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2-1



 真理愛は、朝からぱたぱたと広い家の中を忙しなく動き回っていた。

 換気のために開け放った窓からは爽やかな春の風が部屋の中に飛び込んでくる。

 今日は、土曜日。会社はお休みだ。

平日の間にたまっていた家事を鼻歌交じりに片づけていく。

 窓を開けて、空気を入れ換えて、ハタキをかけて、掃除機をかける。

洗濯物は、高い柵に囲まれたお庭の物干し台で風にそよいでいる。冬に植えたビオラも溢れんばかりに咲いていた。

 結弦は、愛犬のジャスティンを連れて休日の少し長めのお散歩に出かけている。

 翠川が藤原の上司に注意を促してくれたおかげか、翌日から帰りに待ち伏せされることは減ったらしい。その代わり、朝、地下の駐車場からエレベーターに乗るといるようになったそうだが。


『怖い、怖いよ。ホラーだよ。僕、悲鳴を上げちゃったよ』


 真理愛の膝に突っ伏して、結弦がそう嘆いていたのは記憶に新しい。

 その弱り切った恋人もそろそろ帰って来るかなと時計を見れば、丁度、午前のお茶の時間だ。

 真理愛は、スティック型の掃除機を片付けて、キッチンへ行く。電気ケトルに水を入れてスイッチを押し、棚から先日、結弦と一緒に選んで買ったティーポットを取り出す。


「今日は、何の茶葉にしようかな」


 真理愛が好むのはフレーバーティーと呼ばれる花や果物で香りづけされた紅茶だ。母国であるフランスの水は硬水のため、アッサムやダージリンといった茶葉そのものの香りを楽しむのには向かない。なので、香りづけされた紅茶がフランスでは親しまれている。


「今日は、ストロベリーティーにしよう」


 ガラスの容器に入れた茶葉を取り出し、ポットの横に置いたところでインターホンが鳴った。


「……? 宅配便かな」


 真理愛は、紅茶の支度をする手を止めてインターホンの下へ行き、通話ボタンを押した。

 普通の宅配便なら結弦が帰りに受け取ってきてくれるだろうから、冷凍物とかかなと首を傾げる。


『おはようございます、畠中様』


 聞こえてきたのは、コンシェルジュの佐々木の声だ。彼は、例のストーカー事件の時に真理愛を水原から庇ってくれた人だ。


「おはようございます、佐々木さん」


『取り急ぎ、お伝えしたいことがございまして』


「ゆ、結弦さんに何かあったんですか?」


 散歩に出かけた先で怪我でもしたんだろうか、と真理愛は顔を蒼くする。


『いえ、違います。ご安心下さい。今しがた連絡したところあと十分ほど戻られるそうなのですが……あの、お客様がいらしておりまして』


「お客様?」


 真理愛に来客の予定はなかったし、結弦から来客の予定があるとも聞いていなかった。それに来客があるなら結弦だって長時間の散歩には出かけないだろうから、これは「急な」が頭についたお客さんということになる。


『はい。実はもうお通ししてしまい、既にそちらに到着する頃かと』


「え」


 真理愛が驚きに声を漏らすのと、ピンポーンとのんびりした音が部屋に響いたのは同時だった。玄関扉の横にチャイムがあるのは知っていたが、鳴るのを聞くのは初めてだった。

 真理愛は、慌てて玄関へ向かう。

 そーっとドアスコープを覗いてみたが、拍子抜けする。見える範囲に人の姿はない。


「空耳だったのかしら」


 首をひねる真理愛をよそにまたもピンポーンと呼び鈴が鳴らされた。

 真理愛は「はーい」と返事をする。佐々木が通したのだから、悪人とかではないのだろうと意を決してドアを開けた。


「お兄さま! 早くいれて! お土産はアイスクリー……ム、なの、よ?」


 軽やかな鈴のような愛らしい声が勢いを失っていき、ぱっちり二重の大きな目が真ん丸になる。

 黒いさらさらの髪をポニーテールにして白いリボンを結んでいる。フリルの襟が可愛いブラウスにカナリアイエローのカーディガンを羽織り、春らしい桜色のスカートという出で立ちの十歳くらいの美少女が真理愛を見上げて、ぱちりぱちりと瞬きを繰り返した。

 もしやこのお姫様のように可愛い子は、真理愛が間借りしている部屋を使っていたという結弦の妹ではないだろうかと真理愛が結論を出したのとほぼ同時に少女は、叫んだ。


「お、お兄さまの部屋に外国の美人さんがいるー!」


 すごーいとはしゃいだように手を叩き、白い頬を紅潮させて少女はぴょんぴょんと飛び跳ねた。彼女が背負うランドセルが、がしょんがしょんと音を立てる。彼女の横にはキャリーケースがあり、その上にはアイスクリーム店のロゴが入った発泡スチロールの箱が乗っていた。

 今度は、真理愛がぱちり、ぱちりと瞬きを繰り返す番だった。

 固まる真理愛を他所に少女は、はっと我に返るとこほんと咳ばらいをして、ぺこりと頭を下げた。


「ハロー! ナイストゥミートゥー マイネームイズ、カノン・タカノ! アイムファイン サンキュー アンドユー?」


「hello. Nice to meet you too. I`m Maria Hatanaka.Ah~、I am very surprised」


 英語であいさつされたので、反射的に英語で返してしまった。日本語で良かったのではと焦るも、カノンは嬉しそうに顔を綻ばせ「通じたわ!」と頬を押さえた。

 聞き間違いでなければ、カノンの名字は、タカノだったが、結弦の名字は小鳥遊だったと記憶している。聞いてない。聞いてないぞ、結弦さんと真理愛は眉を下げる。


「あの、ミス・マリア。お兄さま……ええと、マイブラザー イズ ウェア?」


「日本語で大丈夫ですよ」


「日本語、お上手ね!」


「そうかしら? ありがとう。結弦さんは今、ジャスティンくんのお散歩に行っているんです。とりあえず、中へどうぞ」


 カノンは驚いた顔をしたあと、ぱちぱちと拍手をしてくれた。可愛いな、と真理愛は自然と笑みを浮かべてとりあえず中へ入るように促し、体をずらす。


「私の名前は鳥の鷹に野原の野、そして、花の音って書くの。ミス・マリアのファミリーネームは、日本人みたいね!」


 好奇心に顔を輝かせながら花音が言った。

 真理愛はキャリーケースを中に入れるのを手伝いながら、「こう見えて、半分は日本人なんですよ」と返した。


「そうなの? こんなに綺麗な色なのに⁉」


 そう驚く花音をとりあえずリビングへと促す。リビングへ駆け出した少女の華奢な背でチョコレート色のランドセルがカタカタと鳴った。

 これが真理愛と、その恋人の結弦の妹、鷹野花音の出会いだった。





「すごい、お兄さまのお家じゃないみたいに色々増えてるわ。ねえ、もしかして真理愛さんもここに住んでるの?」


 リビングに入り、部屋の中を見回したカノンが首を傾げる。


「ええ。どうぞ、座って待っていて。紅茶の仕度をしていたのだけれど、飲めますか?」


「飲めるけど……ミルクとお砂糖を入れてほしいわ」


 もじもじしながら花音が真理愛を見上げる。真理愛は、もちろんと微笑んで花音からお土産のアイスを受け取り、それを冷凍庫にしまってから紅茶の支度にとりかかる。

 まずは、ポットにお湯を入れて温めておく。その間に、三日前に休日のおやつにしようと焼いたチョコレートたっぷりのパウンドケーキを取りだして切り分ける。


「あ、花音さん、アレルギーとか嫌いなものはありますか?」


 ふと気づいて尋ねるとソファ越しに振り返ったカノンは「アレルギーはないわ」と首を横に振った。


「でも、お刺身は苦手なの」


 バツが悪そうに言った少女は、なんだかとても微笑ましい。


「実はチョコのパウンドケーキがあるのだけれど、食べ」


「食べる! 食べるわ!」


 ますかと続くはずだった言葉を遮って、ソファに膝立ちになった花音は、はしゃぐ結弦にそっくりで真理愛はくすくすと笑いながら「待っててね」と答えた。

 結弦の妹だからか、あるいは可愛らしい少女だからか、真理愛は緊張を感じていない自分に驚きつつ、黙々と手を動かす。

 紅茶を蒸らし、パウンドケーキをお皿に乗せてフォークを添える。冷蔵庫から取り出した牛乳をレンジで軽く温めて、紅茶用の砂糖も取り出す。

 ティーカップを三つ用意する。結弦の友人やいつか真理愛の家族などが来てもいいように五脚セットのそれは、白磁にブルーが映える一品だ。

 蒸らし終えた紅茶を注げば、苺の甘酸っぱい香りがふわりと広がる。二つにはミルクと砂糖を入れて、自分の分は砂糖を少しだけいれる。

 結弦とジャスティンもそろそろ帰って来る頃だろう。ジャスティンの水入れに水を足しておく。

 横長のお盆にカップとパウンドケーキを乗せて、花音の待つリビングへ向かう。

 ラグの上に膝をつき、ローテーブルにそれらを並べていく。


「美味しそう! あ、苺の匂いがするわ!」


 キラキラと顔を輝かせた花音に真理愛は「苺の香りの紅茶なの」と説明する。


「いただいてもいいかしら」


「ええ、どうぞ」


 真理愛が頷くとカノンは、小さな手を合わせて「いただきます」と律儀に挨拶をして、フォークを手に取り、パウンドケーキを切り分けて口に運んだ。

 小さな口と柔らかそうなほっぺがもぐもぐと動く。キラキラと輝いていく眼差しに真理愛は、気に入ってもらえたようだとほっとして、紅茶に口を付けた。苺の甘酸っぱい香りがふわりと広がる。


「美味しい! とっても美味しいわ、真理愛さん!」


「そう? お口にあって良かった」


「これはどこのお店で売っているのかしら? ぜひ、お友だちが来た時のお茶菓子にしたいわ!」


「ふふっ、気に入ってくれて嬉しいです」


「もしかして、真理愛さんが作ったの?」


 目を丸くするカノンに真理愛は、笑って頷いた。「えー!」と驚きの声を花音が上げると同時にガチャンと玄関で音がする。


「た、ただいま!」


 焦ったような声が聞こえて顔を向ければ、肩で息をする結弦がジャスティンとともにリビングへと飛び込んできた。


「花音!」


「あら、お兄さま、おかえりなさい」


「おかえりなさい、結弦さん。ジャスティンくん、足拭きました?」


「あ! ご、ごめん、忘れてた。おいで、ジャスティン」


 スポーツウェア姿の結弦は慌ててジャスティンを抱き上げると玄関へ戻っていく。


「結弦さん、着替えて、手洗いうがいをしてから来て下さいね」


 そう声を掛ければ「ごめん、分かった!」と返事が返ってきた。

 少しして、デニムにシャツとセーターという姿で結弦がリビングに戻って来る。

 結弦は花音の隣に座り、真理愛はラグの上のクッションに座る。

 結弦は、ぬるくなった紅茶を一気飲みして、ふうと息をつくとあからさまに兄から目を逸らす妹に向き直った。


「さっき、凪咲(なぎさ)さんから連絡がきたんだ。花音がそっちに行ってないかって」


 凪咲さんとは誰だろうと思いながらも、真理愛は黙って成り行きを見守る。空気を読んだ賢いジャスティンが隣にやって来たので、よしよしと撫でた。

 真理愛だって、花音の荷物を怪しまなかったわけではない。キャリーケースだけなら週末だから泊まりに来たのかと思ったが、花音は、何故かチョコレート色のランドセルまで背負っていたのだ。そして、持ち上げたキャリーケースも異様に重たかった。一泊二日の荷物ではないだろう。

 端的に言えば「家出」という言葉がよぎったのだ。


「そもそも、どうやって来たんだい? 棚橋さんも大慌てだったんだぞ」


 また新しい登場人物だ。


「お兄さま、電話番号さえ知っていれば、今どき小学生だってタクシーを呼べるのよ」


 つんとそっぽを向いたまま花音が言った。結弦は虚をつかれたような顔をして呆気にとられている。

 だが、はぁと溜め息を零してくしゃりと前髪をかきあげた。花音の肩がびくりと跳ねる。


「タクシーを呼んだとしても、誰にも何も告げずに来たらだめだろう」


 あ、と真理愛は息を呑んだ。

 それはだめよ、結弦さんと心の中で叫ぶが、時すでに遅し。

 くるりと振り返った花音は、大きな目にいっぱいの涙をためて兄を睨んだ。

 結弦が「いっ」と聞いたことのない声をもらし、顔を蒼くする。


「花音は、花音は悪くないもん! パパとママがいけないんだもん! お兄さまのバカ!」


「ぶふっ」


 花音は、ソファにあったクッションを兄の顔に押しつけると、ソファを飛び降りてリビングを飛び出していく。真理愛は慌てて追いかけたが、花音は客間――真理愛が借りている部屋――に飛び込んで行ったので足を止める。


「……ジャスティンくん、傍にいてあげて」


 ついてきたジャスティンにお願いすると、心得たと尻尾を一つ揺らして、ジャスティンは器用に前脚でドアを開けて中に入って行った。

 ドアを閉める時に覗けば、ベッドの上でジャスティンに抱き着いて泣いている花音の姿が見えた。

 お願いね、と心の中でジャスティンに声をかけ、とドアを閉めてリビングへと戻れば、妹に投げられたクッションを抱えたまま落ち込む結弦の姿があった。


「……泣かせてしまった……。なにがいけなかったんだろう」


「お兄さんを頼って家出してきたのに、花音さんの味方をしなかったからですよ。理由も聞かずに、だめだなんて……花音さんだって、家出という悪いことをしている自覚はあるんですから。でも、それでも腹に据えかねた何かがあって、飛び出してきたんです。まずは、理由を聞いてあげなきゃ」


「うぅ、真理愛様のおっしゃる通りです……」


「でも、結弦さんが心配して焦ってしまったのは分かっていますよ。私も、きっと、花音さんも」

 先程まで花音が座っていた場所へ腰を下ろして、彼の乱れた髪を直しながら言った。


「……真理愛さん」


 真理愛が伸ばした手に頬を寄せて、結弦が短く息を吐き出した。

 暫く目を閉じていた結弦だったが、一度深く息を吐き出すと顔を上げた。


「僕、様子を見て来るよ」


「待ってください」


 立ち上がろうとした結弦を慌てて制する。再び腰を下ろした結弦に真理愛は、首を横に振った。


「だめです。きっと花音さんの怒りがぶりかえして、追い出されますよ。それだったら、私が話を聞いてきます。こういうのは当事者より第三者のほうがうまくいくものですよ」


「……真理愛さんは家出でもしたことあるの? やけに冷静だね」


 不思議そうに首を傾げた結弦に真理愛は、苦笑を零す。


「私の親友のリタが家出の常習犯だったんです。長期休暇は向こうで過ごしていたので、しょっちゅう家出してきていましたよ。さすがに今は海を渡る距離なので、早々ありませんけど」


「なるほど……なら、任せてもいいかな? 僕はとりあえず心配しているだろうから、家のほうに連絡をいれておくよ。理由も分かるかも知れないし」


「そうしてください。私も心配なので様子をみてきますね」


 そう告げて真理愛は再び立ち上がる。

 キッチンに行き、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを一本取り出して、ついでに濡れタオルの準備もする。電話をかけ始めた結弦を横目にリビングを後にする。

 花音が籠城している客間のドアをノックして「入ってもいいですか」と声をかけると、しばらくしてくぐもった声が「どうぞ」と答えてくれた。

 まずは第一関門突破だと真理愛は、そっとドアを開けて中へ入るのだった。


明日は祝日のため、朝7時と夜19時の1日2回更新です!

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