ニューギニア決戦(2/4)
ここでは珊瑚海海戦前なので空母レキシントンがまだいるのです。そして05月、辻参謀はまだフィリピンにおり遠隔で様々な知恵を授けます。それはニューギニアの地図作成でした。
空爆が終わると、今度は米空母からの航空機が来襲して来た。
レキシントンとヨークタウン艦載機が来襲して大乱戦となった。
休む間もなく日本軍機は上空に舞い上がった。
陸軍機52機、海軍機96機と、米軍機104機が上空で入り乱れた。
真珠湾では待ち伏せされたが、今度はこっちが待ち伏せだ。
日本機は次々と米軍機を撃ち落としていった。
米軍機「ここで死ぬわけにはいかない」
「珊瑚海での開戦の為に温存しなければならない」
米軍は爆撃をさっさと中止して空母に帰還していった。
以降米空母は珊瑚海海戦のために当地を離れている。
1942年05月08日珊瑚海海戦は終了。
日本側空母祥鳳が沈没、翔鶴が大破。
米国側空母レキシントンが沈没、ヨークタウンが中破。
海からのポートモレスビー攻略は事実上失敗した。
こうなると陸軍のポートモレスビー攻撃しかない。
主戦力の筈だった海軍はすでに撤退している。
05月10日フィリピンのダバオから妖しい通信が入った。
差出人は大本営陸軍部参謀辻政信陸軍中佐である。
ブナにいた第17軍参謀長二見秋三郎陸軍少将はピンときた。
「リ号研究作戦だと、何じゃコレは?」
続いて数日して航空便と船便で書類が届いた。
綿密な地図作成要領と現地民協力要項がびっしり書き込まれていた。
マレー半島で辻が行った地図作成と中国移民協力態勢の確立だ。
二見「なるほど、コレをここでもやれというこっちゃ!」
ただちに2ヶ月の間に地図作成が行われた。
当時パプアニューギニアの詳細な地図なんて無かった。
英国の「太平洋島々巡り」という旅行記があるにはある。
英国発行のフィリップ社の地図があるにはある。
そこにはラエ~ココダ~ポートモレスビーの一本道があるだけだ。
ほかの地域は空白で「密林」と書いてあるだけなのだ。
どこのどんな集落があり、脇道はどうなっているのか?
日本軍が行こうとしてるルートは一体全体どのような有様なのか?
それはもう自軍で測量して地図作成に至るしかない。
横山与助大佐率いる独立工兵第15連隊がその任に赴いた。
ここは敵性地域で、米豪軍の斥候が時折銃撃してくる。
ヘリ16機、オートジャイロ8機が哨戒に出るが、発見は無理だった。
熱帯雨林が覆い被さって、彼我ともに発見を難しくしていた。
空からは日本軍偵察機による空中撮影が行われた。
地上では原住民の生活路を踏破する事になった。
辻は現地人の協力態勢について相当に文面を割いていた。
それに従って横山大佐は現地ビジン語を必死で覚えていた。
生活路に沿って、原住民の家屋がポツリポツリ建っている。
空けた場所に来ると10軒ぐらいが固まって建っていた。
豪州植民地のため、原住民は英語が分かった。
最初は日本兵を異常に警戒していた原住民。
豪州第39部隊は「日本人は熱帯雨林の魔神だ」と吹き込んでいた。
極東の首狩り族で「ウチクビ」「ハラキリ」が大好きだという。
原住民は思わずニヤリとした。
オレたちもご先祖様もみんなそうだったんだよ。
西洋人よりも日本人に親近感を感じていた。
肌の色は黄色で、バナナのようだという。
実際に会ってみるとなんともアジア人らしいアジア人だ。
金髪で青い目の豪州兵のほうが「オニ」に近かった。
横山大佐が現地のピジン語で話しかけると気さくに話が通じた。
ピジン語とは現地語と英語の折衷語で、英語の文法を使う。
現地人「Yu husat?(あんたは誰なんだい)」
横山大佐「Mi Yokoyama(私は横山という者です)」
現地人「Yu mekim wanem?(あんたは何をしてるんだい)」
横山大佐「Mi raun tasol(歩き回ってるんですよ)」
こういった具合にビジン語で意思疎通を目指した。
油断すると指を切られるという報告もある。
現に豪州人が被害に会っていた。
油断大敵、山師は山で果てる、である。
道を尋ねるとこれがまた要領を得ない。
空間認識能力があっても、人に教える事に慣れていないのだ。
そこで森林伐採業者、森林監視道経験者が実際に踏破した。
結果、徒路でしかポートモレスビーへ行けない事が分かった。
ココダ・トレイルと呼ばれる道は確かにあった。
ブナ~ココダ~ポートモレスビーを繋ぐ細道だった。
1899年ヘンリー・スチュアート・ラッセルが発見したものだ。
南のポートモレスビーと北のブナを繋ぐニューギニア横断路だった。
彼はココダで金鉱脈の徴候(浅熱水金鉱化作用)を発見している。
ニューギニアは豪州と同じ古い地層で出来ている。
地質学的には隆起して出来たのがニューギニアである。
それは今も続いており、風化浸食により、海に流出している。
河には砂金が微量発見され、風化された山の地層を伺わせた。
それは大金鉱があるやもしれぬ徴候だったのだ。
”欲望は全ての危険に打ち勝つ勇気である”という。
ラッセルは鉱山労働者を呼んでココダに入らせた。
ここでココダの先住民オロカイバ(Orokaiva)族に遭遇する。
鉱山会社の護衛の警官は残忍で有名なアボリジニ族であった。
虐げられ屈従していたアボリジニは性格を曲げられていた。
虐げられた者は下位の者をもまた虐げるのだ。
アボリジニ警官はオロカイバ族を容赦なく駆逐した。
捕虜に×印を塗って射撃練習用のマトにしたりした。
その結果、原住民と争いになってしまった。
機関銃や大砲にヤリやカタナが勝てるはずもない。
原住民は呪術師に加護の魔法を掛けてもらった。
侵入者の銃の弾丸が自分を外れる魔法だった。
それを信じて突撃した戦士たちは撃ち倒されてしまった。
鎮圧はすなわち皆殺しというワケであった。
1904年英国は植民地を宣言、中間地点ココダに兵員基地を設立。
金鉱は見つからず、鉱山労働者は去り、基地だけが残った。
1919年までは独国北部ニューギニア領との国境警備に付いていた。
それが現在の米豪軍のココダ前線基地である。
その為、独国領地のブナ道は整備されていない。
少数民族の生活路として僅かに痕跡が残る程度なのだ。
ココダはポートモレスビーから96kmの地点であった。
こういう経緯で、ココダは極めて重要かつ危険な場所である。
ここを日本軍が進撃してココダ経由でポートモレスビーに攻め入る。
それは無謀であり、それゆえ無鉄砲で勇敢な行為と言えた。
地図がなければ、とんでもない事になるところだった。
日本測量隊は本道も側道もすべて測量した。
横山「ココダはこの熱帯雨林で唯一の大都市だな」
日本軍に備えて警戒しているのは間違いない。
前線基地には入り込まないようにして慎重に避けた。
いたるところにワイヤートラップが仕掛けてある。
横山「伊賀上野にある伊賀流忍者博物館かよ」
ビンッ!ワイヤートラップに引っ掛かってしまった。
ガチャガチャッガチャッ、鳴子が大きな音を立てる。
これで発見されてしまい、後退しながらの測量となった。
だが詳細な地図が完成し、道迷いはこれでなくなった。
崖注意!ガレ場アリ!などの注意書きもビッシリである。
工兵の測量が終わると次は輜重隊の出番である。
地図に沿って本道から迂回路まで考えるのだ。
南海支隊の車両担当は輜重兵第55連隊第2中隊である。
自動車が通れる道路を敷設できるのかを調査するのだ。
ラバウル第25飛行戦隊の偵察機がブナとココダの間に駄馬道を発見。
輜重隊隊長の金本林蔵大尉は2度目の偵察に同行した。
だが制空権が拮抗している奥地へは偵察や空中撮影は難しい。
すぐに米軍機P-38に追い立てられ、偵察どころではなかった。
この時空中撮影に成功し、米軍機P-38は日本に知られる事になる。
日本も「閃電」という似たような防空機を試作していた。
だがニューギニアにはまだ届いていない。
結局上空からの写真撮影は初回のみで断念せざるを得なかった。
2000m上空から見た熱帯雨林には確かにうねる徒路が見える。
その道路状態は実際に行ってみなければ分からないのだ。
空中偵察により、地図は出来たが問題は高低差である。
徒路で人がやっと通れる悪路、丸木橋しかない急流。
地表測量によって、自動車道どころではない現実が分かってきた。
道は雨になると泥川となり歩くどころではない。
何にしろ集中豪雨と河川の洪水が常軌を逸していた。
バケツをひっくり返したようなメチャクチャな雨量。
どんな橋も流されてしまうとんでもない洪水の量。
幅100mもある河川が洪水で荒れ狂い、流木が襲いかかる。
いかにも通れそうな平坦な場所、少し空けた緩やかな下り坂。
そういった場所は雨期には、自動車はおろか履帯車でもダメだ。
じゃあ道以外の所を踏破すればいいと考えてもみた。
熱帯雨林は日本本土にはない未開のジャングルである。
悪疫瘴癘の蛮地と言われる程の病毒蔓延る熱帯雨林。
集中豪雨と泥濘で一歩も前へ進めない屎泥処地獄もかくやという有様だ。
最高峰は4000mを越えるスタンレー山脈を越えて行軍するのだ。
重機が無ければ無理、道路整備と橋梁が無ければ不可能だろう。
実際、クムシ河、マンバレー河は川幅も広く急流だ。
偵察によれば、自動車通行可能な橋梁がある。
しかし軍の4トン車両が渡るにはいささか貧弱な構造だ。
新たに橋を架ける方が良さそうである。
道は密林に向かって不確かになり、やがて徒路となって消えた。
徒路は山裾を渓谷に沿って、くねるように続いていた。
45度の急坂は樹木の根っこにすがって登攀する有様である。
ここを350kgもある山砲を分解し、背負って登れるのだろうか?
山砲を持って行かなければ、銃と手榴弾でしか戦えない。
工兵隊は肩を落としてゴナの駐屯地に帰還した。
そこに辻参謀からの第2便の連絡が来ていた。
「07月までマニラを動けない」
「おそらくスタンレーの急斜面で困っているだろう」
「みかん農業出身者に相談してみるがイイ」
何のことを暗示しているのだろうか……。
金本「とにかく当たってみよう」
さっそくブナ基地の技術士官に当たってみた。
探していたみかん農園出身者がいた。
金本大尉「こういう場合はどうしたらよいか?」
「45度の崖を350KGの山砲をどうやって上げる?」
みかん農技術士官「そんなの簡単ですよ」
「土木工事用モノレールを使えば良い」
それはダム工事現場やみかんの収穫に使う移動機器だ。
47度の傾斜にまで対応し、最大積載は4000kgである。
山砲なら8門、野砲なら2門はいける積載能力だ。
施工速度は33m/1日、今から掛かればいけそうだ。
鉄材のパイプが桁材で、レールはラックアンドピニオン歯車だ。
レール部材は日本から取り寄せるため時間が掛かる。
それまでに斜面のパイプで桁材を構築していった。
「Kokoda Track Elevation Profile」という英語版標高図がある。
それによると登攀困難な場所は4箇所に絞られた。
その他は牽引車を使い、牽引してもらうしかない。
池貝自動車98式5トン牽引車(半装軌車)も利用範囲である。
こういった牽引車を砲牽引用に10輛、人員輸送用に30輛用意した。
兵站科でもないのに辻参謀はいつのまにか都合してくれた。
第17軍参謀長二見少将「現代の水戸黄門とはこれか!」
40人の歩兵につき1輛(牽引能力3.65トン)が割り当てられた。
人体60kg+装備20kg=80kg×40人分=3.2トンの計算だ。
米豪軍はサラッと1000台以上用意できるので物量が違う。
だが日本陸軍も頑張ってこれだけ掻き集めたのだ。
1942年6月までに全てのモノレールが完成した。
試しに歩兵60人が乗って負荷テストを行ったが結果は上々だった。
歩兵A「おお~なんかオモロイな~」
歩兵B「らくちんじゃのう~」
歩兵C「初めて乗ったわ~」
こうして準備はすべて整った。
重荷用傾斜地運搬機をここでは使います。みかん農家が集果用に使うモノレールに似ていますがモノレールではなく三条式(一条は動力伝達)鉄道になっています。これで4トンまでの最大積載量に耐えたのです(傾斜45度時)。次回はニューギニア決戦(3/4)です




