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※本日2度目の更新です。
※朝7時にプロローグ的なお話を更新しています。
経理課の鉄仮面こと畠中真理愛が、営業部の王子こと小鳥遊結弦と恋人になって早いもので三カ月が過ぎた。
今日も結弦より一足先に帰宅した真理愛は、広いキッチンで夕食の仕度をしている。今夜は、昨夜から仕込んだ肉じゃがなので、今は副菜と味噌汁を作っている。
寒い冬はいつの間にか眠りについて、春が起き出して外は随分と鮮やかで、賑やかになり始めた。
恋人ができて三カ月ということは、真理愛を苦しめたストーカー事件が解決して同じだけの時が流れたということだ。
鮫島と水原は逮捕されて、未だ取り調べの最中だ。全てを終えるまでにはまだ時間がかかるだろう。
それでもストーカーが逮捕されたことで、真理愛には平穏が戻ってきた。その上、その件をきっかけに素敵な恋人までできた。
事件のショックで、ストーカーの逮捕後に入院していた真理愛が退院した翌々日には彼によって嵌められた左手の薬指のエメラルドの指輪は、真理愛の大事な宝物だ。
春になったということは、年度が替わり、職場に新たな顔ぶれが増える時期でもあるし、何かと忙しい。それでも一緒に暮らしているのだから帰る場所は同じで、ともに夕食を囲む時間を二人は大切にしている。
結弦とはいわゆる、結婚を前提としたお付き合いなので、ビデオ通話を通して真理愛の両親には紹介してある。
父は終始呆然としていて挨拶をしただけであったが、母はそれはそれは喜んで、尚且つイケメンが大好きな母なので、画面越しとはいえ穏やかで紳士的な結弦をたいそう気に入ったようだった。
母曰く通話後も父は暫く抜け殻のように呆然としていて、現在もしょぼくれているそうだが、結弦を気に入らないとかそういうわけではなく、愛娘に突然できた彼氏という存在を消化しきれないだけ、らしい。
『だからね、きっとハリウッドの大スターでも、世界的企業のCEOでも、アラブの石油王でも反応は同じだったと思うわ』とは母の談だ。
ストーカーのことも両親には、詳細は伏せてはあるがきちんと告げた。
両親は、顔色を失くしていたが、それでも結弦が護ってくれたこと、彼と一緒にいられることが幸せなのだと告げると、少しばかりかもしれないが、安心してくれたのだ。
結弦の愛情表現は、彼が生粋の日本人であることが嘘なのではないか、彼こそ愛の国フランス生まれのフランス育ちではないかと疑ってしまうほどに熱烈で真っ直ぐだ。
結弦は、優しくて、格好良くて、紳士的で、真理愛にはもったいないくらい素敵な恋人だ。
そんな彼にも欠点が二つほどある。
一つは、月に一度、分厚い某有名結婚情報誌を必ず買ってきてリビングのテーブルに置くことだ。彼は結婚にとても前向きであるが、結弦が初めての恋人である真理愛は、まだ恋人期間を楽しみたいので、それは読まれることもなく納戸にたまっている。
経理課の鉄仮面ならためらいなく古紙回収に出すが、結弦の恋人である真理愛にはできそうにもない。
会社の先輩の日野十和子にこれは真理愛が薄情で我がままなのだろうかと不安になって打ち明けたら「そんなわけないわ。王子の愛がクソ重……ごほん、彼の気が早いだけよ」と言ってくれたので、真理愛はためらうことなく納戸にしまっている。
二つ目は、彼がやたらに真理愛に何かをプレゼントしたがるという点だ。
きちんと聞いたことはないが、営業マンの傍らこんな高級マンションのオーナーでもある結弦は、間違いなくお金持ちの部類だ。真理愛も比較的裕福な家庭で育ったほうだが、結弦は裕福というレベルではないのが分かる。
だからなのか、とにかく真理愛に何かを買い与えたがり、買い物に行くと散財ばかりするので、最近、二人で買い物に出かけるとき、結弦の財布は真理愛が自分の鞄に入れて死守している。そうでなければ、彼はすぐにクレジットカードを乱用する。
しかし、プレゼント欲が治まらないらしい結弦は、今月末の自分の誕生日、真理愛に好きなものを好きなだけ贈りたいと言い出す始末だ。なぜ誕生日の主役である結弦が真理愛にプレゼントを贈るのか。逆だと言ったのだが、プレゼントはそれがいいと言って聞かないのだ。
でも、それらだって結局は許してしまうのだろうから、惚れた腫れたは厄介だ。
「わん!」
不意にリビングでくつろいでいた結弦の愛犬・ジャスティンが声を上げた。
真理愛は火を止め、手を洗ってジャスティンと一緒に玄関へと向かう。
真理愛たちが玄関に着くと同時にガチャリとドアが開いた。
「おかえりなさい、結弦さん」
「わんわん!」
「ただいま、真理愛さん、ジャスティン」
とろりと目尻を下げて笑った結弦につられるように真理愛も笑みを浮かべ、とりあえずおかえりのキスをかわす。
「はい、お土産」
「あ、フルールのケーキ!」
差し出された白い箱を反射的に受け取る。箱の側面に印字された文字は、会社の近くにある有名なパティスリーのものだ。
散財ばかりの彼は、こうしてケーキを買ってくるのも好きだった。
真理愛だってケーキは好きだが毎日はいらないのだ。健康と体重に大変よろしくない。
ゆえに話し合った結果、毎週水曜日と二人の記念日にはケーキを買ってきてもいいということで決着した。ちなみにバレンタインでもらった薔薇の花束を真理愛が大層喜ぶと、これもまた毎日花を買ってくるようになってしまったので、自宅が花屋になる前に二週間に一度、金曜日に花束(予算三〇〇〇円まで)を買ってきてもいいという取り決めもした。
「真理愛さんの好きなミルフィーユと新作のピスタチオのやつ。好きな方でいいよ」
コートを脱ぎながら結弦が言った。ジャスティンが一生懸命、結弦のコートの匂いを嗅いでいる。
「う、そんな、選べないです」
フルールのケーキは、どれもこれも美味しい。見た目も宝石のようなフルーツやドレスのようなクリームがとても綺麗で芸術品と言っていい。新作だって絶対に美味しいと分かっているから、真理愛はいつも選べない。
ちらりと結弦を見れば、彼は愛おしそうに目を細めて笑う。
「じゃあ、半分こしようか」
いつも同じ提案をしてくれる優しい恋人に真理愛は、幸せな気持ちで「はい」と頷いた。
真理愛と結弦の日々は、こうして穏やかに過ぎていく――はずだった。
とびきり可愛らしいお姫様たちが現れるまでは。
*・*・*
「は、初めまして! 本日付で経理課に配属となりました、橋本くるみです! よ、よろしくお願いします!」
初々しい声が経理課のフロアに響き渡る。
畠中真理愛の勤める老舗文具メーカーのシュエットにも春になり、研修を終えた新入社員がやってきた。
経理課には、女の子が一人配属され、ゴールデンウィークが明けた今日、研修を終えて本社へとやってきたのだ。
まだ着慣れていないと分かるスーツ姿で、カチコチになっている姿は微笑ましい。真理愛が入社後、経理課には新入社員が配属されなかったので、真理愛にとって同課の初めての後輩であった。ちなみに教育係は、勤続十年のベテラン社員・佐藤千尋が担当することになっている。
ほかの会社は知らないがシュエットは、個性を尊重してくれる。得手不得手は誰にでもあることを当たり前のように受け入れてくれ、真理愛のようなコミュ障は立候補でもしない限り、教育係になることはない。本当にいい会社に入れた。定年退職まで確実に平穏に生きて行こう、と真理愛は顔の半分を覆う大きな眼鏡を片手で直す。
「新しい子、可愛いねぇ」
隣のデスクで、真理愛の教育係であった先輩社員の日野十和子が言った。
「ええ、可愛らしい方ですね」
真理愛は頷いて、椎崎課長の隣でカチカチの後輩に目を向ける。
橋本は、まだ少女と言っても差し支えないほどあどけない顔立ちをしていて、小柄で何だかリスみたいな可愛らしい女の子だった。
「橋本さん。私がしばらく教育係を務める佐藤千尋です。よろしくね」
佐藤はにっこりと笑って、橋本と握手を交わした。
佐藤はスポーティーな雰囲気の女性で――事実趣味はフットサルだそうだ――明るく元気な人だ。面倒見もよく、課の後輩にお姉さんのように慕われている。
「では、皆、今日もお仕事頑張ろう。それと橋本さんが、困っていたら手を貸してあげてね。橋本さんも、教育係の佐藤さんがいなくて困った時は、誰でもいいから頼るように。ここには、それを煩わしく思うようなひとはいないからね」
真理愛も四年前、椎崎課長に同じことを言われたなと感慨深くなる。橋本は、その言葉に少し肩の力が抜けたのか「はい」と元気よく頷いた。
「よし、じゃあ、まずは給湯室とか資料室とか案内するね。その後、お昼休み前にひとりひとりに挨拶しましょ。みんなー、そういうわけだから、ちゃーんと挨拶考えといてよ!」
はーいと賑やかな返事が返され、仕事が始まる。
真理愛も立ち上げたパソコンで、やりかけの仕事のファイルを開く。
バチバチとキーボードをたたく音が響くフロアで、数字を打ち込み、文字を打ち込み書類を作成し、書類に不備がないかと入念に確認する。
そうして黙々と仕事をしている間に真理愛たちのもとに、佐藤と橋本がやってきた。
「二人が最後よ。よければお昼一緒に食べましょ」
「私はいいわよー。真理愛ちゃんは?」
「よろしければご一緒させて下さい」
「じゃあ、説明がてら食堂でいい? 歩きながら自己紹介してね」
佐藤の言葉に真理愛と十和子も立ち上がる。他の社員たちも昼休憩をとりにフロアを出て行く。
ランチバッグを手に四人で廊下を歩いて行く。
「初めまして、橋本くるみです」
「初めましてー、日野十和子です。橋本さんの名前、くるみはひらがな? 漢字?」
「本当は漢字で胡桃というのですが、母の『ひらがなのほうがテストの時に楽よね』という理由で戸籍はひらがななんです」
「なるほど、理にかなってるわねぇ。可愛い名前ねぇ」
のほほんと世間話を繰り広げる十和子はさすがだなと真理愛は感心する。コミュ障で人見知りの真理愛には、難しいテクニックだ。
「次、畠中さんよ」
佐藤に促されて真理愛は背筋を正す。
「初めまして、畠中真理愛と申します」
歩きながらお辞儀をすると、橋本もぺこりと慌ててお辞儀をしてくれた。
「真理愛ちゃんは、入社四年目でうちの課だと橋本さんの一番近い先輩なの」
「…………に、似てる」
橋本がなぜかぷるぷるしだす。
十和子と佐藤、真理愛は顔を見合わせ首を傾げた。
「畠中先輩、私の推しにそっくりです!」
「「「お、推し?」」」
三人の声がハモる。
「はい! 花園のエトランゼっていう漫画があるんですけど、そこに出て来るヒロインの先輩、リュディヴィーヌ・デ・メノーシェお姉様にそっくりなんです!」
「ごめん、りゅ、りゅで、なんて?」
佐藤が聞き返す。
「リュディヴィーヌ・デ・メノーシェです! 黒髪に大きな眼鏡なんですが、すらりとしていて格好いいお姉様なんです! まさか現実世界で推しに出会えるなんて!」
推しってなんだろうと真理愛は首を傾げる。十和子が「推しって、若い子が使う言葉よね! 確か好きな人とかものって意味だったような気がする」と曖昧な情報をもたらしてくれた。
「先輩、背が高いですね」
一生懸命、首を上に向けて橋本が真理愛を見上げる。橋本は、十和子とそう背が変わらないので、百五十センチ前後だろう。今日に限って、八センチヒールを履いて来てしまったので、申し訳ない気持ちになってくる。
「すみません。今日はヒールを高いのを選んできてしまったので、橋本さん首が辛いですよね」
「いえ! 私の推しも百七十二センチなので! 推しがヒールを履いた時の妄想が捗ります! ありがとうございます! ちなみに身長とヒールは何センチですか⁉」
「はあ、どういたしまして? 身長は百七十センチ、今日のヒールは八センチです」
予想外にお礼を言われて真理愛は辛うじてそう返す。
ヒールは背筋がぴんと伸びるので、真理愛はわりと高めのものを好む。特に他の課に書類の不備や未提出書類の回収などに行く時は、気合を入れる意味でもヒールの高いものを愛用している。
「先輩、ヒールが似合って格好いいですね。私、小中高大、ずーっと運動部だったのでスニーカーになれちゃって、ヒールは苦手で……」
「分かるー。私も低めか無しのパンプスだもん。でも、畠中さんは前からだけど、日野ちゃんも最近、ヒール有りよね」
佐藤が首を傾げる。
「真理愛ちゃんの美脚の秘訣は、これかなって思って真似してるのぉ。でもね、大変だけどふくらはぎがしまるのよ!」
「え、そうだったんですか?」
「恥ずかしいから黙ってたのよぉ」
十和子が照れながら言った。
「確かに先輩、背が高いのもありますけど、腰の位置、高すぎません……?」
「ちょっとちょっと橋本ちゃん、うちの真理愛に勝手に触れないでいただけますぅ? そういうのはこの日野芸能事務所通してくださいよぅ!」
「え、私もその事務所入りたいです! マネージャーにしてください!」
十和子と橋本がじゃれ合っているのは、子猫同士が戯れているようで可愛らしい。佐藤とともにのほほんとした気持ちでそれを眺めている間に社員食堂に着く。
「今日も混んでるなぁ、あ、窓際の席開いてる」
「私、お弁当なので先に行って席を確保しておきます」
真理愛はランチバッグを掲げて見せた。十和子が「私も」と同じく頷く。
「じゃあ、お願い。橋本ちゃん、今日は入社祝いにお姉さんがランチおごったげるわ!」
「ありがとうございます!」
佐藤と橋本が賑やかに連れ立って券売機へと歩き出した。
真理愛は十和子と共に窓際のテーブル席へ行く。
「橋本ちゃん、人懐こい良い子ね。体育会系だから、佐藤ちゃんと気が合うみたいだし」
「そうですね。佐藤さんは面倒見がいいですからとくに相性がいいかもしれませんね」
そんな話をしながら二人は並んで座った。向かいの席にはお互い、ハンカチを置いて席を確保したのだった。