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(本編完結)また第二次世界大戦かよ  作者: 登録情報はありません
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尼港事件(1/2)

尼港とはニコラエフスクの事で1920年尼港事件のあった場所で、ロシア革命のパルチザンによって虐殺のあった場所です。駐留していた中国海軍、金掘人の朝鮮人はパルチザン側に寝返って、日本人は軍属民間人とも全滅したのです(正史)。これをすべて当時の技術で覆します。

この時期ロシアには革命の嵐が吹き荒れていた。

そしてそれは帝政に苦しむ国民をさらなる地獄に突き落とす。


しかし強きを(くじ)き弱きを助く、というように当時は捉えられていた。

それは革命資金を富裕層から強奪していたその方法によった。


貧民層A「へっへっへっざまあみやがれ」

貧民層B「オレらの仲間になりやがれ!」

貧民層C「おう!どんどんやってくれい」


レーニンは暴力革命を主張し、エクスによって革命の原資を得た。

エクスとは実力行使の事であり、レーニンは強盗を正当化していた。


1907年チフリス銀行強盗事件が起こる。

レーニン、スターリンは34万1000ルーブリの資金調達に成功する。


貧民層A「革命万歳!レーニン同士万歳」

貧民層B「さすがオレたちのレーニンだ」

貧民層C「ロマノフ帝政をぶっ飛ばせ!」


1918年10月ロシア革命。

この時掲げたのは「パン・土地・平和」というスローガンだ。


プロパガンダは温和だが、急進的で過激な組織はそのままだった。

その影響は極東の尼港 (ニコラエフスク)の日常に徐々に影響し始めた。


サケの水揚げやクマの毛皮、森林の木材で潤っていた尼港。

多くの日本人が入植し、街には多くの日本人もいた。


街には日本軍陸戦隊が駐屯し、白軍兵士とともに守備の任務に就いていた。

今はサハリン州全体で、赤軍は僅か300人の少数に過ぎない。


白軍は帝政時代の軍隊、赤軍は革命軍の事だ。

暴力革命に否定的な穏健派も白軍に含まれている。


革命が起こった今でも、尼港の街は平穏が続いていた。

だが、いつまでも赤軍の進攻を留めておく事は出来ない。


緩やかにまとまっていた帝国時代とは日常は一変。

街を守るはずの白軍兵士までが赤軍に転向し始めたのだ。


もともと寒村からの強制徴用だった白軍兵士たち。

彼らにとって赤軍のスローガンは魅力的に映った事だろう。


さらに街に住む労働者階級からも転向者が続出した。

革命を支持する最下層労働者が過激派に変貌したのだ。


港湾荷役、鉱山、土建業、森林伐採業etc。

昼間から大通りを闊歩して、通行人を襲い始めていた。


恐れていた赤軍兵士の数も、街の内外で増え始めていた。

パルチザンロシア人3000人+朝鮮人1000人+中国人300人。


尼港の人口は12248人。

うち日本人661人(軍人軍属370余)+中国人2314人+韓国人916人。

残りはロシア人数千人、米英国人ほか少数であった。


パルチザンといえば聞こえはいいが、所詮は山賊、強盗団の類いであった。

正式の軍事訓練を受けた兵隊では無く、犯罪者が徒党を組んだものなのだ。


軍規も軍法も守らず、略奪、殺人、放火と悪逆の限りを尽くす暴徒であった。

従って降伏した者は殺し、捕虜などという概念が元からない。


パルチザンは尼港に迫り、無血開城を迫った。


日本軍陸戦隊石川正雅少佐と領事館副領事石田虎松は話し合った。

石田「パルチザンは開城すれば安全は保障すると言っている」


石川「バカな事を!強盗を家に入れ、居間に通せばどうなるか」

「身ぐるみ剥がされて最悪は命を失う事になるだろう」


その場凌ぎの甘言に惑わされて、全財産を失ってから嘆いても遅い。

石川「亜港(アレクサンドロス)まで救援艦が来ている事は分かっている」


<尼港非常事態>の緊急電を尼港通信所がすでに発信。

その後は送電線を切られて、電信機は使えず、続信は途絶えた。


日本海軍軍令部長の山下大将は直ちに救援隊を小樽に集結させた。

砕氷船「見島」と戦艦「三笠」が尼港に邦人救出に向かう。


だが堅氷に阻まれ、尼港に近づく事が出来ない。

かろうじて亜港アレクサンドロスまでは行き着けたがそこまでだった。


残りの<尼港-亜港>は距離にして283kmと相当な距離である。

氷原を踏破するなど当時は不可能な事であった。


石田「それこそ世迷い言だ、流氷の上を283km歩けとでも?」

石川「いや、それが」「実はそうでもないんだ」


石川少佐は軍が所有する滑走艇を石田副領事に見せた。

平底船でスクリューではなく、巨大なプロペラ推進で滑走する。


石川「普段は喫水の浅い河川を遡る偵察用なのだ」

「だが滑走艇は氷上でも滑走が可能だ」


1905年滑走艇はカナダのグラハムベルによって発明された。

1915年メソポタミア作戦で英国に初めて実戦投与される。


これは「ハイドログリスール(Hydro-Glisseurs)」と呼ばれた。

日本ではモ式イ号水上機を改造して、1913年に滑走艇が誕生する。


滑空艇は定員40名で30km/h。

283kmなら9~10時間で着く。


尼港最大の日系商会といえば島田元太郎率いる島田商会である。

民間でも多くの滑走艇が活用されており島田商会が最も多い。


島田商会120艇、川口商会60艇、川内雑貨商20艇、百合野菓子パン業10艇。

大部分は狩猟と鮭などの漁業のため、冬季氷結時の流通のために使用されていた。


駐留日本軍は20艇で、これは喫水の浅い支流での偵察任務用である。

合わせて230艇、これを全て徴用すれば9200名の脱出を確保出来た。


当時の尼港の人口は12000余人である。

どうしても2800人分は滑走艇が足りない。


いや本当に足りないのだろうか?

尼港には様々な職業の様々な外国人がいる。


その内の朝鮮人と中国人の動きが妖しい。


朝鮮人は元々アムール川上流の砂金を採る金掘人たちである。

一攫千金を狙う山師達はパルチザンと通じている者もいる。


さらに問題は越冬中の砲艦4隻からなる中国艦隊の存在だ。

彼らの目的はロシア帝国に奪われていた河川の航行権を取り戻す事だ。


革命による弱体化に乗じて回復するよう中国海軍の密命を帯びていた。

その彼らが「どちらに付くか」だ。


その中国艦隊がパルチザンに武器を貸与しているというウワサがある。

彼らは日本駐留軍が中国艦隊遡上を妨害していると信じているそうだ。


とんだ逆恨みで事実無根だが、どうやら本当の話らしい。

外部にパルチザン、内部に離反者。


石川「ここは一丁あぶり出しをやってみるか」

陸戦隊は深夜午前2時にパルチザン本部に奇襲を掛けた。


あわよくば頭目のトリャピーツィンをとっ捕まえようというハラだった。

だが彼は負傷しながらも、上手く逃げおおせてしまった。


ここで思った通りの事が起こる。

朝鮮人の義勇隊がパルチザンに呼応して、日本軍を攻撃し始めた。


中国の軍艦も日本軍を砲撃し始めた。

日本軍は被害が拡大せぬうちにさっさと撤退した。

滑空艇は今でいうプロペラボートに該当します。次回は尼港事件(2/2)です。

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