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経理課の鉄仮面。
入社三年目になる畠中真理愛は、影でそう呼ばれている。
そう呼ばれ出したのは今年の二月頃だった。
喫煙ルームで男性社員が三人、そんな話をしていたのを偶然、聞いてしまったのだ。
『経理課の畠中さんって、表情乏しいし、喋り方も淡々としててさ、あのでっかい眼鏡で素顔もよく分かんないし、鉄仮面って感じだよな』
『ははっ、鉄仮面! しかも、期日期日うるさいし、ちょっとでも計算が違うと嫌味たらしく指摘してくるし。それに見た目もかなり地味っていうかダサイし、無駄にでけぇし』
『ははっ、あの眼鏡とかどこで売ってんのレベルだよな? ありゃ絶対、処女だよ。でも、あんなのを恋人にするなんてごめんだよなぁ。絶対、心安らがない』
はははっと嘲笑う声が有毒な煙と一緒に吐き出される。
その時、足を止めた真理愛とガラス越しに目が合って、三人で並んで煙草を吸っていた男性社員が表情を強張らせた。
ガラスと言ったって、煙を遮るのが役目で防音は範疇外だ。それにあれだけ大きな声でしゃべっていれば、廊下でも普通に聞こえる。
だが、三人の強張った顔がどうしてだかとても滑稽に見えた。何だか可笑しくなって噴き出しそうになるのを耐えて小さく会釈だけして、目的地である自動販売機へと足を踏み出した。
あれくらいの悪口には慣れているし、同性から言われる悪口の方がもっとえげつないのを真理愛は身をもって知っている。
この時、やっぱり淡々と表情一つ変えずに通り過ぎていったからか、この日から真理愛は「経理課の鉄仮面」と呼ばれるようになったのだ。
まだ十代の頃、真理愛は色々と不運だった。不運という言葉では甘いかも知れないくらいに、不幸だった。
人間という生き物が信じられなくなるくらいには、不幸だった。
だから、父親の転勤に伴い、地元を離れ東京の大学に進学することになった時、不幸の原因となったものを隠して、人の目につかないように地味に生きようと決心した。
同年代の日本人女性の平均より大分高い一七〇センチの身長だけはどうにもならなかったが、それ以外は徹底して「地味」を目指した。飾り気のない黒髪は肩の上できっちり揃え、大きな黒縁の眼鏡と厚い前髪という野暮ったい見た目に、淡々とした喋り口調。余計な口は聞かず、用件だけのやり取りを心掛ける。
その結果は非常に快適な生活を真理愛にもたらしてくれた。そのおかげか、家の中ならばおしゃれを楽しんだり、大好きな料理を楽しんだり、自分の好きなことに気兼ねなく時間を費やす心の余裕が持てるようになった。
真理愛は、もう一生、このまま地味にひっそりとひとりで生きていこうと心に決めた。
秘密を抱えて生きるなら、ひとりが一番いい。だから、安定した老後のために良い会社に就職しようと真面目に大学に通い、卒業後、文房具を主に取り扱う大手老舗メーカーに就職を果たした。
真理愛の勤めるシュエット株式会社は文房具・オフィス家具、事務機器を製造、開発、販売する会社だ。ちなみにシュエットはフランス語で梟のことで、会社のマークも梟だ。なかなかに大きな会社で業績も安定している。それに福利厚生の充実したホワイトな会社だ。
上司である経理課の椎崎課長は、気の弱い細面の男で無茶な領収書や計算の合わない精算を無表情で突き返す真理愛や気の強い社員に回してくる傾向があるが、それ以外は気も利いて、仕事も真面目で、良い上司だと思っている。
経理課は、黙々と数字と向き合い、ひたすらに仕事をこなすタイプの人間が多く、仕事さえきちんとしていれば何事もなく過ごせる居心地の良い場所だ。ここには真理愛を鉄仮面と呼ぶ人はいない。可能ならば、定年退職までここで数字と向かい合っていたい。
満員電車は苦手だから朝早い電車で出勤し、近くの公園で時間を潰すが、水曜日はそのまま出勤して、タイムカードを押す時間まで部署内の掃除をする。出勤したら只管に数字を打ち込み、伝票を整理し、帳簿を付ける。間違いがないか丁寧に確認をする。昼になったらお手製のお弁当を食べて、休憩が終わったらまた仕事をする。繁忙期以外の平日は定時になったら退社する。
これが真理愛の一日のサイクルだ。
今日も今日とて仕事を終えた真理愛は、身支度を整え同僚たちの波に流されるままエントランスを出て駅を目指す。
十二月になると寒さはより一層、日毎に増していく。真理愛はマフラーに口元を埋め、自然と早足になる。
「あ、畠中さん」
掛けられた声に顔を上げれば柔和な笑みを浮かべた美丈夫が颯爽とこちらにやって来た。
営業部営業一課に所属する弊社の王子様こと小鳥遊結弦だ。
「今、帰り?」
「はい。小鳥遊さんは出先から戻られたんですか?」
駅へ向かう人の流れに逆らうようにやって来た小鳥遊に首を傾げる。
彼はいつもお洒落だ。肩と胸がしっかりしているのでスーツが良く似合うし、ネクタイピンやカフスといった小物の選び方も上手い。今日も明るいグレーのストールを合わせてネイビーのアスターコートを着こなしている。
「うん。挨拶回りにね、電車が上手く繋がらなくて遅くなっちゃったんだ。本当は直帰のつもりだったんだけど明日、朝一で大事な会議があるから資料の確認だけしたくてね」
「そうですか、お疲れ様です」
「ありがとう。えっと、それで、もしよければ……」
「お仕事、忙しいとは思いますがあまり根を詰めすぎないようにしてくださいね。それでは失礼致します」
小鳥遊が何か言いかけた気もするが周囲の雑踏が騒がしいから、気のせいだろう。
真理愛がぺこりと頭を下げると小鳥遊は「気を付けてね、また明日」と見送ってくれた。真理愛も一度だけ振り返り、会社に戻る大きな背中を人混みの中から見送って、駅へと歩き出した。
朝の満員電車は避けられても帰りは仕方がない。真理愛は、人ごみに押し潰されそうになりながら最寄り駅に着くのをじっと待つ。
「そんなに心配しなくても大丈夫なのに」
ぽつりと呟き、真理愛はマフラーを指先で弄る。
小鳥遊結弦、二十八歳。真理愛の四つ上で営業部営業一課のエースと評される優秀な営業マンだ。
そして、弊社の「王子様」として有名な人だった。
三か月ほど前、真理愛が鮫島という男性社員に理不尽に怒鳴られ、殴られそうになった時、助けてくれたのが小鳥遊だった。
あれ以来、小鳥遊は何かと気に掛けてくれて、時折こうして二言三言言葉を交わすようになった。経理課の鉄仮面と呼ばれる真理愛にも分け隔てなく接してくれ、こっそりお菓子をくれたりもする優しい人だ。しかも、そのお菓子がどれもこれも美味しい。
艶やかな長めの黒髪はいつも綺麗にセットされていて、清潔感がある。高く通った鼻筋、薄めの唇、少々吊り目の切れ長の二重の双眸は彼を美しく見せるための位置にきちんとお行儀よく収まっている。百七十センチある真理愛より頭一つ高い背にスーツの上からでも分かる逞しい体は引き締まっており、足が恐ろしく長く、顔が小さい。営業マンでいるよりモデルかホストでもやったほうが儲かりそうな容姿だ。
真顔で黙っていると威圧感があるが、少女漫画で言えば俺様キャラの見た目とは裏腹に物腰が非常に柔らかく紳士的だ。経理と営業という関係なので仕事で関わることは何かとあるのだが、期限を守らなかったり、阿呆みたいにどうして経費で落ちないのかと駄々をこねたり、文句を言ったりする社員がいるなか、小鳥遊だけは常に期限を守り、間違いを指摘しても怒るどころかお礼を言ってくれて、必要書類の提出を怠ったことさえない。
彼が人間的に嫌いなわけはないし、仕事の面では素晴らしい人で尊敬もしている。
だが社内一モテる男には、公衆の面前では特に関わりたくないのが本音だ。女の嫉妬ほど怖いものはない。
ガタンゴトンと揺れる車内でドアに持たれながら、真理愛はひっそりとため息を零した。
――〇×駅、〇×駅、お降りの方は――……
アナウンスを聞きながら真理愛は、電車を降りて改札に向かう。
会社までは電車で三十分。駅から徒歩十五分のマンションの一室に大学卒業後、社会人になってから暮らしている。三階の東の角部屋で日当たりも良く、気持ちの良い朝日が入り込んでくるのがお気に入りだ。駅周辺にも商店街があり、日用品には困らない。
エントランスに入り、ポストの確認をする。
「……また入ってる」
ダイレクトメールと夕刊と一緒に宛名のない真っ白な封筒が一通、入り込んでいた。
十一月の中頃から、このマンションのポストにこの真っ白な封筒に入った手紙が入れられるようになった。最初は、全てのポストに入っていたのに、だんだんと縮小して、どうしてか真理愛のポストにだけ今も尚、毎日、欠かさず入っているのだ。以前、一度だけ確認してみるが中には、何も書かれていないシンプルな便箋が数枚入っているだけで、他には何もなく、文字の一つも書かれていなかった。
管理人に相談したところ、どうやら他の住人のポストにも同じようなものが入れられていて、真理愛だけが被害を受けているというわけではなかった。だが、あまり気持ちの良いものではない。
空室の部屋のポストに入れておくように管理人に言われているので、今日もそこに真っ白な封筒を入れ、夕刊とダイレクトメールを手にエレベーターへと向かう。
不意にぞくりと悪寒が走って、真理愛は辺りを見回すように振り返る。
掃除の行き届いたエントランスはいつも通りだ。マンションの前は車道があり、その向こうに公園がある。ライトの灯りが見えてシャーと音を立てながら自転車が一台、通り過ぎていき、肩が跳ねる。ランニングをする女性が通り過ぎ、辺りはまた静かになった。
「神経過敏になっているだけ、そうよね、真理愛」
自分に言い聞かせるように呟いて、奥にあるエレベーターホールへ急ぐ。
真理愛を不幸にする秘密は、今の真理愛を知る者は誰も知らないはずだ。以前の真理愛を知っている者は逆に今の真理愛を知らないはずだ。先ほど、言葉にした通り、神経過敏になっているだけなのだ。
エレベーターホールはエントランスとガラスの壁で仕切られていて中に入るには指紋認証が必要だ。タイミングよく降りて来たエレベーターから住人が降りるのをまって、急いで乗り込む。閉まるボタンをすぐに押して、狭い鉄の箱に一人きりになる。そこでようやく、安堵の息を吐き出したのだった。