4-1
「……はぁーー……」
朝から幸せが百個は逃げているだろう。飽きるほど吐き出された溜め息を、懲りもせずに再び零しながら、文字通り頭を抱えて結弦はテーブルに突っ伏した。
定食屋にとって一番忙しい昼飯の時間帯であるため、注文の声が飛び交い、談笑するサラリーマンの声で店内は埋め尽くされている。
「……どうした?」
上から降ってきた親友の声に結弦は目だけを向けた。
正人は首を傾げながら向かいの席に腰を下ろした。
「A定食、大盛で。お前は?」
食欲はないが、店に入った以上は何か頼まねばとちらりとメニューを見て「B定食で」と告げると正人に呼び止められた店員は「はーい」と軽やかな返事をして厨房に伝えに行った。
「んで? どうした?」
「…………やらかした」
「まさか、真理愛さんに襲いかかったのか?」
「そんなわけあるか!」
思わず勢いよく顔を上げる。正人は「じゃあなんだよ」と面倒くさそうに言った。
結弦は、どう言い繕おうか考えて、何も浮かばずに正直に告げる。
「……うっかり、告白して、怖がらせちゃったんだよ。彼女が、自分に好意を寄せる男が怖いと、分かっていたのに……っ」
ああああ、と唸りながら頭を抱えて、再びテーブルに突っ伏した。
思い出すのは、真理愛の怯え切った顔だ。あんな顔をされたのは、初めてだったし、あんなに怯えられたのも初めてだった。一緒に暮らし始めてから結弦が触れても真理愛が怖がったことなんて、一度もなかったのに。
後悔先に立たずとはまさにこのことだ。
突っ伏したまま、結弦は事の次第と顛末を掻い摘んで説明した。
「……お前、タイミング考えろよ」
もっともなお言葉である。
「それで、一晩、お前は自分の車ん中で過ごしたわけか?」
「そうだよ……」
結弦が力なく答えるのと同時に、定食が運ばれてきた。
正人の前にはアジフライがメインのA定食、結弦の前にはサバの味噌煮がメインのB定食が置かれる。みそ汁のおかわりはセルフだけど自由です、ごゆっくりどうぞと告げて店員が去って行く。
正人は、さっさと割り箸を手に取るとガツガツという表現がぴったりの勢いで飯を食べ始めた。
「お前の惚れた腫れたは抜きにして真理愛さんの安全は、確保されてんだろうな」
「コンシェルジュによくよく頼んであるよ。真理愛さんが一人で出かけることのないようにって。徒歩三分のコンビニでも御影を呼ぶようにコンシェルジュには言いつけてある」
御影にだってそのあたりはきちんと頼んである。鮫島に一度、追跡されているからか、徒歩三分のコンビニへの送迎だって御影は、呆れるどころが「それがいいでしょう」と真剣な声音で返事をしてくれたのだ。
「ってーことは今日、家にいんのか?」
「……具合が悪いから今日は会社を休みますって御影に連絡がきたって。確認したけど、本当に休みだった……」
「まあ、家にいるなら家にいるほうがいいだろ。例のネイル女、割とやべぇ」
割り箸に伸ばした手が止まる。
結弦が会社から少し離れたこの定食屋にいるのは、ひとえに正人に呼び出されたからだ。
昨夜、同じように正人に呼び出されて、結弦は、真理愛の隣で全てを見ていた十和子にテレビ電話で参加してもらって、水原が突然、真理愛の弁当を奪った事件の詳細を正人に話してもらった。正人は、何かが引っ掛かったのか、水原のことを調べると言っていて、こうして呼び出されたのだ。
「昨夜、帰ってから調べただけで、まだ調べたりねえんだが……あの女、相当な借金を抱えててな、K町のキャバクラでホステスやってる」
「うちは、風俗系の副業は、禁止なんだけどなぁ」
「うまーく隠してるみたいだぞ。かなり尻の軽い女で、キャバの同僚に嫌われてるみてえで、嬢たちはこぞって色々と教えてくれたんだ」
そう言って、正人は、ずずっと味噌汁をすすった。
「職場の上司と浮気してるだことの、人の彼氏を盗っただことの、ろくな話がなかったが、問題は二週間くらい前に鮫島と思われる男が、この女と接触していたことだ」
「は?」
眉間に皺が寄る。正人は、まるで世間話をしているかのように表情を変えなかった。彼は刑事なのだと、何故だか実感した。
「今、署で店の防犯カメラの解析をしてる。水原の自宅アパートは仲間が張ってるんだが、収穫はねえかもな。隣人の話じゃここんとこ帰って来てねえらしいし、ポストもダイレクトメールとかが溢れかえってたからな」
「どこに? 彼女、昨日は普通に出社してたよ?」
「それをこっちが知りてぇんだよ」
そう言って正人は席を立つとお椀を片手に味噌汁のお代わりに行った。
なんだか嫌な予感がする。
ピリリッと仕事用のスマホが鳴った。
背広のポケットからそれを取り出す。
「電話?」
また後輩が何かやらかしたのかと通話ボタンを押す。
「もしもし?」
『もしもし、小鳥遊? お前どこにいる?』
聞こえてきたのは、結弦の先輩で昨日も一緒に外回りに出かけていた城嶋だった。
「▽□駅の近くの定食屋ですが」
『今、会社のメール見られるか?』
潜められた声とやけに彼の周辺が静かだな、と首を傾げながら、同じく仕事用のタブレットを取り出して、メールアプリを開く。
『んで、無題のメール、開いてみてくれ。さっき、一斉送信されてきたんだ』
言われた通りに、一番上にあったそれをタップする。
本文に『おなじ』と三文字だけの言葉があって、何かのファイルが添付されている。それをタップした。
ファイルの中身は、一枚の画像だった。
「……なっ」
「どうした?」
味噌汁を片手に戻ってきた正人が上から覗き込んでくる。
そこに映っていたのは、真理愛お手製のミートボールだった。画質は荒いが、弁当の中身を判別するのには差し支えない程度だ。
『それ、昨日のお前の弁当だよな』
城嶋が言った。
この弁当を知っているのは、作った本人である真理愛と持ち主である結弦以外では、一緒に昼食をとった城嶋以外にはいない。
昨日は、取引先の大型商業施設のフードコートで食事を済ませた。城嶋は、フードコートの店のカツ丼を頼んで、彼が水を忘れたというので結弦も自分の分と共に水を汲みに行ったのだ。その隙に撮られたのかもしれない。
「皆、これに対して何と?」
『誰かが私用のメールを送り間違ったんじゃないかって話だが、んなことあるか? 今、総務部の方で確認してるみみたいだ。ほら、メアドが社内のお知らせ用だろ?』
確かに送り主を確認すれば、それは社内に一斉にお知らせがある際に使用されるアドレスだった。
『んで、本題だけど……昨日の件、これと関係あるんじゃないか? 俺、さっき経理課に確認してきたけど、幸い彼女お休みだったから大丈夫だと思う。経理課は結束も固いし』
城嶋には、何も言っていないのだが、いきなり同僚の弁当をひったくて投げつけ、早退する女の話が耳に入らないわけはない。しかも相手が、色んな意味で有名人である経理課の鉄仮面であるのだから、尚のことだ。
『勘のいいやつは、気づくかもしれないと思ってさ。……その、畠中さんなんだろ、お前の弁当の君』
ひそめられた声をさらに潜めて城嶋が言った。
結弦はためらうことなく頷く。城嶋は、信頼できる先輩だからだ。
「はい。そうです……ところで、今日、水原さんは?」
『そっちも確認したけど、無断欠勤らしいぜ。俺の同期が、ほらあの女の直の上司だからめっちゃ怒ってた。……これはそいつから内緒で教えてもらったんだけど、なんかあの女、昨日、昼休みに例の弁当騒動起こした後、人事課に戻って来たかと思ったら個人情報のファイルにアクセスして、ぐちゃぐちゃにしたらくて。人事課は、阿鼻叫喚らしい』
「……個人情報をぐちゃぐちゃですか?」
『おう。なんか数人の社員の情報がごっそり消えたらしい。住所とかそういうの。まあ、誰のかまでは流石に教えてもらえなかったんだが。そのファイルを開くためのパスワードは、課長以上しか知らない代物だったらしくて、情報漏洩の方でも騒ぎになってる』
ぐるぐるとめぐっていた思考が、ぱっと晴れた。
水原は、人事課の社員で、結弦以外にも顔が良いとか、金回りが良い男性社員にモーションをかけていた。
もし、その中に鮫島がいたとしたら?
横領していた鮫島は金回りが良かった。顔だってそこまで悪くないし、水原が鮫島に声をかけているのを見たことがある。水原の本命は迷惑なことに結弦だったようだが。
それに数日前に鮫島らしき男が、水原の勤めるキャバクラを訪れている。鮫島は元社員なのから、水原の行為が規則違反であること知っているはずだ。親しい中であったなら、借金の有無も知っていたかもしれない。
そして、水原は、上司と不倫関係にもあったと彼女のキャバクラの同僚が言っていたではないか。パスワードはそこから漏れたに違いない。
鮫島は欲しているはずだ。真理愛が隠されている小鳥遊結弦のマンションの住所が、喉から手が出るほど欲しかったはずである。
「……真理愛さんが、危ないかもしれない」
かもしれないというには、いささか、確信が強すぎた。
「水原を動かしたのは、鮫島だ」
「俺もそう思う」
「城嶋さん、すみませんが、僕、早退します! お勘定! ここに置いておきます! おつりはいりません!」
結弦は、スマホにそう叫んで通話を終了し、財布から取り出した一万円札をテーブルの上に置いた。店員が目を白黒させている。そのままの勢いで正人と競い合うように店の外へ飛び出し、正人が「バイクがある!」と叫んで、駐輪場に向かって走る。
「小森! お前今どこだ⁉ 今すぐ、結弦のマンションに行け!」
つけっぱなしだったヘッドセットを通して、正人が指示を出す。結弦は、スマホを取り出して真理愛にかけるが、何故か出ない。なんどかけても出ない。
「クソっ」
ならばと自宅マンションのコンシェルジュにかけるが、普段、ワンコールで出るはずのコンシェルジュも出ない。
「正人、真理愛さんもコンシェルジュも電話に出ない!」
「んだと⁉ クソッ! 早く乗れ!」
投げ渡されたヘルメットをかぶり、飛び乗るように正人の後ろへ乗り込む。
「飛ばすからな、ちゃんとしがみ付いてろよ!」
ブルルンッと思いエンジン音がつんざく。
正人の腹に腕を回して、結弦は「無事でいてくれ」と祈るように囁いたのだった。