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一晩経った真理愛の部屋は鍵穴の周りのひっかき傷が太陽の明るさの中で異様に目立っていた。
だが、真理愛に代わりドアを開けてくれた結弦の向こうにあった部屋は昨日と変わりなく存在してくれていた。
ポストの中身は、真理愛が荷造りをしている間に結弦が確認してくれた。手紙は入っていたが、真理愛の言う通り中身は白紙の便箋で変化はないと教えてくれた。それでもやはり昨日の朝、夜、そして今日の朝と律儀に投函されていたようで三通の手紙が入っていたそうだ。それらは管理人に言われている通り、空き部屋のポストに入れるように頼んだ。
いくつかの段ボールに衣類、結弦の家に存在していなかった調理器具や調味料、保存食をそれぞれ入れる。ハーブ類が育つ小さな鉢植えも結弦に許可をもらって連れて行く。結弦が自宅マンションのコンシェルジュに頼んで用意してもらった軽トラックに、大きな観葉植物たちも一緒に積み込み、一度マンションへ戻ってとりあえず置いてきた。
再び戻って来て細々とした掃除をして、下着類を入れた段ボールと冷蔵庫の中の食材を入れたクーラーボックスを戻ってきた結弦の車に詰めこみ、空っぽになったマンションを後にする。
「本当に警察に相談とかしなくていいのかい?」
愛車に乗り換えて戻ってきた結弦が運転席でハンドルを操りながら、真理愛のマンションから大分離れた頃に口を開いた。
真理愛は、ウィッグと眼鏡を外しながら「はい」と返事をする。万が一、鉄仮面が営業部の王子様である小鳥遊結弦と一緒にいるところを見られれば、それはそれで非常に厄介だ。苦渋の選択ではあるが、彼の傍にいる時や彼のマンション周辺ではウィッグと眼鏡を外し、素でいることにしたのだ。この姿なら、誰も経理課の鉄仮面だとは思わないだろう。
「あまり大ごとにしたくないんです。元々、手紙の件は管理人さんが既に警察にお話を通して下さっていて、巡回の回数も増やしてもらったそうです。それに結弦さんにポストを確認してもらいに行った時、管理人さんに電話をしたんです。年末なのでご実家に帰られているそうなんですが、こっちに戻って来次第、監視カメラを増やすって言ってくれましたし……」
結弦の横顔はあからさまに納得できないと言いたげだった。
ただの会社の同僚である彼に甘えてしまっている現状は胸を重くするが、同時に安堵もしているのだ。目を閉じると傷だらけのドアとあの真っ白な手紙が浮かぶ。ちくちくと針のように心を刺す不安に押しつぶされそうになる。
「……あんまり蒸し返したくはないけど」
ちらりと彼に目を向ける。
「あの男に心当たりはある?」
真理愛は、首を横に振った。昨夜も考えたのだが、全く思い浮かばなかった。
「昨夜も色々と考えてみたんですが、全く。私はいつものあの格好でしたし、声を掛けられたこともないですし、男性の知り合いもいませんし……」
車がどこかの駐車場に入ったのか緩やかに停車する。
「……過去の、ストーカーってことはない?」
瞬間、目の前が真っ暗になった。
「真理愛さん、ごめん。嫌なことを思い出させてしまったね。大丈夫、大丈夫だよ」
低く甘やかな声が闇の中で穏やかに降る。手を包み込む温もりが、だんだんと光をもたらして、色を取り戻した世界には、心配そうに此方を見つめる結弦の顔があった。
「ゆっくりと息を吸って、そして、吐き出す。僕と同じように、ほら……そう、上手だね」
子どもに言い聞かせるような優しい声に促されて、真理愛はようやく自分が息を止めてしまっていたことを自覚する。結弦の目を見たまま、その呼吸を真似て息をする。
「す、すみません……わ、わたし……」
「悪いのは僕だよ。無神経だったね」
いえ、と辛うじて返し首を横に振る。視線を落とした先、膝の上でガチガチに強張っている真理愛の手に結弦の大きな手が重ねられていた。
「……真理愛さん。やっぱり警察に相談しておこう。部屋を特定されて実害が出ているんだ。君の安全のためにも、ね?」
真理愛の手を包み込む結弦の手は温かくて、優しい。
男の手なんて身内のもの以外、怖いものでしかなかった。なのに、結弦の手だけはどうしてかこれっぽっちも怖くない。
ふと外を見れば、車が止まっていたのは警察署だった。パトカーが一台、前を横切り仕事へと出かけていく。
「……警察、にあまりいい思い出がなくて……。高校生の頃に相談した時も色々言われて取り合えってもらえなくて、結局、事が起きてしまった後もお前が誘ったんじゃないかって疑われたんです」
「は? どこの署の馬鹿なの? 名前と所属と階級は?」
結弦の眉間に皺が寄り、声がワントーン低くなる。
「だ、大丈夫です。もうずっと昔のことですし」
しかし、結弦の眉間の皺は緩まない。
「あの、本当に……それにその後は父が弁護士の先生と対応してくれたので」
「分かった。この場は、一応、引き下がっておくよ」
その言葉と消えた眉間の皺にほっと息を吐く。
「絶対に死ぬほどいやだって言うなら、諦めるけど……実はね事前に連絡してあるんだよ。ここで僕の友人が刑事をしているんだ」
「ご友人が、ですか?」
「ああ。彼はちょっと顔が怖いけど、正義感の強い真っ直ぐな男だから、その馬鹿野郎みたいなことは絶対に言わないから安心してほしい」
真っ直ぐな眼差しと言葉に真理愛は、数拍の間をおいて頷いた。
結弦が「ありがとう」と表情を緩め、「絶対に大丈夫だから」と言葉を重ねてくれた。
二人連れだって車を降りる。真理愛は結弦の半歩後ろを彼の背に隠れるようについて行く。
中へ入ると「結弦、こっちだ」と野太い声が彼を呼び、声の方へと歩いていく。
「真理愛さん、彼が僕の友人で東条正人だよ。正人、彼女が畠中真理愛さん」
紹介されて、挨拶をしようと結弦の陰から出る。
だが、正人を目にした瞬間、思わず結弦の背に隠れるように戻った。
二メートルはありそうな背に筋骨隆々で逞しい大きな体。黒く短い髪に鋭い眼差しは三白眼で迫力があった。
正直に言って、男という性が前面に出ている一番苦手なタイプだ。
「ま、真理愛さん? 見た目は怖いけど、正義の味方のお巡りさんだよ、大丈夫」
結弦が慌てたように声を掛けてくれる。失礼だと分かっているが足がすくんで動けず、結弦のシャツを掴んだ。結弦が「ん”っ!」と唸ったが、それどころではない。
「……え、俺、何かしたか?」
「真理愛さん、男の人が苦手なんだ。正人はTHE・男!って感じだから苦手なのかも」
「うっ、またも俺の顔か。しょうがねぇ、小森、こっち来てくれ!」
大きな声にびくんと肩が跳ねた。すぐに気づいた結弦が「大丈夫だよ」と声を掛けてくれた。
パタパタと軽い足音が聞こえて「何?」と女の人の声がした。
「さっき頼んだ件だが、こいつが俺の友人で、こっちが今回の件で相談に来た畠中真理愛さんだ。男が駄目なようだから、直接、頼む」
「了解。こんにちは、畠中さん。私、小森和泉です」
ひょっこりと顔を出したのは、背の高い細身の女性だった。
真理愛とそう背の変わらない彼女は、ショートカットが良く似合うすっきりとした顔立ちの美人だった。
「あ、あの……初めまして畠中真理愛と申します」
真理愛は、肩の力が抜けるのを感じて、ほっと息を吐く。
「真理愛さん、僕は、正人にアパートのことを話しておくから、もし大丈夫であれば小森さんにお話できるかな?」
「は、はい。大丈夫だと思います。あ、すみません、シャツ……」
無意識の内に握っていた結弦のシャツに皺が寄ってしまっていることに気づいて慌てて手を放す。結弦は「気にしなくていいよ」と笑った。
それから真理愛は、小森と一緒に別室に行き、今回の件について詳しく話を聞いてもらうことになったのだった。
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三箇日も休まず更新予定です!
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