2-1
意識が引き上げられる感覚に素直に従って、瞼を持ち上げる。
一瞬、見知らぬ部屋と寝具に混乱するもすぐにここが結弦の家の一室だということを思い出した。枕元で充電していたスマホを見れば、時刻はまだ午前六時だった。
それでも一度目を覚ますと他人の家というのもあって、眠気がどこかへ行ってしまう。仕方がないと体を起して、ぐっと伸びを一つした。
ベッドがあるだけの部屋はシンプルで、白地にピンクの花柄の可愛らしいカーテンと淡い桜色のベッドカバーやフリルのついた羽毛布団のカバーが少し浮いている気がする。
昨夜、こんな可愛い部屋なのだから恋人がいるのではないかと気が付いて、そうであれば自分はとても迷惑をかけてしまうと慌ててリビングでくつろいでいた結弦に確認しに行ったら「恋人はいないよ」ときっぱりと言われた。
ゲストルームのカーテンや寝具は、彼の妹さんの趣味だそうだ。年が離れていてまだ小学生で、時折、泊まりに来る時にこの部屋を使っているのだと教えてくれた。
真理愛は、クローゼットを開けて着替えを取り出す。
今日は色々とやることがありそうなので、細身のデニムとハイネックの明るいグレーのセーターを取り出して着替える。ウィッグとコンタクトをどうしようかと思ったが、既に結弦にはバレているのだから意味がないと、と伸ばした手を引っ込めた。
そっと部屋を出てトイレを済ませ、洗面所で顔を洗う。
鏡に映った顔は、どことなく元気がなくて不安そうだ。結弦に迷惑をかけてしまっていることもだが何より、部屋の前にいた男の存在が真理愛の心を重くしていた。
自分でもどうしてここへ来てしまったのか分からない。
ただ、部屋の前にいた男の存在が真理愛の心の奥深く、手が届かないようなところまで恐怖で支配して、悔しさと情けなさと、そういう負の感情が真理愛を覆い尽くしていた。そんな中で、結弦の温かな手は真理愛を現実に唯一繋ぎ止めてくれていて、どこまでも真摯に請われた「僕に守らせて」という言葉が暗く深い所に沈んでいた真理愛の心をそっと引き上げてくれたのは確かだった。
「……王子様、か」
結弦の会社での呼び名を思い出して目を伏せる。確かに昨夜の彼は王子様みたいだった。
真理愛のような面白みのない女相手でも常に紳士的だ。結弦に苦手意識があまりないのは、そこも理由の一つかも知れない。柔和な表情を絶やさず、言葉遣いが円く穏やかで、適度な距離を保って接してくれ、真理愛の意思をその都度、ちゃんと確認してくれる。
触れられた手も優しかった。真理愛がこれまで知っていた男の手は、身内のもの以外、真理愛を傷付けようとしてばかりいたから、その優しさに戸惑ってしまうほどだ。
はぁとため息を零して洗面所を後にする。
「あれ? もう起きたの、早いね」
「目が覚めてしまって……」
顔を上げるとエントランスに今からランニングに行きます、という服装の結弦が立っていた。黒で統一されたスポーツウェアでさえ彼は完璧に着こなしていて、その引き締まった体格も含めてジムトレーナーと言われても違和感がない。そんな彼の隣にはジャスティンがお利口におすわりをしていて、真理愛だって彼らの目的が分かる。
「……お散歩、ですか?」
「うん。毎朝、一時間半くらいね。僕のジョギングに付き合ってもらうんだ。大型犬だからたくさんお散歩するんだ。平日は朝だけだけど、休日は公園とかに行ってもっと遊ぶよ」
結弦の説明になるほど、頷いてジャスティンを見る。するとジャスティンは、立ち上がりとことこと歩いて玄関のシューズクローゼットのドアを自力で開けて、中から自分のリードとハーネスを咥えて帰って来た。
「はい、お利口さん」
きっとそれもいつもの習慣なのだろう。受け取った結弦がジャスティンにハーネスを付け、リードをかける。
「また寝ても良いし、洗濯したければ好きに使ってね。シャワーを浴びたかったら自由に使って良いから。一緒に暮らすんだから、遠慮しないで何でも自由に使ってね」
「はい。ありがとうございます。……お庭、出てみてもいいですか?」
真理愛の問いかけに結弦は、にこっと軽やかに笑う。
「もちろん。といってもジャスティンが遊ぶだけで特に何もないんだけどね。二階も使ってないから埃っぽいかもしれないけど、見たければ見てね。ああ、分かったよ、ジャスティン。じゃあ行ってくるね、真理愛さん」
ジャスティンが控えめにリードを引っ張り、結弦を促す。結弦が慌ててスニーカーに足を入れた。
「行ってらっしゃい、ジャスティンくん、と、えっと、ゆ、結弦、さん」
呼び慣れない名前はぎこちなくしか呼べなかった。けれど、結弦は黒い瞳をそれはそれは嬉しそうに細めて「行ってきます」と朗らかに出かけて行った。
ガチャンとドアが閉まって、家の中は静まり返る。
行ってらっしゃい、という言葉を口にしたのが、なんだか気恥ずかしくて真理愛は誤魔化すように首を横に振った。その拍子に背中で揺れた長い髪をポニーテールにして、気合を入れる。
「よし、朝ごはん……は凝るのはどうやっても無理だから、せめてお掃除をさせてもらおう」
流石の真理愛もゼロに等しい状況から料理をたくさん生み出すことは出来ないので、諦めて掃除をすることにしてリビングへと向かう。
カーテンというカーテンを開けて、窓を開け放てば冷たい冬の風が気持ちをシャキッとさせてくれる。
改めて振り返ったリビングは、物が少ない。毛足の長いふさふさの白いラグ、アイボリーのソファ、大きなテレビを囲むように壁に取り付けられた木製の棚は、引き出しの部分の木目が柔らかな曲線を描いていて、温かみがある。その棚はテレビの横にDVDが幾つか並んでいるのと、ジャスティンの子犬の頃の写真が写真立てに入れられて飾られているだけだった。
「どこから掃除……きゃっ!」
踏み出した先でプピィーと甲高い音がして驚きに飛び跳ねる。
足元を見ればゴム製のアヒルと思われるジャスティンの玩具が転がっていた。拾い上げてよく見れば、なんだかアヒルは間抜けな顔をしていて、真理愛は思わず笑ってしまったのだった。
「すごいね、何もないキッチンからこんなに美味しそうな朝ごはんが生み出されるなんて! 真理愛さんは魔法使いみたいだね!」
散歩から戻り、シャワーを浴びてラフな格好に着替えた結弦は、ダイニングテーブルに用意された朝食に無邪気に拍手を送ってくれた。
そんな彼に何もないという自覚はあったらしいと真理愛は少々、失礼なことを考えてしまった。
「そんなに褒めて頂けるようなものは何も……スープなんてインスタントですし、ヨーグルトとサラダは容器だってそのままですし、食パンはトーストしただけです」
真理愛が作ったと言えるのはオムレツとカリカリに焼いたベーコンだけだ。焼いただけのベーコンを料理の一つと数えるのに抵抗はあるが、そうでもしなければ、後の料理はとてもではないが料理とは呼べない。真理愛にだってプライドがある。
その上、食器は丸皿が三枚あっただけなので、サラダとヨーグルトはプラスチック容器に入ったままだ。ちなみにインスタントのスープは、出張先で買ったというご当地マグカップに入っている。ご当地マグカップだけは、あと三つあった。
「そんなことないよ。僕なんて毎朝、食パンを二枚食べるだけだったから。一枚は焼いて、もう一枚はそのまま」
「……」
何と言っていいか分からずに押し黙った真理愛に結弦は目を泳がせ、ふっと視線を逸らした。その先でジャスティンが不思議そうに首を傾げている。妙な沈黙が二人と一匹の間に流れる。
「結弦さんは、もっと完璧な方かと思っていました」
「料理ができるできないの前にしたことないんだ……幻滅した?」
怒られるのを待つ子供みたいに結弦が真理愛の顔色を窺うように視線だけを寄越す。会社で会う時、彼はいつも艶やかな少し長めの黒髪を軽くオールバックにしている。だから前髪を下ろしている姿はいつもより少し幼く見える気がして余計にそう思えるのかもしれない。真理愛は、その向こうでジャスティンまで同じような顔をしているのに気付いて、ついにふふっと笑ってしまった。
「いえ、なんだか、勝手かも知れませんが親しみやすくなったと言うか……すみません、生意気なことを」
「ううん! 全然、そんなことないよ。とっても嬉しいよ、ありがとう」
本当に心の底から安堵したように表情を緩めて結弦は言うものだから、つられて真理愛も笑みをこぼす。
食べようか、と声を掛けられて席に着く。いただきます、と挨拶をしてスプーンを手に取り、インスタントのコーンスープに口を付ける。
家族以外に料理を振る舞うのは初めてだ。シンプルなオムレツだからこそ誤魔化しは効かない。内心、どぎまぎしながら結弦がフォークで切り分けたそれを口に運ぶのを見守る。ちなみにカトラリーは一人分しかなかったので、結弦がフォーク、真理愛がスプーンを使っている。
「おいしい……!」
結弦がばっと顔を上げた。鋭い印象を与えるはずの双眸がきらきらと輝いている。
「ふわふわのトロトロだ、バターの風味が優しくてすごく美味しいよ!」
「……ありがとうございます」
真正面から褒められて気恥ずかしい。結弦は、美味しい美味しいとシンプルなオムレツを大切そうに食べる。オムレツ一つでこんなに喜んでもらえるのなら作り甲斐もあるというものだ。
「小鳥遊さん」
「結弦だよ、真理愛さん」
笑いながら訂正された呼び名に、むず痒くなる。会社ではないので苗字で呼ばないでほしいというのは分かるのだが、どうしてかとてもむずむずするのだ。
「結弦、さん」
「はい、なんだい? 真理愛さん」
「……本当にお世話になっていいんでしょうか。それに今日から年末年始の連休で、ご実家に帰省するとか何かご予定があるんじゃ……」
「予定なんてないよ。実家に帰るような年でもないし、そもそもうちの人たちは、お正月は海外で過ごしているしね。真理愛さんが危ない目に遭う方が僕は嫌だよ。ここにいてほしいっていうのは僕の我が儘だから、どうか気に病まないで……あ、もしかして、真理愛さんに予定があったかな? ご両親が帰国するとか寧ろ真理愛さんが向こうに行くとか」
慌てる結弦に真理愛は急いで首を横に振った。
「いえ、年末年始はおせちを作って引きこもろうと思っていたので……!」
「そっか、なら良かったよ。危険が綺麗さっぱり消え去ったって判断できるまではうちにいてね。午前中は真理愛さんのお部屋に行って必要な物は運んじゃおうか。午後は、生活するにあたって必要なものを買いに行こう、そう、例えば食料と食器とかね」
「でしたら、家賃と生活費を入れます」
「んー、家賃はいらないよ。ここ、マンション自体が僕のだから、そもそも僕も家賃払ってないしね」
何気なく結弦が言った。とんでもないことを聞いてしまった気がするが、今はまず家賃と生活費だと一度、思考の外に追い出す。
「本当は生活費もいらないって言いたいけど、真理愛さんの性格上、納得してくれないだろうから二万円でどう?」
「少なすぎます」
長い指を二本立てて首を傾げた結弦に真理愛は眉間に皺を寄せる。
「だって、ご飯の面倒見てもらうんだもの。これ以上はいらないよ」
「確かに貴方に比べたら稼ぎはありませんが、私もきちんとお仕事をして給料をもらっているんです。それに一人暮らしをしてどれほどお金がかかるかも分かって……」
「うん、分かってるよ。でも、一番、大切なのは君が無事でいることだよ」
結弦は急に大人の顔で穏やかに告げた。
スプーンを持つ手がピクリと跳ねる。
「君のご両親だってそう願っているはずだよ。君が一生懸命働いて稼いだお金は大事に貯めて、より安全な部屋へ引っ越せるようにしようよ。もちろん、あの男が片付いてからじゃないと許さないけど」
先ほどまでオムレツ一つに子どもみたいに顔を輝かせていたのに、今は真理愛より年上の大人の男の顔をしている。低く甘やかな声と物腰柔らかな口調は真理愛の心から生えていた棘をそっと摘み取ってしまう。
「……でしたら、お洗濯とお掃除もします」
「頑固だなぁ。分かったよ。でも、お風呂の掃除だけは僕にさせてね、僕の趣味なんだよ」
予想外の言葉に首を傾げる。
だが、思い返してみれば広いジャグジー付きのお風呂はホテルみたいにピカピカだった、
「僕、お風呂が好きで毎日浴槽にお湯を張るから、その都度、掃除はしているんだけどね。特に休みの日にはピカピカにするのが好きなんだよ」
「ちょっと分かるかも知れません。私もキッチンのシンクを磨くのが好きです」
だよね、と結弦が力強く頷いたのを皮切りに、いつも結弦の朝食後にご飯を貰っているジャスティンがきゅんと鳴いて結弦の膝に頭を乗せるまで、掃除トークが盛り上がってしまいすっかり冷めた朝食を二人で笑いながら食べる。
なんだかそれが、とてもくすぐったい気持ちになって、けれど、どうしてそう感じるのか分からずデザートのヨーグルトを食べながら首を傾げるのだった。