南方還送油(2/2)
1934年から10年計画で民間会社の日本鉱業・日本石油が米ナショナルサプライ社の協力の下に日本統治下の台湾で地下2500m~3000mの世界水準に匹敵する大深度掘削に成功しました。しかし軍統治下の満州では実績ある米民間企業の全面的協力を得る事が出来ません。石油埋蔵量は軍の最高機密なのです。満州での石油探鉱は精度が不充分な国産技術に頼り中途半端に終わりました。1940年深度100mのところで20リットルの石油が出ただけだったのです。
こうして内政が落ち着くと同時に、パレンバンといえば石油だ。
既成油田の活用は勿論、新油田の探査も始まっていた。
地下探査には人工地震を利用した弾性波探査を用いる。
こういった技術は1924-1927年に米国で大いに発展した。
これは米国で油田が見つかったためだった。
日本も満州の阜新や撫順でオイルシェールを発見している。
これが1935年で1937年にアスファルト、1938年には石油も出た。
1940年までは技術屋たちは米国で最新技術を学んできた。
ダイナマイト、加速式重錘落下装置やランドエアガンを用いる。
この振動が地層境界面で屈折/反射し受振器に戻ってくる。
これを素に地下地図を作成し石油掘削に役立てるのだ。
1936年日石、日鉱、北樺太石油は米シェルンベルジェ社を招いた。
当時最先端の物理探鉱法シェルンベルジェ電気検層を学ぶ為だ。
結果、その威力が確認され、以降の掘削の際には総てで使用された。
石油地質学と岩石物性学は異様な速度で進歩していた。
日本は道なき道を重い機材をリアカーに載せて引いて探査を行った。
米国はクロウラーで牽引しており、技術者は彼我の差に愕然とした。
当時九八式6トン牽引車(ロケ車)が日本での最新型クロウラーである。
その前の前九四式4トン牽引車(ヨケ車)は民間払い下げとなっていた。
ダム工事現場で働く日本軍の旧トラクラーたちをなんとか譲り受けた。
これで道なき道を人力リアカーを引くような事はなくなった。
あらかじめクロウラーの磁気を機械にインプットして消しておく。
こういった作業準備も米国から齎されていた。
満州では地下1500mまで掘り進めようとしていた。
エネルギー量にもよるが地下4万mのマントル境界層まで探査可能だ。
このまま満州で掘り続ければ大慶で石油を掘り当てていただろう。
だが軍は南方資源奪取に方策を切り替えたのであった。
満州の石油試掘は軍主導での掘削であった。
残念ながら総ての資材を引き揚げ、南方に送らねばならなかった。
パレンバン油田の年間生産量は600万トンあった。
現行の油田で採掘を続けながら新油田の探索を続けた。
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開戦前日本の石油備蓄量は合計840万トンであった。
敵の米国は石油の年間生産量で1億9000万トンもあった。
日本00840万トン。
米国19000万トン。
日本の年間生産量30万トンの630倍の数値を米国は叩き出していた。
とにかく一滴でも多く石油を!というのが日本軍部の要望だ。
結局パレンバン油田の新油田は300万トンが見つかった。
これで既存油田との合計は約900万トンに上った。
これを100隻が年間10往復して1000万トンを日本に輸送する。
海軍はもっとも石油を食う艦船という怪物を養っている。
戦艦大和などは1リットルで2mしか進めない有様だ.
大きな海戦では空母機動艦隊と連合艦隊が出撃する。
海軍はその石油消費量をおおよそ60万トンと予想していた。
これには数百機の航空機の燃料も含まれている。
まさに呆れた大量消費が戦争なのであった。
年に15回海戦をやれば日本の備蓄は干上がってしまう。
かたや米国は1億9000万トンの石油生産量を誇る。
60万トン消費の海戦を年300回やってもまだお釣りが来るのだ。
まさしく超大国の名にふさわしい使いっぷりであった。
途中サラッと言った100隻のタンカー。
これはもう内地では造船所が一杯で作れない。
内航船の中堅造船所まで海防艦の造船に使っている。
そうなると外地の造船所を使うしかない。
1940年05月仏国は降伏し、傀儡ヴィシー政権が誕生している。
植民地であるインドシナも日独伊三国同盟の支配下となった。
インドシナ(現ベトナム)のハイフォン他には優れた造船所があった。
フランス海軍兵器廠のあるバソン造船所、タンカン、サイゴンetc。
これら越南の造船所で戦時標準船型石油タンカーを造船する。
当時世界最大のタンカーは米海軍のT2タンカーであった。
日本での同型は川崎型油槽船という形式であった。
これらも1万トン級タンカーで、T2タンカーとほぼ同じである。
建造期間は70日、10の造船所で2隻づつ造り、年100隻を目指す。
1942年度100隻、1943年度200隻……の塩梅だ。
船体スペックは総トン数10500トン、載貨重量トン16500トンである。
これが4隻で護送船団を組んで南方揮発油の内地還送計画が始まった。
いわゆる「南方還送油」の始まりであった。
原油を蒸留する事で様々な種類の油が手に入る。
軍が必要な油は航空揮発油と艦隊燃料の重油だけだ。
灯油や自動車用ガソリンも同時に出来るが不必要だった。
油槽船の船腹(積載量)は限られており、備蓄タンクは満杯だ。
もったいないが「焼却」か「海洋投棄」しかなかった。
そこで現地蒸留分の専用油槽船がさらに20隻追加された。
こちらは軍の徴傭船ではなく民間船扱いである。
潤滑油についてもボルネオ島東岸バリクパパンに確保してあった。
南方最大の製油施設を誇る、航空潤滑油の第102海軍燃料廠である。
こうして日本は南方資源の石油確保に成功した。
国内は石油備蓄がどんどん跳ね上がっていた。
日本までのタンカー所要時間は12日間掛かった。
1万トンタンカー4隻で1船団、物凄い量だ。
石油科学者は青くなったり緑色になったりした。
日本の石油化学はまだ低迷していたのだ。
原油を常圧蒸留塔でケロシン(ガソリン)に分留する。
ガソリンを高温高圧下で水素添加して改質する。
するとオクタン価を高める為の加鉛効果が良くなる。
その結果オクタン価の高い航空ガソリンとなる。
こういう理論は誰にでも分かった。
問題は高温高圧下での水素添加の水素にあった。
高温高圧には炭素鋼の炭素が水素と反応してしまう。
高張力鋼の水素脆化の問題である。
含有炭素が水素と反応し脱炭作用が起こり弱くなる。
<Fe3C+2H2⇆3Fe+CH4>
強靱な炭素鋼が単なる純鉄に戻ってしまうのだ。
これが原因で稼働中に反応炉が爆発する事もあった。
コレを防ぐには2つ方法があった。
①強力な鍛造機で鍛え上げる。
②Cr、Moほかの合金にする。
①1万トン鍛造機で鍛造した鍛造鋼。
組織が緻密になり、水素脆性が起こりにくい構造となる。
②Cr,V,Ti,Nb,Moを含むとCの活量が低下する事が知られている。
その結果、水素脆性が起こりにくい構造となる。
①は軍事で使われており、空いている鍛造機は無い。
②は冶金技術が未熟で最適値が未だ確立していない。
この技術が日本では不充分だったのだ。
<後に圧力容器用鋼板規格が誕生するきっかけとなった>
なんとか低温で反応を促進する方法はないものか?
この高温高圧を回避するのが「触媒」の存在だ。
すでにモリブデン・アルミナ触媒が1930年半ばに商業化されている。
しかし触媒寿命が短く、普及には至らなかった。
これを改善したのが、米UOP社のプラットフォーミング触媒だ。
多孔質アルミナ触媒にプラチナを高分散担持させた高性能品だ。
<UOP社:Universal Oil Products社のこと>
だが米国は「モーラル・エンバーゴ(道義的禁止令)」を盾にした。
戦争行為に加担する国家にハイオクタン技術は譲らない。
日本は日中戦争真っ只中だった時代である。
やがて敵となる日本に航空燃料の秘密は教えないというワケだ。
東燃の技術担当常務だった中原延平が当時の燃料担当だった。
彼は何度も難解な特許文献を読むうちに内容を理解していた。
多孔質アルミナは触媒として珍しくない。
そのコーティングがMoかPtかという差だけなのだ。
こうして日本は自力でこの触媒に辿り着いていた。
それは白金カイロによるものだった。
1923年日本は「ハクキンカイロ」を発売していた。
プラチナ触媒の酸化作用でベンジンを発熱させる。
酸素の燃焼による酸化作用ではなく触媒によるものだ。
日本は白金の触媒作用が石油に作用する事を知っていた。
モリブデン・アルミナ触媒のモリブデンを廃しプラチナにした。
これは米UOP社のプラットフォーミング触媒と同じ組成だ。
かくしてオクタン価は87→92→100と跳ね上がった。
テストプラントが作られ、動作確認を行い、成功。
特許を持つ米UOP社が抵触しないかプラントを視察に来た。
ところが日本独自の開発のいきさつを聞いてビックリ仰天。
いいがかりでも付けようという腹だったが、逆に感嘆したのだった。
「日本独自の魔改造とはこのことか」
岩国陸軍燃料廠(現三井化学)が建設され、稼働が始まった。
徳山海軍燃料廠も技術供与によりプラントを建設稼働した。
これが1940年年末の事だった。
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1942年02月14日パレンバン空挺作戦発動。
その2ヶ月後には鹵獲したオランダタンカーがまず岩国/徳山に接岸。
石油をドクドクとプラントに流し込んでいる。
オクタン価100の航空燃料に陸海軍は感無量である。
現地の政情安定と現地人大量雇用、1万トンタンカー100余隻の造船。
オクタン価100の燃料精製法の入手、航空潤滑油の油田確保。
日本はこの全てを手に入れたのであった。
インドネシアでは間接統治に移行し、スカルノは大統領に就任する。
ライバルのハッタは副大統領に就任した。
その後双頭体制(正/副大統領は対等な権力を持つ)を敷くに至った。
日本軍は40の駐屯地に5万人を残し、後の5万人は戦場に移動した。
もはやインドネシア支配は堅実で、ここは戦闘地域ではなかった。
対米戦闘には兵力がいくらあっても足りないからだ。
駐屯地はオランダ警察予備隊と同居であった。
さらに基地はPETA(祖国独立義勇軍)と共用であった。
日本駐屯軍はインドネシア独立後も平和維持軍として駐留する事になる。
日本は技術先進国の独国の「人造石油」論にすっかり傾倒して石炭液化の工場を満州の撫順に1930年に建ててそして失敗した事については書いていません。海軍水ガソリン事件もあまりにアホすぎて書いてません(山本五十六の目の前で水をガソリンに替えて研究費をせびった詐欺師にまんまと騙された)。<これについては2014年のNewsweekに再び亡霊のように浮かび上がったようですが真偽は不明>。オクタン価については日本は最後までオクタン価の高いガソリンを作るプラントを実用化出来ず、低オクタン87のままでした。しかもタンカーは1943年初旬から本格的に稼働しましたが、その数はなんと13隻でした。その虎の子のタンカーも1943年半ばから米潜水艦に撃沈され始め、1944年後半には0隻、つまり日本還送は不可能となったのでした。IF歴史ではこれを全部ひっくり返させてもらいました。次回は外地に頼る日本鉄鋼事情です。




