4-3
病院は、静かなようでいて賑やかだ。
看護師たちが行き交う足音は時に金属製のワゴンや点滴代を伴っていて、患者と医師や家族の話し声が聞こえて来る。患者に繋がれた電子機器の音も絶え間なくどこからか聞こえて来る。
結弦は、ナースステーションで面会の手続きをして、廊下の奥へと進んでいく。
事件の関係者であるためか、名札は出ておらず部屋番号だけを確認して中へと入る。
コートを入り口脇のクローゼットにかけて、その横のシンクで手洗いうがいを済ませる。ネクタイを緩めながら短い通路の先の部屋へと入る。
「……ただいま、真理愛さん」
こぽこぽと加湿器が水の音を立てている。
結弦は、ベッドの脇に置かれた椅子へ腰かける。
真理愛は、昏々と眠っている。
長い睫毛は伏せられたまま、桜色の唇は静かな寝息を立て続けている。開け放たれたままのカーテンから差し込む月光が彼女の顔を青白く照らしていた。
美しい人だ。こうして眠っている姿は、まるで完成した人形のようだった。生きているのが、血が通っているのが不思議なほど現実味がない。
だが、結弦は彼女が笑うことも、怒ることも、料理が上手なことも知っている。
彼女が、生きた人間だと知っている。
手を伸ばし、彼女の口元にかかった髪を指先でそっと払う。ミルクティー色の髪は、月光の下で淡く光っているように見える。
「真理愛さん」
呼んでも返事はない。真理愛はもう三日も眠り続けている。
結弦が駆けつけた時、ジャスティンに追い掛け回されていた水原が逃げようとしていた。手錠は一つしか持っていないと前に正人が言っていたのを思い出して、ネクタイを彼に渡して、結弦は真理愛の下へ走った。
鮫島は、座り込んだ真理愛に拳を振り上げていて、無我夢中で蹴り飛ばした。
それでも興奮して痛覚が壊れているのか、鮫島はすぐに起き上がってナイフを振り下ろしてきた。その昔、正人に教わった一本背負いを決めても、やつはゾンビのようにすぐに起き上がって殺意を持って結弦に突っ込んできた。
愛犬の名を呼んだのは、彼の向こうで愛犬と目が合ったからだ。
ジャスティンは、矢の如き勢いで飛び込んで来て鮫島の腕に噛みついた。その衝撃に倒れこんだ鮫島に結弦は馬乗りになり、同時にやってきた正人も腕をひねり上げてその背に跨って、鮫島に手錠をかけた。
その後、真理愛の下に駆け寄って彼女を抱き締めると、彼女は気を失ってしまい、救急車で警察病院に運ばれた。
医者から命に係わるような怪我はないと言われるまで生きた心地がしなかった。
しかし、真理愛はなかなか目覚めなかった。
医者からは精神的なショックが大きすぎたのだろうと説明された。同時に自然に起きるまで待つしかない、とも。それがいつになるかは誰にも分からないが、そう長く眠ることはないだろうと教えられた。
「真理愛さん、ジャスティンがしょんぼりしているよ」
声をかけて、布団の上に出されていた手を一度、包むように握りしめてから、そっと布団の中へと戻す。
事件後、真理愛に付き添って警察病院に行って、その後、事情聴取を受けて、帰ったのは午前二時過ぎだった。
留守番をしていてくれたジャスティンは、結弦の背後に真理愛がいないことに首をかしげて、家の中を探し回って、外へ探しに行こうとリードまで持ち出して結弦にねだった。
幸い、ジャスティンは大きな怪我はなかった。
ジャスティンは、警察犬候補生として様々な訓練を受けていた。体が大きく運動能力が高いので、犯人を追跡したりするような役目を担う警察犬を目指していたそうだ。
ジャスティンは一度として、訓練で犯人役の人間を噛むことがなかった。訓練のパートナーがどう指示を出そうとも、尻尾を振ってじゃれついてしまい、結果、彼は警察犬には不向きと判断され、めぐりめぐって結弦のもとに来た。
「ジャスティンはきっと、本当に悪い奴を嗅ぎ分けていたんだね」
結弦の独り言は静かな病室にぽとりと落ちる。
本当は、このままここに泊まりたいけれど、ジャスティンをひとりぼっちにさせたら、きっと真理愛は怒るだろうと思って、面会時間ギリギリまでで我慢している。
ジャスティンは、毎晩、結弦が一人で帰ってることが不満のようで、朝の散歩も今一つ覇気がない。
「真理愛さん、起きて。……お願いだよ」
祈るように囁いて、結弦はただじっと真理愛を見つめる。
「……真理愛さん?」
長い睫毛が震えて、目元がぴくぴくしている。
ん、と小さな声が漏れて、真理愛の体がぐっとこわばり、弛緩する。
「真理愛さん? 真理愛さん!」
咄嗟に呼びかけると、重く閉じられていた瞼が持ち上がり、可憐な菫色の瞳が現れた。
「真理愛さん?」
結弦の呼びかけに菫色の瞳がゆっくりと動いてこちらに向けられた。
きっと、その目に映る結弦の顔は、大層情けないものに違いなかった。だが、もうそんなことはどうでもよくなるくらいに真理愛が目覚めたという事実に結弦は、泣きそうになるのをぐっとこらえるのだった。
目を開けると、真っ白な天井が広がっていた。
人生で二度目だ、と真理愛はゆっくりと息を吐き出した。一度目は、高校生の頃だ。貧血で倒れて、気が付いたら病院のベッドの上だった。
蛍光灯の無機質な白い光が目に染みる。
「真理愛さん?」
声のした方へ目だけを向ける。
やっぱり、結弦がそこにいた。彼のほっとしたような顔は、今にも泣きだしそうだった。
「真理愛さん、僕の声、聞こえてる?」
こくり、と頷くと「よかった」と結弦は、眉を下げて笑った。
「ここ、病院だよ。あの後、真理愛さん、気を失ってしまって、救急車で運ばれたんだ。ああ、大丈夫。鮫島と水原は、逮捕されたよ」
結弦が彼らしくない焦ったような口調で告げる。
「…………みかげ、さんたちは……?」
どれくらい眠っていたのか、酷く声がかすれていた。
「大丈夫、元気だよ。コンシェルジュの彼はもう仕事してるし、御影も、脇腹に痣ができただけで元気だよ。……僕は元々怪我一つないし、ジャスティンもね」
結弦の言葉に、真理愛は、天井へと顔を戻し深々と息を吐き出した。
体が鉛のように重くて、だるい。なんとなく辺りを見回すと、ここが処置室などではなく、病室だと分かる。
「……真理愛さん、三日間も眠ったままだったんだよ……っ」
結弦の震える声が告げた事実に真理愛は、二度、三度と瞬きを繰り返した。
三日間も。どうりで体が重いわけだとまるで他人事のように思った。
「お医者様は、精神的なショックで眠っているんだろうって……」
「……結弦さん、おしごとは……?」
「休んだら真理愛さん怒るだろう? ちゃんと行ってきたよ。それに今はもう夜だよ、真理愛さん」
結弦と反対側に顔を向ける。
真っ黒な夜が、透明な窓ガラスの向こうに広がっていた。
「……お医者様を呼ぶね。僕としたことがうっかりしてた」
そう言って彼は、枕元にあったナースコールを押した。「どうしました」と頭上で声がして、結弦が「目覚めました」と告げた。
少しして医者と看護師がやってきた。どちらも女性だった。
簡単な問診を受けて、明日は精密検査をしましょうねと告げると医者は忙しそうに病室を出て行き、看護師は「面会時間はあと十分ですからね」と声をかけて出て行った。
壁際で様子を見守っていた結弦が、再びベッドに近づいて来る。
だが、彼は先程までのようにベッドの横に置かれた丸椅子に座ろうとはしなかった。
「……結弦さん?」
「ごめん」
返って来たのは、謝罪だった。
「護るって偉そうに言っておいて、護れなかった。いたずらに君を怖がらせて、ただ君を危険に晒しただけだった。僕が、あんなとこを言わなければ、君は会社に行っていて、安全だったはずだよ」
真理愛はふるふると首を横に振った。真理愛は無事だ。生きている。それは、結弦が助けに来てくれたおかげだ。
けれど、結弦の表情は晴れない。
「……真理愛さん、出て行くつもりだったんだろう?」
結弦が言った。
彼のマンションのリビングやキッチンには、中途半端に荷物を詰めた段ボールがそのままだったのだから、彼がそれを知っているのは不思議ではなかった。
「……怖かったよ。もし君が、御影に送迎を頼んでいなければ、君は間違いなく鮫島にさらわれていた。御影が気づいて、わざと車をぶつけて止めてくれたんだ」
真理愛は頷いた。
「鮫島が君を殴ろうとしていて、無我夢中で蹴り飛ばしたんだ。本当に怖かった。鮫島がじゃない。……君を失うかもしれないと、一瞬でもその可能性があったことが本当に怖かった……っ」
くしゃりと髪をかき上げて結弦が俯いて、顔が見えなくなってしまった。
でも、その大きな手が、逞しい体が震えている。
「でも……僕が君を好きだなんて、言ったから、こんなことになって……なのに、僕は……それを冗談にもできないし、忘れてと願うこともできないんだ」
最上級の愛の告白をされているような錯覚に陥る。真理愛は、泣きそうになるのをこらえて口を開く。
「…………あのね、結弦さん」
結弦の肩が跳ねた。
「私が、怖かったのは……結弦さんの気持ちじゃないんです」
結弦は何も言わなかった。だから、真理愛は勝手に続ける。
「だって、結弦さんのこと、ちっとも怖くないんです。とくに私の苦手な体の大きな男の人なのに、近くにいても、手を握られても、抱き締められても、これっぽっちも怖くなかった。今だって、怖くないです」
「なら……何が」
「……高校生の時に襲われた話をしたでしょう? その時に……両親が怪我をしたんです。父の腕には、今も……ナイフで切られた大きな傷跡が残っているんです。私は……それが怖かったんです。結弦さんは、私なんかを護るって言ってくれたから……だから、怖かった。貴方が傷付けられるかもしれないって……殺されて、しまうかもしれないって……考えたら、怖くて、怖くて、たまらなかったんです……っ」
真理愛は顔を見られたくなくて、両手で顔を覆った。
「……それに、結弦さんのそばにいたら、わたし……ひとりで生きていけなくなっちゃう」
「僕は、君と一緒に」
「だめ」
結弦の言葉を止める。
「私が、傍にいると、きっとまた危ない目に遭うから。大丈夫、私は、ひとりで生きていけるんです。だって、鉄仮面だもの」
「僕は、君無しじゃ生きていけない」
「そんなこと、言わないで」
「言うよ。何度だって言う。君は強い人だから、ひとりで生きていけるかもしれないけど、僕は、君がいないと、真理愛がいないと生きていけない」
リノリウムの床が彼を近づいて来るのを知らせるように、キュッキュッと鳴る。
「それでも、どうしても、ひとりがいいなら、僕を置いていくなら、僕の目を見て言って」
大きな手に手首を掴まれて、抵抗もむなしく、顔を覆っていた手は離れていく。
結弦の顔がすぐそこにある。真理愛を見つめる双眸には、烈しくも温かなものが揺れている。
「……どうして、いじわるするんですか……っ」
「真理愛さんが、意地っ張りだからだよ。ねえ、言ってよ」
「やだ」
「じゃあ、僕が言う」
真理愛の手首を解放した大きな手が、真理愛の頬を包み込む。これでは、顔をそむけることもできない。
「真理愛、ひとりで生きていけない僕のために、どうか僕の傍にいて」
彼が喋る度に吐息が唇を撫でていく。
まるで言葉にキスされているみたいで、頭がぐらぐらと茹で上がりそうだった。
「愛してる」
心臓が鷲掴みにされたみたいに胸が苦しくなった。でも、どうしても彼の想いに応えていいとは思えなくて、無駄な足掻きと分かって口を開く。
「…………でも、またこういうことがあるかもしませんよ」
「そうしたらもう恋人特権で君を家に閉じこめるよ。大丈夫、君を養う甲斐性はばっちりから、ジャスティンと仲良く待ってて」
「御影さんだって、怪我をしたのに……」
「御影なら、お礼に車を買ってあげるって言ったら、あれは仕事用だから保険で直すことにして、臆面もなく家族で旅行に行きたいからって最高グレードでオプション全部つけた新車の見積書を持ってきたよ。彼はとても強かでしぶとい男なんだ」
「私、鉄仮面ですし……」
「会社には今後もあのスタイルで行って。君の秘密は、僕だけが知っていればいいんだ」
「……会社じゃ、あんまり話しかけないでほしい」
「家でいっぱいお話しするからいいよ。女子は怖いって改めて認識したから」
「……お弁当、自慢しないで。バレちゃう」
「……善処します」
「……私、こんな風にわがままばっかり言いますよ」
「え、うそ。今のわがままだったの? 僕は君のわがままを日に百個は叶えたいのに」
「……ばか。…………私なんかといたら、結弦さん、不幸になっちゃうかも」
「僕は勝手に幸せになるから大丈夫。むしろ、君が傍にいてくれないことの方が、僕にとっての不幸だよ。……ねえ、真理愛」
結弦の唇が、真理愛の目じりに優しく押し当てられた。まるで涙を拭うように、何度も、何度も目じりや瞼、頬にキスが降って来る。
こつん、と額がくっつけられて焦点が合わないくらい近くで彼が真理愛を見つめている。
「良い子だから、好きって言って」
低く甘やかな声がたっぷりの砂糖と蜂蜜をまとっている。心臓が止まってしまいそうなくらいにドキドキして、目が逸らせなかった。
「…………すき。結弦さんが、大好き」
瞬間、結弦が笑う。
真理愛の好きな、子どもみたいな笑顔。
「ありがとう、真理愛。一生、大切にする!」
そんな言葉と共にぎゅうっと抱き締められる。真理愛が、おそるおそるその広い背中に腕を回せば、更に強く抱きしめられた。
結弦の香りを胸いっぱいに吸い込めば、怖いものなんて、何もないような気がしてきた。
「ごほんっ! 小鳥遊さん、面会時間はとっくに過ぎていますよ」
聞こえてきた看護師の声に真理愛は慌てて離れようとするが、結弦が全然離れてくれない。押しても、叩いてもびくともしない。
「深沢さん、たった今、真理愛さんが僕の恋人になってくれたんですよ。あと一時間くらいはこの喜びを彼女に伝えたいんですが」
「面会時間は、とっくに過ぎていますよ」
ベテランの風格漂う深沢さんは、淡々と告げる。
「三十分」
「面会時間はとっくに過ぎています。出禁にしますよ」
結弦が渋々真理愛から離れる。真理愛は、何もかもが恥ずかしくて再び両手で顔を覆った。結弦が不満そうに、しかし、甘ったるい声音で真理愛を呼んだ。
「た・か・な・し・さ・ん?」
深沢さんの声にドスが効く。
「はい、すぐに帰ります」
結弦が慌てて帰り支度を始め、真理愛は指の隙間からそれを覗く。
「また明日、定時で上がって来るから。何か必要だったら、メッセージをちょうだい」
「はい。……あの、気を付けて帰って下さいね」
「うん。もちろん。着いたら連絡するね。おやすみ、真理愛」
「おやすみなさい、結弦さん」
結弦は名残惜しげに真理愛の髪を一房、手に取るとそこにキスを落とした。
あまりに絵になり過ぎて、真理愛が真っ赤になっているのを見て、彼はくすりと笑うともう一度「おやすみ」と言って、病室を出て行く。
ぱたん、と本当に小さくて微かな音がして、ドアが閉まる。
「畠中さん、血圧が上がり過ぎて具合が悪くなったら、ナースコールを押して下さいね」
「……ひゃい」
真理愛の間抜けな返事にも深沢さんは、冷静に「おやすみなさい」と告げて、病室を出て行ったのだった。
その晩、なかなか寝付けなかったのは言うまでもなかった。
次回、最終回です!