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(本編完結)また第二次世界大戦かよ  作者: 登録情報はありません
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セイロン征服作戦(3/4)

セイロンの歴史は屈従の歴史、そして民族の争いの歴史でした。その歴史について(3/4)では説明しています。充分に調べた岩畔機関はさらに反英運動の気骨のある政治家セーナーナーヤカ弟に接近します。いよいよセイロンはスリランカとして独立です。

セイロン島とは一体どういう歴史を持ってきたか?

島の大きさは北海道の0.8倍の大きさだ。


宗教は多様だがおおむね四つに分けられた。


仏教、ヒンドゥー教、イスラム教、キリスト教だ。

スリランカの中央にはサマハラ・カンダ標高2238mがある。


この山はそれぞれの宗教における神の鎮座する山だ。

頂上には聖なる足跡があると信じられている。


①仏教徒は仏陀の足跡

②ヒンドゥー教徒はシヴァ神の足跡

③イスラム教徒はアダムの足跡

④キリスト教徒は聖トーマスの足跡


それぞれの宗派がそれぞれの信仰で同じ足跡をあがめている。

不思議な事にそこには宗教間紛争はまったくない。


お互いが認め合い平和を求めている、のではない。

お互いが無視し合い無関心なだけであった。


民族は7割がシンハラ人、他はタミル人だ。

タミル人はインド・タミルとスリランカ・タミルがある。


インド・タミルは英国が労働力として移住させた移民だ。

セイロン茶の高地プランテーションで働かせられていた。


スリランカ・タミルの起源は紀元前まで遡る。

しかし海外の影響は15世紀からになる。


スリランカは14世紀コーッテ(Kotte)王国が支配していた。

15世紀に鄭和(ていわ)が交易を求めてセイロンに寄港する。


この時ささいな争いから明国とコーッテ王国は戦争となる。

そして明国が勝ち、コーッテ王は明国に連行されてしまった。


1年後、王は帰還を許されたが祖国は別の王が支配していた。

16世紀コーッテ王国の内紛の分派の町キャンディが独立。


キャンディ町はキャンディ王国としてポルトガルと同盟、内戦は激化。

ポルトガル、オランダ、英国の順に支配圏が交錯する。


1815年キャンディ条約によりスリランカは英国支配下となる。

以降は着々と英国は支配圏を伸ばしてきた。


こういった経緯から植民地には独立運動が存在する。

それは最初は禁酒運動のような穏やかな活動であった。


英植民地総督府は禁酒運動を反政府運動として抑圧した。

その首謀者にセーナーナーヤカ兄弟がいた。


この運動がきっかけでセーナーナーヤカ弟が政界に進出。

植民地政策に疑問を投げかけ、農業、保障、金融、教育を改革した。


「もう英国人の助けなんかいらない!」

「インド人はインド人だけでやれば出来る!」


1931年彼は国家評議会の議員にまで登用された。

セイロン全国会議の代表にまでなった。


ついに農業・土地大臣の職に付いた彼。

その彼に日本の岩畔機関が近づいていた。


機関長岩畔少佐「我々は同士で友情を持って独立を支持したい」

「日本占領下で独立を推進し、英国人を追い出そう」

「日本主導だが行政委員会と国民議会の開催を約束する」


日本主導のシンガポール独立をセーナーナーヤカ弟も知っていた。

「セイロン大学学長のジェニングスと相談する」


ジェニングスは弁護士/憲法学者で英国憲法の仕組みに詳しい。

彼がセイロン憲法の起草と制定に関わる事になった。


こうしてセイロンは「スリランカ」として独立する事となった。

日本軍が進軍してきた時、港の防空隊は皆逃げ散ってしまった。


日本軍征部が予め現地人に逃亡を促していたからだ。

インド人防空隊にオーティビトゥ(逃げろ)と警告を発していた。


戦時の英国人は日本人を敵だと思っている。

だがインド人はどっちでもよかったのだ。


ポルトガル、オランダ、そして英国と支配者は移り変わる。

別に英国のために愛国心に殉じて戦死するつもりはなかった。


しかもセイロンは日本軍によって国家として独立するのだ。

だったら今、救世軍(日本軍)と戦う事は馬鹿げていた。


商業貿易港だったコロンボ港は降伏した。

対空防備の貧弱なトリンコマリー港も降伏した。


インド南東マドラスに逃げ込んでいた空母と駆逐艦。

これらが英東洋艦隊との合流のため、港を出港。


途中トリンコマリー軍港沖を深夜に通過しようとした。

深夜は日本駆逐艦の活動時間である事を英軍は知らなかった。


こうして空母と駆逐艦は日本軍に発見されてしまう。

英国残存艦空母1隻、駆逐艦1隻らは撃沈されてしまった。


これらは引き揚げ可能であったため、後日鹵獲艦となった。


これが空母フォーミダブルであった。

日本軍の損害は軽微である。


こうしてセイロンの英国軍支配は崩壊した。

英国総督府は接収されて、セイロン首相府となった。


初代首相はドン・スティーヴン・セーナーナーヤカである。

日本軍政部が最初に接触した反政府活動家だ。


セイロン独立に伴い、英領南インドでも独立気運が高まった。

ここはもともとヴィジャヤナガル王国勃興の地であった。


ヴィジャヤナガル>ビジャープル>ムガール>英国。

支配者はこの順序で変わっていった。


最大版図のヴィジャヤナガルの夢が今こそ叶うのではないか?

英領南インドにそんな気運が高まっていた。


困ったのは英領インド総督府だ。

ヴィクター・ホープ総督は苦々しげに呟いた。


「マハトマ・ガンジー、チャンドラ・ボース、ナイル(ネール)」

「有力な独立運動家が国内で跳梁跋扈している」


「よりによってこの時期にセイロンが独立とは!」

彼はインド人立法議会を通さず、日独伊に宣戦布告している。


もちろん総督には独断専行でその行使の権利がある。

だがインド人を一切無視した形は全インド人の批判を浴びた。


インド国民会議は戦争協力を一切拒否した。

しかしそれには何の行使力もなかった。


ホープ総督「総督府の方が権限が上で拒否は無意味だ!」

「400年に及ぶ植民地支配は伊達や酔狂ではないぞ」


英国はどんなに逆らっても植民地を飼い慣らしてきた。

その手技は悪魔的で内反と外圧を自在に操っていた。


ホープ総督は「日干し作戦」をすぐに決行した。

セイロンにとって南インドは最大の貿易相手であった。


これを切って貿易をやめて、セイロンを日干しにする。

セイロン島だけで日本軍の糧食を支えきれない。


日本軍は兵站が伸び切っており、撤退するしかないだろう。

ついにセイロン島全島を攻略に成功した日本。しかしインド植民地総督ヴィクター・ホープが兵站の伸び切った日本を日干しにしようとするのでした。次回はセイロン征服作戦(4/4)です

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