ある日のこと 鉄仮面と王子
新連載始めました。
なにとぞ、よろしくお願いいたします!
「一々うるさいんだよ。こっちは忙しくて暇がないんだ、仕方ないだろ!」
人もまばらなフロアに響き渡る怒声に書類を抱える腕に力がこもる。
「ですが、鮫島さん、期日は期日です。期日は守って頂かないと困るんです。それに、これは経費では落とせません」
「だから、こっちは忙しいって言ってるだろうが! それを期日期日って小学生の宿題じゃないんだぞ! こっちがどれだけ必死に営業かけてると思ってんだよ! 必要経費に決まってんだろ! 第一、俺たち営業が仕事をとってこなけりゃ、あんたらは必要ねえんだ! あんたらが打ち込む数字は俺たちがいなきゃ存在しねぇんだぞ⁉」
威圧するような怒鳴り声に脚が震えそうになるのを根性と意地だけで耐える。
けれど、こちらだって期日を守って必要書類を提出してもらえないと困るのだ。経理課は、ただ数字を打ち込む部署だと思っているようだが、経理課の社員たちが打ち込む数字がなければ、そもそも、給料だって出ないことをこの馬鹿は知らないのだろうか。
畠中真理愛は精一杯、背筋を正して鮫島を見据えた。わぁわぁぎゃあぎゃあと喚き散らす男は、そうやって大きな声を出して、時折、握りしめた拳を思わせぶりに動かせば女が怯むと思っているのだ。
周りの社員たちは、見て見ぬふりをしている。誰だって面倒事には巻き込まれたくはないだろう。
「お前らの仕事は誰にだって出来るんだよ。つーか、お前ももっと色気のある格好しろよ。そんな色気もくそもねぇようなダサイ格好じゃ、こっちの気分だって上がらねぇっつーの。それにさぁ、女なら愛想笑いの一つでもしてみろよ。能面みたいな面しやがって、だから鉄仮面なんて呼ばれんだよ」
鮫島は蔑むように顔を歪めて嗤った。真理愛を傷つける言葉をわざと選んで、真理愛が怯んで引き下がるのを望んでいるのだ。
逃げてやるもんかと真理愛は男を睨むように見つめ返す。
「……鉄仮面でもなんでも構いません。私は自分の仕事に誇りと責任をもって取り組んでおります。それに服装は社内規定を順守しております。ダメなものはダメですし、もう期日はとっくに過ぎているんです。今日中に提出して頂かないと……」
「生意気な女だな! だから忙しいって言ってんだろうが‼」
握りしめた拳が振り上げられた。咄嗟に真理愛は頭を庇うように腕を上げる。そのはずみで手に持っていた書類の束がばさりと音を立てて落ちていく。
だが、不思議なことにいつまでたっても痛みも衝撃も訪れない。恐る恐る顔を上げると大きな背中が真理愛の目の前にあった。
「鮫島くん、暴力はいただけないな」
低く甘い声が静まりかえるフロアに響く。
柔らかに、けれど、確かな威圧をもった声から紡がれる言葉を聞きながら、真理愛は呆然とその背を見上げる。
黒い背広に覆われた背中は、逞しく厚みがある。平均身長をはるかに超える長身とお洒落に、けれど清潔に整えられた少し長めの黒い髪。逞しい肩の向こうで、彼の大きな手が振り上げられた鮫島の拳を易々と受け止めている。
「第一、忙しい忙しいって、君、僕の半分も契約なんて取れていないじゃないか。それなのに毎度毎度、経理さんに迷惑ばかりかけて……そうそう、翠川部長が君に話があるって言うから呼びに来たんだ。心当たりはあるでしょ?」
ふふっと目の前の男が笑って、鮫島が息を飲んだ音が聞こえた。
「そういうわけだよ。鮫島、来なさい」
振り返れば、出入り口に壮年の男性が立っていた。彼は営業部の部長の翠川だ。有無を言わせない彼の口調に鮫島がよろよろと歩きながら翠川と共にどこかへと去っていく。
「えーっと……畠中さん、だったかな? 大丈夫かい?」
振り返った男は、はっとするほど整った顔立ちをしている。ともすれば鋭く冷たい印象を与えるであろうやや吊り目切れ長の二重の双眸は、酷く優しい色をしていて、心配そうに真理愛を見つめていた。
これが社内一のモテ男、通称営業課の王子・小鳥遊結弦と経理課の鉄仮面・畠中真理愛の出会いだった。