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(本編完結)また第二次世界大戦かよ  作者: 登録情報はありません
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フィリピン死の行進(3/5)

10万人の難民/捕虜の中には様々な職工がいました。その内の木造建築に関わる者達が捕虜収容所を街に変えてしまいます。

キャンプ・オドンネル(O'Donnell捕虜収容所)。

そこには広大な敷地と作りかけの収容施設が建ち並んでいた。


2万人を収容予定として造られた収容所。

そこには想定外の10万人が溢れていた。


傷病兵は臨時の病院楝にさら溢れていた。

伝染病患者は隔離楝で手厚い看護を受けている。


捕虜責任者は河根良賢という人格者に代わっていた。

兵站監であった彼だが、物資にも限界がある。


10万余人の捕虜・難民の収容楝なんかなかった。

そこで河根は妙案を思い付いた。


河根所長「捕虜の住居は捕虜の好きなように構築せよ」

「街を作れ」「建材は欲しいものがあれば与える」


捕虜には多くの職業から徴用された現地の職工が混ざっていた。

フィリピン北部の港湾都市タクロバン出身の木工建築技術者がいた。


木工A「わたしがニッパ椰子で茅葺き屋根を葺きましょう」

木工B「わたしが竹細工で壁を作りましょう」

木工C「高床式住居バハイクボを作りましょう」


直ちに木材、竹材と工具が与えられ、不思議な木質建築が始まった。

ゾウタケという太い竹が柱として使われている。


ギシギシギイギイ、器用に竹細工を組んでいく。

それはまるで日本家屋そのままであった。


日本兵A「(しとみ)とか懐かしいなあ」

日本兵B「竹を編んだ壁が美しい」

日本兵C「竹ひしぎとか日本じゃん」


こうしてまず風通しの良い病院楝が建てられた。

次は捕虜収容所の住居の建設である。


10万余人が暮らすのだから、ほぼ大きな街のようなあんばいである。

フィリピン人の地元兵たちは様々な職業から徴用されていた。


これは米軍兵たちも同様であった。

さなざまな店舗が捕虜収容所に建ち上がった。


河根所長は捕虜に自由に町造りをさせるにまかせた。

反乱や脱走に熱意を注ぐよりずっとイイからだ。


店舗形式の小マニラともいうべき街が出来上がった。


マングローブを切り出して炭を作る店まであった。

かつては現金収入源として手っ取り早い方法だったからだ。


アバカ(マニラ麻)を()いて繊維を造る猛者も現れた。

これは手持ちの材料で唐傘を造っていた米兵だ。


茎の断面は繊維部と麻幹部と中心部の空洞に分かれる。

繊維部はそのまま繊維に、麻幹部はパルプの原料となる。


麻長繊維を使って紡績機で布地を織る。

パルプは紙漉きをして和紙を造る。


麻糸で造った布を裁断して作務衣が大量に作られた。

和紙は紙漉きの要領を知った玄人が素人衆を指導して量産した。


照明はローソクだったので習字の墨の材料のススが大量に採れた。

それをインク代わりにつけペンで執筆する者が現れた。


献立表から設計図まであらゆるモノが書かれた。

日記は禁止だったが書かれなかったわけではない。


散髪屋も繁盛し、捕虜はひげを剃って、さっぱりした風体となった。

仕立屋は一張羅の軍服を何度も縫い直してボロ布を当てた。


なかでも重宝されたのが歯医者だった。

自給自足の捕虜たちは広大な農園も経営した。


小麦も米もサツマイモも農園で自給自足である。

米には水利が必要であった。


オドンネル基地は水利が悪く、一箇所しかなかった。

そこで近くのタルラク川から運河を建設して水源を確保した。


この引水から上水道も完備し、浄水場も建設した。

<原水-凝集剤-沈殿-濾過-塩素消毒-飲料タンクへ配水>


川床には良質の淡水砂と小石があり、建築素材として利用した。

また40km北西にはマンリールアグ温泉があった。


そこまで配水パイプを敷設して温泉まで引いた。

湯ノ花がポンプに詰まるので常に清掃が必要だ。

その役目は捕虜が担当した。


かつて、第一次大戦の青島捕虜の独国人は道後温泉に通った。

しかし温泉付き捕虜収容所はオドンネルが初めてだ。


捕虜収容所献立は以下の通り。


朝食「雑穀飯、ぬか漬け」

昼食「焼き芋2本」

夕食「魚の切り身、雑穀飯、切干大根」


他、うどん、味噌汁が2日に1度出た。

卵、食肉は10日に1度出たり出なかったりした。


現代の食事に比べれば、貧しいというかもしれない。

戦中の外地で10万余人の捕虜に3度の食事がキチンと出るのだ。


パン食は巧妙に河根所長によって制限されていた。

河根「なんでも自由にすると増長する者が必ずいるからな」


日米豪の記念日だけの豪華な食事として白パンを供給した。

自由と束縛を使って捕虜の規律と統制を維持したのだ。


キャンプ・オドンネルは有名になった。

米軍捕虜は「オドンネル(O'Donnell)!」と指名する程だった。

一方日本軍は民間企業に地下資源を探らせていた(探鉱)。

フィリピンで希少金属をどうしても手に入れるのだ!


フィリピンのミンダナオ島北部やパラワン島がある。

そこで巨大なニッケル鉱床が見つかったのだ。


ニッケル・コバルト混合硫化物を含有している。

コレを浄液してすればコバルトを分離するので一石二鳥だ。


ここはフィリピンのパラワン島にあるバタラサ町リオツバ村。

先住民族パラワンの自然環境豊かな村だ。


ここで鉱山開発と精錬事業をおこなうのだ。

フィリピンは三菱経済研究所が担当した。


班長の前田昭は現地に赴いた。

現地と言っても川べりの泥地である。


そこで米国も現地人を使ってニッケル採取を行っていた。

前田も同じように採掘し日本へ輸出するつもりだった。


翌日地元の村長のところへ行き事務手続きを行う。

前田「それではこの書類にサインして下さい」


パラワン人「この書類には廃棄物の六価クロムの処分方法がありません」

「アルカリ剤の添加で沈殿除去する処理工場を付加願います」


前田「え」

パラワン人「え」


日本人がバカにしていた原住民の工業化学の知識は豊富だった。

彼の名はエドゥアルド・キスンビン。


環境汚染と重金属公害に心を痛めていた植物学者(博士)だ。

米企業の鉱山は廃液垂れ流しで付近の環境汚染は深刻だった。


今は日本軍に徴収され、日本企業が使う事になる。

現在は処理工場は無く、後々のために処理施設は絶対必要だ。


彼はサマール島で植物採取に勤しんでいたが、急遽駆けつけたのだった。

日本企業「分かりました、沈殿槽を含む中和施設を建設しましょう」


キスンビンが日本企業と協力し、巨大な排水処理施設を建設した。

日本からは住友金属鉱山と三井物産、双日が出資する。


多大な支出に日本企業は顔をしかめたが、積善余慶(せきぜんよけい)という言葉もある。

良い事をすれば必ず見返りがあるということわざだ。


米軍は「日本軍は悪魔だ!」「比国から追い出せ!」と盛んに煽っていた。

ユサッフェ・ゲリラ(抗日ゲリラ)の革命家タルクの仕業である。


「We Will Always Fight For FREEDOM!」

「Fighting Filipinos」のポスターが工場のあちこちに貼られた。


同じフィリピン人なので区別のつきようがない。

工員の中に何食わぬ顔のゲリラが混ざっていたのだ。


だが工員はポスターに目を通すだけで、どうにも生煮えだった。

祖国復興、民族意識が沸騰し、ゲリラが活発になる事がない。


鉱山最新機械の配備、高給や工員寮の設備投資などの好待遇が功を奏した。

かえって他のフィリピン国営の鉱山のほうが奴隷地獄であったからだ。

日本軍が対等の知識を持った現地人を対等に扱う事がのちに積善余慶(せきぜんよけい)として返ってきます。革命家タルクが医者で政治家という道を選ぶのも日本と戦う場所を戦場ではなく政界と外交に求めたからでした。次回はフィリピン死の行進(4/5)です

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