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医務室の存在は知っていたが、これまで利用したことがなかったのでシャワールームまであるとは知らなかった。女性の看護師が傷口をさっと診てくれて先にシャワーを浴びるように勧めてくれたので、カレー臭い下半身だけは洗い流したくて借りることにした。火傷の有無だけ確認させてほしいと看護師に言われて、脱衣所に一緒に入って診て貰ったが残りの汁は冷めていたので、やっぱり火傷はしていなかった。
一人になった脱衣所で改めてじっくりと被害を確認する。
スカートは前面に大きなカレーのシミが出来てしまっている。ブラウスは、飛沫が飛んだだけなので、クリーニングでなんとなるかもしれないが相手がカレーうどんなのは分が悪い。ストッキングは、ド派手に伝線してしまったので完全に捨てるしかない。スカートが厚めの生地だったのでショーツに被害がなかったことは不幸中の幸いだ。
「スカート、使いやすくて気に入ってたんだけどなぁ」
ぼやきながら、下半身だけシャワーを浴びて、看護師がくれた一回使い切りのシャンプーで太ももを洗う。ボディソープではないが、カレー臭いよりはずっといい。泡を洗い流して、脱衣所へ戻る。
用意されていたバスタオルで太ももを拭きながら、ふと見覚えのないショップバッグが置いてあることに気が付いた。
中を覗くと明らかに女性物の服が入っている。
首を捻っていると脱衣所のドアの向こうから小鳥遊の声が聞こえて来た。
「畠中さん、大丈夫? それ下のショップで買って来たんだ。身長をざっと伝えただけだからサイズが違ったらごめんね? あ、看護師さんに置いて貰ったから、僕は脱衣所には一歩も入ってないから、安心してね」
確かにシュエットが入っているオフィスビルは、一階から五階までは商業施設になっている。だが、まさかこの短時間で調達してくるとは思っていなかった。
営業のエースはすごいな、いや、イケメン故のスキルだろうか、と感心しながら、困っているのは事実なので有難く着替えることにした。
「……可愛い」
一人きりの脱衣所で、思わず顔が綻んでしまう。
小鳥遊が用意してくれたのは、ベージュのニットワンピースだ。丈は膝よりやや長めでクリーム色のサイドプリーツが可愛い。革製の黒く細いベルトをウェストに付ければ、ぐっと引き締まって上品さが増す。足の怪我を考慮してか片方ずつ履けるショート丈のストッキングも用意されていてモテる男は凄いな、と再び感心するが、今から傷を診てもらうので左足だけストッキングを履く。
「畠中さん、大丈夫だった?」
外から聞こえて来た声にはっと我に返る。
「大丈夫です。すみません、すぐに出ます」
返事をして、カレー臭いスカートやらをショップバッグに詰め込み、髪の乱れと眼鏡がきちんとなっているか確認して外へ出る。
看護師と話していた小鳥遊が振り返り、こちらにやって来ると真理愛の手からショップバッグを抜き取り、こっちだよとあっという間に看護師の前に用意されていた椅子に誘導される。
「お願いします」
「はいはい、畠中さん、足、見せて下さいね」
小鳥遊があまりに必死なものだから、看護師が小さく笑いながら真理愛の足を見るために背をかがめた。
「傷、残りますか?」
小鳥遊が身を乗り出すようにして。心配そうに言った。
「大丈夫ですよ、浅い傷で、破片もなかったですから。気になるようでしたら、病院を紹介しますが」
「いえ、大丈夫です」
小鳥遊が何か言う前に真理愛は首を横に振った。
「今は便利な絆創膏もありますから、これを貼って置けばすぐに治りますよ」
「本当ですか? ああ、良かった」
「ふふっ、優しい彼氏さんですねぇ」
自分のことのように安堵する小鳥遊に看護師がくすくすと笑いながら言った。
「とんでもないです。小鳥遊さんは恋人ではありませんので」
真理愛は、急いでしっかりと否定する。
平和に生きるためには、曖昧な返事が一番危険だ。
看護師は「違うのね、ごめんなさい」と軽く言って、真理愛の足に半透明の大判の絆創膏を貼ってくれた。傷口の部分がぷくりと膨らんで素早く治癒するというちょっとお高いやつだ。「これでいいですよ」と言われて立ちあがり、看護師に見送られて出口へ向かう。するとカレー臭いパンプスの代わりにストラップ付の黒いパンプスがちょこんと出口に置かれていた。
「サイズは、これと同じのを買って来たんだけど……」
そう言って小鳥遊が下駄箱に入っていた真理愛のパンプスを指差して言った。
どうやらパンプスまで用意してくれたようだ。仕事のできる男は凄い。しかも、大したことはないにしても真理愛が足を怪我しているからか、三センチヒールにストラップ付を選んでくれたのだろう。
「ありがとうございます」
お礼を言って足を入れる。ぴったりの靴は、中のクッションも程よい弾力で履き心地が良い。たぶん、かなりの値段だったはず。寧ろ、このビル内のショップは、軒並み値段もおしゃれなので、この一式だけでかなりの値段だっただろう。ワンピースもパンプスも可愛いくて上品で真理愛の好みなのが救いだが、年末年始は何かと入用なので、痛い出費だ。
カレー臭いパンプスは、小鳥遊の手によってこのパンプスが入っていたのだろう箱に丁重にしまわれ、ショップバッグに入れられる。
医務室を出て、小鳥遊に向き直る。一七〇センチもあると男性と目線の高さが同じことも間々ある。ヒールのある靴を履けばなおさらで、こんな風に見上げるのは未だに何だか慣れなくて、その気持ちを誤魔化すように頭を下げた。
「色々とありがとうございました。おいくらでした? 申し訳ないことに今日は手持ちがないので、明日……はお休みですね。年明けの初出勤の日か、差し支えなければ少しお時間頂いて終業後にお返しします」
顔を上げた真理愛が極力事務的にそう尋ねると、小鳥遊は鳩が豆鉄砲を食ったような顔になった。
「いやいやいや、僕がカレーうどんを零しちゃったんだから、畠中さんが支払う必要なんかこれっぽっちもないよ」
「そんなことはありません。小鳥遊さんも被害者でしょう。あの女性たちにぶつかられて、小鳥遊さんは私なんかに零す羽目になってしまったんですから」
小鳥遊が疲れたようなため息を零して口を開く。
「……あの時、水原さんがわざと僕にぶつかってきて、トレーを自分の方に傾けたのが分かって、咄嗟に反対側に動いてしまったんだ。そうしたら見事に畠中さんの膝にかかってしまって」
「見ていたので知っています。あの時、私はお水が欲しくなって席を立とうとしていて顔を上げていたので……頭でキャッチしなかっただけラッキーですよ。だから、私なんかに気を遣わないで下さい」
「あのね、『なんか』なんて言わないでよ。僕が水原さんの存在に注意しているか、踏み留まるかしていれば、君に被害が及ぶことはなかったんだ。自分のしでかしてしまったことなんだから、最後まできちんと責任を取るよ。怪我までさせてしまった上にお金まで貰うなんて、僕の立場がないよ」
小鳥遊が困ったように言った。
無茶な領収書を突き返す時のように勇ましく「目立ちたくないので、あなたと関わりたくないんです」とはっきり言えたらいいのだが、善意でここまでしてくれた小鳥遊にそんなことはさすがの真理愛だって言えない。
「あんな公衆の面前で恥ずかしい思いもさせちゃったし……本当にごめんね」
心の底から申し訳なさそうに小鳥遊が頭を下げた。
「か、顔を上げて下さい。本当に私は大丈夫ですから」
真理愛も焦って声を掛ける。だが、なかなか小鳥遊は顔をあげてくれない。
本当に紳士的で優しい人だと思う。こんな経理課の鉄仮面と呼ばれて煙たがられているような女に頭を下げてくれて、心を砕いてくれるその姿勢が彼の真面目さを表している。
「小鳥遊さん、本当に大丈夫ですから」
何度目かも分からぬ言葉が途方に暮れていて、それに気づいてくれたのか小鳥遊がようやく顔を上げてくれた。
「僕、車通勤だから家……は嫌だよね? せめて最寄り駅まで送るよ。畠中さん、定時には上がるでしょ? 迎えに行くから待っててね」
「いえ、怪我と言っても歩くことに全く、一切、本当に支障はないので結構です」
やめてくれと心の中で叫びながら、真理愛は一言一言を強調しながらお断りする。
小鳥遊の車で一緒に帰ったなどと、例えば今日の惨事を引き起こした水原になどに知られたら、真理愛の地味でひっそり楽しい経理課ライフが台無しになってしまう可能性大だ。真理愛はここで定年まで働きたいのだ。今の時代、老後を一人で生きるには一円でも多くの貯えが必要なのだから、良い職場は逃がしたくない。
「それにその服一式は、ワゴンセール品なので、こんなに素敵なワンピースを買って頂くほどの服ではありません。圧倒的に小鳥遊さんに不利益です。火傷だってしていませんでしたし、寧ろ、私を運んでくださった時にスーツが汚れてしまったんじゃないですか? もしそうならクリーニング代もお支払い致します」
呆気に取られていた小鳥遊だったが、真理愛が一歩も引かないだろうことに気付いたのか、困ったように眉を下げたまま徐にスマホをジャケットから取り出した。
「ならせめて連絡先だけ交換しようよ。クリーニング代とか代金とかやりとりする必要があるだろう? チャットアプリはやってる?」
「一応、やっていますが……」
「なら電話番号を教えて、登録すればそれでやりとりできるはずだから」
真理愛は言われるがまま、ショップバッグに入れっぱなしだったスマホを取り出して、携帯の番号を小鳥遊に教える。小鳥遊がそれを入力するとピコンと着信音が鳴って、アプリを開く。
実写の犬のスタンプがポコンと表示されて、よろしくね、とメッセージが届く。真理愛は、よろしくお願いいたします、と可愛げのない返事を送る。そうすれば、目の前の小鳥遊の手の中でピコンと彼のスマホが鳴った。
「よし、これでOKだね」
「長い時間、お付き合いさせてしまって申し訳ありません。服の代金は今日中に送って頂ければ、帰りにコンビニで下ろしてきます」
「ならせめて、この服のクリーニング代は僕に持たせてよ。腕のいいクリーニング屋さんを知っているから、任せて欲しい」
「ですから、弁償して頂くほどのものではないんです。いっそ捨てて下さっても……」
真理愛が言い募るのを遮るようにピリリリと彼の懐でもう一台、仕事用と思われるスマホが鳴った。小鳥遊が「失礼」と一言告げて、スマホを確認する。電話だったようで、耳に当てると真理愛に背を向ける。
「もしもし…………うん、分かった。すぐに行くよ、それまでに見積書と資料の準備をお願いね。あと、会議室、一つ押さえておいて。……ああ、その件もか。……うん、うん、分かった。ならお願いするよ。じゃあ、今から戻るね」
通話を終えた小鳥遊が振り返る。
「ごめん、今すぐ行かなくちゃならなくて、大丈夫? 足は痛まない? 戻れるかい?」
心から心配そうに小鳥遊が尋ねてくる。
「本当にそこまで心配して頂くような怪我ではありませんから」
「心配なものは心配なんだよ。畠中さんって真面目だから溜め込んじゃいそうなんだもん。最近、元気がないっていうか、調子悪そうだしね」
咄嗟に言葉を詰まらせてしまう。小鳥遊の探るような眼差しから逃げるように俯く。
鉄仮面と呼ばれるほど、真理愛には表情なんてないはずなのにと動揺が走る。
「…………別に、そんなことはありません」
絞り出した声は殴りたくなるほど弱々しくて、自分でも調子が狂う。
「なら、今はそういうことにしておくよ」
おずおずと顔を上げれば、小鳥遊はなんだかとても優しい目をして真理愛を見つめていた。その眼差しに何故か心臓が、少しだけ、跳ねた気がする。
「あ、椎崎課長には事情を話してあるから、気を付けて戻ってね。やっぱりどこか痛くなったらすぐに連絡してね」
出来る男は、上司への連絡まで配慮してくれていたようだ。真理愛は、そんなことはすっかり忘れてしまっていた。
「椎崎課長への連絡を忘れていました。ありがとうございます」
「大したことじゃないよ。……それじゃあ、またあとでね、畠中さん」
小鳥遊が、意味深な笑みを浮かべて小首を傾げた。真理愛がその言葉の意味に気付くより早く再び鳴りだしたスマホを操作しながら、小鳥遊は去っていく。
その背が廊下の向こうに消えるのを呆気にとられながら見送って、はたと我に返る。
「あ、服! お財布も……!」
しかし、もうその姿はない。
やられたと額を押さえて項垂れる。服のことはあの惨状なので、いっそ捨ててくれと諦めることもできるが、お財布をショップバッグの中に入れっぱなしにしてしまった。いつもなら現金が少し入っているだけのお財布だが、金曜日の今日はスーパーで買い物をして帰ろうと思っていたから、一週間分の食費が入っているのだ。
「だから『またあとで』なのね……不覚だわ……!」
悔しがったところで時すでに遅しだ。小鳥遊の姿はもうどこにもない。
真理愛は、経理課へととぼとぼと歩きながら、隠しきれない溜息を零すのだった。