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結局、真理愛が退院できたのは、それからさらに三日後の木曜日の午後のことだった。
よほど、真理愛自身も自覚していないところで深く精神的に打撃を受けたようで、目覚めた翌日の精密検査の後に熱を出してしまったのだ。
それで大事を取って退院が伸びてしまった。怪我自体は、鮫島に掴まれたところにできた手の形をした赤黒い痣といつのまにか擦りむいていた膝くらいだった。
問題は、真理愛より結弦で、ベテラン看護師の深沢さん曰く、真理愛が眠っていた三日間は面会時間以外は帰宅していたり、仕事に行っていたようだが、一時間ごとに真理愛の容態を尋ねる電話を寄越していたらしく、ナースステーションで「過保護すぎない?」と話題だったそうだ。
目覚めてから電話は止まったが熱を出したという連絡を受け、結弦は昼休みにわざわざやって来て、仕事に戻りたくないと駄々をこねて大変だった。ちなみにたまたまお見舞いに来てくれた御影と正人が連れ帰ってくれた。
無事に看護師たちの間で「残念なイケメン」という称号が、結弦につけられていた。
「……お休みしなくてもよかったのに。御影さんが、奥様と一緒にお迎えに来てくれるって言ってたんですよ。奥様を紹介してくださるって」
真理愛は、駐車場で隣を歩く結弦を見上げて言った。
先程、ナースステーションで「よかったですね」と生暖かい目で見送られた結弦は、顔をしかめる。
「やだよ。せっかく、真理愛さんが僕の家に帰って来てくれる日に仕事なんて。それに城嶋さんが『鬱陶しいから休め』って言ってくれてね。持つべきものは優しい先輩だよね」
一体、会社で何をやらかしていたんだろうと真理愛は、次に会社に行くのがちょっと心配だった。
真理愛の入院は、椎崎課長と十和子には、ストーカーに絡んでのことだと伝えたが、他には風邪をこじらせてということになっているそうだ。そのため、今週いっぱいは休んで、来週から出勤になる。
「明日の事情聴取は、僕も一緒に行くからね」
「……まさか明日も休みをとったんですか?」
結弦の車に乗り込んでシートベルトを嵌めたところで、結弦が告げた言葉に真理愛は、ぱちり、ぱちりと目を瞬かせた。
明日は確かに警察署に事情聴取に行く予定だったが、まさかそこにまで付いて来るとは思っていなかった。
「うん。翠川部長が『今の君は使い物にならないから、週末で片をつけてこい』って」
真理愛が、月曜日に会社に行くの嫌だなと思ってしまったが仕方ないのではないだろうか。
車はゆるやかに動き出して、病院を後にする。
「本当は、ジャスティンも来たがっていたんだけど、どれくらい時間がかかるか分からないし、何より病院だからね、お留守番してもらったんだ」
「……ジャスティンくんには、お礼にちょっといいお肉を使ったごはんをごちそうさせてくださいね」
ジャスティンは、とても勇敢だった。ジャスティンがいなければ、結弦どころか御影だって間に合わなかったかもしれない。あの日、どうしてジャスティンを連れて行こうと思ったのか分からないけれど、勘に従って連れて行って本当に良かった。
人を噛んだから、何か罰せられるのではと心配したが、そもそもナイフを振り回す犯罪者が相手で、なおかつ、もともと警察犬として訓練されていたジャスティンは褒められこそすれ、罰せられることはないとお見舞いに来てくれた正人から聞いて心から安心した。
「彼は最近、真理愛さんお手製のごはんじゃないと、もの言いたげに僕を見るんだよ。この間まで、缶詰であんなに喜んでいたのにね」
結弦が不貞腐れたように言った。
「ああ、そうだ。そういえば、貸し倉庫の真理愛さんの家電とか他の荷物とかどうする?」
ふと、思い出したように結弦が言った。
「ええと、今週末にでも不動産屋さんに行こうかと、何件かピックアップして、内覧の予約もしてあるんです。……結弦さんも一緒に来てくれますか?」
不動産で部屋を探す時は、男性がいたほうが良いと以前、父が熱弁していて、前のマンションの時も父が仕事を休んでついて来てくれた。
「まって、待って、真理愛さん」
何やらやけに動揺した結弦の声に真理愛は首を傾げる。
結弦は、周囲の確認をして近くのコンビニの駐車場へ車を入れた。
「何か買うんですか?」
「真理愛さん」
「はい」
名前を呼ばれて顔を向ければ、思った以上に真剣な結弦の顔があった。
「不動産屋って何?」
「不動産屋は、賃貸の契約を仲介したり、土地の」
「そうじゃなくて! 何で出て行く話がまだ生きてるの!?」
「だ、だって、もう本当にストーカーも捕まりましたし、いつまでも結弦さんのお世話になるわけにも……」
「一生、お世話になってて。というかむしろ、お世話されてたのは僕だったけど。僕と君は恋人同士だろう? 出て行く必要なんかない」
恋人同士、という言葉に頬が熱くなる。
「そ、そうですけど……あの、この間まではストーカーがいて、両親にも心配を掛けたくないから黙っていました。でも、その、住所が完全に変わるなら、両親にも伝えないといけませんし……」
真理愛の両親は、当たり前のように真理愛に過保護だ。心配ばかりかけていたので仕方がない。隠そうにも調べれば、あんな高価なマンションに真理愛の財力で住めるわけがないのは一発でバレる。そうすれば次は、どうやって住んでいるんだに始まって、結弦のことなどすぐにバレるだろう。特に真理愛を溺愛する父は、その日のうちに帰国の便に飛び乗ってきてしまうかもしれない。
まだ恋人と言うのにもためらいがあるのに、いきなり両親に挨拶をしろだなんて、いくら経験値がゼロに近い真理愛だって「重い」と言われる部類の話だと分かる。
「分かった。明日、事情聴取が終わった足で、成田に行こう。ジャスティンは御影に預ければ大丈夫。事情聴取は早めに終わらせるように正人に言っておくね」
「はい? 成田?」
無言でスマホをいじっていた結弦の言葉を真理愛は思わず聞き返す。結弦は「成田国際空港」と丁寧に言い直してくれたが、そうじゃない。
「真理愛さん、パスポートあるでしょ。僕もあるよ」
「ありますけど、あの、ちょっとまさか」
「ご両親に挨拶に行こう。僕も君も仕事があるから、ゆっくりできないのが申し訳ないけど、二日半あれば行って帰って来られるよ。そうすれば、真理愛さんは引っ越さなくて済むし、無意味に不動産屋に行かなくていい。名案でしょ?」
さも当たり前のような顔で結弦が首を傾げた。
「結弦さん!」
「なぁに、真理愛さん」
「行かなくていいです。今すぐ予約サイトを閉じて下さい!」
真理愛は結弦のスマホをひったくる。
「だって、真理愛さんがご両親に挨拶したらいいって」
「いいとは言ってません! あのっ、無理しなくていいんです。や、やっぱり面倒くさいでしょう? いきなり挨拶なんて重いですし」
「あのね、真理愛さん」
膝の上で結弦のスマホを握る手に大きな手が重ねられる。
「僕は、真理愛さんが思うよりずっと、重い男だよ。僕は当たり前のように君と結婚するつもりだからね。そもそも、真理愛さんを僕の家に連れて来た時点で、二度と一人暮らしなんてさせる気もなかったし」
何かとんでもないことを言われた気がするが、真理愛のポンコツな脳みそでは処理速度が間に合わず、ぽかんと口を開く、くらいしか脳は指令を出さなかった。
「真理愛さん、恋人期間、楽しみたい?」
その問いに真理愛は、本能的に首をぶんぶんと縦に振っていた。頭がとれるんじゃないかというくらいに頷いた。
真理愛の本能が「ここで頷いておかないと今日の夕方には婚姻届を書いているかもしれないわよ」と警告を鳴らしている。
「えぇー、どれくらい? 一カ月でいい?」
「わ、私、結弦さんが初めての恋人なので、もっとたっぷり楽しみたいです!」
だめだ。ここで遠慮とかしたら、一カ月後には間違いなく婚姻届を書いている。それは本能じゃなくても分かる。
「そっか。僕が初めてならしかたないね」
にこっと嬉しそうに笑った結弦の手が離れ、スマホがするりと抜き取られた。彼はそれを自分の尻ポケットに戻す。
「駐車場入っちゃったから、お茶でも買ってくるよ」
そう言って結弦はシートベルトを外して、車から降りる。
ドアを閉める寸前、結弦が「あ」と声を漏らして、ドアをもう一度大きく開いて中を覗き込むように体をかがめた。
そしておもむろにジャケットの内側に手を突っ込むと一枚の紙を取り出して広げて見せた。
気のせいでなければ「婚姻届」と書かれたそれは、夫側の欄がきっちり書き込まれている。
「真理愛さん。僕が戻ってくるまでに、そのピックアップしたとかいう部屋の予約、取り消しておいてね? そうじゃないとこのまま役所に行くからね。大丈夫、真理愛さん、日本国籍でしょ? 戸籍謄本、取り寄せる準備はしてあるし、僕のはもう準備してあるから」
にっこりと笑った結弦に真理愛は、再び、首がもげそうになるほど頷くのだった。
「ジャスティンくん! ただいま!」
「わふわふ!」
大はしゃぎで走って来て、スライディングするような勢いで、足下で腹を見せるように寝転がったジャスティンを真理愛は、しゃがみこんでわしゃわしゃと撫でまわす。太い尻尾が、ばさばさと揺れて足首に風を感じる。
「ジャスティン、僕だっているんだよ」
「わふ!」
ジャスティンは、返事だけした。
それが可笑しくて、真理愛はくすくすと笑いを零す。結弦が「もう」と言いながら真理愛の隣に同じようにしゃがみこんで、大きな手でジャスティンの腹を撫でる。
不意に大きな手に真理愛の左手が捕まる。真理愛の手をすっぽりと覆ってしまう大きくて、優しい手。
「……君は、優しい人だから、まだ悩んでいるでしょう? 自分が一緒にいることで僕に迷惑がかかるんじゃないか、また危ないことに巻き込んでしまうんじゃないかって」
結弦の言葉にジャスティンをゆるく撫でていたもう片方の手が止まる。
「だから、この部屋を出て行く選択肢を捨てきれなかった」
真理愛は、逃げるように目を伏せた。
「でも、ごめんね」
ぎゅうと左手が握り締められる。
「僕は、君を手放してあげられないんだ。約一年、恋焦がれた人だから」
驚きに思わず振り返れば、思ったよりもずっと近いところに結弦の顔があって、息を呑む。
一年前なんて関わったことがあったかどうかも分からないような、そんな時期で、真理愛は当たり前のように地味で野暮ったい鉄仮面スタイルだった。
「僕は、鉄の仮面をかぶっていた君の、真っ直ぐに伸びた背と、悪口に対して、たおやかに微笑んだ姿に惚れたんだ」
いつのことか、なんのことかさっぱり分からないけれど、自分の頬がじわじわと熱を持ち始めているのは分かった。
「今度、テレビ通話とかでいいからさ、ご両親に挨拶させて。まだ二十四歳の君には、重い男かもしれないけど、僕は何をしても、どんなことをしてでも、君が、真理愛が欲しいんだ」
「…………でも、結弦さんのご両親が、嫌がるかも」
真理愛はぽつりと零す。
「僕の両親は……とくに父は何も言わないよ」
結弦の目が、ほんの一瞬陰る。
「……でも、妹と……僕のお母さんには紹介させて。僕の、お嫁さんですって」
またいつもの優しい光がその目に戻って来る。
「…………結婚は、まだ、やです。私だって、本当はちょっと憧れてた、デ、デートとか、あるんです。でも……もう出て行くとは言いません。……結弦さん、前に言ってくれたでしょ? 『何も偽らなくていい』って。初めてだったんです。そんな風に言って貰えたの。すごく、嬉しくて、あの時、声を上げて泣いてしまいたかったくらいに」
結弦がぱちりと目を瞬かせた後、泣き出しそうな顔で嬉しそうに笑うという器用なことをやってのけた。
「……また、お買い物付き合ってくれますか? 春物は、華やかで可愛いのほしいです」
「五百着くらい君に買ってあげたい」
「もう、そんなにいりませんよ」
「でも、会社に着て行くのは地味なのにして」
「鉄仮面スタイルと呼んで下さい」
「なら、鉄仮面スタイルで行って。君に惚れる男が出たら、僕は仕事どころじゃなくなっちゃう」
そんな人いないですよ、と言おうとして、目の前にいたな、と真理愛は閉口する。結弦は、真理愛の心を読んだかのように「僕がいるでしょ」と悪戯に笑った。
「でも、ここに僕のものだって印を贈らせてくれるなら、可愛いピンクのワンピースだって着て行ってもいいよ」
大きな手に持ち上げられた真理愛の左手の薬指にキスをして、結弦が笑う。
真理愛は一気に赤くなった顔を隠したかったのに、右手も結弦に囚われてしまう。
撫でる手を取られたジャスティンが、不満げにおすわりをする。
「だから、真理愛さん好みのファッションリングを買いに行こうね。言っておくけど、これは、いつか真理愛さんが『こんな高いのいりません』って怒るような本物を贈るから、その予約だからね」
僕、真理愛さんの怒った顔も好きだよ、と結弦は熱に浮かされているとしか思えないようなことを平気で口にする。
「ば、ばかじゃないですかっ? ……そ、それに会社だから、ピンクのワンピースなんて着ませんっ」
真理愛は恥ずかしさを紛らわそうと、なんとか文句を言うが、結弦は意に介した様子もなく「どこのブランドが良いかなぁ」とひとりで楽しそうだ。
「……結弦さんの、ばか」
「恋は人を馬鹿にするって本当だね。ところで、真理愛さん」
今度は何を言い出すのだろうと身構える。捕まっていた両手が解放されて、代わりに彼は長い腕を広げて、嬉しそうに子どもみたいな笑顔を浮かべた。
「……おかえり、真理愛」
瞬間、言葉にできないくらいに幸せや愛しさが胸の内に溢れかえって、真理愛はためらうことなくその腕の中に飛び込んだ。勢いあまってジャスティンまで飛びついて来て結弦が尻餅をつく。でも、力強い腕がぎゅうと真理愛を抱き締めてくれた。
「ただいま、結弦さん、ジャスティンくん」
真理愛も結弦の背に腕を回して、ぎゅうと力を込めた。ジャスティンが、きゅんきゅんと嬉しそうに鼻を鳴らしている。
顔を上げれば、至近距離に結弦の顔があった。
「ねえ、もしよければなんだけど、キスしてもいい?」
少しかさついた彼の親指が真理愛の唇を撫でた。
ほんの少しの躊躇いは、きっと男性を怖がる真理愛への気遣いだ。真理愛の好きな人は、とびきり優しくて、気遣いのできる人なのだ。
真理愛は、はいの意味を込めてゆっくりと目を閉じた。ドキドキしすぎて、心臓が口から飛び出してしまいそうだ。
ふわりと唇に触れたものは、柔らかくて温かかった。でも、火傷しそうだとおもうくらいに熱くて、真理愛は結弦に縋る手に力を籠める。そうすれば、もっと強くぎゅっと抱き締め返される。
「……ファーストキス、玄関の床で良かった?」
離れて行った唇がムードのないことを言う。
それも真理愛を想ってのことだから、無性に愛しくて、真理愛は「うん」と頷いて結弦の首筋に頬を寄せる。
「相手が結弦さんなら、どこだっていいんです。私のファーストキスは、ママが体当たりで守ってくれたものだから、きっと、好きな人とできたって言ったら、ママ、喜んでくれます。……パパは泣くかもしれないけど」
結弦の体が一瞬強張って、次にぎゅうぎゅうと苦しいほど抱き締められた。
高校生の頃、奪われそうになったものを守ってくれたのは母だった。
「僕は真理愛さんのお母さんにどう感謝したらいいだろう。あと、お父さん、殴りかかって来ない? 大丈夫?」
「ふふっ、大丈夫じゃないと思いますけど、その時は味方しますから」
「真理愛さん、それフォローになってると思ってる?」
拗ねたような声がして、顔を向ければ唇と尖らせた結弦と目が合った。
どちらともなく噴き出して、笑い合う。ジャスティンが「僕も!」と存在を主張するように間に入って来て、二人でそのふわふわの体を抱き締める。
「ねえ、真理愛さん。今夜は、カレーうどんでも食べに行こうよ」
「カレーうどん?」
「僕と君が、こうして恋人になれるきっかけを作ってくれた、有難い食べ物だよ」
大真面目な顔でそう告げる結弦に、真理愛は我慢しきれず笑ってしまう。
でも、そうかもしれないと真理愛は思う。あの日、水原が結弦にぶつかって、結弦がカレーうどんを真理愛に掛けなかったら、きっと真理愛はこんな風に結弦と笑い合うことはなかっただろう。もしかしたら、鮫島に酷いことをされていたかもしれない。
「……そんなに有り難い食べ物なら、私に作らせてください。とっても美味しいの作ります」
真理愛の提案に恋人は、それはそれは嬉しそうに子どもみたいに笑った。
おわり
いつも閲覧、ブクマ、評価、感想をありがとうござました。
おかげさまで、最終回を無事に迎えることができました。
最後までお付き合いいただきまして、ありがとうございました!
本編は終了しましたが、番外編を5~6話程用意しておりますので、
お付き合いいただけると幸いです。
予告しておきますと、番外編は「くっそ甘ぇ( ゜Д゜)!!」と叫びたくなる感じを目指して
鋭意執筆中です。
感想、レビューなど頂けますと創作の糧になります。
改めまして、本当にありがとうございました!
春志乃