ジェットエンジンへの道(2/2)
ストレプトマイシンで井上成美の妻、喜久代は快癒しました。これで彼はジェットエンジンに横槍を出し、陸/海軍と民間企業の橋渡しをします。
これを放線菌群から安全に単離する方法は分かっていた。
生成には発酵法を用いれば良い、この方法は確立していた。
この不純物だらけの放線菌から単離する方法は独にあった。
古来、独ではショ糖から糖蜜を作るにはフェノール溶液を使う。
二液を混和させて静置すると不純物はフェノール層に移る。
これを分液し、フリーズドライにかけて結晶化させる。
これと同じ方法で放線菌からストレプトマイシンを分離した。
フリーズドライにかけて水分を飛ばし、結晶化させる。
量産は昭和農産化工が担当し、先行生産分が出荷される。
それを井上成美の妻に投与を試すためだ。
単離したストレプトマイシンは経口には向かなかった。
筋注して様子をみるしかない。
これを筋肉注射すること1ヶ月。
結核患者のレントゲンから白い影が消えた。
妻の喜久代は快癒したのだ。
1930年肺結核は薬で治る病気になったのだ。
井上「よかった、本当によかった」
井上成美の喜び様はひとしおだった。
妻の死は井上成美に決定的な打撃をもたらす筈だった。
革新派だった彼は保守的になり、技術に興味を失う。
ジェットエンジンにも見向きもしなかっただろう。
人生の活力は妻の死に持って行かれてしまっただろう。
兵科将校と機関将校の人権など地位待遇改善に心を砕くようになる。
視野が狭く、電子兵器やジェットへは無関心になってしまったろう。
だが妻が快癒した事で、新しい視野が開けたのだ。
1935年横須賀鎮守府参謀長に抜擢される。
1937年海軍軍務局長となる。
同時期に米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官がいた。
この3人を海軍省の左派トリオとマスコミは呼んだ。
この頃から日本は急激に独国ににじり寄るようになる。
日独防共協定から日独伊、日独伊洪満西とドンドン増えていく。
最終的には13カ国防共協定になってしまう。
しかし独ソ不可侵条約によって事実上は空文となった。
そして日独伊三国同盟に反対しているのはこの左派トリオだけになった。
当時連合艦隊司令長官となっていた山本五十六は危惧していた。
「条約が成立すれば米国と衝突だ」
「圧倒的に航空兵力が足りない」
当時海軍航空本部長となっていた井上成美も同意見だった。
そして糸川英夫のジェットエンジンの件に触れたのだった。
当時各国で盛んに研究されていたジェットエンジン。
しかし急進的過ぎて、周囲の批判を浴びていた。
作った当人のオハインでさえ耐熱合金の件で揉めていた。
炎上、爆発、モノにならない科学者の遊びに見えたのだ。
軍隊というのは現実主義の権化のようなものだった。
そこで糸川は現実主義者に分かりやすい兵器を作った。
彼が開発していた固形燃料ロケットの応用だ。
彼は自噴式推進弾という分かりやすい兵器を造った。
12.7cm高角砲の弾頭後部にロケットモーターをつけたシロモノだ。
ロケットモーターについては彼は一家言持っていた。
ペンシルロケットという固形燃料ロケットだ。
火薬推進式のロケットモーターは英国で対潜兵器として開発された。
この時弾頭は中実弾頭で、潜水艦の耐圧殻を破る目的で作られた。
これが1936年の事だ。
この弾頭を榴弾に代えれば……誰でも考える事だろう。
分かりやすい兵器で実績を造り、発言権を得ようというのである。
この火薬推進式ロケット弾は陸軍にすぐ採用された。
陸軍航空機にこれを両翼4発づつ計8発装着した。
または九四式六輪自動貨車に左右計40発を携行出来た。
地上戦用で、精度は必要ない面圧兵器だった。
一定区域を殲滅粉砕する目的に使う。
英米ではこれをFFARと呼んでいた。
FFAR(Forward Firing Aircraft Rocket)前方発射航空ロケット弾だ。
これには250キロ爆弾を使った大型ロケット弾もお目見えした。
大型ゆえに射程は短く1500mしかないが威力は抜群だ。
糸川「ジェットエンジン開発を続けます、いいですね?」
陸軍「いいよ」
この目覚ましい開発技術のおかげでジェットエンジン開発は復活した。
陸軍「ジェットエンジンがモノになれば素晴らしい事ではないか」
第1号エンジンは耐熱素材がまだなく、10分で爆発炎上した。
克服しなければならない課題はまだまだ山積みだ。
ガスタービンの耐熱合金の開発もままならない。
熱膨張によるブレードの亀裂の克服も重要課題だ。
耐熱合金のノウハウは三菱重工(長崎造船所)推進器工場が握っている。
中島飛行機の糸川は長崎造船所を訪ねた。
糸川「ニッケル基超合金鋳物のノウハウを下さい」
三菱「じゃあジェットエンジンのノウハウと交換ね」
糸川「いいよ」
上司「チョット待った!」
こんな事になるのでは、と同行した上司が制止を促した。
技術者同士の会合には真理と理論の追求しかない。
技術者は技術が進歩すれば、他はどうでもいいのだ。
それでは産業は成り立たない。
糸川「だったら軍/民間共同開発にすればいいでしょ?」
上司「え、ええええええっ」
ここで井上成美が登場する。
「なに、ジェットエンジン開発を独学で?」
彼が仲介/音頭を取り、陸軍/海軍/三菱/中島が研究する。
井上は陸軍兵器行政本部に連絡を取った。
陸軍兵器行政本部の小須田勝造は二つ返事で開発を承認。
海軍航空技術廠も種子島時休技術大佐を擁して研究を行った。
彼はブレードの枚数を減らし高出力を得る方法の研究に没頭した。
糸川は艦上偵察機としてジェット機を目指していた。
陸軍滑走路と違い、海軍滑走路は空母の木製甲板だ。
海軍はエンジンの焔で空母飛行甲板を焼くのを嫌がった。
さらに空母の飛行甲板は250mぐらいしかなかった。
長大な滑走路が空母では不可能で、カタパルト離陸は必須だ。
1939年試作機が完成。
しかし出力不足のため、改良が続いた。
1940年燃費が悪すぎて、増槽吊下でも20分しか格闘戦で飛べなかった。
後退翼を付けて高速性を重視した為、着陸の低速時に事故を起こした。
1941年希少金属のニッケル・コバルトの入手が戦中不可能になると予測。
モリブデン・クロムを代用した新型エンジンの開発を急いだ。
1942年フィリピンでニッケル・コバルト鉱床が発見される。
希少金属の入手が容易になり、開発は順調に進んだ。
<冶金技術については金星ゼロ戦2/3の章参照>
1942年06月、試製偵察機として空母蒼龍に4機が採用される。
航続距離は高度6000mで850kmとされた。
英国でも1941年に、米国では1942年にジェット機が初飛行している。
日本はギリギリのところで間に合ったのだ。
ジェットエンジンの構造は船舶用にも使える。
船舶用ガスタービンエンジンである。
すでに蒸気タービン(1864~)は火力発電所などで使われていた。
オハインからは船舶用ガスタービンエンジンの詳細が届いていた。
1942年06月試製ガスタービンエンジン搭載艦がテストされる。
1万5千馬力×4のタービン、SLT形減速装置×2、出力6万馬力の怪物だ。
基準排水量1100トンの海防艦は最高速度54ノットを記録した。
これは時速で言えば約100km/hに相当する(凪の場合のみ)。
当時最速艦は仏ル・テリブルの45ノットでそれより9ノット速い。
やはりその艦もタービンエンジンを搭載していた。
米国もタービンエンジン搭載艦を就役させている。
これらは蒸気タービンだが日本はガスタービンだった。
出力は同じだが缶室がない分、小型に出来ている。
小型軽量大出力で日本が頭一つ分だけ優位に立てたのだ。
ちなみに米国の蒸気タービンの方が出力は大きい。
これは「古い」技術の方が「枯れて」いて問題が出尽くしている。
ノウハウとかも蓄積されていて、極限まで使えるからだった。
フィリピンのパラワン島にあるニッケル・コバルトが日本を救います。コレが無いために日本は冶金工学で悪戦苦闘していたのでした(正史)。次は開戦前夜(パープル暗号)です。




