3-1
結弦との同居は、快適の一言だった。
彼は気遣いがプロ級なので、一緒にいて不愉快に感じることがないし、お風呂でばったりなどもない。結弦と出かければ真理愛は自由に買い物も散策もできる。あと、ジャスティンがとても可愛い。体は大きいけれど、ぬいぐるみのように可愛い。結弦に見せてもらった子犬の頃の写真はあまりに可愛くて、真理愛は写真をスマホに送ってもらって、時々、眺めている。
年が明けて、三箇日も過ぎて、今日は五日。明日からはまた仕事が始まる。
大晦日は、一緒におせちを作って、夜は年越しそばを食べた。初詣は、行かなかった。
元旦に結弦の友人で刑事の東条正人から、真理愛のマンションの周辺や最寄り駅の監視カメラの映像などに真理愛の後をつける鮫島が映っていたと連絡があった。鮫島は、マスクを着けている時もあれば、素顔の時もあったそうで、顔を覚えていなかった真理愛に代わって、結弦が顔を確認した。真理愛のストーカーは鮫島だと断定された。
同時に鮫島の居場所が分からないとも言われた。彼の住まいは、真理愛のマンションがある地区とは全く別の場所で、最寄り駅どころか路線も被っておらず、生活圏が全く被っていないことも鮫島をストーカーと断定する要因となった。
だから、最低限の買出し以外は、引きこもりのお正月だった。でも、買出しに行った先で人生ゲームとトランプと花札とテレビゲームを結弦が買ったので、なかなかに忙しい正月休みでもあった。
「あー、明日から仕事かぁ……」
結弦がゲームのコントローラーを操作しながら嘆く。彼の隣で、画面の中で繰り広げられるカーレースを眺めていた真理愛は「そうですね」と返事をする。
明日からは、久々に経理課の鉄仮面にならなければと気合を入れる。その真理愛の膝には相変わらずジャスティンが顎を乗せている。可愛い。
「ところで真理愛さん、どうやって、会社行く?」
結弦は画面を見たまま言った。彼が操作するキノコ頭のキャラクターは、見事なドリフトを決めている。
「……どう、しましょうか」
結弦の家から駅、そして、会社の最寄り駅までは大丈夫だろう確率は高い。だが、鮫島が会社の最寄り駅や、会社で待ち伏せしていないとは限らない。
「僕と一緒にい」
「平穏無事に定年退職したいんです」
真理愛は結弦が言い切る前に首を横に振った。顔を見れば、結弦は拗ねたように唇を尖らせている。
だが、結弦と一緒に彼の愛車に乗って出勤するなんて、万が一でも彼を狙う女性たちに見られたら、考えただけで頭が痛いし、背筋が凍る。
「タクシーは嫌でしょ? 僕が出すって言っても真理愛さん、遠慮しちゃって、自力で帰っちゃいそうだし」
結弦の言葉に真理愛は押し黙る。
タクシー代だって、一日、二日じゃともかく会社は毎日あるのだ。馬鹿にならない額は真理愛にとって途方もない負担であるし、結弦に負担させるなんてもっての他だ。
「……僕の実家に長年、僕の運転手をしてくれていた人がいるんだけどねぇ」
おもむろに結弦が言った。「おっとっと」と少し慌てた彼の視線の先を辿れば、一位を独走していた彼はお邪魔アイテムによって攻撃されたようだ。だがすぐに体制を立て直して、再びコースを走り抜ける。
「その人に頼もうと思ってるんだけど、どうかな?」
「どう、とは? 結弦さん、お車の調子が悪いんですか?」
「僕じゃないよ、君の送迎をだよ」
「えっ」
真理愛は驚きに再び結弦を振り返った。一位でゴールしたようで、テレビからはにぎやかな音楽が聞こえる。
結弦は、じっと真理愛を見つめている。
「御影雄一さんって言ってね、年は四十二歳。十五歳年下の奥さんと五年前に結婚して、今は三歳の娘さんにめろめろのパパなんだけど」
そう言って結弦は、ゲームのコントローラーを置き、スマホを取りだして画面をタップする。ほら、と見せてくれた画面には、温和な雰囲気のイケメン男性が、可愛い女の子を抱っこして満面の笑みで映っている。
「真理愛さんが、嫌じゃなければ彼に送迎を頼もうと思ってるんだ。御影は既に了承してくれているよ」
結弦がどこかのお坊ちゃんではないかというのは、ただの同居人なので詮索したことはないが、なんとなく感じている。
何せ、風呂掃除以外の家事がまともにできないのだ。むしろ、何で風呂掃除だけできるかが分からないのだが、洗濯は下着も靴下も全てクリーニングだと聞いた時は眩暈がしたし、彼の金銭感覚は少々一般人とは違う。ちなみに下着は洗濯の仕方を教えたので自分で洗って貰っている。
それに生前贈与で貰ったというこのマンションや部屋もそうだ。今更、お抱えの運転手がいると分かってもそこまでの驚きはない。
驚きはないが、申し訳ない気持ちは変わらない。
「でも……そこまでご迷惑をおかけしていいんでしょうか」
「迷惑なんかじゃないよ。嫌って言うなら担ぎ上げて、僕の車の助手席に乗せるけど」
「御影さんによろしくお願い申し上げますとお伝えください!」
にっこり笑った結弦に真理愛は、勢いよく頭を下げた。
「ちぇっ、じゃあ、これ、御影の番号ね。メッセージに送っておくから、登録するように。真理愛さんは、基本定時で帰ると思ってお迎えはその時間に頼んであるよ。遅くなる時は、分かった時点でメッセージを送ってあげて。……言っておくけど、御影の送迎を断ったら、僕に連絡が来るし、そうしたら僕の愛車の助手席に押し込むからね」
「分かりました!」
有無を言わさぬ結弦の笑みに真理愛は、コクコクと力強く頷いた。結弦は、何だか不満そうにじとーっとした目で真理愛を見ている。
「と、ところで結弦さん。私は、明日から再びお弁当を作ろうと思っ」
「ありがとう、真理愛さん! 早速、お弁当箱を買いに行こう!」
両手を取られてぶんぶんと上下に振られる。
まだ最後まで言っていないし、そもそも彼の分を作るとも言っていない。
この同居生活の食費は、結弦が真理愛の二倍以上食べるという理由で彼持ちだが、弁当代は言うなれば真理愛の分だけなので、弁当代は自分で払うと言いたかったのに。
「真理愛さん、甘い玉子焼き入れてね!」
ゲームをスリープモードにして、テレビの電源を落とすと真理愛の手を引き、リビングを出る彼は、散歩に行く前のジャスティンそっくりである。
真理愛は「分かりました」と苦笑交じりに返事をするのだった。
結弦は、ため息を一つ零して通話を終えたスマホをデスクに置いた。
時刻は既に日付を跨ごうとしていて、真理愛も彼女についていったジャスティンも夢の中だろう。最近のジャスティンは、薄情なので真理愛と一緒に寝ているのだ。その上、愛犬は真理愛の腕の中で寝ているのである。言っておくが部屋を覗いたのではなく、真理愛に惚気られたのだ。羨ましすぎて血の涙が出そうだった。
その上、真理愛に「ジャスティンくんと一緒だと怖い夢をみないです」と言われては、大人げなくジャスティンに「ハウス」とは言えない。
「……どこ行ったんだろうな」
ぽつりとつぶやき髪をかき上げる。
真理愛のストーカーと断定された鮫島は、未だに見つかっていない。おそらくだが、漫画喫茶やネカフェなどを転々としているか、友人や恋人か家族、或いは何者かが匿っているのではないか、と正人は言っていた。
だが、真理愛のマンションのポストには毎日、手紙が届いているらしい。もちろん、鮫島本人が直接投函しているわけではなく、郵便配達員が届けに来ているそうだ。
消印を頼りに投函場所を特定してはいるが、都内ではあるが毎日、色々な場所から手紙を出しているようで、捕まらないのだと正人が苛立たしげに言っていた。
問題は、四日に届いた手紙だった。三箇日は、二日に配達される年賀状以外の郵便物の配達は休みなので、律儀に三箇日の分も含めて四通届いたらしい。
内容は、真理愛への執着と共に結弦への殺意が日に日に高まっていて、遂に四日の手紙には『小鳥遊結弦を殺して、聖母様を助け出す』という旨の文言が書かれていたそうだ。名指しの立派な殺害予告である。
当たり前のことだが殺害予告とあれば、当然だがストーカー以上に警戒される。
その上、これまで一切、指紋を残していなかったというのに、この殺害予告の手紙にはばっちり鮫島の指紋が残っていた。彼のマンションの部屋から押収した指紋と完璧に一致したそうだ。
さらにこの鮫島の部屋は、寝室の壁と天井に隙間なくサイズは様々な真理愛の盗撮写真が貼られていたそうだ。
鮫島は、確実に真理愛への執着を強くし、結弦への恨みや憎しみを燃え上がらせている。おそらく、真理愛がマンションに帰っていないことを知る鮫島は、真理愛が結弦と一緒にいると思っているのだろう。それに鮫島が逃げ回っているのには、もう一つ理由がある。
鮫島は、会社の金を着服し、横領を働いた。他の社員は知らぬことだが、鮫島は商品情報をライバル社に横流しもしていたのだ。更には特許製品も、その特許技術が盗みだされている。産業スパイと言っても過言ではない。その罪は重い。会社をクビになっただけで済むわけがなく、法的措置をとると既に上が決定したと聞いていた。
会議室では激高して、結弦に呪詛を吐いていた鮫島だが、逃げようがないと理解してからは、実家にてしおらしくしており、連絡も取れていた。だが十一月の中旬から連絡がとれなくなり、家族からも居場所が分からないと連絡があったそうだ。
鮫島が真理愛を付け回すようになったのは、丁度、その行方知れずになったころだと推測されている。
真理愛を狙ったのは、辱められたと思ったか、自分が罰を受けるのは彼女があの日、書類の催促に来たからとか思い込んでいたのかもしれな。それか同性で自分より強いであろう結弦より、確実に自分より弱い女性である真理愛を狙ったのだろうか。どちらにしろ、最低で卑劣なことには変わりない。
だが、彼女の本来の姿を目撃し、その執着は歪んだ愛情に変わった。
正人の調べだと、白紙の手紙だったものに文字が書かれるようになったのは、まさに真理愛の正体を知ってからだったらしい。
不意にスマホがメッセージを受信する。中身と相手を確認し、電話で返す。
ワンコールで応えてくれたのは、御影雄一だった。
『もしもし、結弦様?』
「すまない。正月早々。まだ休暇中なのに」
『私は、結弦様の専属運転手でございますから』
柔らかな声は、昔と一つも変わらない。
「彼女からメッセージもあったと思うけど、明日から頼む」
『はい。丁寧なメッセージを頂きました。結弦様のマンションのエントランスでよろしいですか? それとも地下の駐車場の方へ』
「エントランスで構わないよ。だが、くれぐれも彼女から目を離さないでくれ。会社も、真理愛さんが受付を通って中へ入るまで見守っていてくれ。不審な人物がいたら、彼女を車から降ろさず、逃げるように。話は通してあるから、いざとなったら正人に連絡を」
『かしこまりました。……でも、驚きましたよ。久しぶりに連絡をくださったと思ったら、あの結弦様から女性の送迎を頼まれるなんて』
笑いを含んだ声に結弦は、むず痒い気持ちになる。
御影とは二十年以上の付き合いだ。結弦にとっては、兄のようにも慕う人で、心から信頼している人だ。だから真理愛の送迎を頼んだ。
「……大事にしたい人なんだ。できているかは、別として、笑っていてほしいと心から願っている人なんだ」
柔らかな笑い声は途切れて『そうですか』と穏やかな肯定が返ってきた。
『それならば、私は誠心誠意、送迎を担当させて頂きます』
「うん。頼む。…………それと、相談なんだけど」
『なんでしょう?』
「…………女性ってどうやって口説けばいいんだ?」
これまで結弦は、自分から女性を口説いたことなんて一度もなかった。優しくすることはできても、異性として意識してもらい、恋人関係にどうやって持ち込めばいいのかさっぱり分からない。おかげさまでこの休暇、真理愛とはトランプやゲームをする仲で止まっている。
正人に相談したら仕事漬けの彼には「知るかよ。自慢かよ」と殴られた。でも、御影は結婚願望なんてありませんといいながら、十五歳年下の今の奥さんに出会ってから、僅か三カ月で口説き落として結婚した男である。
数秒の間を置いて『あっはっはっはっ!』と隠しもされない大笑いが聞こえてきたのだった。