統計学者ナイチンゲール(2/2)
尿検査と腎機能の関係は19世紀に既に分かっていました。科学的分析もありました(正史)。ただそれを活用したのがナイチンゲールだけだったのです。
治療は残った腎臓部位の機能の温存しかない。
遅れれば遅れるほど、食事制限が厳しくなり生活も辛くなる。
フロー「統計によれば10年で30%づつ機能が失われ、死に至る」
「ハム、ソーセージ、ステーキ、チーズ、ミルクが食べられないわ」
食事制限は貴族の豪華な食事の殆どが食べられないか制限付きになる。
蛋白、リンを制限しなければならないからだ。
サカナや煮豆に逃げようにも抜け道はない。
サカナも煮豆もタンパク源なのだ。
果物や野菜もカリウム制限があり食べられない。
禁酒禁煙もあり、ワインもダメ、葉巻もダメだった。
盟友のシドニー・ハーバートは顔をしかめた。
シドニー「腎臓病なのか、このオレが」
フロー「自覚は全くなかったはずよ」
シドニー「じゃあなぜ腎臓病と分かる?」
歴史的には20余年前から尿検査は出来るようになっていた。
1827年英ブライトが尿中のタンパク質の測定に成功する。
蛋白の量と腎炎症状の相関関係を説明した。
1850年最初の試験紙法が仏科学者によって発明される。
メリノ羊毛片に塩化第一スズを含浸させ、尿を一滴落とす。
過熱により、尿が糖を含んでいれば黒色に変化するのだった。
そのどちらにもハーバートの検尿は引っ掛かった。
フロー「糖尿病で、初期の腎臓病を発症しています」
「放っておけば10年でブライト病(慢性腎不全)でした」
21世紀なら透析もあり、腎移植もあるが、当時は無為無策である。
シドニー「葉巻とワイン、ソーセージとおさらばかあ」
症状がないので、シドニーは名残惜しそうである。
だが食事制限は絶対しなければ死に直結する。
こうして盟友シドニー・ハーバートは延命した。
食事制限は彼を寿命まで生き延びさせた。
1853年フローはすでに二児の母となっていた。
名は長男アラン・ミルズ(3)と長女アリー・ミルズ(2)である。
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1853年クリミア戦争勃発。
臨時戦争大臣となったリチャードはフローに相談した。
リチャード「看護団を結成してすぐクリミアに向かってくれ」
フロー「スクタリ陸軍病院長のジョン・ホール軍医長官に連絡を」
「女の出しゃばりで恥を掻くのはごめんでしょうから」
ヴィクトリア時代、女は2種類に分けられていた。
一つは母親として、家庭に入り子供を育てる存在だ。
二つ目は娼婦、道ばたで自分の身体を売り物にする存在だ。
看護は雑用兵の任務で、女の規範を逸脱して奇異な目で観られる。
当時の医療現場の状況は汚物と血にまみれた地獄の様な有様だった。
戦力にならない負傷兵は軍隊の負債のようなものだった。
捨て置かれたまま、朽ちていくのを待つばかりである。
抗菌剤はまだなく、消毒薬もなく、ヨードチンキさえない時代だ。
消毒は煮立った油に浸した布を創傷部に当てる焼尽殺菌法しかない。
その余りの苦痛に治療を拒否し、衰弱死を選ぶ者もいた。
時代は戦傷で死ぬか、治療で死ぬか、恐ろしい時代だった。
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10世紀の医学書にBail's Leechbookに抗菌薬の製法が載っている。
ニンニクとタマネギ、ワイン、牛から採取した胆汁。
これらを真ちゅうの容器で醸造し、9日間放置し布で漉す。
そうすると創傷の化膿(黄色ブドウ球菌)に効果がある。
民間伝承だが、2015年に殺菌効果がある事が確認されている。
こういったものを徴用兵が持参したかもしれないが記録がない。
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不衛生な病院での死亡率をホール医長は過小に報告していた。
それを女だてらに暴かれるのは御免被るというわけであった。
ホール「女の助けを借りる?」
「愚か者めが!陸軍の恥であろう」
頑固な裏には事情があるものだが、隠しても分かる。
シーツや薬品の消費率、入院した人数と退院した人数。
数字は嘘を付かないのだ。
フローの統計学の検証結果は驚くべきモノだった。
病院での死者は42.7%に達していたのである。
医師と看護師も4人それには含まれていた。
フロー「これは衛生状況に異常事態が発生しているわ」
統計学のチャートを見たリチャード戦争大臣の手は震えていた。
リチャード「スクタリに衛生委員会を派遣する!」
ジョン・サザーランド博士を団長とする派遣団が調査に出向いた。
綿密に病院内を精査した結果は驚くべきモノだった。
病院は下水溝の上に建てられていたのだった。
汚水は給水溝の中に浸み出し、飲料水を汚染していた。
その瘴気は床下や壁の裏にまで伝ってきていた。
直ちにジョン・ホール軍医長官は清掃を開始。
それに紛れて看護婦団も到着して看護を開始した。
どさくさに紛れて、清掃を手伝い、看護に従事した。
フロー「シーツを新しいものに替えてちょうだい」
患者のシャツを交換し、包帯の交換を毎日行う規則とした。
血と汚物に汚れた病室の床をデッキブラシで清掃。
調理場を整頓し、病院食献立をきめ細かく設定した。
ボイラーを再稼働し、洗濯場で湯洗出来るようにした。
あっという間に病院の衛生状況は改善した。
死亡率は42.7%から2%まで激減したのだ。
この成果は衛生委員会の指示、看護団の尽力、どっちの功績か?
ホールもミルズも、口に出してこそ言わないが、それは分かっていた。
だが陸軍はミルズを讃えず、ホールの功績とした。
マスコミは「クリミアの天使」と大々的に公表した。
この時リチャードは戦時救済基金を創設。
これが現代のナイチンゲール基金の基盤となった。
1年後ホール軍医長官は密かに引退し、インドに隠居した。
自らの非を認め、軍での将官昇進を断ったという。
フローの看護はこのクリミア従軍の1年間だけだった。
彼女は統計数学者になりたかった、のかもしれない。
すでにミルズ姓となっていたナイチンゲール。
しかしマスコミはそれを許さなかった。
クリミア戦争への従軍は看護の常識を一変させた。
それをマスコミは宣伝と広告に使ったのだ。
「クリミアの天使」「ランプの聖女」。
小夜啼鳥は俗世間に受ける語感があった。
世間はフローの事をナイチンゲールと呼び続けた。
フローはそんなマスコミが大キライだったのだ。
フロー「私がやったのは夜廻りと患者の看護だけです」
「仰々しい事は何もしておりません」
1853年12月20日北里柴三郎が生まれる。
1885年独国のベルリン大学に留学する。
この時ナイチンゲールは65歳。
回合に残された時間は余りにも少なかった。
北里「何?ナイチンゲールに会えるというのか」
コッホに師事するゲオルク・ガフキーの計らいだった。
ゲオルグは悪い意味でナイチンゲールと面識がある。
1868年看護婦アグネス・E・ジョーンズはチフスに罹患していた。
ナイチンゲールの最も信頼した一番弟子が不治の病に罹ったのだ。
独国でそれを知った弱冠18歳のゲオルグは最後の手段を取った。
当時認められていないチフスワクチンの人体接種だ。
人痘は紀元前1000年に印度で試行された記録がある。
1796年ジェンナー以降、種痘は英上流社会に広まっていった。
だがこれらの天然痘ワクチンの死亡率は2%もあった。
さらに当時チフス菌の単離はまだされていない。
また治療法ではなく予防法であり、効く効かないは不明であった。
これはもはや医療行為ではなく「実験」だったのだ。
ゲオルグ「施して死ぬか、放置して死ぬか、2つに1つだ」
独国人が何を考え、ここで何が行われたのかは何も記録がない。
だがジョーンズは快癒し、人々は奇跡だと褒めそやした。
ナイチンゲールはゲオルグにきっぱりと宣言した。
「何をしたか隠しても分かります」
「貴方がこの事を発表する事を許しません」
英国人のナイチンゲールは独国人の冷徹さを見抜いていた。
何をやったかは彼女にはわかっていた。
ヒトとしてやってはならない事は「結果が全て」ではない。
それはナイチンゲールには我慢ならない独国の気質だった。
細菌学、予防医学、免疫学に彼女は好意的態度を示さなくなった。
パスツール、コッホ、リスターらに無関心を装っていた。
この事を深く反省したゲオルグは何も語らなかった。
1880年別人がチフス菌を発見するまでゲオルグは沈黙を押し通した。
だがチフス菌の単離・培養は自ら進んでやり、4年で成功している。
ゲオルグは北里に言った「キミと彼女は同じ道を歩んでいる」
1885年北里は独国から渡英してナイチンゲールと対面する。
2人の生い立ちは真逆だが、その目指す医療への志は同じだった。
ナイチンゲールは看護の必要性と劣悪な衛生環境の改善を訴えた。
北里は日本の脆弱な医療と伝染病の蔓延る非衛生な環境の改善を訴えた。
どちらも「なんとかしなければ」という強い原動力に導かれていた。
ナイチンゲールは旧態依然とした英国医療体制の改善に乗り出した。
北里は日本の立ち後れた医療体制を何とかしたい一心で渡欧した。
北里「私は他人がまさかそんな事は無いという発見を成し遂げてきた」
「直感とインスピレーションが私の全てなのです」
ナイチンゲール「その志を忘れずに、独国で研究に励んで下さい」
「わたしはまだ英国でやらねばならない事が山のようにあります」
盟友シドニー・ハーバートと看護婦アグネス・E・ジョーンズ。
この2人が両輪となってフローは八面六臂となって活躍した。
1901年フローは視力をほとんど失ってしまう。
それでも仕事に対する情熱を失う事が無かった。
1902年シドニー・ハーバート死去、享年92。
フロー「よく頑張ったわね、シドニー。でもまだ私は留まります」
1906年フローはようやく引退を決意。
フロー「世界情勢は悲しい方向に進んでいる」
1910年フローは死去、享年90。
<使命に突き進んだ人生だった>
ゆえに姉や母親には辛い想いをさせてしまったかもしれない。
光輝く偉大な功績ゆえ「その落とす影も濃い」のである。
長男アラン・ミルズ、長女スミシー・ミルズとも医学の道に進んだ。
ミルズ姓のおかげでナイチンゲールの子孫だとは気付かれなかった。
1885年北里はナイチンゲール回合の後、決意を胸にベルリンに戻った。
「小陸軍省」と言われた彼女の熱意に胸を打たれた思いだった。
北里は留学先のベルリン大学で猛勉強中にコッホに師事するようになる。
破傷風菌の分離、血清療法の画期的発明と偉業が続いた。
1890年北里・ベーリングは破傷風・ジフテリア血清療法の論文を発表。
この発表から33年後の1924年にようやく抗毒素ワクチンが開発される。
正史では盟友シドニーも一番弟子のジョーンズも病死、ナイチンゲールは失意のドン底に突き落とされ、寿命を縮めながら「残された私がやらなくては」と立ち上がります。伝記を読んで私は泣いてしまいました。
10世紀の医学書に抗菌薬の記載があるのは本当です。CNNの記事「千年前の薬で耐性菌が死滅 中世の医学書から再現」をググってみると詳細が有ります。
本文中アランとスミシーという名前が出てきますが、これは英語圏で名前を出したくない時に使う偽名です。つまり2人は架空の人物という暗喩になっています。次回はいよいよ北里と抗菌剤です。