2-5
結弦のお気に入りだという喫茶店は、驚くほどコーヒーの美味しいお店だった。サンドウィッチも絶品で、また来ようねと笑う結弦に思わず頷いてしまうほどだった。
昨夜は、宣言通りピザを取って食べた。結弦は真理愛の想像以上によく食べる人だった。Lサイズのピザを一人でぺろりと平らげてしまったし、二枚頼んだので、もう一枚の半分も結弦が食べた。しかもサイドメニューのあれこれも食べていたので、本当によく食べるなぁ、といっそ感動した。
喫茶店はマンションから徒歩五分だったので、一度、マンションに戻って、車ででかける。
助手席に座る真理愛は、悩みに悩んだがウィッグもカラコンも眼鏡も置いてきた。やはり結弦の隣に経理課の鉄仮面がいるのがバレるのだけは避けたい。ストーカーも怖いが会社の人間にバレるのも同じくらい怖い。
ただ、服が、なかった。普段は、地味をモットーにしていて、本来の姿に合わせた外出着がなかった。家の中で着る部屋着は本来の姿に合わせているので、豊富だが、この姿で外出はしないので、ここ数年、仕事着以外を買った覚えもなかった。
なので、ちょっと(嘘だ。かなり)地味なスカートとブラウスは、経理課の鉄仮面によく似あう野暮ったさだ。コートで誤魔化しているが、出先では絶対にコートを脱がないようにしようと心に決めている。
「お買い物だけど、全部同じところで済むから、ショッピングモールに行こうか」
なにせ、隣で機嫌よくハンドルを握る結弦は、家の中にいると忘れてしまいそうになるが弊社の王子様である。顔も良ければ、スタイルもいい。
艶やかな黒髪は、休日だからか緩めにセットされている。黒のスキニージーンズに白のハイネックニットセーター、そして、ノーカラーの黒いロングコート。シンプルな服装なのに、月並みな例えになるが、ファッション雑誌から抜け出してきたかのように彼に似合っている。そんな人の隣で、野暮ったい経理課の鉄仮面ファッションは悪目立ちする。
「あ、あの、その辺のホームセンターとかでも」
「ショッピングモールの方が色々あるよ? それに中にあるペットショップでジャスティンのおもちゃとご飯も買いたいんだ」
ジャスティンの名前を出されてしまうと、逆らい難い。今朝、「ボク、お留守番かぁ」としょんぼりした様子で送り出してくれた彼の愛犬の姿が浮かぶ。
「で、でも……あの、大きいところは、その、ナンパとか……私、あれ、すごく嫌で」
大学に入ると同時に変装をしている真理愛だが、それまでは今の姿のままだった。
商業施設などに行くと、嫌と言うほどナンパされる。ゆっくりと買い物ができたためしがなかった。両親と一緒にいても、親友と一緒にいても、隙を見ては声を掛けられ、時には母(見た目が若いので姉妹に間違われる)とまとめて声をかけられることもあった。
「僕が隣にいるから大丈夫だよ」
結弦は事も無げに言った。
彼は、運転中なのだから当たり前のことだが、真っ直ぐに前を見つめている。
「声を掛けられても僕が全部追い払ってあげる。お買い物を好きなように楽しむ権利は、誰にでも平等にあるんだよ。好きなものを、好きなように買っていいんだ。馬鹿な奴らのせいで、君が我慢するようなことはないんだから。僕が傍にいる時は、真理愛さんは、何も偽らなくていいよ。好きなように笑って、怒って、泣いて、気ままでいいよ」
多分、結弦の横顔を見つめる真理愛の顔は、随分と間抜けなものだろう。
だって、こんなこと初めて言われた。
自分の姿を偽ると決めた時、誰も「偽らなくていい」なんて言わなかった。両親も親友も、祖父母や従兄弟、真理愛を愛する誰もが色々な想いを飲み込んで、真理愛の決断を受けとめてくれた。
黒髪ボブヘアのウィッグ、茶色のカラコン、野暮ったい眼鏡に服装。それで得られる安心感と引き換えに真理愛は、感情さえも心の奥底に押し込んで生きてきたのだ。
怖いけれど俯いているのは嫌で、背筋を伸ばして真っ直ぐ生きてきたつもりだ。
でも、前だけを見ていたのは、本当は隣でうずくまったままの弱い自分を見たくなかったのかもしれない。
「僕は、真理愛さんのミルクティー色の髪も綺麗だなと思うし、笑ったり呆れたりする表情が貴女らしくて素敵だと思うよ。それにこの菫色の瞳は、宝石みたいで、本当に綺麗だね。会社の中で僕だけが知っていると思うと誇らしいと思ってしまうくらいには」
そう言って結弦は、ふふっと本当に嬉しそうに笑った。
心臓が、訳がわからないほどドキドキとうるさい。くっついているわけでもないのに、狭い車内では、結弦に聞こえてしまうのではないかと不安になるくらいに、ドキドキ騒ぎ立てている。同時に、なぜか無性に幼い子どもみたいに声を上げて泣きたくなった。
「真理愛さん? どうかした?」
「……いえ、なんでもないです。ショッピングモール、楽しみです。……お洋服も見ていいですか? もう少しだけ、華やかなものが欲しいんです」
「もちろん。幾らでも付き合うよ」
彼が真理愛を振り向かないように、信号がずっと青のままであることを祈りながら、真理愛はこっそり涙を指で拭って、窓の外に顔を向けた。
「うん、真理愛さん、可愛い!」
彼は臆面もなく言ってのけ、言われた真理愛のほうが頬に熱を感じる。
ショッピングモールで真っ先に結弦が向かったのは、女性向けのブティックだった。
そして、声をかけてきた女性店員と、いつの間にかもう一人増えた女性店員と共にあーでもない、こーでもないとコーデに悩み始めた。
真理愛ではなく、結弦が。
そして、結弦と女性店員によって選ばれた服を試着室で身に着けて、お披露目した途端に冒頭のセリフである。
「本当! よくお似合いです! まるでモデルさんみたいですよ!」
「はぁ~、すっごい、本当に素敵です!」
女性店員も拍手しながら褒めてくれる。
三人が選んでくれたのは、リブニットの白のセーターだ。バルーン袖はふくらとして可愛らしい。ロング丈のベロア生地のベージュのスカートは、ショート丈のブーツにも合う。可愛いと綺麗が両立しているコーデだ。
「コートは、こっちかな」
はい、と渡されたのは、綺麗な薄紫のショート丈のノーカラーコートで肩に羽織ると、また二人が「可愛い」「綺麗」と拍手してくれる。
「どうかな、真理愛さん?」
「素敵です。このお洋服、可愛くて、綺麗で……」
鏡に映る自分は、とても嬉しそうな顔をしている。こんなに華やかな格好を外でするのは久しぶりで、それだけで自然と気持ちがふわふわする。
嫌なことがあって、でも、結弦の支えもあってだが、勇気を出して被害届だって出したのだ。節約は明日からするとして、今日くらい頑張った自分へのご褒美にこのお洋服を買ってもいいだろうか、と真理愛は鏡の前でスカートの裾を摘まんでひらひらさせる。
幾らだろうと肩に掛けたコートを外して、タグを探すが見当たらない。
「カード、一括で」
その声に振り返れば、結弦がクレジットカードを女性店員に渡していた。彼女の手元には、おそらくワンピースとコートのものと思われるタグがあった。
「ゆ、結弦さん!」
思わず駆け寄るが、それより早くお会計は完了してしまう。真理愛が着ていた服一式がいつの間にか、もう一人の店員の手によってショッパーにしまわれている。
「真理愛さんが勇気を出した、そのお祝いに」
ショッパーを受け取り、肩に掛けながら結弦は、にこやかに言い放った。
「で、でもこの間だってワンピースを……」
「あれは僕の不注意だから。さ、次は食器でも見ようよ。お姉さんたち、ありがとう」
するりと当たり前のように手を取られて歩き出す。
女性店員たちが「ありがとございましたー」と朗らかに見送ってくれる声を背に聞きながら、真理愛は「結弦さん」と弱り切った声で彼を呼ぶ。
結弦は振り向いて、柔らかに笑う。
「言ったでしょ、今日のはご褒美。あ、手を繋ぐの大丈夫? これなら声を掛けられないと思うんだけど」
眉を下げた結弦に真理愛は「大丈夫です」と反射的に頷いていた。結弦は、ほっとした様子で目じりを下げると「どこにあるかなぁ」と店内地図に向けて歩き出した。
視線を落とすとスカートの裾が目に入る。
ベロアのスカートは裾を縁取る草花モチーフの刺繍が可愛い。
買って貰って困ったという感情は、カレーうどん事件の時と同じなのに、どうしてかそこに、一昨日にはなかったはずの一欠けらの「嬉しい」が混じっている。
真理愛の好みの服だったから、真理愛の勇気と頑張りを結弦が認めてくれたから、きっと、そういうことだ、と自分を納得させて「どこに行く?」と首を傾げる結弦に応えるべく、店内地図を覗き込むのだった。
結弦の隣で真理愛は真剣に食器を吟味している。
二人がいるのは、和食器のお店だ。結弦の持つ藤の籠の中には、木製の漆塗りのお椀が二つ、真理愛を丸め込んで選んだ夫婦箸と夫婦茶碗が二人分入っている。
料理をしない結弦には、どの皿がどの料理に合うかなどは分からないが、料理が好きだと言う真理愛は、とても真剣に大きな皿を見比べている。メインを乗せるお皿は凝りたいらしい。このあと、百円均一も見たいと言っていた。昨今は、様々な種類の食器が多くて、なかなか便利なのだそうだ。
ふと棚の向こうで男と目が合う。すっと目を細めれば、隣にいた彼女らしき女性に声をかけて、そそくさと逃げていく。
先程の男で何人目だろうか、と結弦は、内心で舌打ちをする。
ショッピングモールに行こうと提案した際、真理愛はナンパされるから嫌だと言った。
これまで彼女を怯えさせてきた顔も知らない男どもに呪詛を吐きたくなるのをぐっと堪えて、自分がいるから大丈夫だと説得すると、真理愛はようやく頷いてくれた。
『お洋服も見ていいですか? もう少しだけ、華やかなものが欲しいんです』
どこか泣きだしそうに微かに震えた声で彼女は、そう言った。
確かに真理愛の服装は、いつも落ち着いた色合いのシックな――品なく言ってしまえば地味で野暮ったい――印象のものが多い。
真実を知った結弦からしてみれば、そのコンセプトの服は、彼女にとって身を守るための鎧でもあったのだと分かる。
でも、本当の真理愛は、きっとこういった服装が好きなのだろう。結弦と店員が選んだ服を着た真理愛は、周りがぱっと華やぐほど綺麗だった。
鏡の前でスカートをひらひらさせる姿は、まるであどけない少女のようで、可愛くて可愛くて、抱き締めてしまいたくなった。
手を繋いだ時、自然にできたとは思うが、内心は振り払われたり、怯えたりしたらどうしようと戦々恐々だった。幸い真理愛は嫌がっている様子も、怯えている様子もなく、大丈夫だと言って、結弦の手を握り返してくれた。
今は、皿を両手でしっかり持って吟味しているので残念なことに手は繋いでいないが、さりげなく彼女の腰に腕を回すふりをして、周囲を牽制する。
誇張なしに、着飾った真理愛は、男たちの視線を集めている。
リブニットのセーターは、体のラインを綺麗に見せる。豊かに膨らむ胸元、結弦が無理矢理掴めば折れそうな細い腰、小さなお尻はきゅっと引き締まって形が良く、スカートの下の脚線美を想像させるに容易い。スカートはロング丈にして正解だった。
それにやはり、素顔の彼女は美しい。なのに、素顔であることにどこか怯えのある彼女は、おどおどしていて、皮肉なことにそこが男が付け込む隙となってしまっている。普段、経理課の鉄仮面と呼ばれている時の彼女には、付け入る隙なんて針の先程もないのに。
結弦が離れたが最後、真理愛は間違いなく男どもに声を掛けられるだろう。一時だって離れてなどやらないが、結弦が睨んで撃退した男の数は既に両手では足りないほどだ。
だが、結弦が虫よけとして傍にいるときくらいは、何を偽ることなく自分の好きなものを好きなように選んで、買い物や食事を楽しんでほしいと思う。
「結弦さん、こっちとこっち、どっちがいいですか?」
真理愛が結弦を見上げる。その両手が指差す先には、中心が青の黒い丸皿と四角い白皿がある。
真理愛は、女性としては大分背が高いが、百九十二センチもある結弦からすると、大きいと感じることはあまりない。むしろ丁度いいと感じる。
「ちなみに何を乗せることが前提?」
「そう、ですね……千切りキャベツとカツとかレタスと唐揚げとか、オムライスも」
彼女が告げた料理を想像の中で、二枚のお皿に乗せてみる。
「僕はこっちかなぁ」
結弦は、黒い丸皿を指差す。
真理愛は、黒い皿を二枚、手に取り、結弦の持つカゴにそっと入れた。
ちなみに食器類の支払いは、真理愛が引っ越した後も僕が使うのだから、と結弦が支払い権を獲得している。ただ、真理愛を引っ越させる気は、結弦にはないが。
「他にもまだ買う?」
「ほかのお店も見てみたいです」
「なら、会計しちゃおうか」
頷いた真理愛と共にレジに向かい、会計を済ませる。
「次は、どこのお店に行きたい?」
結弦の問いかけに真理愛が首を傾げて悩むそぶりを見せる。
「一階のキッチン用品店も見に行きたいです」
「了解」
包み終わった食器を受け取り、店を出る。すぐ近くのカート置き場から、一番大きなカートを借りて荷物を乗せる。
「手が繋げないから、僕の腕にでも掴まってて」
「はい。でもすごいですね……結弦さんといると声を掛けられなくて、快適です」
真理愛は素直に結弦の腕に手を添えた。
「お役に立てて光栄です、姫様」
芝居がかった、恭しい礼を取れば、真理愛は「なんですか、もう」と可笑しそうに笑う。くすくすと零れる笑い声は心地よい。
会社のやつらは、彼女がこんな風に笑うことを知らないのだ。たったそれだけのことで、たまらない優越感が結弦の中を満たす。
恋とは本当に、どこまでも人を浅ましい愚か者にする。
これまで何人かの女性と恋人関係にあったことはある。どれもこれも、向こうからの告白を受け入れて、恋人になった。付き合っている間は、それなりに好きだったし、自分なりに大切にしていた。
だが、初めて自分から人を好きになって、それが恋だと自覚して、自分の歴代の――今はもう顔も思い出せない――恋人たちに向けていた愛情がいかに陳腐で、事務的な、或いは教科書にでも沿うような模範的なものだったかを思い知った。
真理愛が笑っていてくれるなら、結弦は何だってできるし、何だってしてあげたいと思う。うれし泣きだったらいいけれど、それ以外の理由で彼女が泣くなんてこと、絶対に嫌だった。
真理愛は、結弦の腕に掴まる手とは反対の手の指を折って、何やら必要なものを数えているようだ。
エレベーターへと歩きながら、無防備な彼女を結弦は絶対に護ると決意を新たにするのだった。