ノモンハンの男(3/6)
いよいよ戦車の大量生産が始まります。工場は1工場では納まらず、大連工業地帯の大型金物や厚物溶断に突出した10工場が選ばれました。試製戦車もちょっとだけ出撃します。ソ連が出してくる火力に対抗するモノを揃えるには試製でも出さねば足りません
電気溶接を使う技術を取得した工廠は電気溶接戦車を造り始めた。
これが「九八式軽戦車 ケニ」である。
木型実物大模型から試作車完成まで3ヶ月、各種試験に1ヶ月。
この間に平衡作業で、大量生産ラインが整備され、5ヶ月で完成。
なんとモックアップから量産まで5ヶ月という猛スピードだ。
機関車やボイラーを扱う工場を選んだ甲斐があったというものだ。
工場長「30トンの戦車?子供だな」
「機関車は80トンあるんだぜ」
工場内のガントリーは耐荷重40トン×4で160トンまで耐えられる。
生産技術課の課員が川崎重工で船舶ブロック工法を短期特訓した。
しかし主砲の技術的問題から製造が遅れていた。
辻「何?ニッケルが国策で使用制限だと?」
「そんなもん知るか、在庫全部使え、責任はオレが取る!」
「後から中国南部で採掘したニッケルが手に入るんだ」
ニッケル鉱コバルトは中国大宝山や紫金山から採掘されている。
これらは精鉱されニッケルプレートとして出荷が始まっている。
鮎川義介が握る「満州重工業開発」傘下の製鉄所に入荷している。
すでに均質鋼材の冶金技術は確立/伝授されており問題は無い。
鋼材置き場に山積みになっている鋼材が出荷を待っている。
鉄工所社長は鉄工所に入荷するまで心配顔だったのだ。
二式軽戦車 ケト改は改良型で新砲塔一式47mm戦車砲を搭載する。
これも最新型だがノモンハン事件には間に合うかどうか。
もはや奉天鉄工所だけでは間に合わない。
白州次郎は満州の大連工業地帯の金属工場を回った。
満州鋳造所(機関車製造)、東亜合金公司(船舶)、満州鋲鉄工所(車両)。
荒木鉄工所(車両)、啓正式特許品製作所(ボイラー)等々。
機関車、船舶、車両、ボイラーを扱う工場に目安を付けた。
大型金物や厚物の溶断に手慣れていないと戦車は扱えない。
次に辻参謀が出向いて戦車認定工場の(臨時)申請許諾書を渡した。
辻が捺印し、唐突な「臨時」のハンコが押してある。
承認の欄には記名がないのもいつもの手である。
バレたら事後承諾にするつもりなのは、いつもの事である。
こうして協力工場10社を得て、大規模生産が始まった。
1機種につき、月産400輛を目指す一大プロジェクトだ。
だが米国はM4戦車を月間2000輛、39ヶ月で合計4万9234輛も生産した。
月間からして5倍、日米で大量生産の規模が圧倒的に違うのだ。
白州はその規模を英国駐在時代に肌で感じていた。
「今はここまで、だが後々ブーストを掛けるぞ」
1938年07月日本陸軍は特設師団の第23師団を国境紛争に派遣する。
将兵1万4千人がハルビンに集結すると機械化車両が設えてあった。
装甲兵員輸送車140輛、野砲140門、戦車70輛、自走砲3輛である。
輸送車はSd Kfz 251を複製したものである。
輸送にはトラックを増派し、全員を兵員輸送車とトラックに分乗させた。
つまり1万4千人輸送の全部隊兵員輸送のメドが立った。
辻は歩兵を甘やかしているとの批判が中央から出ていた。
これに対して、彼は以下のように答えている。
辻「ハルビンからハルハ川まで距離は1050kmはある」
「東京ー博多間とほぼ同じ距離を歩くのはどうかと思うぜ」
辻は哈倫阿爾山までハルビンから鉄路があるのを黙っていた。
それでも阿爾山から300km近くは徒歩で歩くのは大変な事であった。
1939年05月11日ノモンハンのハルハ川で大規模な前哨戦がある。
05月23日ソ連軍ブイコフ支隊は強力な機械化部隊を編成する。
水陸両用戦車13輛、装甲車39輛、自走砲4輛、野砲18門。
そして火炎放射器搭載の化学戦車5輛などだ。
これを迎え撃つのは歩兵第64連隊(通称山県支隊)である。
小松原第23師団長「敵の兵力に合わせてこちらも戦車を出す」
戦車30輛、装甲車40輛、自走砲3輛、野砲20門。
そして火炎放射器搭載の化学戦車5輛を追加した。
辻/白州は「静観しては如何?」と電文を送っている。
「練成教育に集中する時間がないんだ」
小松原第23師団長はしかし前進命令を下してしまった。
小松原「ソ連軍なんぞ蹴散らしてくれるわ」
山県「歴史の1頁を飾るべき栄えある首途に際し必勝を期して已まず」
前線でどこから仕入れたのか、ウイスキーで前勝祝いをした。
05月28日払暁、山県支隊はブイコフ支隊の陣地に攻撃を開始する。
ソ連水陸両用戦車は浮行の為に、7.62mm機銃と10mmの装甲しかない。
圧倒的に日本の方が火力が有利である。
ソ連軍は次々と撃破されていった。
ソ連側化学戦車は真っ先に攻撃され、火を吹いて爆発した。
たまらず飛び出して来るソ連兵を撃ち倒した。
長砲身47mm砲もアウトレンジで敵戦車、野砲を吹っ飛ばした。
二式軽戦車ケト改がギリギリ8輛、間に合っていたのだ。
ブイコフは這々の体で逃げ出していった。
28日夕刻にはソ連軍は壊滅し、山県支隊は意気揚々と帰投している。
山県大佐は上機嫌だったが、辻参謀はそんな彼を戒めている。
辻「今回は機械化部隊を後詰めにしたから良かったのだ」
「まさか外蒙騎兵がこんな重装備をしているとは」
「私も速射砲などの対戦車兵器を配備すべきだったと後悔している」
勝って兜の緒を締めよと北条氏綱も息子の氏康に送った故事にある。
陸軍は、戦勝祝賀会とか戦勝閲兵行進をやるのが大好きだ。
山県「辻参謀、お気持ちはお察し致します、私も自重致します」
「しかしそれはそれ、敵は必ず挽回する為の反撃に移るでしょう」
山県「その為の秘策を私めにお授け願います」
辻「うむ、対戦車砲搭載の自走砲を至急増派しよう」
この反省が生かされ、試製七糎半対戦車自走砲 ナトが誕生する。
辻/白州「自動装填装置を付けてはどうかな」
また辻参謀と白州は素っ頓狂な事を言い出していた。
自動装填装置は対空機関砲や戦艦主砲に使われる馴染みの機構だ。
ただそれをだれも自走砲に持ち込もうとしなかっただけ。
辻参謀/白州の行きすぎた思考がそれに気が付いたのだった。
辻「スペースの問題?しらんがな」
発射速度は18発/3分間という高速だ。
辻「速射砲の名にふさわしいでしょう」
充分おかしすぎる辻政信は「速射砲」を本当に造ってしまった。
ちなみに陸軍で速射砲と呼んでいたのは対戦車砲だった。
この機力装填によって装填手が不在となる。
これにより砲手、運転手、車長の3人での運用となる。
これが実は現場では不評だった。
戦車の実務は戦闘には限らず点検整備修理もせねばならない。
その作業は3人でやらねばならなくなったのだ。
しかも車長は作戦会議などで不在が多い。
そうすると2人で点検整備修理もせねばならない。
このメンテナンスは概ね400km自走したら行わなければならない。
これが不評で、結局機力装填はお流れになった。
なんでも自動にすればいいというものではなかった。
さらに白州は奇想天外な知識で回りを驚かした。
白州「英国が北アフリカ戦線で野砲を軍用トラックに乗せてな」
「そのまま簡易自走砲にしているのを英字新聞で見た」
「ベッドフォードQLガンポーティーというそうだ」
「これをこっちのSd Kfz 251に車載できんかなあ」
Sd Kfz 251/9型は75mm砲を、/10型は37mm砲を独国で車載していた。
これを白州は知らずに、同じ発案をしていた。
自走砲なので正面にしか撃てないが、威力はある。
Sd Kfz 251は即席自走砲となる。
辻/白州「ベッドフォード作戦だ!」
こっちはすぐに実行され改造された。
現地でガス溶接溶断が使えるからだ。
ノモンハンにはハルハ川がある。
遅かれ早かれ渡河作戦をやる事になる。
日本陸軍には超壕機という支援戦車がある。
辻「あれを改造してなんとかならないか?」
ハルハ川の川幅は25~60mある、30トン戦車をどうやって?
辻/白州は架橋戦車を思い付く。
白州「独軍II号架橋戦車というのがあるんですが」
辻「それだ」
まあの独国のパクリではあるが、知識は知識である。
架橋を折りたたんで戦車に載せて現地まで運び、現地で展開する。
まあ考えてみればどうと言うことはない発案だ。
だが彼ら以外、誰も思い付かなかったアイディアではある。
白州「架橋はアルミ溶接で軽く作ればよいでしょう」
「ハルハ川には25m幅の箇所があり、そこに架橋します」
06月30日架橋戦車がやって来て。架橋が完成し、戦車が渡り始めた。
これ実はSd.Kfz.251/9(75mm)だが、遠目には戦車に見える。
それを見ていたソ連斥候は仰天し、あわてて本部に無電した。
「200台の戦車が昨日は無かった鉄橋を渡っています!」
戦車開発速度は米M4戦車の開発速度を参考にしました。アッセンブリーラインのみの組立工場です。部品工場はさらに下請け工場に分岐しています。部品工場については本文には出てきません。省略しています。次回はノモンハンの男(4/6)です




