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(本編完結)また第二次世界大戦かよ  作者: 登録情報はありません
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セイロン征服作戦(1/4)

いよいよセイロン征服作戦が始まります。(1/4)ではインド洋を巡る勢力がどのようになっているかの説明になります。

英東洋艦隊の基地はセイロン(現スリランカ)にあった。

プリンス・オブ・ウエールズとレパルス,インドミタブルを失った英国艦隊。


この調子だとインド洋から英国艦隊は追い出され、制海権を失う。

そしてコーカサス、エジプトで独軍が勝利すれば、ペルシャ湾も失う。


この予想はシンガポール陥落で現実味を帯びてきた。

まもなくこのセイロンも日本軍の進撃の前に崩れ落ちるだろう。


頼みの英国本国さえも独国に降伏し、今はもう何の力もない。

本国は親独派チェンバレンが傀儡政権を樹立している。


チャーチル政権の副首相クレメント・アトリーは今エジプトにいた。

アトリー「英国には帰れなくなったのでエジプトに残る」


こうして自由英国亡命政府をエジプト/アレクサンドリアに樹立。

ここからチェンバレン政権への抵抗を、全英国植民地に呼びかけた。


この亡命政府の樹立によって英国は2つの政府を持つ事になった。

まことにややこしい限りだが、米国は亡命政府を支持した。


植民地からの支援も途絶え、米国からの援助も切れた英国本土。

そこではジワジワと飢餓が広がっていったがどうしようもない。


印度(インド)埃及(エジプト)ともに再び自由英国亡命政府の植民地となった。

後ろ盾に米国が居る為、支配力は維持されていた。


米国が亡命政府を傀儡とし、亡命政府が植民地を傀儡とする。

なんとも皮肉な有様であった。


北アフリカのエジプト王国は英国の傀儡政権下にある。

独ロンメルのアフリカ装甲軍は北アフリカのトブルクに進攻していた。


ロンメルの前にエジプト陸軍も風前の灯火であった。

エジプト軍と共闘する英軍は善戦していた。


だが圧倒的な独アフリカ装甲軍を前にいつまでもつか。


エジプトを奪われればスエズ運河航行は独国管理下となる。

インド洋に独国艦艇がなだれ込んでくるだろう。


東アジアの英領ビルマももう持たないだろう。

日本軍はすでに英領セイロン島に迫っていた。


日本軍にセイロン島を奪われれば、次は仏領マダガスカル島だ。

マダガスカル島の鼻の先には東アフリカの英領モンバサがある。


モンバサこそは英領東アフリカ最後の要害であった。

1886年以降、ケニア最大の外港として栄えてきた。


ケニアのモンバサ、イエメンのアデン、インドのセイロン島。

これら英領の描く三角形がインド洋制海権の要だった。


インド洋制海権を奪われれば、英領インドへの米補給路が絶たれる。

米国の補給が絶たれれば、中国への補給の道も閉ざされてしまう。


これは中国/崑崙(こんろん)の蔣介石を援助する空路(The Hump)のことだ。

インドのディマプール北には重要な四つの飛行場があった。


①Mohanbari(モハンバリ)。

②Chabua(チャブア)。

③Dinjan(ディンジャン)。

④Sookerating(ソクレイティング)。


インドのインパールが陥落すればディマプールも落ちる。

そうすれば蒋介石は補給を絶たれて、政権は消滅するだろう。


インド洋制海権こそ絶対に失ってはならない生命線だった。


この時英埃領スーダンの首都ハルツームにチャーチルはいた。

チャーチルは英国王室の行く末を案じていた。


英国王室は独領英国のバッキンガム宮殿に幽閉されていた。

今は幽閉だがこの先どうなるかも知れないのだ。


副首相アトリーはエジプトに骨を埋める覚悟でいた。

チャーチルはまだ英国本土を取り返すつもりだった。


それには植民地の兵力による総力戦もあり得る。

だがそんな英国植民地がどこにあるだろうか?


チャーチル「とうとう東アジアも風前の灯火か」

「米国レンドリース法も消えてしまった」


米国の無限のバックアップがかつての英国を支えていた。

だが英国が独国領となった今、米国は支援を停止した。


米国は戦時標準設計船もやめてしまった。

チャーチル「英国はなくなってしまった……」


チャーチルが落胆したのも無理からぬ事であった。

エジプトとインドへの米国の空輸物資輸送は続いている。


だがリバティ船の貨物船団は1船団60万トン。

これを航空機で運ぶとなると1万機の航空機が必要だ。


米国は600機以上の貨物機を回してくれるという。

それでも強大な日本軍に立ち向かうには兵站が足りない。


英国のアジア植民地をすべて失う非常事態が迫っていた。

英東洋艦隊の勝敗に全てがかかっていた。


1942年03月21日、南雲機動部隊と馬来部隊がインド洋に入る。

英国軍は印コロンボの極東連合部で暗号解読に努めていた。


ここで英国は日本海軍作戦用暗号JN-25の地点符号の特定に成功。

日本軍のセイロン島攻撃は04月01日であると解読していた。


英サマヴィル中将は手ぐすね引いて待ち構えたが、日本軍は来ない。

日本軍は航空戦隊の空母への補充が遅れ、攻撃日は5日になっていた。


日本軍の潜水艦の数も足りていなかった。

だだっ広いインド洋に準備したのは5隻だけ。


南雲長官「伊二百一型潜水艦(甲)を出せよ」

草鹿参謀「え、試製潜高をですか?」


呉海軍工廠では高速潜水艦(試製潜高)の建造が進んでいた。

1938年、ここで第七十一艦(甲)という実験艦を輩出している。


設計者は岸本鹿子治(きしもとかねじ)、魚雷設計の大御所であった。

その為、第七十一艦(甲)は潜水艦というよりは魚雷の性格が強い。


防滴形船体、二重反転プロペラ、水中25ノットという高速艦だ。

第七十一艦(甲)は1941年まで試験され、貴重なデーターが得られた。


これを改良したのが実用艦、伊二百一型潜水艦(甲)であった。


水上は1500馬力ディーゼルエンジン2基で航行する(15ノット)。

水中は1500馬力電動機4基で航行する(30ノット)。


減速機の歯車曲線をエピトロコイド平行曲線にする事に成功。

これは独無償譲渡潜水艦呂500によって(もたら)された技術情報による。


さらに浸炭窒化技術を独テグサ社より提供される。

この技術により減速歯車機構の騒音問題をクリア。


特殊潜航艇/高速潜水艦の生みの親、岸本少将もこれにはぶったまげた。

「ナチスの科学は世界一、とどこかで聞いた事があるがこれ程とは」


シュノーケルを流線型に、電探を格納式とした事で30ノットを維持した。


蓄電池も6000馬力を維持する為に莫大な量が必要だった。

電池開発には呉海軍工廠の名和武が担当した。


蓄電池は3000個という莫大な量が必要だった。

6000馬力は4413W換算となり、大容量蓄電池開発が求められた。


幸い必要な高分子材料は1941年までに揃っていた。

1セル100Wとして、蓄電池1個につき6セルにまとめる(合計600W)。


それなら4413Wなら(100W×6)×8=4800Wで充分余裕があった。

8個の大容量蓄電池(6セルパック)でまかなえる事になる。


蓄電池を密閉容器にまとめた為、火事も起きにくい。

防水・防塵・耐ショック構造となり、ガスの発生も最小限だ。


伊二百一型潜水艦(甲)の兵装は速度優先のため無し。

のっぺらぼうの艦体は艦橋があるだけだ。


とにかく水中速度だけを求めた結果なのだ。

魚雷発射管艦首2門、平面模索魚雷10本搭載であった。


平面模索魚雷とは設定したジャイロ運動で戻ってくる魚雷である。

命中せず生き残った場合、何度も何度も戻ってくる。


この伊二百一(甲)の航続距離は水上で5800海里(10742km)である。

これだけ航続距離があればインド洋を暴れ回る事ができよう。

この伊二百一型潜水艦(甲)は魚雷(葉巻)型形状で水中走行に適した形状です。水中走行に必要な蓄電池は今のバッテリー形状とほぼ同じです。次回はセイロン征服作戦(2/4)です

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