3-5
「真理愛さん、やっぱり一緒に」
「行きません」
真理愛はきっぱりと断り、パンプスに足を入れる。一足先に廊下に出ていた結弦は、不満そうに眉を寄せた。
「行って来るね、ジャスティン」
「行ってきます、ジャスティンくん」
二人そろって愛犬に声をかけて、ドアを閉める。オートロックなので勝手に鍵がかかる。
会社が始まって早いもので二週間が経った。
つまり鮫島にバイクで追いかけられてから二週間だ。
「この二週間は何もありませんでしたから大丈夫です。諦めてくれたのかもしれませんし」
「いーや、絶対に諦めてないよ」
「……ですが、お手紙も来なくなりましたし、待ち伏せだって、あれ以来一度もありませんよ」
「いやいや、甘いよ、真理愛さん。何かしらのタイミングを待っているだけに違いないよ。こっちの気が緩むのを狙っているのかも。刑事である正人だって同じことを言ってたよ」
そう言って結弦が歩き出す。
真理愛が言った通り、あのバイクで追いかけられた日からぴたりとストーカー行為が止んだのだ。真理愛のマンションのポストに手紙は入らなくなったし、待ち伏せをされている様子もない。もっとも、会社の出勤時と退勤時は厳ついバイクと一緒に結弦の友人であり刑事の東条正人が睨みを利かせているからかもしれない。
「ねえ、一緒に行こうよ」
「行きません。……それでなくとも今は、王子のお弁当の君探しで会社は賑わっているんですよ? 一緒に行ったりなんかしたら……だめです、怖くて言葉にもできない」
エレベーターに乗り込みながら真理愛は片手を頬に当てて溜め息を零す。
「それもこれも結弦さんが、お弁当の自慢をするからですよ」
眼鏡越しにぎろりと睨むが、結弦は堪えた様子もなく、何故か照れたように笑った。
新年の挨拶回りがひと段落した結弦に請われるままに、真理愛はお弁当を作った。結弦は、それはそれは喜んで、大切な宝物を扱うかのようにランチボックスを抱えていた。
そこまではいい。作り手として、そこまで喜んでもらえれば誰だって嬉しいだろう。
問題は、その後、会社でのことである。
この男は、会社でそれを同僚たちに自慢したのだ。「大事な人が作ってくれた」と誤解しか招かないような文言を添えて。
十和子が「王子ったら、子どもみたいに自慢してたそうよ! 可愛いわね!」と情報を仕入れて来て、ニヤニヤしながら教えてくれたのだ。
おかげで現在、女性社員たちが阿鼻叫喚となり、弊社の王子の恋人は誰だと社内外問わず探し回っているのである。
「僕、恋人だなんて言っていないんだけどなぁ?」
ぽりぽりと頬を指で掻きながら結弦が言った。
「結弦さんの立場や年齢的に、そう言われたらほぼ間違いなく恋人だと思われます。嘘でもいいからお母さんに作ってもらったとか言えばよかったんですよ」
「えー、この年でそれはちょっと……」
まるで子どもみたいな声を上げて、結弦は形の良い眉を下げた。
「それに、僕にとって真理愛さんが大事な人っていうのは嘘じゃないよ?」
ふわりと柔らかな微笑みが落とされて、一瞬、呼吸と心臓が止まった
それを鉄仮面の下にどうにか押し込んで、「そうですか」とそっけない返事を返した。
結弦は、「本当なのに」と拗ねたように言った。
真理愛は、エレベーターが今日に限って、酷くゆっくり下降しているように思えた。さっさと着いてくれないと、この心臓の音が彼に聞こえてしまったらどうしてくれるのだと八つ当たり染みた気持ちを込めてドアを睨んだ。
もうすぐ着くというタイミングで、結弦が口を開く。
「真理愛さん、社内で何か異変があったら」
「結弦さんと椎崎課長か十和子さんに連絡」
「帰る時は?」
「御影さんに連絡」
毎朝、必ず同じことを確認する彼は、真理愛の返事に満足げに頷いた。
チンと音がして、ドアが開く。
「じゃあ、真理愛さん。行ってらっしゃい」
「行ってきます。……結弦さんも安全運転で行ってらっしゃい」
地下の駐車場に行く結弦とはここでお別れだ。
エレベーターから降りて振り返ると結弦がひらひらと手を振っている。真理愛は、周りに誰もいないことを確認して、控えめに手を振り返した。
嬉しそうに笑う結弦がエレベーターの扉の向こうに消えていく。
ドアが完璧にしまって、その瞬間、しゃがみこみそうになるのをなんとか耐えて、深呼吸を三回。
結弦は、真理愛とは違って言葉も感情もとても素直だ。
真理愛は、鉄仮面をかぶり直してエレベーターホールを出る。
「おはようございます、畠中様。行ってらっしゃいませ」
「おはようございます。行ってきます」
コンシェルジュに挨拶を返して、真理愛はエントランスを出て、待っていてくれた御影の車に乗り込んだ。
挨拶を交わして、真理愛がシートベルトを嵌めると車は滑らかに動き出す。今日も隣の座席には、アルバムが置いてあり真理愛は、毎朝の楽しみになっているそれを開く。今日は、娘さんの運動会のアルバムだった。
だが、油断すると結弦のことを考えてしまう。
優しい人。穏やかな、怖くない男の人。
きっと、だから、自分勝手な真理愛の心が彼への、感情を恋だと勘違いしてしまったのだ。
優しいから、触れられても怖くないから、傍にいると安心するから。
つり橋の上での恋のように、これは非日常のなかで心が勝手に恋だと勘違しているのだ、と真理愛は、勘違いを自覚した二週間前のあの日から、毎日自分に言い聞かせている。
それに結弦が思わせぶりなことを言うのも、この勘違いを加速させているのだ。
大事な人だよ、と彼は臆面もなく言う。
やめてほしい。馬鹿な女が勘違いをしてしまいそうになる。
嬉しかった。その言葉に飛び跳ねてしまいたくなった。
でも、真理愛のこの勘違いの恋心は、結弦にとって迷惑以外の何物でもないだろう。
彼は、真理愛と似たような経験をしている。整った見た目に相手が勝手に恋に落ちて、勝手に想いを押しつけられて、それで困り果てるということの面倒臭さを、彼も知っている。
結弦は、あの日たまたま居合わせただけで、真理愛を匿うはめになって、それでも優しい彼は真理愛を大事にしてくれている。
だから、これ以上、迷惑なんてかけたくなかった。
真理愛は、ひとりで生きていくのだ。この仮面をかぶったその日から、そう決めている。
「だから……これは、勘違い」
言い聞かせるように呟いて、真理愛はアルバムを閉じた。今日もとても癒された。
「畠中様。うちの、坊ちゃん、いえ、結弦様はどうですか?」
アルバムを閉じたタイミングで御影が言った。
どういう意味だろうと首をひねるも、結弦から御影は子どもの頃から世話になっていて兄のように慕う人だと聞いているのを思い出す。
「お元気ですよ。今日はお弁当のミートボールに喜んでいました。昨夜は、初めてひとりでお米が炊けたと報告を頂きました。まあ予約ボタンが押していなかったので、私がこっそり押したので、今朝、無事に炊き上がっていたのですが……」
結弦が兄と称したように、御影も弟のように結弦を可愛がっている面があるから、近況を知りたいのかと真理愛は、とりあえず昨日と今日の結弦の報告をする。
すると御影は「娘の幼稚園の連絡帳かな」とよく分からないことを呟きながら、赤信号で止まった車のハンドルに突っ伏してしまった。
「ど、どうされました? あ、やっぱりちゃんと予約ボタンの押し忘れを指摘したほうが良かったでしょうか? あまりにも得意げだったので言い辛くて……」
「いえ、うちの坊ちゃんがポンコツ……ごほん、健やかだということを実感して、微笑ましくなっただけでございます。もう本当に」
「なら、よかったです」
ほっと胸を撫で下ろすと同時に、青信号に従って車が動き出す。
窓の外に顔を向ければ、コートにマフラーを装備した人々が黙々と歩いている姿が目に入る。
真理愛は、スマホを取り出して不動産屋のサイトを開く。
セキュリティ重視で、この際、家賃は少し高くなっても致し方ない。
一番重要な家賃もだが、立地、通勤時間や間取り、諸々の経費込みで何件かはピックアップしてある。問題は、どうやって結弦の目を掻い潜って、内覧に行くかどうかだ。御影に頼めればいいが、間違いなく結弦に話が行くので無理だ。
いっそ、素直に言ってみようかと思うが、存外、過保護な結弦がストーカーが捕まっていない現時点で納得してくれる気が一ミリもしない。
ひっそりとため息を零して、スマホを鞄へと戻した。
車はいつもの位置へ緩やかに停車する。御影が先に降りて周囲を確認してからドアを開けてくれる。
「真理愛ちゃん、御影さん、おっはよう!」
顔を上げれば、十和子が駆け寄って来る。車から降りて挨拶を返す。
「おはようございます、十和子さん」
「今日も寒いわねぇ。さっさと中へ入りましょ」
そう言って十和子が肩を竦めた。
毎朝、十和子や椎崎課長、他に同じ経理課の誰かがそれとなくこうして来てくれる。その度に真理愛は、むずがゆい思いがして、今日も仕事を頑張らなければと思うのだ。
「行ってらっしゃいませ」
御影に見送られるようにして、足早に会社の中へと入る。社員証を翳して、受付を通ると、いつもほっとする。
順番を待ちながらエレベーターに乗り込み、上へと向かう。
更衣室で着替えて、ランチバッグを持って廊下へ出る。お弁当を取りに更衣室に戻るのが面倒なので(あと過去の苦い経験から)、いつもデスクの鍵つきの引き出しに入れている。
「今日も一日頑張りましょうねぇ」
そう言って笑う十和子に「はい」と頷いて返し、経理課へと足を動かすのだった。