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(本編完結)また第二次世界大戦かよ  作者: 登録情報はありません
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レーダー(1/2)

とうとう頭上の脅威「航空機」の時代がやって来ました。これに対抗するには有視界では不可能で、電波防御(レーダー)に頼る他はありません。日本も割と早くこの新兵器開発に乗り出し、日英同盟では英国に学び、日独伊三国同盟後は独国に学んでいました。

いかに速く、いかに遠くまで遠達出来るか?

これはやがて来る航空機の時代の先駆けとなった。


1934年、マッキ(Macchi) M.C.72が世界最高速度記録を叩き出した。

レシプロ水上機の速度記録709.209 km/hを歴史に刻んだ。


この記録は太平洋戦争の7年もまえのものだ。

このイタリア機の記録(水上機)は2020年現代も破られていない。


速度、航続距離をいかに大きく取れるか?

制空権を握った側が勝利を手にするのだ。


その脅威にどうやって立ち向かうか?

いかに早く敵機を発見するかに技術力が注がれた。


日本軍では航空機の比重が陸軍と海軍で違っていた。

陸軍のとっては、航空機は常に頭上の脅威であった。


海軍にとって航空機は機動艦隊の露払いに過ぎなかった。

掃海艇や駆逐艦などの邪魔者を先に行って蹴散らしておく。


そこで戦艦同士の大艦巨砲主義で決着を付けるのだ。

航空機はメインではなく、サブ的な役割を担うのである。


海軍にとって、航空機が戦艦の脅威になる事など夢物語だった。

航空主兵論は高まっていたが、大艦巨砲主義はまだ健在だった。


かの山本五十六も横須賀航空隊でこう訓示している。


山本「戦艦は存在するだけで無形の威圧感で海洋を睥睨(へいげい)する」

「廃止すれば威容は失われ、面目はつぶれ、尊厳はなくなってしまう」


こう言った理由から、まず陸軍が先に技術開発に乗り出した。

その最たるものがレーダー(対空用電探)であった。


陸軍科学研究所では松尾正史少佐、佐竹金次大尉が担当となった。


民間からも特に欧州留学組が、機知を得て参加している。

日本電気の小林正次、田中信高、日本無線の上野辰一らが参加した。


小林は1938年TVの電波が航空機によって乱れる事に気が付いた。

小林「航空機に電波が反射し、干渉しているのではないか」


そこで立川飛行場で実際に試してみる事になった。

自動車にTV送信管を積んで、離陸する飛行機に照射した。


案の定、電波は反射し乱れる事が判明した。

これを使えば飛来する航空機を捉える事が可能だ。


1939年02月20日本格的な開発が始まる。

日本電気玉川工場から箱根十国峠、静岡県沼津香貫山まで探知可能。


1939年10月、阿南陸軍大臣が視察し、本格的配備が始まる。

当時航空機の脅威と言えば「ソビエトの空襲」警戒であった。


越境してくるソ連機をいかに早く探知出来るか?

それには沿岸地帯にレーダー網を敷くことだ。


直ちに日本海沿岸、北海道、朝鮮半島に設置が決定する。

特に中国全土には電波警戒装置が数百台配備された。


日本最初の早期警戒システムの構築である。


海軍では1936年からレーダーについては研究が・・・・・・始まらなかった。

1936年11月に海軍技術研究所の電気研究部では気運が高まっていた。


谷恵吉郎造兵中佐「ぜひレーダーの開発を進めましょう」

だが上司の反応は「闇夜の行灯だ」と取り付く島もなかった。


当時の海軍は無線封鎖による隠密行動を旨としていた。

それを電波を出して敵を探るなどとんでもない事だった。


だが当時電波兵器担当だった伊藤庸ニは先見の明があった。

伊藤「日本にいても開発費も研究費も出ないだろう」

「西欧にいき、英国から学び、独国から情報を引き出そう」


日英同盟を頼りに、伊藤は英国でレーダーについて学んだ。

時代は日英同盟から日独伊三国同盟にシフトしようとしていた。


今度は独国で電波振動の権威ハウゼン博士に弟子入りした。

その後、彼は一旦帰国して日本で電波兵器の重要性を語った。


1937年ブカレストで国際無線学術会議に2人は参加。

同時期のウイーン国際短波学会にも参加して後学を広めた。


独国はGEMA社SEETAKT艦船搭載レーダーを開発していた。

2人は開発者のハウゼン博士に電波応用研究について聞く事ができた。


とくに伊藤はハウゼンの弟子であった期間があり独語にも堪能であった。

送受信を単体で行う切替装置、方向制度を高めるビーム切替装置……。


どのレーダー装置もパルス波を使っていた。

独国のレーダー技術はあまりにも進んでいた。


1940年05月ダンケルクの撤退が起こる。

ハウゼン「英国のレーダーが破壊遺棄されているそうだ」


伊藤「ぜひ実物を見てみたいものです」

ハウゼン「我々は日独同盟国同士だから可能だろう」


伊藤は独軍の案内でダンケルクに到着した。

撤退の際に破壊され遺棄された英国製レーダーを見た。


伊藤「これは内部を見るいいチャンスだ」

しかし伊藤は詳細を見て愕然とした。


なんとそれは八木・宇田アンテナであった。

心臓部のマグネトロンは岡部金治郎の開発したものだ。


1925年に八木アンテナが、1927年にマグネトロンがすでに日本にあった。

10年も前からレーダー開発の下地が日本にはすでに出来ていた。


だが興味を示したのは米英の研究者と軍属だった。

たちまち米英の研究誌には研究結果が発表された。


ここに来るまでイトウは日本にいながら無関心だったのだ。

ひたすら欧米の技術を追っかけていた自分が恥ずかしい。


ハウゼン「何を驚いているんだいMr.イトウ?」

「日本のレーダーでも採用しているんだろ?」


伊藤はムラサキ色になったり青くなったりした。

伊藤「も、もちろんだよ、英国もやるなあ~」

ダンケルクで遺棄されたレーダーを見たのはIF歴史です。正史ではシンガポールでまみえる事になるのです。次回はレーダー(2/2)です。

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