3-7
「ただいま」
今日という日に限って、帰りが遅くなってしまった。
結弦は、ため息をこらえながら靴を脱ぎ、スリッパに足を入れる。
いつもなら聞こえて来るぱたぱたという軽い足音も、カチカチと爪が鳴る足音も聞こえてこず、家の中はしんと静まり返っている。
それもそうか、と腕時計に目を落とす。もう既に日付を超えて三十分が経っている。
会社に戻って報告書をまとめて帰ろうと算段をつけたのに、帰ってみれば後輩がしでかしたミスをカバーする羽目になり、水原の件をメッセージで伝えておいた正人にも詳細を聞きたいと呼び出されて、こんな時間になってしまった。
コートを脱いでクローゼットに片づけて、洗面所で手洗いうがいをしてから、リビングに入る。
薄情な愛犬は起きて来る様子もない。今夜も真理愛の腕の中でぬくぬくと寝ているのだろう。
ダイニングのテーブルの上には、ラップの掛けられた結弦の分の夕食が並んでいた。今夜のメインは、焼き鮭だったようだ。
結弦は、通勤バッグを空いている席に置き、スーツのジャケットを背凭れに掛ける。ネクタイを少し緩めて、汚れないように先を肩にひょいとかけた。
キッチンで焼き鮭をレンジで温め直し、鍋の中の味噌汁を温め、炊飯器から白米をよそう。それらを順番に運んで、席に着く。
「いただきます」
手を合わせて箸を持つ。
今日も真理愛の料理は美味しい。疲れた体に、優しさが染み渡る。
結弦が黙々と箸を進め、食事を終えたタイミングで不意に背後で、ゴトンとくぐもった音がした。驚きに振り返るが何もいない。
「……まさか」
ひとつの可能性に思い至って立ち上がる。足音を立てないようにリビングのソファに近づいて行き、背凭れ越しに覗き込む。
「……真理愛さん」
クッションを枕にソファに横になって、真理愛が眠っていた。
遅くなると分かった時点で、先に寝ていて下さいと連絡は入れたのに、どうやら待っていてくれたらしい。
見ればジャスティンは、ローテーブルとソファの間で伏せの格好で寝ていた。
「……君、そこにいたなら僕の出迎えに来られただろう」
じとりと睨むが愛犬は、ちらりと結弦を一瞥しただけだった。
ジャスティンの鼻先に落ちていた彼女のスマホを拾ってローテーブルの上に置く。先ほどの音は、これが落ちた音だったのだろう。
ローテーブルの上には、籐の籠が置いてあり、中には暗いブルーとグレーの毛糸玉が入っていて、編みかけの何かが編み棒と共にくしゃっとなっている。
「……先に、寝てていいって言ったのに」
それでも律儀な彼女は、編み物をしながら結弦を待っていてくれたのだろう。
今日は、色々あっていつもよりも疲れただろうに。
結弦は、真理愛のスマホを胸ポケットに入れ、彼女を起こさないように気を付けながら、そっと抱き上げる。ジャスティンがぐーっとあくびと伸びをして立ち上がり、後をついて来る。
「ジャスティン、開けてくれるかい?」
賢い愛犬は、後ろ足で立ち上がるとドアノブに前脚をひっかけて、器用にドアを開けてくれた。
中へ入り、なんとか布団をめくって彼女をそっと横たえる。
「……ん」
手を抜こうとしたところで、身じろぎした彼女に一瞬で動きを止める。
だが、すぐにすやすやと穏やかな寝息が聞こえて、ほっとしながら手を抜いて、布団を掛ける。ジャスティンは、当たり前のように彼女の隣に潜り込んだ。
なんとなく離れがたくてベッドのふちに腰かけた。胸ポケットに入れっぱなしだった彼女のスマホを取り出して、枕元から伸びていた充電器に繋いで、そこに置く。そして、夜中に真理愛が起きた時、怯えないようにとベッドサイドに置かれたランプを点けた。オレンジ色の光が淡く照らす。
真理愛の部屋には、何もない。
ここへ引っ越してくる時、真理愛は両親や祖父母からもらった宝物と生活に必要な調理器具以外、倉庫に預けようとしていたし、それができない観葉植物の類だけ申し訳なさそうに持ち込んでいいか聞いてきた。
だから結弦は、我が儘を言って真理愛のレシピ本コレクションをリビングの本棚に並べるように言った。自分も料理に挑戦してみたいから、と理由を添えて。彼女は、渋々頷いてくれた。(誤算だったのは、彼女の手書きレシピノートが全部、フランス語だったことだ)
でも、真理愛は結局、こうして何もない部屋に暮らしている。
「君は、何に怯えているの?」
真理愛が、この二週間、ストーカーが沈黙しているからか、不動産屋で物件を探して出て行こうとしているのくらい、結弦だって気づいている。
真理愛は、結弦の隣で笑ってくれる。結弦が触れても逃げないでいてくれる。手を取れば握り返してくれる。
でも、心の奥、その手前に引かれた一本の線を越えることは許してくれない。
ストーカーが怖い。暗い部屋が怖い。男が怖い。
彼女が怖いものは知っているけれど、それ以上に彼女が怖がっているものが本当はなんなのか、結弦には分からなかった。
「君は、きっと知っているんだろうね、ジャスティン」
賢い愛犬は、真理愛が本当に恐れているものを知っているような気がした。だから、飼い主である結弦を差し置いて、真理愛の傍にいるのだろう。
「今夜も頼むよ」
そうジャスティンに告げて結弦が立ちがった時だった。
「……う、ん? ……ゆづる、さん?」
振り返れば、長い睫毛が震えて菫色の瞳が結弦を見上げていた。
「ごめん、起こしちゃった? そのまま寝ていいよ」
しかし、結弦の願いとは裏腹に真理愛は、ゆっくりと体を起こしてしまう。ミルクティー色の柔らかな髪がふわりと背中に落ちて揺れる。
「ごめんなさい、重いのに運んでくれたんですね」
眠気の残る声で彼女が言った。申し訳なさそうに下がった眉に結弦は肩を竦める。
「まさか、真理愛さんはとても軽かったよ。……このまま翼が生えて、どこかに飛んで行ってしまうんじゃないかと錯覚してしまうくらいには」
真理愛が息を呑んだ。逃げるように菫色の瞳が伏せられる。
鉄仮面と会社で呼ばれているのに、嘘や不都合を隠し通せない不器用な人だと、この数週間一緒にいて知った。
「……御影から聞いたんだ。君が、スマホを見て何か思い詰めているようだって。運転手としての休日の予定を聞かれましたとも。……部屋を探しているんだろう?」
ランプのオレンジ色の光が、弱く照らす部屋の中で、真理愛はなかなか顔を上げてはくれなかった。結弦は、立ったままじっと俯く彼女を見下ろす。
どうして、今の結弦には許可なく彼女を抱き締める権利がないのだろう。
「結弦さんに、これ以上、ご迷惑をおかけしたくないんです……」
「最初から言っているけど、僕は一度だって迷惑に思ったことはないよ。君は怒るかもしれないけど、あの日、僕に体当たりしてカレーうどんを君にかけてくれた水原さんに感謝してしまうくらいには、君と過ごす日々は僕にとって大切なものだよ」
おずおずと真理愛が顔を上げた。
今にも泣き出しそうな顔をして、真理愛は、結弦を見上げている。
そんな無防備な顔を、貴女を想う男の前でしないでほしいと思うのに、同時にそんな顔を向けられることに、こんな時でも喜びを感じてしまうのだから、どうしようもない。
「……でも、私が耐えられません」
「僕と暮らすのは、苦痛だった?」
「違いますっ」
悲鳴にも似た声で真理愛が叫んで、首を横に振った。
「そんなことっ、そんなことありません……っ。結弦さんは、とても良くして下さいました。本当に感謝しかありません。でも……私が、もう無理なだけなんです」
ぐしゃりと心が握り潰されるような痛みが走った気がして、体の横で拳を握りしめた。
「私は、もうここにいたくないんです」
「僕は、君が好きだ」
真理愛の口から「……え」と小さな声が漏れた。菫色の瞳が呆然と結弦を映し出している。自分は今、どんな顔をしているのだろう。
「僕は、真理愛が好きだ。ずっと好きだった。だ、だから、君はなかなか僕を相手にしてくれなかったけど、会社でもできるだけ君に声を掛けたし、気を引こうと必死だった。……君が僕を男として意識していないのは分かっているけど、でもそれでも諦められないくらい、君が好きだよ。だから……僕は君を護りたい」
心臓が口から飛び出るかと思った。途中、格好悪いことに声が上ずってしまった。
人生でこんなに緊張したことがあっただろうか。いや、ない。こんな、息の仕方も忘れてしまうような緊張なんて、一度もなかった。
「…………真理愛さん?」
真理愛の顔からだんだんと血の気が失せていく。
思わず伸ばした手に真理愛が、大きく肩を跳ねさせ、怯えたように目を閉じた。
その理由に思い立って、結弦は慌てて手を引っ込めて、二歩、三歩と下がった。
「ごめん、真理愛さん。何もしない、絶対に何もしないよ……っ」
クソっと心の中で自分自身に毒づいて、結弦は距離を取る。
真理愛が今まで、自分を好きだと言った男に怖い思いをさせられてきたのを、失念していた。結弦を怖がらずにいてくれたのは、彼女の中で、結弦が真理愛を恋愛対象として見ていないという安心があったからだ。
ジャスティンが起き上がって真理愛に寄り添うように体をくっつけると、真理愛が縋りつくようにジャスティンに抱き着いた。その細い手が、腕が、震えている。
「真理愛さん、今のは……今のは……っ」
忘れてくれ、と言わなければと思うのに、結弦の舌も唇も喉も何一つ言うことを聞いてくれなかった。言わなければならないその一言が、喉の奥からどうしても出てこなかった。
「……ごめん。でも、僕は絶対に君を傷つけたりしないと約束するから。お願いだ、ストーカーが捕まるまででいいから、まだここにいてくれ。御影がいれば大丈夫だから、僕は、この家には帰って来ないようにするから、だからここにいてくれ。本当にごめん……ジャスティン、頼むよ」
結弦は一歩、一歩と出口へ下がりながら言葉を紡いだ。真理愛は、ジャスティンの首にうずめた顔を上げることはなくて、胸が張り裂けそうな痛みに唇を噛んだ。
ばたり、とドアを閉めて、ずるずるとしゃがみこむ。
静まり返った家の中で、押し殺された微かな嗚咽が、ドアの向こうから聞こえて来た。ドアに手を当てれば、その冷たさだけた手の平に広がる。
「……ほんとうに、ごめん……っ」
情けないくらいに震えた声は、それしか紡ぐことができなかった。
――……ごめんなさい、ごめんなさい
真理愛は、心の中で、何度も、何度も謝罪を繰り返した。
嬉しかった。
好きな人から、好きだと言われて、嬉しくないわけがなかった。
でも、同時に怖かった。
真理愛なんかを好きになってしまったせいで、結弦がストーカーに傷つけられるかもしれないと、思っただけで怖くて、怖くてたまらない。
母は軽い怪我で済んだけれど、父は何針も縫ったし、長いこと不自由な思いをしていたし、その傷跡は今も父の腕に残っている。
離れなきゃ、と真理愛は自分に言い聞かせる。
真理愛しかしらなくても、ほんの一瞬でも両想いだった瞬間があった事実だけで、真理愛は、ひとりで生きていける。
「……だいすきです、ゆづるさん」
ジャスティンのふさふさの毛の中に全て溶けていくように願いながら、真理愛は初めて自分の恋心を口にしたのだった。