3-6
昼休憩の時間になり、真理愛はランチボックスを手に席を立つ。
「真理愛ちゃん、今日はご一緒してもいい?」
「はい。もちろんです」
「ありがとー。聞いて聞いて、今日は旦那くんが作ってくれたのー、愛妻弁当ならぬ愛夫弁当よ!」
十和子はそう言って嬉しそうにランチバッグを掲げてみせた。十和子はいつも彼女の同期の女性と食事をとることが多いが、時折こうして真理愛と一緒に食べることもあった。
真理愛が十和子と休憩室へ歩きながら話していると、どん、と何かにぶつかられて十和子がよろめく。慌てて真理愛が支え、一体何がと顔を上げれば水原が真理愛たちの前に立ちはだかっていた。いつものお供を連れておらず、珍しく一人だ。
水原は、今日もばっちり化粧をしていているのに、いつもは綺麗に手入れされているトレードマークのピンクのネイルがはげかかっている。
「何かご用? 水原さん」
誰より先に態勢を立て直した十和子が口を開いた。
水原は、十和子の問いかけを無視して、じろじろと無遠慮に真理愛を上から下まで観察するかのように視線を走らせた。
何も言わない水原に真理愛と十和子は顔を見合わせる。
「あの、水原さん? 本当に何か……きゃっ」
突然、真理愛のランチバッグがひったくられた。
周りも異変に気付いて何事かと足を止め、首を傾げている。
真理愛と十和子が、呆然としている間に水原は、水色の弁当箱を取り出すと、ランチバックを放り投げる。そして、弁当のバンドを外して、蓋を投げ捨てる。
「なんで……なんでっ! なんでなのよ……っ!」
中身を見た水原の目が吊りあがる。まるで鬼のような顔でこのまま弁当箱を握り潰してしまいそうだった。
「み、水原さん?」
さすがの真理愛も水原の奇怪な行動が理解できずに声が上ずった。
それに今の水原の顔を見て怯えない人間なんていないのではないだろうか。十和子でさえ引いている。
「…………で」
「え?」
聞き取れずに首を傾げる。
ばっと勢いよく顔を上げた水原は、眉をこれでもかとつり上げ、わなわなと唇を震わせていた。あまりの迫力に思わず十和子と手を取り合い、後ずさる。
「なんで、なんで!! なんで、こんな冴えないブス女なのよ!」
そう叫ぶと同時に水原は真理愛の弁当箱をいきなり壁にたたきつけた。当たりどころが悪かったのか弁当箱がぱきんと音を立てて一部が割れて転がり、中身が飛散する。ころころと本日のメインであった手製のミートボールが零れ落ちて転がっていく。
「え……っ!」
「嘘でしょ⁉ ちょっと人のお弁当に何してるのよ!」
十和子が叫び、周りも驚きを隠せない様子でざわめきが大きくなる。
しかしそれだけでは飽き足らず、水原は「なんで、なんで、ありえない」とぶつぶつ言いながら、落ちた弁当の中身を踏みつぶしている。狂気さえ感じるその姿に止めようとようと手を伸ばす十和子を真理愛は止めて、その手を握ったままさらに彼女から距離を取る。
「ありえない、ありえない。ありえないっ、なんで、なんでこのブスが……っ」
「な、何事だい? ……ひっ」
騒ぎを聞きつけたのか、誰かが呼んだのか椎崎課長が青い顔でやってくると水原にぎろりと睨まれ悲鳴を上げた。後ろから経理課の同僚たちが続々と集まって来る。
「あんた、絶対に許さないんだから……っ」
水原は、最後に真理愛を睨むと、固まるこちらを無視してさっさとどこかに行ってしまった。
「え……えー?」
十和子が呆然とした声を上げた。周りも呆気に取られていて、言葉がないようだった。
真理愛も突然の、まるでゲリラ豪雨のような襲撃に言葉が出てこない。
「え、ええと、何事?」
椎崎課長が尋ねられるが、当事者である真理愛にすら分からず首を傾げて言葉を探す。
「ちょっと椎崎課長! いますぐ人事課に行って苦情を申し入れて来て下さい! 水原さんったらいきなり現れて、真理愛ちゃんのお弁当をひったくって、わけの分からないことを言って、この通りですよ!」
言葉を探す真理愛に代わって、十和子が説明してくれた。
「え? え? いきなり? そうなの畠中さん? 喧嘩したとかじゃなくて? 確か、水原さんとは同期だよね?」
「……はい。同期ですが接点もないですし、ここ最近、会話をした記憶も……本当にいきなり……あの、まずはお掃除を」
真理愛が入社当時から愛用していた弁当箱は哀れな姿になり果てている。真理愛が片付けようとしゃがむと十和子が「私も手伝うわ」と同じようにしゃがみこんだ。
「椎崎課長! 突っ立ってないで給湯室に行って掃除用具を持って来てください!」
「え、あ、は、はいぃ!」
十和子の迫力に気圧された椎崎課長が慌てて給湯室に駆けて行く。
「あの、これどうぞ!」
そう言って経理課の同僚の女性が昼ご飯が入っていたのだろうコンビニの袋を差し出してくれたので、お礼を言って有難く頂戴する。
手でかき集めたミートボールや潰れたおにぎりなどを袋に入れる。同じくコンビニの袋を提供してくれた人がいたので、そちらに割れてしまった弁当箱を入れた。
椎崎課長が持ってきてくれた雑巾で壁と床を拭く。
それから手助けしてくれた人たちにお礼を言って、真理愛は十和子と共に給湯室へ向かったのだった。
「本当、一体何だったのかしら!」
給湯室に入って第一声、十和子が言った。
掃除用具を片付けて、順番に手を洗う。
「すみません、十和子さん。あの、お昼、食べちゃってください。時間が……」
「もう、そんなことより大事なことでしょ!」
そう言って十和子は、一度、廊下に顔を出して辺りを見回した後、顔をひっこめドアに鍵をかけた。
「十和子さん?」
「ねえ、真理愛ちゃん。小鳥遊くんのお弁当、真理愛ちゃんが作ってるんでしょ? おかずだって同じになるわよね」
少しばかり声をひそめて十和子が尋ねてくる。
「はい。大きさの問題で結弦さんのお弁当にはおかずが、もう二品くらい増えていますが、メインは同じです」
「……もしかして、水原さん、小鳥遊くんのお弁当、見たんじゃないかしら。それで、確認しに来たとか?」
「昼休憩開始直後で結弦さんのところに確認しに行っていたには早すぎませんか?」
「それもそうか……でも、一応、聞いてみて」
十和子に言われて、真理愛は戸惑いながらもスマホを取り出して結弦にメッセージを送る。すぐに既読がついたと思ったら、メッセージではなく電話がかかってきた。
「え……」
「ほらほら出て」
十和子が横からひょいっと指を出して画面をスワイプし通話にしてしまう。真理愛は慌ててスマホを耳に運ぶ。
「も、もしもし」
『もしもし? どうしたの?』
「お尋ねしたいことがあって、今、大丈夫ですか?」
『うん。今、社外だけど休憩中だし、あ、すみません。ありがとうございます。……え? いえ、……まあそうなればいいとは思ってるんですけど……』
途中、別の男性の声がして、結弦が返事を返す。誰かと一緒に外回りに行っているのかもしれない。
『それで尋ねたいことって?』
その誰かに断りを入れてから結弦が真理愛との会話に戻って来る。
「……いえ、外ならいいんで、すっ⁉」
「もしもし、小鳥遊くん? 日野十和子ですけど!」
真理愛の手からスマホを抜き取って十和子が喋り出す。
「さっきね、いきなり人事課の水原さんが真理愛ちゃんのお弁当を取り上げて、中身を見て鬼みたいな顔になったかと思ったら壁に投げつけたのよ! しかも床に落ちたお弁当の中身をふんづけたの! え? 真理愛ちゃん? 無事よ。怪我一つないわよ。お弁当は壊れちゃったけど……そ・れ・よ・り! 水原さんが『なんで』とか『ありえない』ってお弁当を見て叫んでいたから、小鳥遊くんのお弁当を見て真理愛ちゃんのを確認しに来たんじゃないかって思ったのよ」
十和子が途中でスピーカーに切り替えたので、真理愛にも結弦の声が聞こえるようになる。どこかの商業施設にいるのか、ざわめきとそれっぽいアナウンスが流れている。
『実はスケジュールの関係でもう既にお弁当は食べちゃったんです。それで今は休憩して、次の取引先へ向かう予定です。お弁当も商業施設のフードコートで食べたので』
「じゃあ、関係ないのかな……でも、なんかそうは思えないのよね」
十和子が顎に片手を当てて首をひねる。
『……城嶋さん、僕の今日のお弁当の中身、社の誰かに言いました?』
『何で? わざわざ言わないけど?』
城嶋さんと呼ばれた男性の声が不思議そうに返す。確か城嶋は結弦と同じ営業一課の社員で、結弦の先輩だ。
『ですよね。ちょっと色々あったみたいで……水原さんと僕が会話したのは、昨日の退勤時で向こうから声をかけてきて……でも今日は会ってないんです。気になりますね……一応、正人――知り合いの警察官にも連絡しておきます。あの、そこにまだ彼女いますか?』
「いるわよ。はい、真理愛ちゃん」
十和子がスピーカーをオフにして、真理愛の手にスマホを戻す。真理愛は、のろのろとそれを耳に当てた。
「あの、すみません。休憩中に……」
『君が謝るべき点は、今の話を僕に秘密にしようとしたことだよ。隠さないでよ……お願いだから』
「…………ごめんなさい」
『ん。いいよ』
こんな時でも結弦の声は、ホットミルクのように優しい。
『……なーんて、本当はこんなことを言う資格なんて、今の僕にはまだないかもしれない。でも、君は僕の大事な人なんだ。本当だよ、本当に心から君が大切なんだ。だから、隠さないで』
「……はい。すみません」
そう返した声は、震えていなかっただろうか。
スマホを放り投げて、もうやめてと叫びたいような、もっと強くスマホを耳に押し当ててずっと聞いていたいような矛盾した気持ちがぐるぐると渦を巻く。
『今日は絶対にひとりにならないようにね』
「はい。結弦さんも気を付けて下さいね」
『うん。もちろん。今日は八時前には帰れると思うから』
「分かりました」
『じゃあ、午後も頑張ろうね。行ってきます』
「行ってらっしゃい。頑張ってください」
そのやり取りを最後に通話が切れる。
真理愛はずるずるとしゃがみこんで、スマホを胸に抱きしめるようにして膝に顔をうずめた。十和子が「真理愛ちゃん⁉」と慌てたように隣にしゃがむ。
「ご、ごめんね? 勝手に話しちゃって、怒られ」
「十和子さん。私、勘違いしてるんです」
焦る十和子の言葉を遮って真理愛は、膝に顔をうずめたまま言葉を紡ぐ。
「勘違い? 真理愛ちゃんが?」
こくん、と頷いてスマホを握る手に力を籠める。
「ずっと、ひとりで生きていくんだって決めていたんです。秘密を抱えて生きていくなら、誰にもバレないように、ひとりで生きて行こうって。その方が、とても楽だろうし、事実……鉄の仮面をかぶってひとりで生きるのは、楽でした」
きっと、なんのことか分からないだろうに十和子は、黙って耳を傾けてくれていた。
「でも、本当は……たぶん、さみしかったんです」
吐き出した息が震えている。
「だからっ、だから……結弦さんが優しく接してくれる度に、私なんかを大事だって言ってくれる度に、勘違いするんです。……――結弦さんが好きだって」
温かくて小さな手が真理愛の背中を、とんと撫でてくれた。
「ずっと、一緒にいたいって、勘違いするんです」
「……それは、勘違いじゃないといけないの?」
十和子の声は、柔らかかった。泣いている子どもをあやす、お母さんの声だ。ほら泣かないで、話してごらんと子どもを諭す優しいお母さんの声だった。
「だって、わたしは、ひとりで生きていかないと、いけないから。結弦さんは、あの日、たまたま傍に居合わせて、優しい人だから、私を助けようとしてくれているのに……私なんかが、そんな感情を抱く方が間違っているんです」
早く、出て行かなければ、そばを離れなければと強く思った。
このままでは本当に、真理愛はひとりで生きていけなくなってしまう。
「……ねえ、真理愛ちゃん」
十和子が、真理愛の背中をさすりながら口を開く。
「私は、真理愛ちゃんの秘密が何かなんて分からないけど……過去に、きっと辛いことがあったのね。だから、そんな悲壮な決意をしてしまったのね」
優しく温かい手に促されるように真理愛の口は言葉を紡いでいた。
「…………高校生の時、ストーカーに襲われて」
十和子の手が止まった。
「助けてくれたパパが、ナイフで……腕を切られたんです……。ママも、私を庇って、怪我を、して……」
真理愛は、顔を上げて笑った。
「だから、だから、わたし……ひとりがいい。ひとりで、いい」
目を見開いた十和子が、息を呑んだ音がやけに鮮明に聞こえた。
あの日、両親が帰宅したのは真理愛が帰宅して、家の中でストーカーと鉢合わせ、襲われた直後のことだった。
駅まで父を迎えに行った母が先に帰って来て、リビングで真理愛の上に馬乗りになっていたストーカーに悲鳴を上げて、体当たりをして、真理愛を庇うように抱き締めてくれた。ストーカーは、その母の髪を引っ張り引きはがそうとしたが、母が無我夢中で父の名前を呼んで助けを求め、車庫に車を停め終えた父がすぐに気がづいて駆けこんで来て、ストーカーを殴り飛ばした。
それで激昂したストーカーは、隠し持っていたナイフで父の腕を切りつけたのだ。
だが、武道の心得があった父は、ストーカーを背負い投げし、何かの技を決めて落とすとストーカーをガムテープでガチガチに拘束して、警察と救急車を呼んだのだ。
その間、真理愛は、母の腕の中で震えていることしかできなかった。
結弦には、過去のストーカーの話をしたことはあった。でも、両親が怪我をしたことは伝えていなかった。
言えばきっと、優しい彼は「僕だって、そんな場面に遭遇すれば同じように守るよ」と言っただろう。だから、言えなかった。いや、言いたくなかった。
結弦が真理愛を大切だと言ってくれるのと、同じだけ、いいや、それ以上に真理愛にとって結弦も、いつの間にか大事なひとになっていたのだ。
「ごめんなさい、十和子さん。変なことを言ってしまって……お昼もまだなのに」
「真理愛ちゃん」
何か言いたげな十和子に気づかないふりをして、真理愛はスマホを手に立ち上がる。
「ちょっと甘いものが欲しいので、自販機でミルクティーを買ってきますね。せっかく誘っていただいたのに一緒に食べられなくてすみません。椎崎課長には私からお願いしておきますので、十和子さん、ゆっくりお昼ご飯、食べて下さい」
ごめんなさい、ともう一度告げて、鍵を開けて廊下に出る。
廊下には、昼休憩を終えて戻ってくる人の姿がちらほらと会って、真理愛は、後ろ手にドアを閉めて深呼吸を一つする。
「大丈夫、大丈夫よ、真理愛」
口の中だけで呟いて、真理愛は十和子に言った通り、自販機へと歩き出したのだった。