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その5 初めてのバレンタイン・デイ 前編

お早めのバレンタインをおとどけです。



 甘い甘いミルクチョコレート、ほろ苦いビターチョコレート、まろやかなホワイトチョコレートにちょっとお高いルビーチョコレート。

 真理愛は、ソファに座ってレシピ本のページをめくる。このレシピ本は、フランスで買ったものなので、全部フランス語で真理愛にとっては読みやすい一冊だった。

 フランス人にとってチョコレートは日常に欠かせないものだ。祖母の家にも必ず常備してある。フランス人が日常的に好むのは、カカオの含有量が七〇から九十九パーセントの苦めのものだ。だからこそ、毎日食べても飽きないのかもしれない。

 真理愛も仕事の合間に、かならずチョコレートを一つ食べている。最近は日本でもカカオ含有量の高いものが多いので重宝している。


「でも、結弦さんは甘い方が好きだしなぁ」


 怜悧な美貌とは裏腹に結弦は甘いものが大好きだ。真理愛が好む苦めのチョコレートは苦手らしく、一度食べてから欲しいと言わなくなった。

 フランスではバレンタインは男性が女性に薔薇の花を贈る日だが、日本はお菓子メーカーの策略(昔、父方の伯母に教わった)とかで女性が男性にチョコを贈るところが面白い。真理愛は何かを作るのが好きなので、迷うことなく日本式を選択した。

 ちなみに結弦は現在、入浴中だ。風呂好きの結弦の風呂は長いので、いつも真理愛が先に入浴を済ませることが多い。


「特別なの、作りたいなぁ。あ、ジャスティンくんにもあげるからね」


 真理愛はレシピ本をめくりながら、ぽつりと零す。ふと足元で寝ていたジャスティンを目が合ってそう告げる。愛犬は、嬉しそうに尻尾を振るとまた気持ちよさそうに眠り始めた。犬はチョコレートは絶対ダメなので、同じ茶色でお肉にしようと思っている。

 自分に恋人ができるなんて、考えたこともなかった。

 両親がいくつになっても仲が良くラブラブ夫婦なので、自分にもそんな相手がいればと思ったことがないと言えば嘘になる。でも、その憧れ以上に男性に対する恐怖が上回って、恋人や結婚なんて諦めていた。

だから、漫画や小説の中の好きな人を想って作るバレンタインは、関係ない話だと思っていたのに、今はこうして大好きな彼を思いながらレシピ本をめくるという幸せに浸っている。人生とは何があるか分からないものだ。


「真理愛さん、何見てるの?」


 低く甘やかな声が降って来て影が差す。首をひねるように上を見れば、こちらを覗き込む結弦の顔があった。


「……バ、バレンタイン、悩んでいたんです」


 真理愛の返答に結弦は、嬉しそうに顔を綻ばせた。

 黒のパジャマ姿の結弦は、真理愛の隣にぴたりと張り付くように座る。彼はリビングにいる時はこうしてずっと真理愛にくっついている。

 長い腕が真理愛の肩を抱くように回されて、真理愛の右手の代わりに結弦の大きな手がレシピ本を持つ。隙間なくくっつく姿勢は、ドキドキするが安心もする。同じボディソープの香りがするのが、くすぐったい。


「……英語、じゃないな。フランス語?」


「はい。向こうで買ったやつです」


「日常会話なら辞書ありきでわかるけど、まだこういうのは分からないなぁ」


 左手で顎を撫でながら結弦がレシピ本を覗き込む。

 なんだかよくわからないが、真理愛がフランス語を話すとはしゃぐ年上の恋人は、最近、フランス語を勉強し始めたのだ。


「結弦さんは、何が良いとかありますか?」


「そうだなぁ。ちょっと見せて」


 結弦は真理愛を腕の中に囲ったまま、読めなくても写真があるので、パラパラとレシピ本をめくる。

 真理愛と結弦の勤める会社・シュエットで王子と呼ばれる結弦はバレンタインを一切受け取らないことで有名だった。入社一年目に色々とあったため(十和子談)、義理も本命も、既製品だろうが手作りだろうが一切受け取らないことで有名だった。だが、真理愛の食事をこよなく愛する恋人だったので、真理愛は勇気を出して聞いてみた。


『バレンタインなんですが、チョコレートを贈ってもいい』


『もちろんだよ! ありがとう!』


 質問は途中で遮られ、まだ渡してもいないのに満面の笑みで結弦は頷いてくれた。なので、もう一つ勇気を出して真理愛は尋ねた。


『バレンタインのチョコ、手作りしてもいいですか?』


 その問いに結弦は、一瞬真顔になったあと、キラッキラッと顔を輝かせた。真理愛には、結弦にジャスティンと同じ三角の耳と尻尾が見え、その尻尾をははち切れそうなほど左右にぶんぶんと揺れていた。


『もちろんだよ!』


 ぎゅうと抱き締められて頬擦りされたのは記憶に新しい。ご褒美を前にはしゃぐジャスティンそっくりで、思い出す度にちょっと笑ってしまうのは内緒だ。


「ねえ、これはなに? 中身が出てるけど、中は生焼けなの?」


 結弦が指を指した先を辿る。


「これは、Mi cuit au chocolat……ええと、日本だとフォンダンショコラっていうのが一般的ですね」


「フォンダンショコラ」


「はい。中にチョコレートのガナッシュを入れて焼くんです。なので、焼き立てを二つにわると、溶けたチョコレートがこうしてとろりと出て来るんです」


 真理愛の説明を興味深そうに聞きながら、結弦はじっと写真を見ている。


「……これがいいですか?」


「作れるの? 難しそうじゃない?」


「作れますよ。これなら、お仕事から帰ってきたら作って冷蔵庫に入れておいて、デザートを食べる時に焼けばいいだけですから」


 今年のバレンタインは平日だ。お休みの日にするかと聞いたが、こういうのは当日が大事だと言われた。


「なら、これがいいな。食べてみたい」


「分かりました。美味しいの作ります」


「ふふっ、ありがとう」


 こめかみに触れるだけのキスが落とされる。くすぐったくて首を竦めると、足元でジャスティンが起き上がりレシピ本の下から鼻先を出してくる。


「結弦さん、ジャスティンくんが寂しいって」


「しょうがないなぁ、ジャスティンは大きくなっても甘えん坊だから」


 そう口で言いながら、彼の顔は緩んでいる。レシピ本を閉じてテーブルの上に置き、結弦の大きな手がわしゃわしゃとジャスティンを撫でた。ジャスティンが、嬉しそうにきゅんきゅんと鼻を鳴らす。


「ねえ、結弦さん」


「なぁに? 真理愛さん」


「結弦さんの入社一年目のバレンタイン、何があったか聞いてもいいですか?」


 ジャスティンを撫でていた大きな手がぴたりと止まった。困ったように眉を下げた結弦と目が合う。


「十和子さんに聞かなかったの?」


「結弦さんから聞きたかったから。でも、思い出しくないとか、話したくないなら、今度、十和子さんに聞きますよ」


「いや、嫌だったとか大変だった気持ちは確かにあるんだけど、それ以上に情けなくてさ」


 そう言って結弦はソファの背凭れに寄りかかる。再び肩を抱かれた真理愛も同じように背凭れに寄りかかる。


「入社一年目って言ってもバレンタインの頃には仕事にも会社にも慣れてるでしょ? だから油断してたんだよ……もう学生じゃないしっていう気の緩みもあった」


「学生のころもすごそう」


「大学はそうでもなかったよ。ほら、クラスっていうくくりはないし、当日が平日の日は授業さぼって正人と遊びに行って逃げたし、中高は男子校だったから、正人を囮にして僕は裏門から逃げた。小学校は逃げられなかったんだけど……まあ、御影がなんとかしてくれたし」


 遠い目をして結弦が過去を回想している。

 真理愛も鉄仮面になる前の高校時代は、女子高だというのに男性からの贈り物が絶えず、加えて見知らぬ女性からの嫌がらせ的な贈り物も時折あって、参った物だった。そういったものは全部父に渡すように父に言われていたので、真理愛は開けることもせずに父に預けていた。その後のことは知らない。


「だから油断してたんだよ。社会人だってことに……朝、出勤した時にはもう、デスクの上がチョコの山だった。城嶋先輩は記念にスマホで写真撮ってたよ」


 ははっと乾いた笑いを結弦が零す。


「総務に行って段ボールもらってとりあえず、段ボールに入れて片隅に置かせてもらって仕事してたんだけど、昼休憩から戻ったらまた同じだけ山があって、もう一度、総務に行って段ボールもらって……会社でもらっちゃったものだから、さすがに配るわけにもいかないでしょ?」


「……確かに」


「気づくと増えてるから、帰る頃には紙袋ふたつ分増えて、さっさと帰ろうと思って二箱抱えて帰ろうとしたら、城嶋さんが手伝ってくれて、それとは別に紙袋に入ってたそれを持ってくれたんだ。でも廊下に出たら……いわゆる本命アタックの積極的な女性たちが次から次に現れて……僕たちは非常階段へ逃げたんだ。でも、その情報がすぐに回って、出待ちされてて、しかもそこで喧嘩が始まってて、とんできたチョコレートの箱が僕の手に当たって段ボールが落ちそうになったんだ。慌てて抱え直したら、階段踏み外して落ちたんだよ」


「怪我したんです?」


 真理愛は慌ててぺたぺたと結弦の体に触れる。結弦は「何年も前のことだから大丈夫だよ」と笑うと真理愛の頭にこてんと頭を預けてきた。


「ちょっと足をくじいたけど、すぐに治ったし。でもわりと大惨事だったから、翌年から僕は一切受け取らない、デスクに置いてあったとしても遺失物として警察に届けるという旨を告知してもらった。総務のお知らせメールで」


 スケールが大きいなと真理愛はぱちぱちと瞬きを繰り返した。「王子も大変だったのよ」と話してくれた十和子が同情的な顔をしていたのもうなずける。


「……変なこと話させてごめんなさい」


「謝るようなことじゃないよ。真理愛さんは悪くないし、今年は真理愛さんのおかげで人生二十八年目にしてバレンタインが初めて楽しみだよ」


 本当に心から嬉しそうに結弦が笑うから真理愛は、甘えたくなって彼の首元にすり寄った。割と筋肉質な彼は体温が高めで、冬はくっついていると快適だ。


「……真理愛さんは、今まで誰かにあげたことある?」


 頭をくっつけたまま結弦が喋るから、結弦の声が直接響く。そのちょっと拗ねた声に真理愛は、ちょっとだけ悪戯心が沸いてしまう。


「日本に来てからですけど、ありますよ」


「え! 誰、あ、いや、その過去のことだし……」


 苦悩しだした結弦に真理愛は、耐えきれなくなって笑ってしまう。


「ふふっ、パパと親友のリタにですけど」


 そう答えると結弦がほっとしたように息を吐き出した。もう、とこぼす結弦に抱き締められる。


「真理愛さん、意地悪だ」


「だって結弦さん、フランスの勉強をしているんでしょう? あっちじゃ女性から贈るなんてことないもの」


「欧米はそうだって聞いてるけど、本当にないの?」


「ないですよ。男性が恋人か妻に赤い薔薇を一輪贈るだけ。母親や娘にだってないんです。それにお返しする日、ええとホワイトデー的な日もないですよ。フランスのバレンタインの日は、お花屋さんに男性がずらーっと並んでいるんです」


「チョコは?」


「んー、フランス人はチョコが好きですから日常的に食べているので、バレンタインにわざわざってことはあまりないかもですね。あっちは香水を愛用する人が多いので、薔薇と一緒に香水を贈ったりはしますけど。だから、日本に来てびっくりしたんですよ。ママも驚いてましたけど、今では両親はチョコと薔薇を贈り合っていますよ。私も友チョコ交換をするのは楽しかったです」


「なるほど」


 結弦が頷いたタイミングで、ジャスティンが「話は終わった?」と言わんばかりに二人の膝の上に横たわるようにのっかってくる。


「ジャスティンくんったら、本当に甘えん坊さん」


 真理愛はふふっと笑ってジャスティンの背中を撫でる。大きな背中に太い足、割りと強面なのだが、公園に行けば人懐こく優しい愛犬は人気者だ。


「ジャスティン、今は僕が真理愛さんとイチャイチャする時間なんだよ。君は僕がお風呂に入っている間にイチャイチャしてたんだろ」


 結弦が拗ねたように言って膝の上の愛犬の尻をつついたが、ジャスティンは素知らぬ顔をしている。


「ふふっ」


 愛犬と喧嘩する結弦に真理愛は、やっぱり笑いを抑えきれなくて、じとりと睨まれてもやっぱり、ふふっと笑ってしまうのだった。


後編に続く

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