尼港事件(2/2)
滑走艇に対抗してソ連にはスノープレーン「軍用アエロサン」があった。しかしこの二種には決定的に異なる構造がある。これが氷原での滑走で明暗を分ける事になった。
これで誰が味方か敵かが明白に分かった。
策謀は図に当たったのである。
もう尼港にいる事に意味はなかった。
待っているのは略奪、強姦、虐殺、放火だ。
特に民間人は格好の標的になるだろう。
この戦闘の喧噪に紛れて、日本民間人291人が滑走艇で脱出した。
これを追うのがソ連製スノープレーン「軍用アエロサン」だ。
日本が平底舟から進化したが、ソ連はスノーモービルから進化した。
足回りはただのソリで、滑走艇のように人数は乗せられない。
パルチザン「バカめ、深夜に北も南も分かるまい!」
深夜2時では真っ暗闇で方角は目視では分からない。
ところが滑空艇はまるで目印でもあるかのように突進してゆく。
ジャイロコンパスを使っての機械式操船だ。
パルチザン「うわっ、ヤツら何をどうやって!」
1908年実用化された慣性航法装置で最新型だ。
滑空艇は平底舟なので薄氷の上もへいちゃらである。
スノープレーンはソリなので水没してしまう。
パルチザン「薄氷の上まで、うわあああ」
バキバキッ、ドボーンッ、ブクブクブクッ!
軍用アエロサンは氷の下に突っ込んでしまった。
乗員を乗せたまま漆黒の海底に沈んでゆく。
8隻の滑走艇は爆音を立てて去って行った。
乗員は約300余人、これは民間の邦人全員にあたる。
20時間後、復路で300余人の陸戦隊が増派されてきた。
避難民は救援艦の待つ亜港に無事に辿り着いたのだ
次は米国人600人が15隻の滑空艇で脱出した。
20時間後、復路で600余人の陸戦隊が増派されてきた。
次々に外国人は脱出して行き、復路で増派されていった。
尼港の守備隊はやがて8000人を数える事となった。
これには包囲していたパルチザンも仰天してしまった。
陸路は閉鎖していたが、氷結した河川側は無警戒だった。
トリャピーツィン「オイオイ、冗談じゃあないぞ」
取り巻いたつもりが、これではあべこべだった。
民兵4000人対正規軍8000人だ。
パルチザンが正規軍に勝てるはずがない。
石川少佐「よし、蹂躙せよ!」
あっという間にトリャピーツィンは捕虜になった。
他の赤軍兵士は大部分が逃げ散り、残りは捕虜となった。
赤軍は白軍に恨まれており、赤軍捕虜はその場で裁判無しで死刑だ。
自業自得で、今までやってきた事が自身に跳ね返ってきたのである。
離反した朝鮮人や中国人もやはり真っ青になっていた。
自国でなら、やはり反逆罪は死刑、良くて耳削ぎ、鼻削ぎである。
朝鮮人や中国人は強制送還となった。
2度と尼港の地は踏まない約束だ。
なぜいっそのこと死刑にしないのか?
実は、彼らは反日組織の全貌解明の「芋のツル」なのだ。
南の浦塩は不逞鮮人の策源地であった。
帰港した朝鮮人(芋のツル)が組織に辿り着くまで追跡する。
本部はうらぶれた乾燥海鼠を売る乾物屋だった。
回りに1人物乞いがウロウロしていた。
諜報員「やれやれ、ヒドイ目に会いましたよ」
本部員「バカ!なんで帰ってきた!」
諜報員の後に物乞いに変装した追跡員が立っていた。
追跡員「いやいや、本部の在処と人員の解明にご協力ご苦労さん」
「それでは豚箱にはいってもらおうか、捕縛しろ!」
あっという間に武装警察が押し入って全員を捕縛した。
あとは「芋ヅル式」に収穫すれば、一網打尽というわけである。
朝鮮人活動家どころかロシアの過激主義者までオマケがついた。
こうして1人(芋のツル)から数百名の関係者(芋)が出てきた。
抗日組織も、後ろ盾のロシア人も全てを逮捕出来たのだった。
中国はアムール川の航行権を永久に失う事になった。
かつては生活漁業や民間狩猟の舟は見逃されていた。
それは水面下で密輸の温床にもなっていた。
だが今回の不祥事で全てが禁止事項となった。
トリャピーチン司令とニーナ政治委員らは放逐された。
彼らはブラゴヴェシチェンスク目指して南下する。
その途中で部下達に銃殺されてしまった。
レーニン「今、日本といざこざを起こるのは利益がない」
ソ連の政治的駆け引きのため、と言われている。
こうして尼港の虐殺はすんでの所で回避された。
だがらといって赤軍の勢いはとどまるところを知らない。
ソヴィエトのレーニンは米国に近づいていた。
米国はボリシェヴィキ政府を国家として認めていない。
国家で無ければ国境の設定も、外交もないのだ。
なんとしてでもソ連を国家として認めさせる必要があった。
そこで米国にカムチャツカの資源を与え、国家として認めさせる。
米国が認めれば、他国も追従するだろう。
さらにカムチャツカで日米資源戦争を起こさせ、日米の仲を裂く。
そこに攻め入って領土を取り返す(外人を追い出す)のだ。
国家として認めさせれば、後は口八丁手八丁でどうとでもなる。
レーニン「漁夫之利だったか、中国人は上手い事を言う」
これがソビエトのレーニン外交のうまさである。
味方同士の疑心暗鬼を増幅させて、反目させ離反させるのだ。
1920年秋、米国は大統領選挙で民主党が敗北、共和党が勝利する。
新大統領は共和党のウォレン・ハーディングである。
だがヒューズ国務長官はこの日米解離策に気付き、通商関係を拒否した。
思惑の外れたレーニンは今度は独国に接近する。
図らずも独露東漸(独軍の東進)がにわかに現実味を帯びてきた。
日本は尼港事件を根拠にしてシベリアに傀儡政権を打ち立てようとしていた。
しかし所詮はシベリアに親日政権を作り、資源を簒奪するなど夢物語だった。
ロシア帝国は急激に赤く染まり、帝政はレーニン主義社会へと移っていった。
もはや傀儡政権など、受け入れられる世情ではない。
革命という嵐が何もかも吹き飛ばそうとしていた。
傀儡政権に担ぎ上げられたホルヴァートとセミョーノフ。
これら2人を選んだ日本の人選にも問題があった。
担ぎ上げられたホルヴァートは強いリーダーシップを発揮出来なかった。
セミョーノフは素行が粗暴で専制的性格が強く、失脚して日本に脱出した。
地元民はもはや赤く染まり、赤軍の到着を待ち望んでいた。
住民にとって日本軍や白系ロシア人はもはや倒すべき敵でしかない。
石田副領事「もう尼港に日本人はいられない」
再び入植しようという希望者もいたが、それはかなわなかった。
いくら民間人だ、軍人軍属とは関係ないと言っても無意味だ。
暴力革命ゆえ鎮静化には時間が必要だ。
日本人というだけだけで、それは赤軍の敵だった。
日本人というだけだけで、処刑の対象となった。
1918年夏、米国の呼びかけで始まった多国籍軍によるシベリア出兵。
ソヴィエトと戦うチェコ軍を救援するのが目的だった。
ところがチェコ軍救援のはずが戦闘は終結。
1918年秋、チェコは独立を果たして、出兵の意味は消滅した.
1920年、各国は次々と撤退し、日本だけが残留していた。
そして今、1920年04月、最後の守備隊が尼港を撤退した。
当時の原内閣は西欧の複雑怪奇な情勢を甘く見ていた。
侵略は武力による戦略と戦術によるものであろう。
だがソ連は欧米との外交で駆け引き外交が鍛えられている。
欧米も駆け引きで利を得る外交を心得ている。
英国「外交とは自国の利に、気付かれずに他国を強いる芸術である」
「永遠の同盟も無く永遠の敵も無い。あるのは英国の利益のみ」
これは英国人の本音であると思われる名言である。
日本はこの「武器無き戦い」をどこまで心得ているだろうか?
ウラジオストクに乾燥海鼠の店があるのは海参崴「海鼠の棲む険しい断崖の地」という呼び名へのオマージュです。ウラジオストクには「スコブリャンカ」(海鼠ロシア料理)がある程です。その後のシベリア出兵で日本は傀儡政権擁立に失敗、バイカル湖まで進軍しておきながら、占領地の全てを失います。勇猛果敢に戦闘に勝ちながら、領地を得られないパターンはもはや伝統芸の域に達しているでしょう。次回は第一次世界大戦マルタ出征(1/4)です




