その8 特売ご褒美のルール
※真理愛視点→マンションのコンシェルジュ視点
「これ全部、お鍋の素なの?」
「素というか、スープですね」
ショッピングモールの食品エリアの鍋コーナーで結弦が驚きに目を丸くしながら真理愛を振り返る。
もうそろそろ春が近づいて来て鍋も終わりだが、まだずらりと様々な種類の鍋のスープが並んでいる。
先日、鍋をした時は白菜と豚バラ肉を交互に並べたミルフィーユ鍋で、お出汁で味をつけただけだったので、こういったスープは使わなかった。
料理を一切しなかった結弦は、スーパーに来るといつもはしゃいでいる。
「今日は、結弦さんの好きなのでいいですよ」
「本当? どれにしようかなぁ」
わくわくと聞こえてきそうなほど、目をキラキラさせて結弦が鍋の素を選び始める。大抵、こういうものは四人前が基本だが、結弦は、一人で三人前くらい食べるので丁度いい。
大きい店舗は、種類も豊富だ。
キムチ鍋、白菜鍋、鶏白湯鍋、塩ちゃんこ鍋、寄せ鍋といったポピュラーなものから、トマト鍋にカレー鍋という変わり種もある。
ふと、真理愛は初めて見るそれに首を傾げる。ちょいちょいと恋人の服を引っ張ると「どしたの?」と結弦が首を傾げる。
「……このあごだしって、誰の顎です? 豚? 牛? 豚骨とは違うの?」
結弦の目が真理愛が指を指した先を追って行き、そして、ふふっと笑いが零された。
「真理愛さん、あごだしって、顎じゃないよ」
ますますわけが分からない。
結弦は、片手でスマホを操作すると、その画面を見せてくれた。
「Flying fish……トビウオでとったお出汁のことだよ」
確かに結弦の言う通り、スマホの画面には翼のようにひれを広げている魚の姿がある。
「……何で、カツオはカツオ出汁なのに、トビウオはあごなんです?」
純粋に意味が分からない。
結弦も「そういえば、そうだね」と首を傾げて、スマホでささっと調べてくれる。
「諸説あるみたいだけど、顎が落ちるほど美味しいからとか、食べる時に硬くて顎を使うからとか、トビウオを前から見ると顎が出てるとからしいよ」
「なるほど……」
「日本語って時々、意味が分からないよね。なんだかあごあご言ってたら、食べたくなってきちゃった。今日は、あごだしでもいい?」
「私も気になってたので、もちろんです。何が合うんでしょう」
くるりと袋の裏を見る。
「白菜、エノキ、鶏肉に葛きり、水菜……水菜をお鍋に入れると美味しいですよね。白菜はあるから、それ以外を買いましょう」
「了解です」
傍らのカートのカゴに結弦がそれを入れる。結弦がカートを押して歩き出し、真理愛がその横にくっついていく。
「今日はお鍋として、来週の食材も買わないと。結弦さん、何が食べたいですか?」
「そうだなぁ。ねえ、真理愛さん。餃子作れる? 僕、餃子を包んでみたい」
「ふふっ、いいですよ。でも、平日だから皮は既製品を買いましょう」
「真理愛さん、皮も作れるの?」
「そんなに難しいものじゃないですから。でも平日だと大変なので、手作りの皮はまた今度にしましょうね。その時はこれでもかと作って冷凍しておきましょう」
「本当? 楽しみだなぁ」
「あっ、でも、餃子ってニンニク入れますから、どうしましょ」
「そっかぁ。営業職だからな平日のニンニクはやばいな。でも僕、ニンニクの入っていない餃子は認められない主義なんだよね」
「私もです。餃子は、ニンニクとニラとショウガはたっぷり入れないと」
真理愛は力強く頷く。結弦も「だよね」と真剣な顔で頷いてくれた。
食べ物の好みが合うのは、一緒に暮らす上でとても重要だ。結弦は、なんでもよく食べるし、特に真理愛の料理は本当によく食べるので(彼が食費を払うと言ってくれたことに安堵するくらいには)、料理のし甲斐もある。
「じゃあ、週末の楽しみにしようよ」
「がっつりニンニク食べましょうね。でも、平日のメニューが振り出しに」
「野菜食べたいなぁ、前に作ってくれた、トマト味のなんか野菜一杯入ってるやつ」
「…………分かりました、ラタトゥイユですね」
「多分、それ。違っても真理愛さんが作ってくれたら、どれもこれもごちそうだけどね」
そう言って、心底、嬉しそうに笑う恋人に真理愛は、口元が勝手に緩んでいく。カートを押す腕に抱き着いて、頬を寄せる。
「結弦さん、何でもおいしく食べてくれるから、作り甲斐がすごくあります。今週も美味しいの、いっぱい作りますからね」
「僕、真理愛さんと一緒に暮らしだして、かなりの人に『顔色が良い』『イケメンが増した』『元気がみなぎってるね』って言われるようになったよ」
「そりゃあまあ……あの食生活では」
真理愛は苦笑を零す。結弦は「あはは」と笑ってそっぽを向いた。
真理愛の脳裏には、初めて結弦宅の冷蔵庫を開けた時の衝撃がよみがえる。
新品同様の真っ新な冷蔵庫の中に綺麗に並ぶミネラルウォーター。
ミネラルウォーターしか入っていなかった冷蔵庫は、今ではたくさんの食材を収納し、今日も元気に働いてくれている。
二人であーでもない、こーでもないと話し合いながら一週間分の献立を決めて、カートの上下に装備されたカゴ二つに食材を入れていく。
これの大半が結弦さんの胃に消えていくのよねぇ、と真理愛は感心しながら、売り場をめぐっていく。
しかし、真理愛の恋人はこれだけ食べても太らない。真理愛の三倍くらい食べているのに、結弦には無駄な脂肪が見当たらない。週に二、三回、夜、階下のジムに行っているからだろうか。それとも毎朝、ジャスティンとジョギングしているからだろうか。
「真理愛さん? どうかした?」
「結弦さんが今日も格好いいなぁって思ってただけです」
「そ、そう」
真理愛が照れるようなことを平気で色々と言うくせに、真理愛が言うと照れるところがとても可愛いなぁと胸がきゅんきゅんする。
最後に冷凍コーナーにやって来る。
お弁当用におかずの冷凍品を買うことはないが、食材の冷凍品を買うのだ。カットフルーツの冷凍は、毎朝のスムージーに便利だし、冷凍パイシートもストックがない。あと、オーブンで焼くだけで焼き立てを味わえる冷凍パンも補充しなければ。
必要なものをぽいぽいっとカゴにいれていく。
「あ!」
「どうしたの?」
声を上げた真理愛に結弦が首を傾げる。真理愛は、結弦から離れてとある冷凍ケースの前に立つ。
「結弦さん、特売してます!」
カートを押しながら結弦がやってきて、冷凍ケースを覗き込む。
「ああ、真理愛さんの好きなアイス」
納得したように頷く結弦がくすくすと笑う、
お高めの値段設定のアイスは、真理愛の好物の一つだった。しかし、節約を基本としている真理愛にしてみると、そうそう手を伸ばしていい値段のものではないので、いつも特売の時に買っていたのだ。
「だって、お高いんですよ。一個、三百円近くするんですもん。でも特売の時は、二個買ってもいいと決めてるんです」
「真理愛さんが食べたいだけ買っても大丈夫な甲斐性はあるつもりなんだけどなぁ」
「そーいうことじゃないんです。特売を狙って買うから美味しいんです」
「真理愛さんの理論は、面白いね」
そう言って結弦は笑う。
根本がお金持ち思考の恋人は、特売の楽しさが今一つ分かっていないところがある。
「あ、真理愛さん、期間限定のフレーバーがあるよ」
「えっ」
真理愛の意識は一気にアイスに向けられる。
特売の日は、いつも二個買うことを真理愛は自分に赦している。それ以外は、どうしても気分が落ち込んで、しょんぼりしてしまった時に自分へのご褒美として一個買うくらいだ。
いつもこの二個の内、一個は(真理愛の中の)大好きフレーバーランキング不動の第一位・バニラと決めている。
だが、なんと今日は新作フレーバーがカップで二つ、クリスピーで一つ、全部で三つもある。しかもそのどれもが真理愛の好みを知り尽くしたかのようなラインナップだ。
「焦がしバターミルフィーユにあまおう苺のショートケーキ、黒豆きなこのクリスピー」
「全部買ったらいいのに」
「Non! 二個までというルールなんです。あんまり自分を甘やかしちゃダメです」
真理愛は顔の前で指でバッテンを作る。
結弦は「そうなのかぁ」とぽやぽやと笑うと「じゃあ、今のところの一番は?」と真理愛の大好きなバニラ味をカゴに入れながら尋ねてくる。
「ええと……うーん、ショートケーキ」
「じゃあ、これとこれとこれ」
そう言って結局、結弦は三種ともカゴに入れた。
「結弦さん!」
「この二個は、僕の。だから一緒に食べる時に、半分こしようよ」
「……ほんと?」
「本当。お風呂上りに半分こ。ね?」
そう言って、結弦は優しく笑ってウィンクを一つ。
真理愛は、嬉しくなって結弦に抱き着く。
「Merci! Je t’aime!」
大きな手が甘やかすようにぽんぽんと頭を撫でてくれる。
それがたまらなく心地よくてすり寄ると、ちゅっとおでこにキスされる。
「僕も愛してるよ。ほら、早くお会計して車に行こう。アイス溶けちゃうよ」
「あっ、そうですね! 早く行きましょ、結弦さん」
「はいはい」
ふふっと笑って歩き出した恋人の隣に再びぴったりくっついて歩き出す。
ご機嫌に鼻歌を口ずさむ真理愛は、隣の恋人が頬の内側を噛んで「僕の恋人可愛すぎて有罪!」と叫ばないようにしているなんて、知らないままだった。
「おかえりなさいませ」
帰ってきた住人に声を掛ければ、壮年の夫婦はおっとりと頭を下げ「ただいま」と柔らかな声で返してくれた。
高級マンションのコンシェルジュというのが、馬渕の仕事だ。
マンションのコンシェルジュの仕事は多岐にわたる。
基本的に九時から十七時は、男女ペアで二人体制だ。夜勤は、一人体制だが防犯面から基本的に男が担当している。ここが金銭に余裕のある高級マンションであるが故の対策だ。
建物の管理はもちろんのこと、宅配の受け取りや手配、共用施設(上階のジムやプール、会議室など)の予約受付、タクシーの手配や来客の対応、他にもベビーシッターやハウスクリーニング業者の紹介や手配にと様々だ。
日々、暮らす上での細かな雑務を請け負う仕事でもある。
このマンションは、小鳥遊結弦という若い男性がオーナーだ。最上階を丸々ワンフロア、住居として使用しているが、家賃収入だけで暮らせるだろうに会社員として働いている。
背の高いイケメンだが穏やかで、人当たりが良く、馬渕たちコンシェルジュ(二十四時間勤務なので、数人のスタッフがいる)に何か頼むときも、お礼を忘れない優しい人だ。なので、コンシェルジュ皆に好かれている。
その彼が、初めて恋人を連れてきたのは、昨年の暮れのことだった。
ミルクティー色の髪に紫の瞳の、一度見たら忘れられない美女だ。名前を畠中真理愛という。フランスとのハーフだそうだ。
真理愛は、その美しさゆえにストーカー被害に遭っていて、結弦が万全のセキュリティを誇る我が家へ連れてきた。
結弦は、それはそれは、お姫様のように恋人を大事にしていて、馬渕たちにも「真理愛さんが困っていたら何はともあれ知恵を貸してほしい」と頼まれているほどだ。
その真理愛も、結弦と同じで礼儀正しく優しい人だ。美しい見た目を隠すために鉄仮面スタイル(と結弦が呼んでいる)で出社している時は別人のようだが、挨拶を欠かさずしてくれる。
それに何より、この数か月で見違えるほど結弦が幸せそうにしているし、とても健康的になった。料理上手な真理愛のおかげで、エネルギーが満ち溢れている。イケメンレベルが爆上がりともっぱら(コンシェルジュと当マンションの住人の間で)の噂だ。
ちなみに優しい真理愛は、時折、コンシェルジュたちに「差し入れです」と手製のお菓子をくれる。それは仁義なき争奪戦の幕開けでもあり、その日、シフトに入っていなかった奴は、地団太を踏むほどには美味しい。
ウィーンと自動ドアの開く音がして顔を上げれば、仲睦まじげに腕を組んで結弦と真理愛が愛犬・ジャスティンの散歩から帰ってきたところだった。
「おかえりなさいませ」
「ただいま」
「ただいま戻りました」
「わん!」
三者三様の返事が返される。
結弦たちは、そのままカウンターにやってくる。
「今日は、変わったことはなかった?」
結弦は、出来る限り一日に一度、こうしてコンシェルジュたちに尋ねて来る。
「ええ、もちろんです。ああ、そうだ。本日は、畠中様にお手紙をお預かりしていますよ」
当マンションのサービスで、郵便物は一度、コンシェルジュが全て受け取り、住人しか入れないエレベーターホールにある各部屋のポストに入れている。直接ポストに投函されるタイプのダイレクトメールを阻止する役割もあるし、無記名の不信な郵便物をはじく目的もある。お金があるところには変な奴が湧くのだ。
このエアメールは、先ほど、結弦たちが散歩に出かけて入れ違いで届いたものだ。直接渡そうと思い、ポストには入れていなかった。ストーカーの件があるため、結弦はとくに真理愛宛ての郵便物には敏感なのだ。
馬渕は、カウンターの下からそれを取り出して真理愛に差し出す。訝しんでいた真理愛は、送り主の名前に目をやると嬉しそうに顔を輝かせた。
縁が赤と青の島縞模様のエアメールだ。
「リタからだわ!」
「リタ……真理愛さんの親友の?」
「そうです。彼女、デザイナー兼画家で、ロスを拠点にしてるの」
「なんだかすごいね」
結弦の感想に馬渕も全面同意だった。ロスにいるというだけで、おしゃれだし、なんかすごい。
「ふふっ、きっと絵手紙ですよ。いつも春夏秋冬、一枚ずつ送って来てくれるの。今回は春の分です」
嬉しそうに笑う真理愛を結弦が、黒糖とミルクチョコレートとはちみつを煮詰めたような甘い眼差しで見つめている。
幸せそうだなぁ、俺も恋人がほしいなぁと思ってしまうくらいには、甘ったるく幸福に満ち溢れている。
「きゅんきゅーん」
ふと足元でいい子におすわりしていたジャスティンが鳴いた。
「ジャスティンくん、お散歩のあとのおやつがほしいみたい」
「しょうがないなぁ、ジャスティンは食いしん坊だね」
二人の手が交互にジャスティンの頭を撫でた。
「じゃあ、また何かあったら遠慮なく言ってくれ。よろしく頼むね」
「お疲れ様です」
二人は馬渕にそう声をかけて、エレベーターホールへ歩き出す。
「今夜のあごだしのお鍋、しめはうどんがいいなぁ」
「でも、ご飯で雑炊も捨てがたいですよ」
そんな会話が漏れ聞こえて来る。
今日のオーナーも幸せそうで何よりだ。馬渕は、うんうんと頷きながら、掛かってきた電話に手を伸ばすのだった。
おしまい
『鉄仮面のマリア』これにて一旦、完結とさせていただきます。
約一カ月に渡る連載、楽しんでいただけたでけたとしたら、幸いです。
またいつか続編をお届けできればとは思っております。
ここまでお付き合い下さり、本当にありがとうございました!
心からの感謝を込めて
春志乃