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(本編完結)また第二次世界大戦かよ  作者: 登録情報はありません
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統計学者ナイチンゲール(1/2)

第二次世界大戦とは直接の関係は有りませんが、彼女の子孫が関わってくるので彼女の人生の話からになります(IF歴史)。ナイチンゲールにリチャードがプロポーズ、彼女はそれを断り、生涯独身で看護の道を進む(正史)筈が、なんと結婚して別姓に。しかも盟友リチャードの尿検査でCKD(慢性腎臓病)を言い当てます(IF歴史)。

当時英国は従軍看護婦を「天使」「聖女」と讃えて喧伝(けんでん)したため、現在多くの人がそう認識するようになっています。しかし彼女の90年の人生の内、看護婦生活は3年間だけでした(正史)。


太平洋戦争を遡る事150余年。

世界はようやく社会の動勢を数字で表そうと足掻いていた。


普及率○○%、使用率○○%、消費率○○%、等々。

今では当たり前の○○%の数字がないのが18世紀後半だ。


人々は生活動向を数値化する試みを始めようとしていた。

それまでは根拠のない当て推測だった国勢調査。


人口統計の試みは1798年マルサスの「人口論」による。

1790年米国、1801年仏国と英国は国勢調査を行った。


仏国では数学者/政治家のラプラスが関わっっている。

人口を決定する方法として、サンプリング法を用いていた。


1835年ついに(ベルギー)のケトレによって統計学が科学として成り立つ。

社会現象を数学によって解明しようとする時代となった。


1830~1849年は「統計学熱狂時代」と呼ばれる事になる。

そんな中、フローレンス(愛称フロー)は生まれた。


1820年05月12日ナイチンゲール家の次女が生まれる。

名はフローレンス、後の「ナイチンゲール」だ。


裕福なジェントリの家庭に生まれた彼女。

<ジェントリ:貴族に属さない裕福な地主、最下層の領主身分>


観察力、洞察力に優れた奇異な才能を持つ少女だった。

読書や勉学に耽り、パーティやドレスに興味を示さなかった。


父親は姉パーシィと妹フローに高度な教育を施そうとした。

その分野は語学、数学、歴史、古典、天文学に及んだ。


姉はすぐに脱落した(当時レディに教養は必要視されていない)。

だがフローは夢中になって、知識と教養を身につけていった。


特に数学は、英国数学者シルヴェスターに個人授業を受けた。

やがて高等数学を学び、統計学の世界に行き着く。


特に気象学の統計には興味を示した。

統計学の権威ケトレーを終生の師と仰いでいた。


ケトレーの気象学から導き出された顕花植物の法則がある。

通常ライラックの花の開花にはある計算法則があった。


<毎日の平均温度の自乗の和が4264に達した時開花する>

実際に開花する事を園芸仲間に証明したりしていた。

当時裕福な家庭には慈善事業が課されていた。

年頃になり、フローにも領地の慈善訪問の責務が回ってきた。


慈善訪問した寒村で、悲惨な生活を目のあたりにした彼女。

裕福で豊かな自分の生活と余りにも違う寒村の現実。


フロー「これが同じ人間の生活なのかしら」

まるで動物同然の暮らしぶりに唖然とするフロー。


帰宅後、フローは食事も喉を通らなかった。

この体験が彼女の人生を看護の世界へ舵を切るきっかけとなった。


フロー「でも上流階級のレディに働く事は許されない」

社交界に身を置く彼女の家庭環境がそれを許す筈もなかった。


「ダンスとお茶会が人生の全てではないはずよ」

1839年09月夜ごとの盛大なパーティでダンスを抜け出したフロー。


庭に抜け出したフローはやはり抜け出した1人の紳士と出会う。

彼の名はリチャード・モンクトン・ミルズ。


政治家で「青少年更生院」創設に燃える慈善家でもあった。

その想いはナイチンゲールと同じであった。


フロー「この人ならわかり合えるのかもしれない」

1841年リチャードとの交際が始まる。


だが「婚約か、己の道を貫き看護の道を進むか?」

彼女は悩み続け、自室に塞ぎ込むようになってしまう。


思い余った彼女は神経衰弱で倒れてしまった。

友人シグマ「フロー、思いつめるのは身体に良くないわ」


見かねた友人シグマはフローを旅行に連れ出した。

行き先はローマ、観光が目的だった。


当時は旅行で海外へ行けるのは富裕層に限られていた。

1847年ローマ旅行の際に盟友シドニー・ハーバートと出会う。


彼こそは後の陸軍大臣その人であったのは偶然だろうか?

上流階級しか海外旅行に出掛けないので、必然だったとも言える。


政治家である彼も旧態依然とした英国医療界の改革を考えていた。

「貴方のような新しい考え方を持った人を捜していた」


これはシドニー/フローとも同じ考えであった。

2人はこの後も協力者として二人三脚を続ける事になる。


1847年フローはリチャードからプロポーズを受ける。

正史ではプロポーズを断り、独身を貫き、看護婦に。


しかしここでフローは個人の尽力に限界を感じていた。

フロー「看護学校を出たら、組織を作り、医療統計学に尽くそう」


フロー「夫の政治家としての手腕、力量に頼ろう」

打算的ではあったが、それでもリチャードを愛していた。


1848年リチャードと婚約、フローレンス・ミルズとなる。


大富豪で政治家の家系に嫁いでもフローの情熱は変わらない。

リチャード「応援しよう、自分の道を叶えて進みなさい」


1848年は日本で言えば嘉永元年、江戸時代だ。

英国でも「妻が夫の元を離れて職業に就く事」など有り得なかった。


その後もフローは粘り強くナイチンゲール家の説得を続けた。

父ウイリアム「ミルズ家当主リチャードが許すなら仕方ない」


母フランセス「絶対イヤ、ジェントリの身分に相応しくない」

姉パースィノープ「妹は言っても聞かないし、もう許すわ」


とうとう母も折れて、3ヶ月間だけ遊学を許された。

1851年独国の病院付学園施設カイゼルスベルト学園に3ヶ月留学する。


独国の看護体制は、英国の救済院とはまったく違っていた。

設備も制度も洗練され、桁外れに高度だった。


看護のやり甲斐もある「誇りのある女性」の仕事だった。

フロー「英国ならもっと出来るはずなのにどうして?」


3ヶ月後帰国したフローは今度は病院研究に没頭する。

病院のシステム、経営、設備を全てを網羅していった。


幼少から高等数学と統計学に傾倒していた彼女である。

科学的、数学的見地から改善すべき点を見出していた。


病院食の栄養、ベッドの清潔度、包帯交換の頻度はどうか?

リネン(シーツ、枕カバー)、患者の入院衣、毛布は過不足ないか?


どの病院も財政難で喘いでおり、予算も限られていた。

統計学はその中でのやりくりに活路を見出すのだ。


1853年ブリュッセルで第1回国際統計会議が行われる。

世界は人間生活の局面を統計研究する基礎を築き始めた。


だが統計学は大概が1000ページに及ぶ数表の連続だ。

統計学者以外はやがて興味を失ってしまった。


政府関係者は統計実務室に専門家を集め、顧みなくなっていた。

フロー「これではいけない」


1860年彼女は第6回国際統計会議がロンドンで開かれる事を知る。

夫のツテで女性統計家として、これに参加。


論文の数値表をグラフで説明する画期的手法を見せた。


これは統計学者ケトレの後援あっての快挙であった。

1863年ベルリンで今度は「外科手術の統計形式」のひな形(論文)を提出。


これ以降フローは民間医療や植民地の衛生環境も手掛けている。

まさしく「統計学の重鎮」と言われるほどの地位に納まっていた。


一方、フローは様々な検査についても精通していた。

その内のひとつに「尿検査」がある。


1853年英国に独国から帰国した時の事である。

戦争大臣となっていた盟友シドニーを呼び出した。


統計が得意な彼女は、シドニーの生活習慣の統計を取っていた。

高級官僚ともなれば、食事も偏ったモノが多くなる。


英国貴族は地面から採れる作物は、貧民に適していると考えていた。

その為に野菜を口にする事は殆ど無く、多彩な肉料理を好んだ。


シドニーの生活習慣は贅沢華美に過ぎ、芳しくなかった。

その結果はCKD(慢性腎臓病)と糖尿病を示唆するものであった。


CKD(慢性腎臓病)は当時はブライト病と呼ばれていた。

治療法はなく、不治の病と恐れられていた。


タンパク質を制限しなければ、腎臓に過度の負担が掛かる。

当時の病人は寝た切りになると肉のスープが与えられた。


スープには溶け出した蛋白が多く含まれ、まったくの逆効果だった。

当時多くのブライト病患者がこの処方で亡くなっていたからだ。


統計学が得意なフローはすぐこの傾向に気付いていた。

質素な献立による食事療法こそが延命法だったのだ。


炎症を起こした腎臓(糸球体)は機能を消失する。

つまり一度腎臓病を発症したらもう治癒は不可能なのだ。

当時CKD(慢性腎臓病)の治療法は未解決でブライト病と呼ばれ、死の病でした。シドニーは訳も分からず病死、ナイチンゲールは失意に打ちのめされます。その様子は余りにも痛ましいものでした。当時実験室的には様々な化学的解決法はあったのですが、まだ医療と結びつくに至っていませんでした。次回はこれを覆します。

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