マレー・シンガポール戦(3/5)
日本陸軍は現地人の協力を得て正確な地図を入手し、南下を開始、鉄路を確保し銀輪部隊を使いません。そんな中、同時進行作戦だった真珠湾攻撃が失敗だったという報が外地のラヂオから入り始めます。
プラナカンは反英を目論む仏教僧侶の集団を紹介した。
仏教僧侶はキリスト教を自国から追い出したいと思っていた。
托鉢で何千kmも素足で歩いてきた為、道や橋なら何でも知っている。
僧侶「ここの橋は木橋、ここは鉄橋・・・・・・」
次々と詳細な情報が白地図に書き込まれていった。
日系プラナカンはマレーにおける英国の部隊配置にも詳しかった。
マレー半島の華僑である彼らはどこにでも居てどこにでも出掛けた。
英国遊撃隊が橋に爆弾を仕掛けている側を人力車を引いて通った。
これは日英どっちにも言えることだとプラナカンは警告した。
日系プラナカンは日本軍に味方する。
中華系やオランダ系は英国軍に味方する。
「日本軍がマレーに進撃してきた時、側を通った華僑は敵か味方か」
「すれ違った物売りや人力車のプラナカンは敵のスパイかも知れない」
国武「充分注意しよう」
「問題は英遊撃隊の橋梁爆破をどう防ぐか、だ」
国武らは英遊撃隊の橋梁爆破を最も恐れていた。
どの橋をどのように守れば良いかを詳しく教えてもらう。
こうしてわざと国武らは遊んでシンガポールを過ごした。
海南島から一歩も出ずそのまま日本に直帰した。
一方プラナカンが収集した情報はバハンから海路サイゴンへ齎された。
サイゴン航空基地からは空路日本に送られ、陸軍参謀本部に渡された。
こうして詳細なマレー半島の地図を手にした日本陸軍。
鉄道、道路、トレイル(脇道)、村々の位置、全てが判っていた。
マレーには英印豪馬の四つの国の兵士がいた。
プラナカンは次のように報告している。
英国兵:防御戦闘については相当に練度が高い。
印度兵:反英思想高く団結心薄く、日本への戦意がない。
豪州兵:軍機風紀は不良だが勇敢、但し装備は旧式。
馬来兵:反英思想高く団結心薄く、日本への戦意がない。
参謀本部はマレーで徴用印度兵と戦闘になると考えていた。
印度兵は正面攻撃に対しては粘り強く防御力はそれなりに高い。
側面攻撃の奇襲に際しては、運動戦に適せず脆弱であると見ていた。
そしてコタバル空港戦ではその通りであった。
1942年12月10日。
真珠湾攻撃は失敗との報が入る。
情報が錯綜しており、真実が掴めない。
南雲機動艦隊はどうなったのか?
空母は無事だったのか?
山下中将「兵士の士気に関わる」
「この事は他言無用だ」
鈴木中将「我々は計画通り進軍する」
「目指すはシンガポールだ」
1942年12月11日。
どうやら真珠湾攻撃に南雲機動艦隊は失敗したらしい。
箝口令を引いていたが、下働きの泰人はそうではない。
ラヂオ放送は盛んに「真珠湾攻撃失敗」を伝えていた。
日本兵A「南雲艦隊は"やっちゃった"そうだな」
日本兵B「泰人がラヂオで聞いたそうだ」
日本兵C「米国は国力が違いすぎる」
陸軍は粛々と戦争行動を実行するのみである。
鉄道突進隊はシンゴラ(Songkhla)で駅と操車場を無傷で確保。
押収列車で南下し、敵の線路爆破を修繕しながら南下を続けた。
南下途中にあるPerak(ペラ)川橋梁は爆破されれば徒歩となる。
日本軍の南下阻止のため、英国軍は絶対に爆破してしまうだろう。
辻「爆破するならさせておけばいい」
「こっちは銀輪部隊で渡河するまで!」
辻参謀は自転車でマレー半島を南下するつもりである、
750余kmある距離は東京-大阪間よりあるのにだ。
河村少将「辻参謀、まあまあ落ち着いて」
「重火器が無ければ苦戦しますぞ」
辻「な、なんだとうっ」
河村「戦車で敵を蹂躙したいでしょ?」
辻の脳裏に鹵獲戦車で先陣を切って敵を蹴散らす姿が浮かんだ。
辻「そ、それはそうだが」
河村「だったら橋を無事で済ます方法を考えましょうよ」
辻は作戦参謀であり鹵獲品の転用には詳しかった。
占拠したコタバル飛行場にはダグラス DC-3と軍用グライダーがある。
佐伯挺進隊補給部隊は挺身飛行戦隊員であった為、要員はいた。
鹵獲したダグラス DC-3には落下傘が積載されていた。
DC-3は日本では零式輸送機としてライセンス生産されている。
つまり操縦法は日本兵にも分かっている。
ここまで考えれば、辻の次の作戦が閃くのも道理である。
辻「先遣隊は貨物機で先行して、落下傘とグライダーで降下だ」
辻参謀「二式哨信儀を改造した夜間暗視装置を使う」
辻は密かに作らせた暗視装置を用意した。
開発費20万円(現7000万円)をどこからか捻出していた。
1936年独国AEG社Zeiss社が開発した暗視装置の改良版だ。
1929年ハンガリーの物理学者カルマンティハニーは光センサーを開発。
これは1839年に発見された光起電力効果に起因する。
薄い塩化銀でコーティングされた白金の電極を電解液に浸す。
それに光を照射すると光電流が生じることが実験で確かめられた。
彼は英国で最初の赤外線探知電子テレビカメラを発明した。
1935年、独国の電機メーカーAEGはこの技術に目を付けた。
1939年独軍は最初の軍用暗視装置を導入した。
1943年半ばに最初のテストが開始され、1944年に実用化した。
1939年日本も光起電力効果について学術論文で知る事になる。
1941年独国からの技術供与で軍用暗視装置を知った。
潜高による日独間輸送により、製品そのものが日本に齎された。
赤外線照射装置と受光装置、画像変換器のセットだった。
日本は理屈さえ分かれば魔改造が大好きだ。
そしてそれは時に魔改造と呼ばれる。
形状、サイズ、検出波長範囲をカスタマイズしてしまった。
光電子増倍管の微弱光高感度検出を実現してしまう。
電極の繰り返し段数を上げて100万倍に増幅した。
100万分の1の燭光でも感知する理屈だ。
これはどういうことになるのだろうか?
人間は微少な遠赤外線を放射している事は知られている。
真っ暗闇の中、密林で戦闘になれば夜目といえども識別は困難だ。
人間を密林の中、可視光線下で見分ける事はほぼ出来ない。
だが光電子増倍管を使えば、その輪郭は熱源として捉えられる。
あとは解像度を「べき乗」で上げていけばいい。
これを素子のON/OFFで感知し、二進法の0/1で表現する。
そうすると人の形に0000、0001、0010……が表現できる。
それを白黒のCRT(陰極線管)に映せば可視化できる。
当時のCRTでの解像度は800×600が限度だった。
グレースケールの濃淡で表示できるが強弱が見分けにくい。
そのため、グリーンディスプレイで分かりやすいようにした。
もはや夜襲は昼間の日光の下と同じである。
光電子増倍管は軍最高機密となった。
米豪軍も遅ればせながら、1944年には実用化にこぎ着けてきた。
だが、1941年当時、この技術は日本軍の独占であった。
日本では浜松高工、東京電気、放送技術研究所などが担当した。
艦船は1000m、人体は800m先まで補足することが可能だった。
装置は可搬式だが、暗視管の加圧は1000Vと高圧で、発電機が必要だった。
このため発電車の随行が必要であったが、効果は抜群だった。
辻「こんな事もあろうかと」
「密かに作らせておいた秘密兵器が間に合ったよ」
辻は自らグライダーで出撃し先陣を切った。
挺身飛行戦隊とともに最前線で指揮を執り、戦った。
作戦参謀が指揮/命令を部隊に下し、戦闘を行う事はできない。
指揮系統を無視し、独断専行で越権行為もはなはだしい。
だが結果的に上手く行っているので現場からは支持された。
マレーの太閤秀吉だとか蜂須賀小六とかなんとか。
この暗視装置を架橋の周辺に設置しておく。
これに面白いように英コマンド部隊が掛かった。
闇夜で英遊撃隊が橋梁に近づいたところを一網打尽にした。
英国軍は次々と深夜に遊撃隊が捕虜になる理由がわからない。
次のペラ川橋梁爆破も未然に防ぎ、押収列車は無事通過した。
辻参謀の暴走はさらに続いた。
辻「Food Distribution with Airdrop(空中投下による食料給与)か」
英軍作戦行動要領を辻は英語のまま読み上げた。
捕虜にした英軍将校が持っていた兵站目録だ。
辻は英軍将校を締め上げて、航空機食料給与を聞き出した。
鹵獲したダグラス DC-3は空中から食料を投下出来る。
地上の陸軍に物資を低空飛行で放り投げるのだ。
辻「なるほど、わかった」
辻はさっそく英軍よろしく日本陸軍にも空中補給し始めた。
後から後から地上部隊に空中補給が成された。
食料、衣料品、医薬品、飲料水、おはぎ。
空中補給食料は英空軍基地に備蓄がどっさりあった。
おはぎは陸軍給糧艦がその都度新しく作った。
陸軍兵士「空からおはぎが降ってくる」
陸軍兵士「コンビーフの缶詰初めて食ったわ」
陸軍兵士「英軍は糧食もオシャレなんだな」
実際、後続部隊による糧秣補給はお粗末なモノだった。
兵糧は味噌で固めた煮大豆と乾米、乾パン 、塩、醤油だった。
牛肉の缶詰がつくはずだったがなぜか配給にはなかった。
英軍空中補給備蓄品にはパイナップルの缶詰まであった。
陸軍は戦気旺盛、意気揚々と気分も高揚していた。
辻の勝手な空中補給はまさしく図に当たったのだ。
なんと辻は鹵獲した米貨物機で航空機食料給与をあみだし、英コマンド部隊対策として暗視装置を手に入れます。「空からおはぎが降ってくる」は流行語にもなりました(IF歴史)。次回はマレー・シンガポール戦(4/5)です。




