は、離れがたくて、髪を拭く手を撫でる手に変えた。
花音は、穏やかな顔でぐっすりと眠っている。顔色もよく大丈夫そうだが、頭を打っているのがやはり怖い。今夜は心配で眠れそうにない。
良い部屋だからか、この間、真理愛が入院した時よりもずっと静かだった。防音がしっかりしているのだろう。
不意に真理愛のスマホが着信を知らせる。
「あ、電話……凪咲さんです。出てもいいですか?」
結弦が、こくり、と頷いた。
真理愛は結弦を撫でる手を放し、スマホを手に取る。スピーカーをオンにして、通話ボタンを押した。
『もしもし花音は……!』
「もしもし、真理愛です。花音ちゃんは、今、眠っています。メッセージで送った通り、今のところ異常はなく、今夜、何事もなければ明日、退院できるそうです」
焦りがこれでもかと滲んだ凪咲の声に真理愛はできるだけ穏やかに返した。凪咲は、泣きそうな声で「そう」と呟いて、息を吐いた。
『ごめんなさい、主人の出張に同行していて……今、韓国にいるの』
「棚橋さんから聞いています」
結弦のところに電話がかかってくる前は、当たり前の話だが緊急連絡先として登録されている花音の両親のところに電話はいったらしい。ただどちらも出ず、自宅にかけると家政婦の棚橋が出た。だが、いくら信頼のおける家政婦といっても棚橋は他人だ。そのため、棚橋が兄の結弦の連絡先を担任に伝え、結弦のところに連絡がきたのだ。
病院に向かっている時に棚橋から連絡が来て、花音の両親が海外出張に行っていることを知った。涼真は、凪咲の両親が面倒を見ているそうだ。
『あとは主人に任せて帰国するつもり。でも、飛行機が明日の朝しかなくて、キャンセルが出るのを待っているの。飛行機に乗れたら、その時はまた連絡します』
その言葉通り、凪咲の背後からは空港のアナウンスが聞こえて来る。
「分かりました。私もできるだけ、花音ちゃんの様子を連絡しますね」
『お願いできるかしら。真理愛さん、ありがとう』
「いえ。凪咲さん、花音ちゃんは大丈夫ですから、気を付けて帰って来て下さいね」
『ええ。そうね、そうよね、こういう時こそ、落ち着かなきゃ』
あまり落ち着きのない声で凪咲は返した。
大事な娘が入院となれば、そう落ち着けるものではないだろうと真理愛でも思う。
「……凪咲さん」
不意に結弦が口を開いた。
「…………父は、どうしたんですか」
結弦の問いに凪咲が一瞬、言葉を詰まらせたのが、電話越しでも聞こえてきた。
『あの、人は、重要な会食があって……でも、心配はしていたのよ。私に帰っていいって言って、連絡を逐一するようにって』
「そう、ですか。……気を付けて、帰って来て下さい」
『ええ。ありがとう、花音のことお願いね』
それから真理愛と二言、三言、言葉を交わすと凪咲との通話は切れた。
部屋の中に再び静寂が戻って来る。
「……花音が無事でよかった」
結弦が俯いたまま、ぽつりと呟いた。
「電話に出て、頭が、真っ白になってしまって……真理愛さんのことしか浮かばなくて、そうしたら城嶋さんが池田くんに僕を真理愛さんとこに連れて行くように言ってくれて……ごめんね、真理愛さん。会社で、ばれちゃったよね」
「いいんですよ、いや、本音を言えばよくないですけど……でも私の平穏地味な経理課ライフと比べる必要もないくらい結弦さんと花音ちゃんのほうが大事なんです」
真理愛は、ふふっと笑って言った。
タオルに隠された結弦の表情は見えない。
「……電話が来て、花音が怪我をして、意識がないって、救急車で運ばれたって聞いて……それで一番に思い出したのが…………お母さんが死んだ日のことだった」
真理愛は、スマホが手から落ちていくのを止められなかった。それはベッドの上にぽふんと転がる。
「ねえ、真理愛さん」
「は、はい」
結弦が頭にかけられたままだったタオルを外しながら、顔を上げた。
「僕の話、聞いてくれる?」
なんだか泣きそうな顔で笑って首を傾げた結弦に、真理愛は精いっぱい、愛を込めてキスをした。
「いくらでも聞きます。だから、大丈夫よ、結弦さん」
そう告げて真理愛は笑って見せた。結弦は不格好な笑顔で頷き返した。
「前に、言ったでしょう? 僕と花音は異母兄妹で、凪咲さんは父の再婚相手だって」
ベッド近くの応接セットのソファに並んで座り、真理愛は彼の膝の上にある彼の手に自分の手を重ねて耳を傾ける。
「凪咲さんは、父にはもったいないくらい優しくて、良い人だよ。僕が高校生の時に父は再婚したんだ。その時にね、凪咲さんはこう言ってくれたんだ。『私のことを無理に母親だなんて思わないで。あなたのお母様は、この世でただ一人、美結さんだけだもの』って。……美結っていうんだ、僕のお母さん」
そう言って結弦は、真理愛の手を一度解くと、テーブルの上に置きっぱなしだったスマホを操作して、一枚の写真を見せてくれた。
「……綺麗なひと。この子は、結弦さん?」
そこに映っていたのは、長い黒髪をみつあみにして横に垂らした、美しい人だった。彼女は椅子に座っていて、その膝に肘をつくように小さな男の子がいた。
「うん、そうだよ。元の写真は家にあるよ。……父に破られてしまったけど」
思わぬ言葉に顔を上げると、やっぱり結弦は泣きそうな顔で笑っていた。
「……お母さんが死んだのは、僕が七歳になった、その日だった」
息を呑んだ音が、やけに大きく鼓膜を揺らした。
だって、それは、その言い方では――彼の母親の命日が結弦の誕生日ということではないだろうか。
「僕の誕生日プレゼントを買いに行って、そして……事故にあった」
コトン、とスマホがテーブルの上に置かれた。
「父はね、あの日まで、僕を愛してくれていた。僕も父が大好きだった。優しくて、頼りになって、強い父が、大好きだった。でも……父は僕以上にお母さんを愛していた」
結弦の長い睫毛が伏せられる。
「……『美結が死んだのは、お前のせいだ』って、そういわれた」
「なん、で……結弦さんは、悪くないわ……っ!」
真理愛が怒ったってしょうがないのに、勝手に悲しみに似た怒りが沸いて来る。大きな手が優しく真理愛の頬を撫でてくれる。
「あの日から、お父さんは、僕のことを憎むようになって、僕を疎むようになった。僕の存在を無視するようになった。あの日まで、お父さんは、確かに僕の大好きなお父さんだったのに」
結弦が悲しそうに目を伏せた。
その日まで、自分を愛してくれていた父親が、自分を憎んで無視するようになったなんて、想像するだけで怖かった。幼い結弦は、どれほど傷ついただろう。どれほど――哀しかっただろう。
「関係は修復できないまま年月だけが過ぎて、父は凪咲さんと再婚した。驚いたけど、嬉しかったよ。父がお母さんの死を乗り越えてくれたのかなって思ったけど、それはそれ、これはこれで……相変わらず僕を憎んだままだった。花音が産まれた時、僕は母方の祖父母の養子になった。小鳥遊は母の旧姓だよ。僕も昔は鷹野結弦だったんだ。お母さんは一人娘で、祖父母は大層な資産家だから、相続対策と言う名目だったけど、実際は……新しく始まる家族に僕は不要だったんだ」
真理愛は首を横に振った。だって、そんなひどいことがあるだろうか。
「でも、古い考えがはびこっている鷹野家の跡取り条件を満たすのは、僕しかいなくて……僕が小鳥遊の家に養子に入るのもかなり揉めたらしいんだ。それでも父は強行した。なのに、僕は家を出ることは許されなかった」
真理愛は、ならどうして今の結弦は一人暮らしなのだと考えてふと彼の弟――涼真の存在を思い出した。
結弦のマンションに避難した時、彼は夏ごろからここで一人暮らしを始めたと言っていた。そして、涼真は一歳だと言っていたはずだ。
「……まさか、涼真君が産まれたから、だから、結弦さんは……」
結弦は、静かに微笑んだ。
――結弦の父親にとって、跡取りが産まれたおかげで、結弦は本当に不要な存在になったのだ。
その事実に真理愛は、胸が軋むように痛んで、思わず腕を伸ばして結弦を胸に掻き抱くようにして、抱き締めた。結弦は、なんの抵抗もなく真理愛の腕の中に納まった。
色々なピースが、ぱちり、ぱちりとはまっていく音がする。
恋人兼婚約者になった真理愛のことを『お母さんと妹に紹介させて』と結弦は言った。その時、真理愛みたいなトラブルメーカーでは両親が嫌がるのではと言ったら『父は何も言わない』と彼は言った。
『誕生日プレゼントはいらない』と告げた時の結弦は、どんな顔をしていただろうか。
あの時、結弦はどんな気持ちだっただろう。
父親は結弦に興味がないから、何も言わないのだ。誕生日は結弦にとって最愛の母の命日で、プレゼントは幼い結弦の世界を壊したもので、そのことを結弦は、どんな思いで自分の中に落とし込んでいるのだろう。
「大事な跡取りである涼真になにかしでかす前に出て行けって言われたんだ……父は、あの日から壊れたままで……花音のことを愛しているけど、涼真ほど大事にはしない。涼真のことも跡取りだから、大事な気持ちが強いんだ」
真理愛の腕の中で、結弦はそう告げた。
「僕は、君を大事にするって言うけど……あの父の息子である僕は、本当に君を大事にできているかな……?」
頼りない声だった。まるで親とはぐれてしまった、幼い子どもが抱えるような不安や心細さが伝わって来る。
「大事にできてます」
真理愛はきっぱりと言い切った。
「だって私、幸せだもの。パパが殴り込んでこないのだって、画面越しに私が大切にしてもらえているってわかっているからなんですよ。だからね……私が、そばにいます。ずっと、ずっと……結弦さん、いつも言うじゃない……っ、おじいちゃんとおばあちゃんになっても、ずっと、一緒、だって……っ」
涙がぽたぽたと湿ったままの結弦の髪に落ちる。
「婚姻届、書いてくれる気になった?」
顔を上げた結弦に真理愛は「ばか」と返して、笑ってその額にキスをする。
「だって、私と結弦さんは死が二人を別つまで一緒にいるの。その間、ほとんどの時間を夫婦として過ごすの。だから、恋人でいる時間はとっても貴重なの」
「夫婦になっても恋人みたいに過ごせばいいのに」
「違うの。永遠に夫婦として一緒にいるから、ほんのわずかな恋人の時間を楽しむの。ほかでもない、結弦さんだから楽しみたいの。孫やひ孫に、おじいちゃんとこんなデートしたのよって、こんなバカップルだったのよって自慢するの」
真理愛は、ふふっと笑って見せたのに、今度は結弦が顔をくしゃりとさせて、隠すように真理愛の胸に顔を戻してしまった。
「期間限定のアイスクリームが、好きな、真理愛さん、らしいね……っ」
震えて滲んだ結弦の声に真理愛は、きつく彼を抱き締める。
「それにね、結弦さんはもうひとりじゃないんですよ。ひとりで生きるつもりだった私を引き留めたんだから。それに結弦さんは周りの人を大事にできる優しい人よ。だから貴方の周りには、貴方が困った時、見返りも求めず手を差し伸べてくれる人がたくさんいる」
会社の皆も御影もなんの見返りも求めずに、動いてくれた。それに彼の幼馴染の警察官の正人だって、結弦を大事にしている。
それは全部、結弦が彼らを大事にしてきたからに他ならないと真理愛は思う。
「僕は…………僕はさ、しあわせに、なっていいのかな……っ」
――僕のせいでお母さんは、死んだのに。
どこからか幼い男の子の声が聞こえた気がして、真理愛は結弦の髪にキスをする。
結弦は幸せになってはいけないのか?
そんなことはない。そんなわけがない。
きっと、結弦だってわかっている。母が事故に遭ったのは、結弦のせいではない。ただの不幸な事故だ。
でも、大好きだったお父さんに掛けられた呪縛は、そう簡単に解けるものじゃないのだ。愛していた人につけられる傷は、赤の他人につけられる傷よりずっと深くて、痛い。
だって、赤の他人が相手なら警戒しているし、身構える。でも愛する人には無防備になる。それはきっと、幼ければ幼いほど。
そうして振りかざらされた刃は容易く、そして、恐ろしいほど深く結弦を傷つけたに違いなかった。
「いいに、決まってます。お母さんが望むことなんて、貴方が幸せであること以外、きっと何もないです」
真理愛の愛する両親は、真理愛の幸せを願ってくれている。とくに母は可愛い真理愛が幸せであれば、それだけでいいのよ、とそう言ってくれる。
それはきっとフランスも日本も国籍なんて関係ない、母の願いだ。
「自信がないなら、しょうがないから私が結弦さんを幸せにしてあげます。結弦さんを幸せにするなんて、簡単なんですよ」
真理愛は、結弦の頬に触れる。そうすれば、結弦がおずおずと顔を上げた。彼の頬は涙に濡れていて、真理愛はそれをぬぐうようにキスをする。
「貴方の大好物を作って、キスをしてあげる。ことあるごとに愛してるって言ってあげて、それで……こうやって抱き締めてあげます」
「僕は、それだけで十分幸せだけど……真理愛さんはそれで幸せなの?」
結弦が不安そうに首を傾げた。
真理愛は、結弦の鼻先にキスをして「ばか」と笑う。
「じゃあ結弦さんは、唯一の得意料理の目玉焼きを私に焼いて、私にキスをして、私に愛をささやいて、私を抱き締めたらどう?」
「幸せだよ。もちろん、とても幸せ」
即答した結弦に真理愛は笑みを返す。
「それと同じですよ」
まるで鳩豆鉄砲を食ったような顔になった結弦に、真理愛はくすくすと笑う。
「……同じなの。だからね大丈夫、大丈夫なのよ、結弦さん」
結弦の目から、ぽたぽたと涙が溢れて落ちていく。
男の人が泣いている姿なんて、初めて見た。きっと、結弦じゃなかったら驚くだけで終わっただろう。でも、結弦だから抱き締めてあげたいと、その涙を拭ってあげたいと願う。
涙はしょっぱいはずだけれど、結弦のそれはほんのり甘い気がした。
「もう大丈夫よ、結弦さん」
結弦の顔がくしゃりと歪んで、苦しいくらいに抱き着かれる。真理愛は、護るように彼を抱きしめて、母親がするようにその髪を撫でた。
時折聞こえる押し殺された嗚咽が、聞こえなくなって、彼がまたいつもの優しい笑顔と声で「真理愛さん」と呼べるように願って、真理愛はただ結弦に寄り添うのだった。