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真理愛は、今日は仏滅だったかしらと心の中で嘆息した。
考えてみれば、今日は朝からついていなかった。
まず、いつも朝五時に鳴るようにしているアラームをセットし忘れ、起きたらいつもより二時間も遅い七時だった。
年末ということで連日忙しく、残業も多かったから疲れがたまっていたのもあるが、あの白い手紙が何時まで経ってもポストに居座り続けているのが地味に精神を消耗させていた。もう三週間になり、今も尚、真理愛のポストにだけ毎日、毎日、必ず入っている。加えて三日前の火曜日からは朝も入るようになったのだ。しかも、その日は残業で終電ギリギリになったのだが、駅から誰かに後をつけられたような気がして怖かった。
翌日は、眼鏡と前髪で隠れていても、よほど酷い顔をしていたのか、隣の席の先輩や椎崎課長、果ては廊下ですれ違った小鳥遊にまで心配されてしまった。何でもないです、大丈夫ですとやり過ごしたが、皆、腑に落ちないような顔をしていた。特に小鳥遊は絶対に納得していないだろうことは察せられたが、相手にする余裕が真理愛にはなかった。
少しずつ、少しずつ、追い詰められて昨夜はなかなか寝付けず、結局、金曜日の今日、ばっちり寝坊してしまったのだ。おそらく、今日が仕事納めということで気も緩んでいたのだろう。
寝坊したせいで、お弁当を作る暇もなく、身支度だけして家を出た。遅刻をギリギリ回避できる時間の電車に間に合ったと思ったら路線のトラブルで会社の最寄り駅一つ前で降りる羽目になった。就業時間には間に合ったが朝一番で面倒な仕事を割り振られ、伝票はどうしても計算が合わず、二時間も費やしてしまい仕事が停滞した。
そして、現在、お弁当がないため、滅多に訪れない社員食堂で昼食をとっていた真理愛の膝の上には、テーブルから滴るカレーうどんの汁が水溜まりを作り、そこから膝やふくらはぎへとちろちろと伝い落ち、パンプスやどんぶりの破片が散らばった床へも広がっていく。グレーチェックのスカートやストッキングにじわじわとしみて来るそれが、熱々の出来立てではなく食べ終わったあとで冷めていたことだけが不幸中の幸いだと妙に冷静な頭で考えた。
「きゃー、小鳥遊さーん、ごめんなさぁい。あたしがぶつかっちゃったからぁ!」
ばっちりメイクの女が、媚びるよう甘ったるい声を上げる。ピンク色のネイルが施された手を大袈裟に顔の前で振りながら、カレーうどんを被った真理愛ではなく、かけてしまった小鳥遊に謝る。
周りにいる似たり寄ったりの女性社員もカレーを被った真理愛ではなく、寄って集って小鳥遊を心配している。ピンクネイルの女――水原姫奈は、真理愛の同期で、人事部の所属だった。生きる世界が違うタイプの人間なので関りはないが。
「僕は別にいいんだよっ。それより、畠中さん、ごめん! だ、大丈夫かい?」
低く甘やかな声は焦燥も露わで、取り出された紺色のハンカチが、真理愛に触れることを躊躇い、彷徨っている。こういうところが紳士だな、と他人事のように感心した。
真理愛は、テーブルの上にあった自分のハンカチに手を伸ばし、とりあえずブラウスに飛んだ飛沫を拭ってみた。だが、当たり前のようにそんなことでどうにかなるような惨状ではなかった。
「雑巾とバケツ、あれば要らない段ボールか新聞、それとスリッパを借りてきていただけますか?」
真理愛は、ハンカチを彷徨わせていた彼を見上げて淡々と告げた。
小鳥遊は端正な顔を困惑と焦りと罪悪感をありありと浮かびあがらせていたが、真理愛が余りにも冷静だったからか、ぱちりと目を瞬かせると、ほんの少し冷静さを取り戻して「分かった」と頷いて去っていく。
小鳥遊を囲んでいた女性社員は、真理愛を一瞥すると「待って下さぁい、手伝いますぅ」と言いながら小鳥遊を追いかけていく。
真理愛には、謝罪しようという気がさらさらないのが見て取れる。ここまでくるといっそ清々しいほどだ。
周りがひそひそと話す声が聞こえる。
「流石、経理課の鉄仮面。こんな時でも表情一つ変わんねえのな」
「なんかロボットみたい。小鳥遊さん、災難ね」
「鉄仮面のことだから請求書とか寄越しそうだよな」
「小鳥遊さん、可哀想」
災難なのも、可哀想なのもこっちよ、と眼鏡の下で真理愛は目を細める。騒ぎに気付いた食堂のおばさんがおしぼりを何本か持ってきてくれた。お礼を言ってそれを受け取り、とりあえずスカートと足、パンプスを拭いて、誰にも聞こえないようにため息を零しながら小鳥遊が戻って来るのを待つ。
寝坊してお弁当を忘れてしまったがためにこんな災難に見舞われるなんて、最悪としか言いようがない。注文したオムライスだって半分も食べていないのに、割れたどんぶりの破片がトッピングされている。さすがに危ないので食べられない。
ちりり、とした痛みが走ってその先をみれば、どんぶりの破片が掠めたのか右脚のふくらはぎに三センチほどの切り傷が出できて、ストッキングが伝線していた。このストッキング、高かったのに、とまた心がしぼんだ。
「畠中さん! お待たせ!」
忙しない足音が聞こえて顔を上げれば、掃除のおばちゃんを連れた小鳥遊が戻って来た。
「あらあら、派手にやったねぇ。お兄さん、あとはやっておくから、落ち着ける所に連れてってあげな」
「ありがとうございます。畠中さん、そういうわけだから立てる?」
すっと当たり前のように差し出された大きな手に気付かなかったふりをして真理愛は立ち上がる。
「お心遣い、ありがとうございます。でも、大丈夫ですから、そろそろ昼休憩も終わりですし、戻って下さい」
ちらりと腕時計を見ながら言った。野次馬根性丸出しの社員以外は続々と食堂を後にしている。ここに居続けるのは掃除の邪魔になってしまうし、何より居た堪れない。
「そんなの駄目だよ。スカートもブラウスも全部、カレーだらけだし、弁償させて」
食い下がる小鳥遊に辟易し、どうにか逃げ出せないかと考えて、真理愛は食べかけのオムライスが乗ったトレーを指差す。
「……でしたら、まずはこれ、返却して来てくれますか? 残してしまってごめんなさいと伝えておいてください」
「分かった。じゃあ、ここで待ってて、すぐに戻って来るから」
そう言ってトレーを手に小鳥遊が背を向けたのを見計らい、掃除のおばちゃんい謝罪とお礼を口早に告げて、真理愛は財布とスマホを右手にパンプスを左手に持ってさっさと食堂を後にする。
出来る限り、いや、絶対に真理愛はこれ以上、彼と関わりたくないのだ。
それでなくともあれこれと悩みが多いのに、小鳥遊に話しかけられることで女性社員の反感をわざわざ買いたくはなかった。
「私は地味にひっそりと生きていきたいんだもの」
女の嫉妬が怖いことを真理愛は、二十四年の人生で身をもって知っている。
「足も痛いし、やんなっちゃうなぁ、もう」
早退してしまいたい気分になりながら、速度を緩めてとぼとぼと更衣室を目指して歩いて行く。とはいっても更衣室にあるのは替えのストッキングなので、どうしたものか。
カレー塗れの自分に好奇の視線が向けられるのを苦々しく思い、角を曲がろうとしたところで、ぐいっと腕を掴まれた。
「待ってって言ったのに……ごめん、足に怪我までさせちゃってたんだね」
「え? ひゃっ!」
真理愛が事態を理解するより早く、体が宙に浮いた。背中と腿に力強い温もりを感じ、それが人の腕だと気付くのに三十秒かかった。
顔を上げた先、ほど近いところに人形みたいに整った美貌がある。思考回路は呆気なくショートする。自分が小鳥遊に、俗にいうお姫様抱っこで運ばれていると理解した時には、社員専用の医務室に着いていた。