その6 初めてのバレンタイン・デイ 後編
結弦は、鼻歌交じりにデスクの上を片付けて帰り支度をする。
真理愛は既に定時で帰宅していると連絡が来ているので、今頃、夕食の仕度をしてくれているだろう。
「ご機嫌だなぁ、小鳥遊」
隣のデスクの先輩社員・城嶋が恨めしげな視線を寄越す。先月、彼女にフラれたらしく、バレンタインの今日は朝からずっといじけている。
「そりゃあ、家に帰ったら恋人が僕に夕飯とチョコレート作って待っててくれているので」
自分でも緩み切ったと分かる顔で結弦は告げる。
「うわぁぁあん、イケメン有罪だぁぁ!」
ぽかりと形ばかり肩を殴られた。多分、本気で殴られても今の浮かれ切った結弦は痛くもかゆくもなかったかもしれない。
「お前、今が昭和だったらパワハラ独身上司に飲みに連れて行かれてるからな!」
「今が令和でよかったです。ほら、帰りますよ」
城嶋の背中を押すようにして廊下へ出る。
城嶋は結弦がもっとも信頼する先輩だ。結弦の溺愛する恋人が、経理課の畠中真理愛だと結弦の周りで知っているのは彼と上司の翠川部長だけだ。
更衣室によってお互いにコートを着込みマフラーを巻く。
「……それも彼女からだろ」
「器用ですよね。横で見てたんですけど、魔法みたいでした」
結弦は首に巻いた黒、グレー、紺色のストライプのマフラーを指先で撫でた。
ストーカー事件が解決する前から編んでいたものは、まさかのジャスティンのセーターだったので、結弦が僕も欲しいとねだった結果、真理愛はすいすいっとこのマフラーを編んでくれたのだ。
「今度、サマーセーターかカーディガン編んでもらうんです。お返しはティ〇ァニーのネックレスでいいですかね」
「等価交換って知ってるか? キャバ嬢のバレンタインじゃん」
「ちょっと何言ってるか分からないですね」
そんな軽口をたたきながらエレベーターを目指して歩いて行く。
「城嶋さん、今日乗っていきます?」
「ラッキー、乗ってく。今朝、寒すぎてバイクで来るの諦めたんだよ」
結弦の帰り道の途中に城嶋のマンションがあるので、時折、時間が合えばこうして乗せていくこともある。普段、彼はバイク通勤なのだが、九州出身の先輩は寒さにめっぽう弱いのだ。
「そういや、この間のアミューズメントパークのイベントの件だけどさ」
「それなら前山が」
仕事の話をしながら廊下を進み、エレベーターに乗り込む。
ほとんどが一階で折りていくので、鉄の箱の中には結弦と城嶋の他は、男性社員が二人だけだった。
車に乗り込み、エンジンをかけて駐車場を出る。
城嶋のマンションへ向かい、いつものマンション近くのコンビニで下ろす。
「んじゃあ、また明日。ありがとな」
コンビニへ夕食を調達しに行く背を見送って、結弦は次に花屋へと向かう。
花屋の店の前に一台分だけの駐車場が開いていたので、そこに車を停める。
アンティーク調の雰囲気が心地よい花屋は、最近の結弦の行き付けだ。オーソドックスな花から、他では見ないような色合いの花も多種多様に取り揃えられている。ここのオーナーが農場に直接買い付けにいっているからこその品ぞろえだ。あと、花束やアレンジメントのセンスもいい。
「あ、小鳥遊様、いらっしゃいませ。ご予約の品、お持ちしますね」
黒縁の眼鏡をかけた結弦と同い年くらいの男性――ここのオーナーだ――が、結弦に気づいて会釈をすると店の奥に行き、細長い黒い紙箱を持って戻ってきた。
結弦もレジカウンターの方へ移動して、差し出されたそれを確認する。
黒い紙製の箱の中には、花束が納められている。
美しい深紅の大輪の薔薇が一輪、薄紫の紙に包まれて、ゴールドのリボンが掛けられている。
「知り合いの薔薇農家に直接買い付けにいって、私が一番、美しいと思ったものを選ばせて頂きました」
オーナーが言う通り、深い深い深紅の花弁は、ベルベットのように滑らかで、青々とした葉や茎がその赤を引き立てている。甘く柔らかな香りが箱を開けた瞬間、ふわりと香り、いまだ鼻先を撫でている。
「うん、すごく綺麗です。ありがとうございます」
「いえ、小鳥遊様には、こちらこそいつもお世話になっておりますから」
そう言ってオーナーは、ほっとしたように表情を緩めると箱に蓋をして、白に金ぶちのリボンをかけてくれた。
代金を支払い、紙袋に入れられたそれを受け取る。
「ではまた」
「ありがとうございました」
オーナーに見送らて、花屋を後にし車へ戻る。助手席に花を乗せて、運転席へ乗り込む。
「これでよし」
結弦はスマホを取り出して、真理愛にあと少しで帰るよと連絡を入れる。了解のスタンプが返って来たのを確認して、我が家へと愛車を走らせるのだった。
夕食は、美味しい美味しいカレーだった。バレンタインなので、隠し味にチョコレートが入っていたらしい。いつも通り美味しかったが、そういわれるとより一層美味しかった気がした。
結弦は、ダイニングのテーブルについたまま、その時がくるのを今か今かと待っていた。
部屋の中一杯に甘いチョコレートの香りが充満している。
真理愛は、キッチンで結弦へのチョコレートの準備をしてくれている。その背中を見つめる結弦の顔には、きっとしまりが一切ないだろう。
愛犬は、真理愛からのバレンタイン特別ご飯を貰い、満腹になったのかリビングのラグの上でのびのび寝ているようだ。ソファの向こうに後ろ足と尻尾だけ見える。
ダイニングテーブルは四人掛けなので、結弦の隣の席には例の薔薇の花束が準備してある。喜んでくれるだろうか、と隣にちらりと視線を向けて口元を緩ませる。
パタパタとスリッパの音がして、真理愛がトレーを手にこちらにやってくる。
「結弦さん、あの、はい、どうぞ」
緊張しているのか頬を赤くして、もじもじしながら真理愛が結弦の目の前に淡い桜色の皿を置いた。
バレンタインにぴったりの桜色の丸皿は、真理愛の部屋から持ってきたものの一枚だ。このお皿でデザートを食べると格段に美味しいのだと前に教えてくれた。
そのお皿の中央に円柱形のパウダーシュガーをまとったチョコレートケーキが乗っていて、隣にバニラとチョコのアイスが添えられ、ミントの葉っぱがあしらわれている。皿の縁には赤いベリー系のソースでハートが描かれていた。
「すごい、お店で出てきそうだね」
結弦は、卓越したテクニックでスマートフォンのカメラで記念撮影をし、真理愛が用意してくれたナイフとフォークを手に取る。
「これがフォンダンショコラ」
そっとフォークで押さえてナイフを入れ、縦半分に割るととろりとチョコレートが溶け出す。
「うわっ、すごい!」
「アイスと一緒に食べると美味しいですよ」
真理愛のアドバイスに従って、結弦はフォークの上にケーキのかけらとバニラアイスを乗せて口へと運ぶ。
熱いチョコレートを包むようにバニラアイスの冷たさを感じる。ほろ苦く濃厚なチョコレートと甘くまろやかなバニラアイスのハーモニーが口いっぱいに広がる。
「……お、おいしい……っ」
感動に口元を押さえると心配そうに見つめていた真理愛が、ほっとしたように顔を綻ばせて、向かいの席、彼女の定位置に腰を下ろした。
「美味しい、凄く美味しいよ、真理愛さん。今まで食べたどんなチョコレートよりも美味しい」
「は、はやく食べないと、美味しくなくなっちゃいますよっ」
白い首筋まで真っ赤にして、真理愛がいった。真っ赤な顔を見られたくないのか、テーブルの上に乗せた両腕につっぷして、顔を隠されてしまった。
ミルクティー色の髪と可愛いつむじを眺めながら、結弦はひと口、一口、味わうように食べ進める。
ラズベリーが主体のベリーソースは甘酸っぱい風味が甘いチョコレートとアイスに最高によく合っている。何よりソースがハート模様なのが、とてつもなく幸せだ。
「……うっ、あとひと口でなくなってしまう」
大事に大事に食べても、小さなフォンダンショコラのケーキがなくなるのはあっという間だ。最後のひと口をフォークに乗せて、口へと運んだ。
「はぁ、美味しかった。こんなに幸せなバレンタインは産まれて初めてだよ。真理愛さん、ありがとう」
「……どういたしまして」
そろそろと顔を上げた真理愛が、腕に顔を乗せたまま気恥ずかしそうに笑った。
その笑顔があまりに綺麗すぎて、ドキドキする。僕は、こんなにも美しい人の恋人にしてもらえたんだと実感するたびに、結弦は幸せ過ぎて、たまらない気持ちになる。
「真理愛さん。実は僕からも君にバレンタインの贈り物があるんだ」
きょとんとして首を傾げた真理愛に結弦は、隣の席に置いてあった紙袋の中から箱を取り出して真理愛に差し出した。
躊躇いがちに受け取った真理愛が、箱をテーブルに置き、丁寧にリボンを外す。
「……あ」
蓋を持ち上げた真理愛の口から小さな呟きが落ちる。
細く華奢な指がそっと一輪だけの薔薇の花束を箱から取り出す。
「綺麗……それにとてもいい匂い」
うっとりと真理愛が呟く。
「君のご両親を見習おうと思って、来年も僕は君にこうして一輪の赤い薔薇を贈るよ」
「もう来年の話?」
くすくすと真理愛が零す笑い声が、結弦の心のやわらかいところを撫でていく。
「うん。来年も再来年も、僕と君がおじいちゃんとおばあちゃんになってもずっと」
真理愛は虚を突かれたような顔になった後、ふわりと花が咲くように笑う。
ああ、やっぱり綺麗だなとその微笑みにつられるように結弦も笑みを零す。
「なら、私も来年も再来年も、おじいちゃんとおばあちゃんになっても、ずっと、ずっと結弦さんにフォンダンショコラを焼かなきゃ」
鈴を転がしたような声が紡ぐ言葉のなんと愛おしいことか。
「なら、絶対にどこかにハートを忍ばせて、今日のベリーソースみたいに」
「結弦さん、ハート形が好きなの?」
「君がくれるハートに意味があるんだよ」
「ふふっ、子どもみたい」
彼女の口元に添えられた左手で、エメラルドがきらきらと輝いている。
でも、その向こうでどんな宝石よりも美しい紫の瞳がきらきらと輝ている。菫の花を思わせるその可憐な色が何より好きだ。
「ねえ、結弦さん、お花、飾ってきてもいいですか? 萎れちゃったら大変だもの」
「うん、僕もお皿を片付けておくよ」
「じゃあ行ってきます。あの、結弦さん、お花、ありがとうございます。とても嬉しいです、えっと、それと……」
「ん?」
花束を手に立ち上がった真理愛に呼び止められて、中途半端に立ち上がった姿勢で止まる。
「……Merci de m'avoir choisie. Je t'aime et je t'aimerai pour toujours.」
はにかんだように微笑んで、やや早口に告げられた言葉は異国のもので、勉強中の結弦では全てを正確に聞き取れない。
「まっ、ちょっ、真理愛さん! 待って、今なんて言ったの⁉ ジュテームって言った⁉」
「が、頑張ってお勉強して下さーい」
そう言うが早いか真っ赤になった真理愛が逃げていく。
追いかけようにも焦ると椅子に阻まれて立ち上がれず、結弦は両手で顔を覆って再び椅子に座り込む。
「くそっ、何で僕はフランス人じゃないんだ!」
そう叫んでテーブルに突っ伏す結弦の耳に廊下から愛しい人の軽やかな笑い声が聞こえた気がした。
おわり