表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

その二

天使の城。あの三人の天使を前にジェフたちはひざまずいています。ウィッチはずっと泣き続けです。自分が犯した罪と手に入れた箒を手放さなければならない悲しみが、彼女を立ち直れなくなるほどに打ちのめしているのです。

ジェフの報告を受けても三人の天使は黙ったままでした。まるで人形を前にしているように反応がありません。そして、長い沈黙の後、ようやく真ん中の天使が動きました。それまで中空に浮かんでいた天使が下りてきたのです。天使は床に降り立つと、静かにジェフたちの傍へ歩み寄りました。その一連の行動を見つめながら、ジェフは不思議な感じがしました。さきほどまで中空に浮かんでいた天使を人形とするなら、今近くに歩み寄る天使は魂を吹き込まれた生身です。どこかに見えない出入口があって、天使がそこで入れ替わったのでしょうか。

「ウィッチ。その箒を私に」

天使は両手をウィッチに差し出しました。言われてウィッチは初めかたくなに箒を抱きしめましたが、逆らえないと覚悟を決めたのか、箒を天使にささげ上げました。天使は箒を受け取ると、それにそっと口づけしました。すると箒が金色に一瞬輝き、箒から黒い靄が湧き出て、すぐに消え去りました。

「これでこの箒からは邪気が消えました。もうあなたが持っていても大丈夫ですよ」

天使はやさしく微笑んで、箒をウィッチに返しました。受け取ってウィッチは戸惑いました。

「大丈夫ですよ。それはあなたの物です」

天使の言葉にウィッチの表情はみるみる輝き、受け取った箒をしっかり胸に抱きしめました。何度も天使に頭を下げます。

「問題はガブリエルですね。いつかはこの時がくるとは思っていました。とうとうそうなってしまったのですね」

ため息のように天使はつぶやきました。

「天使様。聞いてもいいでしょうか」

尋ねたジェフの袖をウィッチが引きました。ジェフが何を言い出すかと、心配顔のウィッチです。そのウィッチに天使は手を差し伸べました。ウィッチはジェフの袖から手を離しました。

「構いません。ジェフ。何が知りたいのですか?」

「はい。天使様。どうしてこの妖精の国にあのような魔女がいるのでしょうか」

聞かれて天使は一瞬表情を硬くしましたが、ジェフの真っすぐな眼差しに頬をゆるめました。

「ジェフ。あなたの目には不思議な力が宿っているようです。あなたに見つめられたなら、誰もウソはつけないでしょう。そうですね。それは、この国に住むみなが抱いている疑問でもあるでしょう」

そう言った後、天使は一呼吸置くように上を見上げて、再び視線をジェフに戻した瞳にはかげりがありました。

「あれは私自身なのです。いえ。正確に言うなら、もう一人の私です」

「もう一人の天使様?」

ジェフとウィッチは同時に声を上げました。

「私も神によってこの世に生を受けたものです。なのに、神のように完全ではありませんでした。慈悲の陰に妬みがあり、微笑みの裏に怒りがありました。私は神を恨みました。どうして神のようではないのかと。神はおっしゃったのです。負の心があるからこそ、正しい心に気づくのだと。そのときの私には神の真意がわからなかったのです。そして、神の元を離れ、この妖精の国を作ったのです。国を作るとき、理想を求めるあまり、私は私の負なる心を封印しました。そして、いばらで囲み閉じ込めたのです。誰も立ち入ってはならぬという掟まで作って。しかし、時が経てば、掟もその効力が薄れることは仕方ないものです。私はそれを知りながら、むしろ放置しました。許して欲しい。封印したとは言いながら、それはやはり私の一部なのです。私の分身なのです。後にそれに思い至った私は封印した分身を引き戻そうとしました。でも、もう手遅れだったのです。分身は分身なりに成長し、私の意のままにはならなくなっていました」

「では、もう誰も止められないのでしょうか」

「一つだけ手段はあります。それは私が分身と交わること。元々は私の中にあったのです。私の中に取り込めば、魔女ガブリエルは消滅するでしょう。ただ、気がかりは」

そこで天使は少し言葉を途切れさせました。ジェフたちは固唾を飲んで次の言葉を待ちました。

「ただ気がかりは、逆に私がガブリエルに取り込められることです」

「ひーっ」

ウィッチが小さな悲鳴を上げました。思いもよらないことだったのです。天使が魔女に負けてしまうなんて。

「そんなことになってしまったら、この世界は終わってしまいます」

ウィッチは涙声で訴えました。

「そうですね、ウィッチ。でも、心配しないで。私には予感があるのです。いいえ。それは今、確信になりました。ジェフ。あなたのその目を見た時に言いましたね。誰もウソはつけなくなると。あなたには不思議な力が宿っています。それはあるいは私以上かもしれない」

「そんなことってあるのですか?」

ウィッチはうつろにジェフを見つめました。

「これは私の思い過ごしかもしれませんが、神がジェフを私の元に遣わされた。そんな気がしてなりません」

「神様が……」

ジェフもウィッチも信じられないという顔です。不思議とソデチンだけが何度もうなずいています。

「ボクは前からそう思っていたでふよ」

「何がわかっていたのよ」

ウィッチはソデチンの頭をポカリと叩きました。

「痛いなあ」

「いい加減なこと言うと承知しないわよ」

「ウィッチ。ソデチンのお話を聞いてあげなさい」

「はい」

天使に諫められてウィッチは肩をすぼめました。

「初めて会った時から、ジェフはボクの友だちだと思ったでふよ。理由はわからないけど、不思議と自然に仲良くなれたでふ」

「そうね。そう言えば、あたいだって狼のジェフが草やぶから出て来た時はやばいって思ったけど、知らない内に怖さが消えていたわ。ジェフってぜんぜん狼みたいじゃないんだもの。あたいなんか、今じゃまったく狼だなんて思ってもないわ。それに……」

あの子もきっとそうだと言いかけて、ウィッチは口をつぐみました。ひょっとしてジェフが忘れているかもしれない人間の女のことなんかわざわざ切り出す必要はありません。ライバルはジェフの記憶の奥でずっと眠り続けてくれたらいいのです。

「そうよね。あたいもソデチンがいつもと違うなとは思ったのよ」

うまくごまかしました。

「ジェフにはボクらを素直にさせる何かがあるでふよ」

珍しくソデチンは真剣に言いました。

「あなたのやさしい光がすべてをよい方向に導いてくれるものと信じています」

天使はそう告げて、ジェフの頭に自分の手を当てました。


六つ子たちは森の中を駆け続けていました。岩山の頂上をおおっていた黒雲は岩山から離れて、まるで六つ子たちの後をつけてくるようにじわじわと広がっています。黒雲の下は光を失うばかりか、森の木や草原の草花がしおれていきました。まるで命を吸い取っているようです。振り返って見たところでどうしようもないとはわかっているのですが、やはり気になります。六つ子たちは後ろを振り向いては黒雲の広がりを確認し、予想外に近づいていることに驚いてはまた駆け出す。それを何度も繰り返しているのです。だから、思ったほどには先に進んでいませんでした。もっとしっかり走るのですよ。

すると、突然どこからか声がかかりました。それは大きく、活舌のいい、生真面目な声です。

「いたいた! イッピー。ニッピー。サッピー。シッピー。ウッピー。そして、ロッピー」

自分たちの名前を呼ばれて、六つ子たちは思わず急停止しました。その声には聞き覚えがあったのです。黒雲もよくないのですが、その声の(ぬし)に見つかったことも決して嬉しいことではありません。

「また今日も授業をさぼって。早く学校に行きなさい!」

それは妖精学校の女性教師、ヤギーさんでした。黒縁の眼鏡の奥から涼やかな目がキラリと光っています。紺のスーツ姿で背筋を伸ばした姿勢は融通の利かない堅物教師の典型です。きっとどんな言い訳も彼女の前では無駄な抵抗になってしまうでしょう。今日もヤギー先生は細い棒を持っています。ずばり教鞭です。それでヤギー先生は黒板をコツコツ叩いて魔法のイロハを教えてくれます。時々、出来の悪い生徒の頭をそれでコツコツ叩きます。出来の悪い生徒にとってはちょっと厄介な棒です。六つ子たちも例外ではありません。

「ヤギー先生。大変です。あれを見て下さい!」

イッピーが後方の空を指さして叫びました。その先にはあの黒雲が広がっています。ヤギー先生は黒雲を見上げて怪訝な表情を見せました。

「あら。何かしらねえ」小首をかしげます。

「不思議がっている場合じゃありません! 魔女ガブリエルが解き放たれたんです。早く天使様に教えないと!」

「ガブリエル?」

ヤギー先生はイッピーを見つめ返しました。そして、じっと真剣に見つめていたかと思うと、やおら口元をゆるめてニヤリと笑いました。イッピーを嫌な予感がおそいました。

「今日はまたなんて大げさなウソを言うのかしら。それで先生をだませると思って?」

「ウソじゃありません。あの雲を見て下さい」

イッピーはもう一度空を指さしました。

「あんな雲。時々出ます。しかもガブリエルが解き放たれたなんて、ウソをつくにも限度がありますよ。私だからまだいいものを。もし教頭先生の耳にでも届いたら、説教部屋どころじゃありませんよ」

「でも先生……」

イッピーは泣き出しそうな顔をしました。こんなやり取りをしている間にも黒雲はどんどん広がっているのです。それは魔女の邪悪な力が国中を蝕んでいるように見えます。

「はいはい。おふざけはこの辺でもうおしまいです。教室に戻りますよ」

そう言うと、ヤギー先生は教鞭をクルクルと回し始めました。すると、棒の先から光の輪が飛び出して、たちまち六つ子たちを囲みました。

「先生! お願いだからボクの……」

イッピーの声だけ残して、六つ子たちの姿は消えてしまいました。その後にはプードルが一匹。

「おや。可愛いワンちゃん。一緒に遊んでいたのね。ごめんなさいね。授業が終わったら、また遊んでもらうのよ」

「あの……」

マリアが言いかけた時、ヤギー先生はもう一度棒で自分の頭の上に輪を描いて光とともに消えてしまいました。マリアはひとりぼっちになりました。マリアはその場にうずくまり泣きました。寂しさと不安で押し潰されそうです。せめて泣いて感情を吐き出さないと、本当にこのまま死んでしまいそうでした。

ひとしきり泣くと、少し気持ちが落ち着きました。いつまでもこうしてここに留まっていても仕方ありません。マリアは気持ちを入れ替えました。ドアおじさんを探そう。ドアおじさんさえ見つかれば、私は元の世界へ戻れる。でも、当てがありません。この国のどこへ行けばいいのか。右も左もわからないのです。

やはりクマッタさんを見つけるしかないのかしら。マリアはムサビが最後に言った言葉を思い出しました。クマッタはいばらの森にいたと。いばらの森。それはあの黒雲が湧き出た場所です。魔女の根城へ向かうことになるのです。マリアはすくみました。でも、このままじっとしていても道は開けません。あの黒雲はこの辺りまでもすぐにおおいつくしてしまうでしょう。それなら、どこにいても同じことかもしれません。それに、ひょっとしたら、解き放たれたということは、もうあそこに魔女はいないかもしれないのです。ずっと閉じ込められていた場所にいつまでも留まっているとも思えません。案外、一番安全な場所なのかも。マリアは勇気を出して歩き始めました。

黒雲の湧き出した元をたどればそれほど難しい道のりでもありませんでした。マリアはいばらの森を目前にして立ち止まりました。クマッタがこの中にいるとは思えません。この森は掟で閉ざされた場所なのです。クマッタがいるとしたら、当然この森の近辺です。マリアは森を横目で見ながら、その周りを歩きました。まだこの森の近くにいるかもしれない。それは淡い期待かもしれない。でも、その期待に託すしかないのです。

歩いていると、誰かがしゃがみ込んでいるのを見つけました。遠目にもおばあさんだとわかります。しかし、状況からすれば、ただのおばあさんとは思えません。マリアは無視しようかどうしようかと迷いました。その隙を見透かしたように、おばあさんはよろよろと立ち上がりました。足元が覚束ないです。思わずマリアは駆け寄ります。

「可愛いワンちゃんだこと。迷子になったのかい?」

頼りない足取りがウソのようにおばあさんはプードルのマリアに近寄りました。

「お前はこの国のものではないね」

そう言ったおばあさんの姿がみるみる変わりました。そう。それはガブリエルだったのです。恐ろしさにマリアはプードルであることも忘れて二本の後ろ足で後退りました。人間の習性がつい出てしまったのです。それに確信を得たガブリエルは不敵な微笑みを浮かべ、マリアを捕まえました。抱きかかえられてマリアは身動きもできません。

「いい手土産ができた。きっとアウリエルも喜んでくれるに違いない」

魔女ガブリエルは勝ち誇った声で笑いました。


黒雲は災いの雨を降り注ぎました。それは怒りの雨です。その雨に濡れた草木は次第に枯れていきます。そして、妖精たちが濡れると……

クマッタはまだいばらの森近くにいました。昼寝する彼のからだに黒い雨が降り注ぎます。クマッタのとぼけた顔がみるみる鋭くなりました。昔々に忘れていた感情がむくむくと湧き上がります。クマッタは熊に姿を変え、怒りの咆哮を上げました。闇雲に木々に八つ当たりしてはなぎ倒していきます。

一方、ヒカクは岩山の異変に気づいていました。ずっと空を眺めています。

「世の中には二種類の山がある。一つは気高く気品に満ちて美しい、いわば霊山だ。そして、もう一つは、いまわしい呪われた山だな。あれはまさにそのものだ」

またそんなことを言いながら眺めていました。そして、そこから流れてきた黒雲を見つめていると、顔に大粒の雨が落ちました。たちまちずぶ濡れになったヒカクは全身の毛を逆立てて水気を振るい落としました。そう。ヒカクは狼に姿を変えたのです。でも、ヒカクはクマッタのように周りに八つ当たりすることはありませんでした。むしろうずくまり、じっと動かないでいます。しかし、ヒカクの心の中では激しい言い争いがありました。自分で自分を責めているのです。なぜあの時そうしなかったのか。どうしてそんな選択をしたのか。お前は愚かななまけものだ。いい格好しいだ……と、際限がありません。

また、ムサビはムササビの姿となって木の幹にある穴の中で震えていました。ガブリエルに見つからないようにと願うばかりです。しかし、その穴にも雨はしずくとなって伝わりました。やおらムサビは穴から顔を出しました。目が尋常ではありません。穴から這い出たムサビは一目散に木の高みへと駆け上がり、頂上から遠くの木へと滑空しました。飛び移った木では、また頂上へ駆けあがり、また別の木へと滑空します。次から次へとムサビは同じことを繰り返します。恐怖のあまり気がおかしくなってしまったのか。あるいはそれがムササビの怒り行動なのでしょうか。


ジェフとウィッチとソデチンの三人はいばらの森へと向かいました。ジェフとウィッチの二人は掟を破った責任上天使の言いつけに従うしかありませんが、ソデチンは違います。ですが、一緒に行くと言い張って頑として譲らなかったのです。あのおっとりとしたソデチンには想像もできない態度です。ジェフは笑顔でうなずき、ウィッチは驚き顔でうなずいたのでした。

三人に魔女ガブリエルに対抗する武器は何もありません。あるとすればウィッチが大切に抱きかかえる魔法の箒だけです。それにしたところでどんな役に立つのかわかりません。いばらの森で道を切り開く手段くらいにしか思い至らないのです。いざとなれば逃げる時に空飛ぶ箒になってくれるのでしょうが、一度失敗しているだけに不安です。三人にとって一つのより所は、送り出す天使が語った言葉だけでした。それはウィッチの質問から始まりました。

「天使様。魔女ガブリエルにはどうやって立ち向かえばよいのですか? あたいたちには何の武器も魔法もありません。せめてガブリエルの弱点でもわかれば…」

「あなたが言うように、この国には武器というものはありません。そういう物が必要とならない国を私は目指したのですから。それは私の理想からは外れたものです。魔法も不幸を招くような魔法はこの国では使えません」

「それではガブリエルも?」

「この国にある限り、それは同じだと思いますよ」

天使の言葉にウィッチの表情は少しほっとしました。それなら、対抗する術があるかもしれない。

「ただ、それは私の力が彼女に勝っていたらという前提があります。彼女の力が勝れば、思わぬ魔力でおそってくるかもしれませんね」

いやいや、そこでおっとりと微笑まれても。ウィッチは言葉がありません。

「ガブリエルの城から逃げ出すときに、大きな石像が何体も追いかけてきました。あれはやはりガブリエルの魔法が動かしたんだと思います」

ジェフは石像に追いかけられ、なんとかいばらの蔓が石像の邪魔をしてくれて助かったことを話しました。

「そうですか。やはり彼女には私の力が届かなくなっているのですね。それに、彼女は怒りという感情をみなに振りまくことができます。みながこれまで一度も経験したことのない感情です。そうなればみな我を見失い、止めどない争いが起きるでしょう。私はそれが心配です」

「そうさせないためにはどうすればいいのでしょうか?」

ジェフが尋ねました。

「ガブリエルから怒りを消し去ることだと思います。先ほども話したように、彼女は私の分身です。彼女には怒りだけでなく、私が持っていた思いやりや優しさが残っていると思います。それを彼女に思い出させて下さい」

「そんなことができるのでしょうか?」

「ジェフ。自分自身を信じなさい。あなたは神に選ばれたのです。あなたの力がガブリエルの怒りを必ず鎮めてくれるでしょう。私はあなたとともにあります」

言い終えて天使は小さな光に姿を変えました。その光はジェフの肩に移り、そして、消えました。本当に天使がジェフの肩に宿ったのか、その実感さえないのです。現にウィッチはそれを疑っています。

「本当に天使様はジェフの肩にいるのかしら」

「どうかな。でも、そう信じることが大事なんじゃないの」

こんな事態になっても呑気なジェフの答です。

「天使様。ちゃんとそこにいらっしゃるの?」

ウィッチの問いかけに、残念ながら何の反応もありませんでした。ウィッチは思わず大きなため息をつきました。自然と箒を抱える手に力が入ります。

「ジェフのやさしさってなに? どうしたらそれはあたいたちの味方になるの?」

「そんなこと聞かれても、わからないよ」

ジェフは眉根を寄せました。その言葉にまたウィッチの大きなため息が重なります。三人はしばらく無言で歩き続けました。その沈黙が余計三人を不安にします。ウィッチがたまらず声を出しました。何か話していないと逃げ出したくなります。

「ねえ。天使様がおっしゃってた完全てなあに?」

「また難しいこと聞くなあ」

「天使様はこの妖精の国を作った方なのよ。完全じゃないわけないわよねえ」

「うん。そうだね」

「あ。なんだか。違うって言いたいみたい」

「そんなことはないさ。でも……」

「でも?」

「天使様は妬みや怒りの心を閉じ込めたと言ってたよね。それが魔女ガブリエルになったと」

「うん」

「それって本当に正しかったのかなあ。結果的に魔女を生み出してしまったわけだし」

「う~ん……」

ウィッチは腕を組んで首をかしげました。

「感情には表と裏があると思うんだ。それがどんな役割になるのかわからないけど。その一方が欠けるとよくないんじゃないかなあ」

「そうなの?」

「世の中にはいろんなことがあるよね。それをやさしさやいたわりだけで乗り越えられるものなのだろうか」

「天使様ならできるんじゃない? これまでそうされてきたのはたしかなんだから」

「そうか。天使様はそうなんだ」

「ジェフだって、そうじゃない。あなたはやさしい狼だわ。あなたが恨んだり怒ったりしているところを見たことがないわ」

「ボクにだってあるさ。表に出して見せないだけで」

「そうなの? ジェフにもそんなところがあるんだ」

ウィッチはジェフの違う一面を見た思いです。

「ジェフって、あたいから見たら随分大人だよね。あなたに出会ってから、いろいろと教えてもらうことがあったわ」

「そう? たとえば?」

「そうね。たとえば、ウサギをおそわない狼を初めて知ったわ」

「それはボクだけで、特別だと思うよ」

「それに、吠えたことは一度もないわ。他の狼なんてしょっちゅう吠えてばっかり」

「それは獲物を獲るからさ。吠えて脅して、相手をちぢこませるんだ。そうすれば、からだが硬くなって、動きが鈍くなるだろ? ボクにはその必要がないし、あまり吠えるの好きじゃないし」

「ジェフの好物は木の実やキノコだものね」

「ああ。森にはボクのご馳走がいっぱいある。お陰であまり空腹になることもないよ」

「本当に変わったおおかみさん!」

ウィッチは笑顔でジェフを見上げました。でも、それにジェフは浮かない表情です。ウィッチも眉根を寄せます。

「変わってるからね、ボクは。他のみんなとは違うんだ。ヒカクが言ってただろ? 珍しい狼だって……」

ウィッチはジェフの浮かない気持ちがわかりました。獲物を獲ろうとしない、肉を食べようとしない狼は、当然仲間から相手にされません。ジェフはずっとひとりぼっちだったのです。ヨーゼフがいますが、それだって他の狼の目を気にして、あまり会いには来ないのです。

「ジェフ? ちょっと聞いていい?」

「どんなこと?」

「答えたくなかったら、答えなくたっていいのよ」

「うん。わかった」

「ジェフの……ジェフのお母さんはどうしてるの?」

「いるよ」

「どこに?」

「うーん……、知らない。でも、きっとどこかにいる」

「会いたくないの?」

「時々ね。会いたいとは思う。だけど、ボクがいるといけないんだ」

「どうして?」

「だって、ボクは変だから」

「どこも変じゃないわ」

「変だよ。肉を食べられない狼なんて、いないもの」

「……」

ウィッチには返す言葉がありません。

「ボクだって、小さい頃は食べていたんだよ。生まれた時からこうじゃなかった。だけどね……」

まだまだジェフが幼い頃。いつもお母さんがジェフたち兄弟にえさを獲ってきてくれていました。まだ何も知らないジェフは、その肉のかたまりを兄弟と取り合うように食べていました。それがあるとき、ジェフの前にほとんど無傷な野ネズミが置かれました。それはもう死んでいたのですが、その黒い瞳はまだ生きているかのように悲しげな目をしていました。その目を見たら、ジェフはどうしてもその野ネズミを食べることができなかったのです。以来、ジェフは野ネズミや野ウサギを食べられなくなりました。

「それからしばらくして、ボクは自分から巣を離れた。兄弟たちと違ったからね。そんなボクを見つめるお母さんの目が辛くなったのさ。元々狼はひとり立ちできるようになれば巣を離れる。ボクの場合は少しそれが早くなったということさ」

「そうなんだ……」

ウィッチはジェフに気づかれないようにそっと目元を拭いました。自分の涙を見せれば、一層ジェフに嫌な思いをさせてしまうように思えたからです。

「でもね。あたいはこう思うな。ジェフのお母さんは決してジェフを変な狼だとは思ってないって」

「そうかなあ」

「だって母親なんだもの。きっとそうよ」

「そうだね」

ジェフはうなずきました。

「そうそう。まだ話が途中だったわね。ジェフから教えてもらったもの。……えっと、それから、物事を苦にしない。嫌なことや悲しいことがあったって……」

「なんだかボクの性格ばかりで、教えたことは一つも出てこないけど」

「え?」

「うん」

あはははは……。二人は一緒に笑いました。

ふとジェフが立ち止まりました。

「どうしたの?」

ウィッチは怪訝そうにジェフを見つめます。

「きれいな花だね」

ジェフは道端に咲く花に近寄りました。それはすみれのように可憐な花びらを開いていました。

「なんだか君に似ている」

ジェフはその花にそっと手を触れました。

「そう?」

ウィッチは顔を輝かせて、その花を摘もうとしました。

「ダメだよ。根本から抜かないと、花が死んでしまう」

ジェフはウィッチの手を押さえて、その花の根本にある土を掘ると、根ごと抜き取り、根についた土を払いました。

「はい。これはウィッチの花だよ」

初めキョトンとしたウィッチですが、渡された花を受け取るとコクリとうなずいて、耳元の髪に挿しました。

「似合うよ」

ジェフの言葉にウィッチは頬をあからめました。このやさしさは誰にも真似できない。ウィッチはそう思いました。そして、先ほどまでの不安が薄れていることにウィッチは気づきました。

ふいにジェフはウィッチから視線をそらせて遠くを眺めました。

「どうしたの?」

「別に……ただ」

「ただ?」

「今頃あの子はどうしているのかなって、ふと思ったんだ」

ジェフをウィッチはじっと見つめました。

いばらの森に着いて、ジェフが箒を前に差し出すと、いばらの蔓はそれを嫌うように広がりました。ジェフたちが進む先に道が順々に出来ていきます。二人を追いかけた石像の兵士も今はその姿はありませんでした。どこかで待ち伏せしている様子もありません。諦めて元居た城に戻ったのでしょう。いばらを抜け出ると、ジェフは振り返って今通ったいばらの蔓をそっとなでました。感謝の気持ちが伝わったのか、蔓がお辞儀したように見えました。

岩山は変わらない姿でそびえ立っていました。辺りは暗く、その岩山は一層黒く浮き上がっています。麓の洞穴は大きな口を開けていましたが、近づいても風の音は止んでいました。(ぬし)がいなくなって、その役目を終えたのでしょうか。洞穴に入っても、吹き込む風は起きません。仕方なく三人は暗い洞穴を歩いていきました。暗闇の中ですが、ウィッチとソデチンのからだが輝いて足元を照らしました。

洞穴の出口は上り坂になっていました。それをはい上がると、あの草地です。上り坂に苦労するソデチンのお尻を持ち上げて、三人は慎重に穴から顔を出して、様子をうかがいます。三人の視線の先にはあの城が見えました。ぶきみなほどシンと静まり返っています。ガブリエルはもういなくなってしまったのでしょうか。警戒をゆるめずに三人は穴から出ました。

城の門は閉ざされていました。脇戸を押すと、それは苦も無く開きました。中は薄明るく照らされていました。大広間の中央を通る廊下の両側に置かれたかがり火の炎が変わらず燃えていたのです。しかし、三人はその廊下を避け、脇戸の入り口から右へ進路を取り城の内壁伝いに進みました。ジェフを先頭に、真ん中をソデチン。後尾がウィッチの一列です。円筒形した城の内壁は弧を描いています。その内壁伝いに行けば、中央の廊下と交わっているはずです。闇に三人の姿が溶け込みます。大広間の中央には石像の兵士たちが廊下の両側に立ち並んでいます。三人に向き合う側の石像が足元にあるかがり火の炎でうすぼんやりと見えます。巨体の上までは明りが届いていないので、顔の辺りは暗くてわかりません。でも、それが一層怖さを増します。石像は、まるであの時おそってきたことがなかったように整然としています。ガブリエルの魔法で石像たちが動いたのは間違いありません。ガブリエルに気づかれなければ、再び動き出すことはないでしょう。そうは思うのですが、やはり油断なりません。あの時は、ウィッチが箒を部屋から持ち出して鈴のような音が鳴ったのです。同じ仕掛けが他にも用意されているかもしれません。いや、きっと他にも仕掛けがあるでしょう。三人の歩みは慎重の上にも慎重になります。それに加えて、見ないようにと思いながらも、目は石像を向いてしまいます。いつまた動き出すのか。じっと見据えられているような視線をピリピリと感じるのです。途中、ウィッチが盗んだ箒の置かれていた部屋に行きつきました。別段の変化もなく、その部屋は暗い口を開けていました。

三人はその部屋に立ち寄ることなく前へいきます。これからは未知の世界です。何があるのか。何が起きるのか。三人は忍び足で進みます。

そうして、内壁と廊下が交わる場所までたどり着きました。なんとかここまでは無事です。大きな両開きの扉があります。重そうです。ジェフは扉に耳を押し当て中の様子をうかがいました。なんの物音もしません。ジェフはうなずくと、肩を片側の扉に当てて押しました。それはゆっくりと開きました。廊下はさらにその扉の奥へと続いています。大広間から扉の中へ入ると、両側から壁が迫っていて狭い空間になっていました。三人が横に並べばいっぱいになるほどです。天井も低く、細長い通路は地下道のようです。両壁の上部には明り取りの窓があって、真の暗闇ではありません。ずっと暗い中を歩いてきた三人にとっては目もすっかり慣れて、足取りはしっかりしていました。一歩踏み込むとちょっとした違和感がありました。暗くて気づかなかったのですが、上り坂になっていたのです。その通路を大広間と同じく一列になって壁に手を当てながら進みます。通路はまた扉で行き止まりとなりました。ジェフがもう一度扉に耳をつけます。ところがその姿勢のままジェフはじっと動かないでいます。

「どうしたの?」

ウィッチが小声で聞きました。

「風の音がする。風じゃないかもしれないけど」

ウィッチも扉に耳を当てました。

「部屋の窓が開いて、風が吹き込んでいるのかしら」

ジェフとウィッチは同時にうなずきました。この向こう側がどんな場所なのかお互いに確信したのです。

ジェフはゆっくりと扉を押し開けました。そこから顔だけのぞかせて中をうかがいます。そして、二人に合図して、からだをねじ込みました。

そこは寝室のようでした。部屋の真ん中に大きなベッドが一つあって、天蓋が垂れ下がっています。四方の壁には豪華な調度品の数々。その中にひと際目立って一枚の鏡がありました。ジェフの全身がそのままうつしだせる大きさです。ただ、どれを見ても色というものがありません。すべてがモノクロです。部屋の中が薄暗いこともあるでしょうが、どう見てもそれ自体に色がないのです。ガブリエルの姿はどこにもありませんでした。窓が開け放たれているところを見ると、そこから飛び出していったのでしょうか。きっと鳥に変身して。ジェフが聞いた音はその開けっ放しの窓から吹き込む風でした。燭台のろうそくの炎が時おり大きく揺らぎます。

「出かけているみたいね」

ウィッチもその窓を見て一つ息を吐き出しました。ずっと緊張していたのです。無理もありません。

「戻ってくるかしら」

「戻ってくるよ。それまで待つしかない」

それから三人は身を隠す場所を探しました。でも、これといった場所がありません。次第に三人に焦りが生まれました。ぐずぐずしていたら、ガブリエルがいつ戻ってくるとも知れないのです。その内、ソデチンが指さしました。

「ベッドの下はどうでふか?」

ジェフがのぞき込むと、潜れそうな隙間があります。三人はベッドの下に横たわりました。とその直後です。ギャーギャーという鳴き声を立てて一羽のカラスが窓から飛び込んできました。それはたちまち女に姿を変えました。ガブリエルです。ガブリエルは黒いマントで全身を包み、黒髪を風になびかせました。その様子をジェフたちは息を殺して見つめました。なんと恐ろしい姿でしょう。その恐ろしさに三人のからだは硬直して動けません。まともに戦って勝てる相手ではないのです。じっと機会を待つんだ。ともすれば怖気づいてしまいそうな自分にそう言い訳します。しかし、好機があったとして、どう戦えばいいのでしょう。一本の剣さえ持っていないのです。いざとなれば、ジェフの肩に宿った天使が現れて助けてくれるのでしょうか。その確信さえないのです。いっそこのまま隠れ続けて、ガブリエルが再び出かけるまで待つという考えもあります。そうして居なくなった内にこの城から逃げる。それはいけないことでしょうか。臆病者のすることでしょうか。いいえ。ここまでたどり着いた三人に賞賛は値するとしても、決して臆病者呼ばわりする者はいないでしょう。しかし、逃げてしまえば、三人自身に一生逃げたという負い目がついて回ることもたしかです。そして、この国は、この妖精の国はどうなってしまうのか……。三人の胸の内にいろんな思いが交錯しました。三人にとって、勇気と不安の最後のせめぎ合いだったのです。知らぬ間にジェフは両隣りにいるウィッチとソデチンの手を握り締めていました。それは自分でも意識しない行動だったのです。ジェフの手を通して彼の温もりが二人に伝わりました。そして、二人の温もりもジェフに帰ってきました。その時です。三人に天使の声が聞こえました。それは音としてではなく、三人の心に届く天使の言葉だったのです。

「大丈夫。二人はジェフを。ジェフは二人を信じて。私はあなたたちと共にあります」

ジェフは交互にウィッチとソデチンを見つめうなずき、それに二人もしっかりとうなずき返しました。もう三人の目に不安の陰はありませんでした。

ガブリエルは鏡の前に立ちました。あの大きな鏡です。そして、着ていたマントを床に脱ぎ捨てると、片手を鏡に向かって振りかざしました。もう一方の手には子犬が抱えられています。プードルのマリアです。無論、それがマリアだとジェフにはわかりません。

ガブリエルをうつしていた鏡はその鏡面がぐにゃぐにゃに揺らぎ、収まるとそこには違う景色がうつし出されました。どこか見覚えがあります。たしかにそれは天使の部屋です。

「アウリエル。アウリエル……。おや。珍しく留守かい。仕方ないねえ。さて、お前をどうしようか」

ガブリエルはマリアを持ち上げました。マリアは恐怖で声も出ません。ガブリエルはもう一度鏡に呼びかけようとして、やめました。

「ふん。まあ、よい。その内、否が応でも私の前にひざまずく時がくる」

ガブリエルは乱暴にマリアを床に放り投げました。床に落ちたマリアはキャンと小さな悲鳴を上げてその場に少しうずくまりましたが、すぐに立ち上がって部屋の隅へ逃げました。

「ここから逃げられるとお思いでないよ。お前は大切な人質なのだから」

ガブリエルは冷たく笑いました。そして、何かに気づいたように顎を上げ、鼻をひくひくさせます。

「なんだい。この匂いは」

ガブリエルは同じ仕草をしながら歩き回ります。ジェフたちはベッドの下から出ていこうかどうしようか迷いました。

「誰か招かれざる客が来たようだね」

ジェフたちからガブリエルの姿は見えなくなり、足元から声がしました。ベッドの反対側にいるようです。出るなら今だ。そう思った瞬間でした。三人の上にあったベッドが勢いよく飛び上がって、別の場所に落ちたのです。三人の姿があらわになりました。

「ほう。三人とは」

ガブリエルは舌なめずりしました。いやな仕草です。ジェフたちはその場からからだを回転させて離れ、すぐに立ち上がりました。そこへさきほどのプードルが駆け込んできました。ジェフが抱きかかえます。ウィッチはそのプードルを見つめて小首をかしげました。人間の匂いがしたのです。

「まあ。一気に増えたじゃないか。寂しがりやの私を慰めにきてくれたのかい? 嬉しいねえ。でも、そんなに大勢は相手に出来ないねえ。おや。お前が持つその箒。私のコレクションからくすねたものだね。返してもらおうか」

そう言ってガブリエルはウィッチの持つ箒へ手を差し出そうと一歩踏み出した途端に、両手で顔をおおい後退りしました。そして、苦しみもがきながら窓に逃げ、たちまち鳥となって飛び去りました。

なにがあったのか。ジェフたちにはまったくわかりません。ひょっとしたら姿を隠した天使に気づいて逃げ出したのか。いや、きっとそうだ。ならば、このまま逃がすわけにはいきません。窓から外を眺めると、鳥になったガブリエルがよろよろと舞い降りていくのが見えました。いつの間にか空の闇も薄まって、明るくなっています。たしかにガブリエルの力が弱まっている証拠です。

ジェフは抱えたプードルをソデチンに預けました。

「ソデチン。この子を頼む」

「え? ボクも行くでふよ」

「その子を安全な場所に連れて行くんだ!」

ジェフとウィッチは部屋から飛び出しました。その後をプードルを抱えたソデチンが追いかけます。ああ。なんということでしょう。ジェフ。それはマリアなのですよ。ようやく巡り合えたというのに。

大広間への扉を一気に開けて二人は立ち止まりました。石像のことを忘れていました。うかつに近寄れません。廊下を真っすぐに突っ切る方が早いのですが、ためらわれます。そこへソデチンが駆けてきてジェフの背中に当たって倒れました。下り坂で走る勢いが止まらなかったのです。その拍子に抱えていたプードルが手から離れ、プードルは大広間に投げ出されました。

「大丈夫?」

ウィッチがソデチンを抱き起します。

「うん。大丈夫でふ。でも、ワンちゃんが」

プードルが廊下を走っていきます。ジェフたちとは反対方向です。投げ出された衝撃と石像に取り囲まれた恐怖がマリアを動転させていました。自分でもわけがわからなくなっています。

一方、ウィッチは、

「もう一度試してみる」

そう言って、持っていた箒にまたがりました。そして、一心に念じます。

飛べ。飛べ、

と。その時、ウィッチの心に天使の声が届きました。

「ウィッチ。その箒はあなたの物です。あなたの意思に従ってくれます。自分を信じて」

「はい」ウィッチは確信をもってうなずきました。

すると、彼女の足元に風が起きました。それにつれて、箒の穂先が小刻みに震えて、いきなりバッと広がりました。そうなればもうしめたものです。ウィッチの足が床から浮き上がりました。

「乗って。早く!」

ウィッチに急かされて、ジェフとソデチンも箒にまたがりました。後ろにいるソデチンをジェフは自分の前に移しました。こうすればソデチンをウィッチとジェフで挟み込めるので、安定します。それにジェフには一計があったのです。

「行くわよ!」

ウィッチの声は弾んでいました。初め重そうに浮き上がった箒はすぐに三人の重みに慣れたのか、あっという間に広間の天井まで上がりました。

「ウィッチ。子犬を助けよう。もっと下降して」

「うん」

ウィッチの返事と共に箒はまた急降下してプードルを目指します。

マリアは廊下の途中で立ちすくんでいました。ふいに我に返ったのです。そして、先に行こうか、後戻りしようかと迷っていました。先に進めば、外へ出られるであろう門が見えます。しかし、そこへ通じる廊下の両側には恐ろし気な石像が立ち並んでいます。ここが魔女ガブリエルの城であることを思えば、その石像がただの石像とは思えません。一方で、後戻りすれば三人の若者たちが立っているのが見えました。先ほど自分を抱きかかえた青年の姿がその真ん中にあります。でも、彼らの元へ走ることはまた城の奥へ戻ることを意味します。そう逡巡していると、足元の床が急に震え出しました。地震か。いえ。それは城が崩壊を始めた振動でした。床だけでなく、天井から壁が剥がれ落ちてきます。両側に立つ石像も大きく揺れました。今にも倒れてきそうです。いよいよ身動きできずに、マリアはただ茫然としました。その時です。どこからか声がしました。それはソデチンの声です。

「ワンちゃん! ボクにつかまるでふ!」

見上げた直後、マリアはさらわれました。箒にさかさまにぶら下がったソデチンの腕にしっかりマリアは抱きしめられていたのです。ジェフがすぐにソデチンのからだを引き上げます。三人と一匹を乗せた箒は一気に廊下を滑空しました。その後を追いかけるように石像が次々と倒れ掛かります。砕け散る石の破片で辺りは濛々と白くおおわれました。まったく先が見えません。ウィッチはその先にあるはずの門に向かって念じました。

開け。開け。開けーっ!

思念は光のかたまりとなって門を吹き飛ばしました。開いた出口から箒は飛び出し、一気に空高く上昇します。その背後で轟音が響きました。振り返れば、城が崩れ落ちていきます。

「魔女は死んじゃったでふか?」

「そうならいいけど」

「違うみたいよ。あれを見て」

ウィッチは下を指さしました。そこには草地に立つガブリエルの姿がありました。

「本当の戦いはこれからみたいね」

ウィッチは箒をゆっくりと降下させました。

三人はガブリエルの前に降り立ちました。ソデチンの腕にはプードルのマリアが抱かれています。ガブリエルはその黒髪は白く縮れ、顔にも深いしわができていました。一体何が彼女に起きたのか。それでも、怒りに満ちた目はらんらんと妖しい光を放ち、決して油断できません。

「お前たちは何者だ! なぜ私の邪魔をする!」

ガブリエルは憎悪の言葉を吐きました。しかし、片手を目のあたりにかざし、何かを恐れている様子です。ジェフはガブリエルの視線の先を追いました。そして、それはウィッチの耳元に挿した花ではないかと思いました。城に向かう途中、ジェフが土から根ごと抜いてウィッチにあげたあのすみれに似た花です。ガブリエルは花が嫌いなのだろうか。いや。そんななまやさしいことではありません。ここまで彼女を弱らせてしまった力がこの花にはあるんだ。この花をもっと彼女の近くに、いっそ押し付けてしまえば。

「ウィッチ。その花をボクに」

ジェフはウィッチに手を差し出しました。

「え?」

最初怪訝そうにしましたが、ウィッチは耳元から花を抜いてジェフに渡しました。その様子を見てガブリエルがぎょっと顔を歪めました。睨んだ通りだ。ジェフは花を強く握ってガブリエルに向かって突き出しました。しかし、花はもうしおれていました。あの倒壊した城のほこりを潜り抜けている内に弱り、今、ジェフが思わず強く握りしめたことで死んでしまったのです。ああ。なんということでしょう。それを知ったガブリエルは不敵に微笑みました。すると、黒髪は蘇り、顔のしわもみるみる消えていきました。ガブリエルは力を取り戻したのです。

「ほほほほ。愚か者め。私の弱点を勘違いしたようだね」

ニヤリと笑いました。美しくも恐ろしい微笑みです。

ジェフは握っていた花をそっと草の上に下ろしました。その仕草にガブリエルは小首をかしげました。ジェフの行動が理解できないようです。

「お前はバカか。それでなければ救いようのないお人好しだ。そんな死んだ花に情けをかけるなど。開いた口がふさがらないわっ」

吐き捨てるように言いました。

「それがジェフのいいところなのよ!」

ウィッチがかばいました。

「ふん」

ガブリエルは鼻で笑いました。

「さて。どうしてくれようか。私みずから手を出すまでもないね」

ガブリエルは両手を高くかかげました。すると、ジェフたちの背後でガタガタと激しい音がしました。振り返れば、先ほど崩壊した城が立ち上がっていくではありませんか。砕け散った石が元に戻っていくのです。それはたちまちあの城になりました。上空にはまた黒雲が立ち込めつつあります。ということは……あの石像も復活するのでしょうか。

嫌な予感は現実となりました。城の門が開き、そこからドシンドシンと重たい響きが聞こえてきたのです。石像たちが動き始めた音です。

石像はそれぞれに武器を持ち城から現れました。彼らはあっという間にジェフたちを取り囲んでしまいました。石像の陰に隠れたのかガブリエルの姿が見えません。或いはこの隙をついて、どこかへ逃げてしまったのか。

「ガブリエルがいない」

「え? なに?」

ウィッチが叫びました。石像への警戒でジェフの声が聞こえなかったのです。

「ガブリエルがいないんだ!」

「仕方ないわ。今は諦めるのよ」

ウィッチは箒にまたがりました。

「みんな早く!」

ジェフとソデチンもまたがります。その途端に石像が一斉におそいかかりました。石像同士が激しくぶつかりあって砕けます。箒は石像の股の下を潜ってうまく逃げました。

「ガブリエルだ!」

ジェフが叫んで指さしました。

「え? どこ?」

ウィッチが振り返ると、ジェフが指さす方向にひと際大きな石像が立っていました。頭は獅子のようで、たてがみの中から二匹の蛇が鎌首を立ち上げています。ガブリエルはその石像の肩に乗っているのです。

「ちょっと厄介そうな相手ね」

ウィッチはその石像の上空を旋回しながら言いました。二匹の蛇が時おり威嚇するように飛びかかってきます。動きも敏捷です。少しでも高度を下げれば、その鋭い牙に噛みつかれそうです。

「どうする?」

ウィッチがジェフを振り返りました。

「ボクに考えがある。ウィッチ。今からボクが言うことができるかい?」

石像同士がぶつかって砕けたことを見て、ジェフにはあるひらめきがありました。

「聞く前に答は出せないけど、やるっきゃないんじゃない? できるわよ!」

それからすぐに箒は石像から遠く離れた場所に降りました。急がないと石像が迫ってきます。ジェフとソデチンは箒から離れると、二手に分かれました。ジェフはガブリエルに向かって走り、ソデチンは地面に開いている洞穴に飛び込みました。ウィッチは箒に乗ったまま再び上昇します。三人が乗っていた時とは格段に違って、箒は軽い身動きです。まるでつばめのようなすばしっこさで石像と石像の間を縫っていきます。時に空中に留まって、石像がおそってくるのを誘います。そう。ウィッチは石像を誘っているのです。誘って、石像たちをある場所へ誘導するのがウィッチの役目です。一方、ジェフはガブリエルが乗っている石像の足元にいました。近くにいる他の石像がジェフをおそいます。ところが、ガブリエルの石像が邪魔をして、その石像は剣を振りかざしたまま、右に左にと動き回るジェフの姿を目で追いかけるばかりです。ジェフは推測していたのです。この石像たちはガブリエルが動かしている。彼女が動かしているのなら、彼女の目の届かない時や、同時に二体以上を操る時はどうなるのか。混乱や失敗が生まれるはずだ。それは賭けに違いありませんでした。でも、ジェフは逃げ回りながら確信したのです。ジェフを追いかける石像に集中する一方で、ガブリエルの乗った石像にまったく動きがなく、しかも、あの二匹の蛇は獅子のたてがみの上で寝そべっています。これでガブリエルが想像もしない背後から石像が押し寄せればどうなるか。石像同士がみずからぶつかり、自滅するでしょう。ウィッチの腕の見せ所でした。そして、ウィッチは見事にそれを成し遂げたのでした。

地響きをさせて走りくる数体の石像に、ガブリエルがようやく気づいて振り向いた時は既に手遅れでした。彼女の驚愕の目に、次々とおそいかかる石像が映りました。石と石が激しくぶつかり合い、辺りは騒然となりました。崩れ落ちる石像の頭や腕が地面を叩きつけ地揺れが起きます。この惨事に巻き込まれては無事では済まないでしょう。ジェフはあらかじめ想定していただけに、なんとか逃げ延びていました。途中でウィッチが箒に拾い上げてくれました。

「これならさすがにガブリエルも終わりじゃない?」

上空からウィッチは状況を見守りました。後ろにはジェフもいます。

「油断はまだできない」

ジェフは冷静に見下ろしていました。

「ジェフ。あなたのいけないところは、そこ。もう少し希望というものを持ったら?」

「ボクはぬか喜びしたくないだけだよ」

「慎重なのはいいけどね」

ウィッチは箒をゆっくり降下させました。

舞い上がったほこりが落ち着くまでしばらく待ちました。石像はそのほとんどががれきとなってしまいましたが、一部はまだ無傷なものもあります。しかし、それは本来の石像らしく身動きすることなく、ところどころに突っ立ています。それを見れば、ガブリエルの魔法が解けたとも思えるのですが、彼女の消滅を見極めるには、やはり確証がほしいものです。

いつの間にか洞穴に隠れていたソデチンもやって来て、三人で様子を見守りました。ソデチンの腕にはプードルのマリアもいます。

突然、盛り上がっていたがれきが崩れ、中からあの蛇がおそいかかってきました。それは勢いよく飛び上がり、しかし、ウィッチの足元で力尽きました。よく見れば太い蔦で造られた蛇です。

「いやだ!」

ふいにウィッチが声を張り上げました。ジェフが見ると、ウィッチがその蔦を蹴り上げました。

「ったく、もう。あたいの足に噛みついたのよ」

蔦がウィッチの足に触れたのでしょう。さきほどまでの勇ましさはどこへやらといったおてんば振りです。ジェフは思わず苦笑いしました。

じっとガブリエルが現れることを待ったのですが、異変はありませんでした。このがれきの中に埋もれてしまったのでしょうか。魔女に死というものがあるのか。あるいは別の形、例えば消滅してしまうとか、無力な猫なんかに姿が変わるとか、するのだろうか。

ジェフはがれきに歩きました。

「ちょっと。ジェフ。そんなに近づいたら危ないわよ」

ウィッチがジェフに駆け寄ります。

「さっきは慎重なこと言ってたくせに、いざとなると大胆なことするんだから」

ジェフに引き返す気がないと知っているのか、ウィッチもジェフと並んでがれきの山を上がりました。ただ石像だった石が崩れるままに積み上がっただけなのです。その足元は不安定極まりない状態です。それでも、ふらつきながら二人は上っていきます。

ガブリエルが乗っていた石像が崩れたのはこの辺りだった。ジェフは見当をつけていたのですが、なかなかガブリエルにつながる目印も何もありません。すると、ジェフが急にしゃがみ込みました。

「どうしたの?」

近寄ろうとするウィッチをジェフは手を上げて止めました。

「何か聞こえる」

ジェフは耳を石に押し当てました。そして、一人うなずくと、足元にあるがれきをどかし始めました。ジェフにはたしかに聞こえていたのです。苦しそうなうめき声が。それは消え入りそうなほど微かでしたが、まだ生きている証でもありました。一つ一つがれきをどかすにつれ、その声は確実に耳に届いてきました。

ひと際大きな石を崩すと、その下に浅い空洞がありました。その穴からがれきの下敷きになったガブリエルの顔だけが見えました。

「大丈夫かい? 今出してあげるから」

そう伝えると、ジェフはまた作業を始めました。この時、穴の中から消え入るような声がしたのです。ジェフは手を止めて、穴をのぞきました。

「無駄なことだ。私はもう助からん。自業自得だと笑うがいい」

「どうしてボクが笑うことになるの?」

「私は悪魔だ。悪魔の最後など誰も気に留めはしない。身から出た錆とあざけるがよい」

「ガブリエル。あなたは本当の悪魔じゃない。本当の悪魔は生まれつきだから、自分がしていることが悪いことだなんて思わない。狼が狩りをしたり、ウサギが草を食べるのと一緒さ。どんなに人間や他の生きものたちを痛めつけても、それは悪魔からすればごく自然なことだから、悪いなんてまったく思わないのさ。でも、あなたは違うでしょ? あなたは自分が行ったことが悪いと気づいている。あなたにとってそれは自然なことじゃないんだ。異常だと知っているんだ。だから、あなたは悪魔じゃないよ」

「……」

ガブリエルは言葉を失いました。そんなことなど思ってもみなかったのです。誰からも恐れられることはあっても、一人として言葉さえかけられたことのない彼女でした。それが……。

ガブリエルの目から一粒の涙が流れました。すると、ガブリエルの顔が光に包まれました。がれきに阻まれて見えませんが、きっとからだ全体がその光の中にあるのです。その眩しさにジェフは穴からさがりました。その穴を埋めるように光が立ち上がります。光の一部が人の顔になりました。ガブリエルです。

「アウリエル」

ガブリエルはつぶやきました。ジェフは自分の背後からも輝きがあることに気づいて振り向くと、いつの間にかそこに天使が立っていました。こちらも光に全身包まれています。

「ガブリエル。私を許して下さい。そして、どうぞおかえり」

ガブリエルはうなずき、天使の方へ歩きました。それを天使は両手を広げて迎えます。そして、二つの光は一つになり、一瞬爆発したように輝きを増して、やがて消えました。そこに残ったのは天使一人です。

「ガブリエルは……」

あまりの出来事に茫然自失となってジェフはうわごとのようにつぶやきました。

「心配いりません。彼女は私の中に戻りました」

「天使様の中に?」

「そうです」

天使は微笑みました。その顔と重なってガブリエルの顔も浮かび上がりました。それはあの冷たく憎悪に満ちていたものではなく、すっかり憎しみは落ち、幸福な微笑みでした。気のせいか少しふっくらとして見えます。ガブリエルの微笑みは徐々に天使の中へと消えていきました。


木々を手当たり次第になぎ倒していたクマッタはふと我に返りました。姿も凶暴な熊から再び人へと変わっています。そして、あのとぼけた顔も。折れた小枝が落ちてクマッタの頭に当たりました。え? と、クマッタは空を見上げます。上空には青空が広がりつつありました。

ヒカクはニタニタ笑っていました。無性におかしくてなりません。狼の姿なのに仰向けで無防備な腹をさらして笑い転げています。これまでの自分がなんて愚かでひとりよがりだったのか、と今気づいたのです。なにがヒカクだ。おいらはムスリだ。本当はムスリって、親がつけてくれた名があるんだ。これからは正面を向いて見てやろう。もう背中は見せないぜ。おいらの考えと違うなら、それでいいじゃないか。それをとやかく言う奴には、怒ってみせればいい。おいらはムスリなんだ。走りだしたムスリはいつの間にか狼から人の姿となっていました。吠える声は人の絶叫となりました。まるでそれは、からだじゅうにたまっていたものを声として発散させているかのようです。

中空を滑空しながらムサビは夢から覚めたように気がつきました。目の前に木の幹です。慌てて向きを変え、かわしました。あやうく激突するところです。手足をいっぱいに広げて風を受けます。少し浮き上がるように速度を落とし、別の木にとまりました。そして、そのまま木を下りていきます。地面の手前でクルリと一回転して、人の姿になりました。ムサビは一つため息ついて空を見上げました。その目は愛らしく、あのゆがんだ口元は少年のあどけなさに変わっています。これまで吐き出せなかった怒りが積もり積もってゆがんだ性格を作っていたのでしょうか。ガブリエルの魔力で突き動かされていたとはいえ、ムサビの中にあった苦くよどんだものが、きっと一気に解き放たれたのです。ムサビは本当は純真な少年だったのですね。


天使は両手を高く突き上げました。黒雲がかき消えます。がれきと化した城や石像も消えてなくなり、そこには広い草原が現れました。元の景色に戻ったのです。妖精の国とガブリエルの居城とを分かつ役目にあった岩山は消えてなくなり、その岩山を取り囲んでいたいばらもその伸ばしていた蔓を縮め、今は数本の木が点在するばかりです。そのいばらの木の脇に切り株があって、一人の老人が座っていました。サトリです。

(しゅ)よ。なぜここに」

天使はサトリを認めて驚きの声を上げ、駆け寄りました。また何が起きたのか。

「主?」

ジェフとウィッチは同時に声を発して互いに見やりました。「主」が何を意味するのか知らないのです。でも、天使が慌てて駆け寄るくらいなのですから、只者でないことはたしかです。

ウィッチは小首を傾げます。あれはサトリじゃないの。たぬきが生まれ変わって、何を勘違いしてんだか、自分を仙人だと言ってる変なじいさんだよ。

一方で、ジェフはあの時の老人だと思い出しました。いばらの森を通り抜けようとした時に、その方法を教えてくれたのです。あの時のお礼をしなくては。

ジェフとウィッチはそれぞれの思いでサトリの方へ歩きました。

天使はサトリの前まで来ると、すぐにひざまずきました。え! ジェフとウィッチが驚いたことは言うまでもありません。これはいったい。二人も急いで駆け寄り、天使の後ろにひざまずきました。その三人を前にしてサトリはふぉっふぉっふぉと空気が抜けたように笑いました。

「いつからこちらに」

「時々遊びに来ておったのじゃ」

「それでは、時々こうして様子見に」

「それもあるが、まあ、だいたいは暇つぶしじゃな」

サトリは長いヒゲをさすりながら目を細めました。

「天使様。この方は……」

ウィッチが遠慮気味に天使に尋ねました。それに天使は顔だけ向けて答えました。

「この方は私の主、神でいらっしゃいます」

「神?……神様?」

ウィッチは目をパチクリさせるばかり。口では言ってるものの、その意味をまったく飲み込めないでいます。

「神様だよ。ウィッチ」

ジェフがウィッチの肩に手を当てました。

「え?」

驚くというよりは、信じられないという顔です。あの古だぬきが神様だったなんて。何度かかなり雑な扱いをしていたと思い出し、冷や汗のウィッチです。

「そう萎縮せんでもよいぞ。変なじじいだの、にせ仙人だのは、言われ慣れておるからの。ふぉっふぉっふぉ」

ますます肩をすぼめるウィッチ。天使は口元こそ微笑んでいますが、目元はしっかりウィッチを見据えています。

「アウリエルよ。そう怒ることはない。いや、その怒りこそが、そなたの作ったこの国に足りてなかったものじゃな」

「主よ。私は間違っていたのでしょうか」

「そうではない。そなたは正しいのじゃ。だが、少し足りなかった。前にも申したように、負の心がなければ、正しい心は測れん。いわば、負の心は感情を測る物差しと言っていい。どちらが欠けても立ちいかんということじゃ」

「私が早くそのことに気づいていれば……未熟者でした」

「自分を責めるではない。それも通るべき道であったのだ。ところで、そのものたちはよく働いてくれた。何か褒美をと思うが、どうじゃな」

「主の思し召しのままに」

天使アウリエルは深く一礼して、ジェフたちを前に招きました。

「何が欲しい。あるいは、どうしたいか。思うところを申してみるがよい。たいがいのことは叶えてやろう」

そりゃあ神様だもの、なんでも叶えられるわよね。ウィッチは胸の内で思いました。そして、何をお願いするか、既に決めていました。ところが、ジェフは、

「何も欲しいものも、何がしたいということはありません」

何とももったいない言い様ではありませんか。

「ちょっと、ジェフ」

慌ててウィッチはジェフの袖を引きました。

「欲がないのも時と場合次第よ。よく考えてみなさいよ。折角、神様がああおっしゃってるんだし、それを断るなんて、失礼よ」

「そうかなあ」

ジェフはいつもの調子で首をかしげます。

「それじゃあ、まずあたいからお願いしてもいいですか?」

ジェフの様子に埒が明かないとみたのか、ウィッチは一歩前へ出ました。

「どちらが先でも構わぬ」

神は鷹揚にかまえています。

「あたいのお願いは……」

そう言いかけて、ちらりとジェフを見ました。

「あたいのお願いは、ジェフを本当の人間にして欲しい」

「え?」

一番驚いたのは当のジェフでした。そんなこと一度も口にしたことはないし、思ったことさえありません。そもそもなぜそれをウィッチが望むのか。皆目見当もつかないのです。

一方で、ウィッチには確信がありました。ジェフが想う人間の女の子の存在は誰も消せないのだと。そして、自分はジェフの中では友だち以上ではないことを。それなら、友だちとしてジェフを応援しよう。それはウィッチにとって悲しい決断でした。彼女の頬を涙が流れます。それをジェフはじっと見つめました。

「そなたはどう思う? 人間になりたいか」

神はジェフに問いかけました。それにジェフはしばらく考え、重い口を開きました。

「いいえ。ボクはこのまま、狼のままがいいです」

今度はウィッチが驚く番です。

「どうして?」

聞き返したのはウィッチでした。まったく納得できません。自分の悲痛なまでの決断を簡単に拒否されたのです。段々腹が立ってきました。

「だって、それは本当のボクではないから。やはりボクは、おかしくても、変でも、狼なんだ」

「ジェフなんかあたいの気持ちを全然わかってないんだから!」

ウィッチは箒にまたがるとどこかへ飛んで行ってしまいました。唖然と見送るジェフ。

「なんとも女の心はわしでもわからん」

神は何度も首を横に振るのでした。

ところで、この場にはプードルに姿を変えているとはいいながら、マリアがいましたね。ですが、その当人は度重なる危難に疲れ果てていたのか、ソデチンの腕の中ですっかり寝入っていたのです。

翌朝、ジェフはソデチンや六つ子たちみなの見送りを受けて妖精の国を後にしました。そこにウィッチの姿はありませんでした。家に閉じこもったきり出て来なかったのです。

「ジェフ。この子も一緒に連れてってよ。本当はマリアっていって、人間なんだ」

イッピーが抱いていたプードルを渡しました。マリアです。ついにやりました。ジェフとマリアは本当の意味での再会になるのです。でも、残念なことに、ジェフにもマリアにもわかっていません。だけど、大丈夫。この妖精の国から元の森へ戻れば、二人は本来の姿となって、お互いに気づくはずです。

あんなに探していた樫の木のドアおじさんの口にジェフはマリアを抱えて入りました。あの暗くて長い穴を手探りで歩いていきます。行きはウィッチの案内があったので気楽でしたが、今は一人。しかも、マリアを抱えています。進むにつれ、ジェフはマリアの体重が重くなるのを感じました。そして、自分自身にも変化が。ジェフは狼に戻る前にと、マリアを下ろしました。マリアが人間というなら、自分が狼に戻ると同時に、このプードルは人間になるでしょう。そうなればとても抱えてなどいられません。今のうちに手から離しておいた方がいいと考えたのです。そもそも狼になれば、この手自体が前足になってしまいます。そして、想像通りに、ジェフの視界は低く、体形も前かがみになっていきました。暗くてよくわからないのですが、隣を歩いていたプードルにも変化があるようです。ちょこちょことした足音が次第に少し大きくなったようです。

出口から光が射し込んでいました。ジェフは四つ足で軽快に駆け、その穴から出ました。後ろを振り向くと、同じ穴から女の子が眩しい目つきで現れました。その姿を見て、ジェフはハッとしました。この子はあの時の子だったんだ。マリアはマリアで、明るさになれるまではぼんやりとしていましたが、徐々に視界が開け、その中にジェフがいることに気づきました。

「あ。あなたはあの迷子さんだったの?」

よろけながらマリアはジェフに近寄りました。

「あなたはずっと私を守ってくれていたのね」

マリアの瞳が涙で光りました。ようやく元の姿となって森へ戻れた喜びと、自分を助けてくれたジェフへの感謝の気持ちです。

「あなたはおおかみさんだったのね。ちっとも狼らしくないから、私少しも気づかなかったわ。でも、あなたなら狼でも怖くない」

マリアはジェフに頬ずりしました。マリアはやはりジェフを犬だと思っていたのですね。

ジェフはくうーんと甘えました。実際には、「君にまた会えてボクは嬉しいよ」と言ったのですが、マリアに狼の言葉はわかりません。

またあの日のように、ジェフとマリアは並んで歩きました。時々ジェフはマリアを見上げます。それにマリアは微笑みで返してくれます。ジェフはいっぱいシッポを振りました。二人はマリアのおばあさんの家を目指しました。クッキーを届ける途中で妖精の国に紛れ込んでしまったのです。ずっと心配しているに決まっています。少しでも早くおばあさんに自分の無事を伝えたかった。少しでも早くおばあさんの顔が見たかった。

おばあさんの家に着くと、中には誰もいませんでした。あれから三日。なにがあったのでしょう。どうしたのでしょう。あるいはマリアの家に行っているのかもしれない。マリアは急ぎ自宅へ帰ることにしました。そして、思った通り、おばあさんはマリアの家にいました。再会におばあさんとおかあさん、そして、マリアも揃って泣きました。

その日からジェフはマリア家の番犬になりました。日中は犬小屋につながれていますが、夜になると、そっとマリアがほどいて自分のベッドの脇に寝かせてくれます。ジェフは幸せでした。しかし、そんな日々はいつまでも続かなかったのです。


その日もジェフはマリアのお供でおばあさんの家まで歩いていました。すると木陰からもう一頭狼が現れたのです。ヨーゼフでした。

「ジェフ。ずいぶん探したぜ。今までどうしてたんだ」

「すまない。ヨーゼフ。いろいろとあってね……」

ふとジェフがマリアを見上げると、彼女は恐怖でひきつった顔をしています。ヨーゼフにおびえているのです。ヨーゼフの心配した言葉もマリアには唸り声としか聞こえていません。ジェフは思案してヨーゼフの隣に並びました。二頭の狼がマリアと向き合う格好です。仲間ということを身をもってアピールしたのです。マリアの表情が少し変化しました。恐怖心はまだあるようですが、ジェフの思いが伝わったのか、徐々に気持ちがやわらいでいくのがわかります。恐る恐るですが、マリアは手を差し伸べました。ヨーゼフに触れようとしているのです。

「ヨーゼフ。じっとしてろよ。マリアが君に触ろうとしている」

「わかった。わかったけど、なれてないからな」

ぎこちなく硬い表情のヨーゼフはジェフの言う通りじっとしてくれています。そこへマリアの手が届き、ヨーゼフの頭をなでました。

「うわっ。なんだこれは。変な気分だが、ちょっと気持ちいい」

ヨーゼフはだらしなく目じりを下げました。その時、遠くで馬のいななく声が聞こえました。

「なんだ?」

ヨーゼフが反応しました。

「この森に馬が入り込むなんて珍しいぜ。様子を見に行こう」

ヨーゼフが駈け出そうとする直前、一頭の白馬が逃げ込んできました。馬上には青年が乗っています。そして、その後ろから三頭の狼が追いかけてきました。どうやら獲物と決めて、おそっているようです。馬は背後から追いかける狼だけでなく、前方にも二頭の狼を認めて、驚いて前足を高く上げました。あやうく馬上の青年は落馬しかけましたが、なんとか踏みとどまりました。あたりは急に騒然として、まるで戦場のようです。馬だけでなく、狼たちを見て、ヨーゼフは身構えます。ジェフは呆然としています。マリアは立ちすくみました。

「お前ら! 見かけない顔だなあ!」

ヨーゼフが三頭の狼にすごみました。森の狼たちからは一目置かれているだけに迫力があります。その迫力に、勢い込んできた三頭の狼はたじろぎました。しかし、数に任せて、ヨーゼフをすぐに取り囲みます。

「お前らが知らないのも仕方ないが、後悔するぜ」

ひと際すさまじく唸り声を上げます。多勢に無勢なのに、ヨーゼフは余裕の顔です。まったくジェフのことは当てにしていないようです。三頭の内一頭が果敢に飛びかかりました。するとヨーゼフは高く飛び上がって、その狼の上からおそいました。予期しない攻撃にひるんだ相手を一気にうち伏せて、ヨーゼフは勝利の遠吠えを上げます。なんとも喧嘩なれしています。そして、次はというように他の二頭を睨み据えたヨーゼフの気迫に負けて、その二頭は戦うことなく退散しました。ヨーゼフの下に押さえつけられていた一頭も、ヨーゼフが前足をはずすと一目散に二頭の後を追いました。三頭でさえ相手にしないヨーゼフのすごさに、ジェフは驚くばかりです。ガブリエルに立ち向かったジェフでしたが、ヨーゼフの迫力にはタジタジです。

「大丈夫かい?」

駆け寄るジェフにヨーゼフは鼻で笑って、

「今頃大丈夫かい、はないだろう。お前も少しは加勢しろよ」

「ごめん。足が前に行かなかった」

「ふふ。お前らしいよ。気にするな」

「助かりました、お嬢さん」

若い男の声がジェフたちの背後から聞こえました。先ほどの馬に乗った青年です。マリアにお礼を言ったのでした。

「しかし、凄いペットをお持ちだ。二頭とも狼ではありませんか」

青年は馬から降りるとマリアに歩み寄りました。身なりからして、ただの青年ではありません。おそらくは貴族、あるいはもっと上。

「狐狩りの途中で連れたちとはぐれてしまいまして、さまよっていたら、あの狼に追いかけられてしまったのです。本当に命拾いとはこのことです。あなたに会えなければ、今頃私はあの狼どもの腹の中だったでしょう。お礼のしようもありません。……失礼ですが、お名前は」

一方的に話す青年にマリアは唖然としています。

「あ。これは失敬。人に尋ねる前に、みずから名乗るべきでしたね。私はヘンリーと申します。以後、お見知りおきを」

ヘンリーはマリアの前に片膝ついて彼女の右手をさりげなく取り、手の甲に口づけしました。その自然な所作にマリアはなされるままです。いいえ。彼女の心は既にこの青年に盗まれてしまったようです。

「あの……。もしよろしかったら、お名前を。今は手持ちがなにもありませんので、後程何か届けさせたいと思います」

「え?」

急に我に返ったように驚いて、マリアはヘンリーを見つめました。その澄んだ瞳にハートが吸い込まれそうです。

「もしよろしかったら」

「マ、マリアです」

「マリア? マリア……。なんて美しい名前だ」

ヘンリーもマリアの美しさに魅入られているようです。

そんな二人を見つめるジェフは寂し気です。

「王子。こちらでしたか。ずいぶん探しました」

背後から声がしたかと思うと、数頭の馬が現れました。いずれにも兵士が乗っています。兵士たちはジェフとヨーゼフに気づくと剣を抜いてたちまち取り囲みました。

「剣を収めろ! 私はその二頭に助けられたのだ。狼だが、その二頭はこのご令嬢が飼っておられる。命の恩人を傷つけたら、私が許さん!」

ヘンリーの一括に兵士たちは剣を収め、囲みを解き、一斉に馬から降りました。ヘンリーの前にひざまずきます。

「お許し下さい。先ほど三頭の狼に出くわしまして、この二頭もその仲間と思いました」

「その三頭を追い払ってくれたのだ。あやうく食われるところだった」

「ご無事で何よりでございます」

深々と頭を下げる兵士たち。

「王子。そろそろご帰城の刻限が迫っております」

「もうそんな時間か。わかった。お前とお前」

ヘンリーは二人の兵士を指名しました。

「ご令嬢と狼を送って差し上げよ。そして、お住まいを確認したら、私に報せるのだ。わかったな」

「はは」

かしこまる兵士。

「申し訳ありません。なかなか規則がうるさくて、私はこれより帰らねばなりません。この者たちに同行させますので、どうぞご安心下さい」

そう言うと、ヘンリーは軽やかに馬上の人となりました。


それからのジェフは沈みがちになりました。マリアとの散歩も素直に喜べません。シッポは力なく垂れたままです。そうしている内に、マリアもジェフを散歩に連れ出さなくなりました。元気のないジェフに気遣ってということもあるのでしょうが、別にもう一つ理由があったのです。それは王子でした。二人は時々誰にも知られることなく、森で会っていたのです。

「マリア。あなたの狼は元気ですか? あれは本当に狼なのですか?」

「はい。王子。ジェフは狼です。でも、とてもやさしい狼です」

「どうしてそれがわかるのですか?」

「私にはわかるのです」

マリアはそっと微笑みました。妖精の国での出来事を王子に話しても信じてくれるはずがありません。しかし、マリアはいつかは王子に教えたいと考えていました。自分だけの秘密にはしたくなかったのです。それに、王子にはどこかジェフに似た面影を感じていたのです。あの妖精の国で人間の姿になっていた時のジェフに似ています。

「うほん……」

王子は不自然な咳払いをしました。何か言い難そうなことがあるようです。

「マリア。今日はあなたに大切なお話があるのです」

「はい」

マリアは王子を見つめました。見つめられるといっそう言い難いようで、王子は一旦マリアから視線をそらせましたが、何やらぶつぶつつぶやいた後、もう一度マリアを真剣に見つめました。先ほどつぶやいたのは、きっとこれから言うセリフだったのでしょう。

「マリア。どうか私の妃になって下さい」

王子は宣言すると、マリアの前に片膝ついて頭を垂れました。右手をマリアに差し出します。その差し出された右手をマリアが受ければ、受諾となるのです。なんて素敵な儀式でしょう。でも、マリアはなかなかその手に触れようとはしませんでした。不安になった王子はゆっくりと視線を上げ、マリアを見上げました。マリアがどんな表情で自分を見ているのか、緊張の面持ちです。もし拒否されたら……

マリアの目には戸惑いがありました。

「マリア……。私はあなたにふさわしくないでしょうか」

「い、いいえ。王子。私こそ王子の妃になど……。これまで思いもよりませんでした」

マリアは何度も首を振りました。王子は立ち上がると、マリアの肩に手をやり、グッと抱き寄せました。

「初めて会った時から心に決めていたのです。あなたしか私の妃になる女性はいないと」

「私のようなものでも……」

「いいえ。私にはあなたしかいない」

二人は口づけしました。


気落ちするジェフに追い打ちをかけるような出来事が重なりました。今日はマリアと王子の結婚式です。着飾ったマリアは家族や村の人々に祝福されてお城からのお迎え馬車に乗りました。その直前、マリアはジェフがたたずむ小屋へ立ち寄りジェフの様子をうかがいました。ジェフはすっかり元気をなくしています。マリアにとって唯一の気がかりはジェフのことです。このまま死んでしまうのかしら。でも、ジェフを城に連れて行くことはできません。後ろ髪をひかれながらもマリアは馬車の人となったのです。


「ジェフ……ジェフ」

誰かがボクの名前を呼んでいる。誰だろう。それとももうボクは死んでしまったのだろうか。天国から来たお迎えのお使いがボクを呼んでいるのかなあ。現実と夢の境がわからなくなって何日目だろうか。そろそろ限界に来ていることはたしかだと思う。

「ジェフ……ジェフ」

もう一度声がしたので、ボクは重いまぶたを持ち上げた。目の前にいたのはウサギだった。ウサギが狼の近くにいるはずがない。きっとウィッチだ。とすれば、ここは妖精の国だろうか。ボクは死んで、生まれ変わったのか。

「やあ。ウィッチ」

「やあウィッチじゃないわよ。大丈夫? 生きてんの? ま、口が利けたってことは生きてる証でしょうけど」

「あれ? ボクは妖精の国に生まれ変わったんじゃないの?」

「相変わらず呑気ね。まだ死んでないわよ」

「そうなんだ」

「なにがっかりしちゃってるのよ。生きててよかったじゃない」

「そうだろうか」

「そうよ。この美しい妖精、ウィッチさんにもまた会えたし」

「ふん」

「そこは感動するところでしょう」

久しぶりの再会でウィッチのテンションが上がるのは仕方ないのですが、ジェフは着いていけません。正直言って、気力は限界です。

「ジェフ。しばらく何も食べてないらしいじゃない」

どこで聞きつけたか、ウィッチはそんなことまで知っていました。

「ほら。これを食べるのよ」

ウィッチが差し出したものは卵でした。

「食べる力もないよ」

「しゃべれるなら、食べられるわよ。ほら。少し口を開けて」

ウィッチは片手でジェフの口を持ち上げると、もう一方の手に持っていた卵を押し込みました。そして、口を上から両手で押さえて卵を割るのを助けました。カチッと割れる音がして、だらしなく口から卵の中身が少し垂れました。それでも大部分はジェフののどに吸い込まれていったでしょう。

「これから毎日持って来るから。いいわね。元気になるのよ」

ジェフは卵の殻を吐き出して、ごくりとのど元にたまっていた中身を飲み込みました。

「なんでそんなことするのさ」

「ジェフに元気になってもらいたいからよ」

「そんなのもういいよ」

「いやなの。あたいがいやなの。自分のためがダメなら、あたいのために元気になって。いい?」

「う? うーん」

ウィッチに押されっぱなしで、ジェフはうなずくしかありません。

それから毎日。本当にウィッチは卵を、ある時は、キノコを持って来ては、ジェフに与えました。その献身的ともいえるウィッチの努力で、最初は否定的だったジェフの気持ちも、からだが元気になるに従って、前向きになっていくようでした。

「どう? 少しは元気になった?」

「うん。ありがとう、ウィッチ。もうすっかりいいみたいだ」

ジェフは立ち上がってウィッチにすり寄り、ペロペロなめました。

「はは。わかったわ。わかったから、もう止めてちょうだい。いくらジェフでも、狼になめられているのはやっぱり落ち着かないわ」

ウィッチはウサギなのです。

「ごめん」

ジェフはちょっとしょげました。

「それより、今度はあたいの願いを聞いて」

「どんな?」

「あたいに着いてくるのよ」

「無理だよ。今はこうしてつながれているから」

ウィッチはジェフの首につないであるひもを解こうとしましたが、ウサギの手ではさすがにできません。

ウィッチはその場に二本足で立ち上がるとクルクルと回りました。するとあの妖精の国で会った可愛らしい女の子に姿を変えました。これが本当の妖精ウィッチです。

自由になったジェフはウィッチの後を追って森の奥へと駆けていきました。ウィッチが向かった先には樫の木のドアおじさんがいました。

「やあ、ジェフ。元気だったかい」

「うん。おじさんも」

それにうなずくと、ドアおじさんは大きく口を開けました。

「また妖精の国へ行くの? 何かあった?」

「何もないわ。平和そのものよ。あなたをもう一度連れて行く必要ができたのよ」

ジェフはウィッチに続いてドアおじさんの口の中へと入りました。

樫の木の口から出ると、そこは変わらずにぎやかな花たちであふれる世界でした。

「ジェフ。おかえり」

「ソデチン」

ソデチンはジェフに抱き着きました。

「感動の再会はそれくらいにして、急ぐわよ」

ウィッチは先を急がせました。三人が向かうのは緑の丘にある天使の城です。

天使は最初から床に立っていました。二人いた他の天使(実はダミーだったようです)の姿はありませんでした。

「ジェフ。おかえりなさい。少しやせたみたいですね」

天使は微笑んでジェフの頭をなでました。

「ジェフ。今でもまだ人間にはなりたくない?」

ウィッチがそう言って真剣な眼差しをジェフに向けました。

「それは今でも変わらない」

「そういうところは頑固なんだから……フフっ」

きつく言ったかと思うと、ウィッチの目が笑いました。

「ジェフ。犬にならない?」

藪から棒なウィッチの提案です。

「犬?」

当然準備のできていないジェフは目を丸くするばかりです。

「今のジェフを見れば、ほとんど犬に近いんじゃないの? 姿が弱っちい狼ってだけよ」

弱っちいは余計ですが、ウィッチが言うように、ジェフという狼なら犬と大差ありません。でも、どこかに狼を捨てるには未練が残ります。しかし、犬になったところで、それ程違いがあるようにも思えません。今と見た目が少し小柄になるくらいでしょうか。中身にしたら、ほとんど犬と大差ないのです。但し、これはジェフに限ってのことでしょうが。

「いい考えだと思うんだけどなあ」

「ウィッチ。そうジェフを急かせてはいけません。ジェフ。よく考えるのですよ。あなたの生涯にかかわることです。しっかり時間をかけてかまいません」

三人は城から出ました。

「いきなり犬になれだなんて、びっくりしたよ」

「でも、いい考えだと思わない?」

「まあね。たしかに今のボクは犬みたいな狼だから」

「じゃあ、決まりってことで」

ウィッチは指を鳴らしました。

「せっかちなんだから」

それでもジェフは犬になってもいいかと思っていました。先ほどはいきなり言われたので、驚いただけです。未練がないわけでもないのですが、それじゃあどんな未練と聞かれても、探せないほどの小さな未練なのでした。

「ま。せいぜい考えて。それより、せっかくこの国に帰って来たんだから、少しは遊んで帰ろうよ」

まるでウィッチ自身が里帰りしたかのような言い様です。

「どうも、その姿じゃやり難いわね。ジェフ。何か食べて、人間になってよ」

半分脅すようです。ソデチンが手際よく見つけて走っていきます。ジェフは苦笑して、ソデチンが指さす場所へ行って、そこにあったキノコをパクリと食べました。みるみる視界が高くなり、ジェフは青年の猟師になりました。「はは。ジェフだ。ジェフだ」ソデチンがジェフの周りを嬉しそうにはしゃぎました。

「あたいの家に行くわよ」

ウィッチは駆け出しました。忙しい妖精です。ジェフとソデチンも後を追います。

ウィッチの家はキノコを大きくしたような女の子らしい可愛い形です。屋根の色も薄いピンクで白壁には青や赤の水玉模様がありました。ウィッチもこんな風に可愛らしい性格ならもっと良いのですが。

ウィッチは家に飛び込むとすぐに出てきました。手にはあの箒を抱えています。

「ジェフ。あなたが言ったこと、覚えてる?」

「なんだったっけ……」

ジェフは首をかしげました。

「んもう、これだから男はダメよね。空を飛びたいって言ったのよ」

ウィッチは少しむくれました。すぐ怒るのは、ガブリエルの魔法のせいばかりではないようです。

「ソデチンはちょっと遠慮してね。三人だと上手く飛べないのよ」

「えーっ!」

ソデチンかなりがっかり。ガブリエルの城ではしっかり飛んでいたのに。でも、それを口にすることはしません。だって、ウィッチの気持ちをよく知っているのですから。やさしいソデチンです。

「また乗せてあげるから」

「うん」

ソデチンは笑顔でうなずきました。

二人は箒にまたがりました。ざわざわとウィッチの裾が揺れました。下から風が立っているのです。上昇気流が起きているなんて、二人は知る由もありません。

「いい? 飛ぶわよ」

ウィッチがそう宣言した直後、二人のからだがスーッと浮き上がりました。いつもなら大地は飛び上がろうとする者に力をかけて引き戻そうとします。それは自分から離れていくことを嫌うかのように。でも、今は違いました。まるで祝福するように、大地が二人を押し上げてくれている。そんな喜びに満ちた感覚が二人を包んでいます。

しっかり操作に慣れていないのか、それとも例のウィッチのいたずらか、二人は初め上下にくるりと回転しましたが、箒の方が心得ているとみえてすぐに安定しました。そうなるともうしめたものです。中空まで上がっていた二人はどんどん上へと上昇して、あっという間に木々を飛び越え、気づくともう山々がはるか下に見えました。雲の近くまでくると、ウィッチは上昇を止め、後ろのジェフに振り向きました。安心して下さい。ホバリングしながら二人を乗せた箒は上空に留まっているのです。

「これからどうする?」

ウィッチは満面の笑顔です。

「どうしよう」

ジェフも微笑んでいます。二人のワクワクがお互い手に取れるようにわかります。これから始まるアトラクションに胸躍らせるばかりです。

まるで強く弾かれた矢のように空をどこまでも突き抜けていきます。森が、山が、そして、雲が次々に後ろへ吹き飛んでいくのです。ああ、なんて爽快でしょう。足元のずっと下を鳥たちが滑空しています。飛ぶ鳥を眼下に見下ろすなんて。

「あの子たちも空に憧れていたのね。楽しそう」

もう一度ウィッチはジェフを振り返りました。ほらほら。そんなに後ろを気にしていたら、操縦がおろそかになりますよ。でも、空だから平気ですか。

箒というただ一本の木ぎれに乗っているだけなのに、見えない座席でもあるのか、箒の座り心地は快適です。きっと箒自身に乗るものをちゃんと固定する力があるのでしょうね。ウィッチはさらに加速しました。

「ジェフ!」

「……」

ウィッチは振り向きました。ウィッチの呼びかけがジェフには聞こえていないようです。飛ぶ速さが声までも追い越しているのでしょう。

「ジェフ!」

「……」

もう一度呼びかけても同じです。それを確認して、ウィッチは叫びました。

「ジェフ。大好きよ!」

「え? なんだって?」

おっと。ちょっと聞こえたみたいです。でも、言葉の内容まではわからなかったでしょう。ウィッチは振り返ってジェフに舌を出しました。それをジェフはわけわからずきょとんとしています。

その後、二人を乗せた箒は山の頂に降りました。おあつらえ向きに木々の間に寝転ぶにちょうどよさそうな草地を見つけたのです。地に足が着いた途端に、二人を心地いい疲労感がおそいました。示し合わせたように、その草地に仰向けになります。

「疲れたー。気持ちよかったけど」

「うん。最高だよ」

「珍しいわね。ジェフがそんな言い方するなんて」

「そうかなあ」

「でも、いいわ。気に入ってくれたってことだから。……ねえ、ジェフ」

「なんだい?」

「あたいがどうして妖精になったか、知りたい?」

「君が話したいのなら、聞いてもいいよ」

「相変わらず素っ気ないのね」

「だって、話したくないものを無理に聞きたくないし、君が話したいのなら、断る理由も」

「わかった。わかったわよ。話したいから、聞いて」

ちょっと切れ気味です。相変わらず無茶振りなウィッチ。

「あたい……狼におそわれたの」

「……」

「ジェフ?」

「うん。聞いてる」

「やっぱりやめようか」

「ボクのことなら気にしなくていいよ。少なくとも、君をおそった狼はボクではないから」

「そうね。それはたしかだわ。……その日も、こんなにいい天気だったわ。今でもうっすら覚えてる。あたい浮かれ気分で森を飛び跳ねていたの。そしたらいきなり草陰から狼におそわれたの。あやうく噛みつかれるところだったわ。あたい必死で逃げて逃げて、最後に思いっきり跳んだら、そこは崖だったの。その後のことはまったく覚えてないわ。気づいたら、天使様のやさしいお顔があった」

「妖精の国に生まれ変わっていたんだね」

「そうよ。天使様がおっしゃったわ。死に際に強い未練や誰かに恨みを残していたら、この国には来れないって。あたいにしたら跳んだ先があの世だったようなもので、未練も何もなくって当たり前よね。その代わり、死ぬという覚悟がなかったから、ウサギだったときとあまり変化がないのよね」

「成長がないってわけか」

「ズバリ言ってくれるわね」

ジェフは声を殺して笑い、ウィッチは頬をふくらませました。

「強い未練や恨みを持って死ぬと、どうなるの?」

「よく知らないけど、違う世界に行くんじゃない?」

「そうなんだ。あまり楽しそうな場所じゃないんだろうな」

「きっと、そうね……ねえ、ジェフ」

「うん?」

「あなたに会えてよかったわ」

「なんだい。急に」

「だって、あなたという狼を知らなかったら、あたいはいつまでも狼におびえていたわ」

「ボクは特別だから。これで他の狼に油断したら、悲しい目にあうのは君だよ」

「そんなことはわかってるわよ」

いつも以上に感情の入れ替わりが大きいウィッチです。彼女の気持ちが揺れています。

「犬になったら、どうしたい?」

「さあ。これまで考えてもなかったから……今はマリアの家で番犬代わりになっているから、そのままかな。犬になれば、ちょうどいいかもしれない」

「相変わらず欲がないわね。ま、犬になれたからって、夢や希望ができるってものでもないでしょうけど……ねえ」

「なに?」

「お城の番犬になったら、いいんじゃない?」

「お城の?」

ジェフは起き上がりました。

「知ってるのよ。マリアはお城に行ってしまったんでしょ?」

「……」

「あなたの憧れていた人なんでしょ。どうして会いに行こうと思わないの? そりゃあ、狼だったら無理だったでしょうけど、犬になればお城の番犬くらいにはなれるでしょ。マリアだって、あなたと気づけば、そば近くに置いてくれるはずだわ」

「難しいよ。どうやって城に入るんだよ。それこそ野良犬と思われて、追い返えされるさ。マリアは城の奥にいるんだ。ボクに気づくことはないよ」

「あたいを誰だと思ってるの? 妖精ウィッチ様よ」

ふいにウィッチは立ち上がりました。それを見上げるジェフ。

「なにボーっとしてるのよ。行きましょ」

「え? どこへ?」

「お城に決まってるでしょ」

「城!」

無理やりジェフを立ち上がらせると、ウィッチは箒に乗るよう促しました。

「ちょっと待ってよ。いくらなんでも無理だよ」

「あたいに任せなさい。その前に、犬にしてもらわないとね。天使様のところへ行くわよ」

「もう強引なんだから」呆れかえるジェフ。

ウィッチはジェフを乗せて飛び上がりました。

天使は驚きを隠せません。もう犬になると決心してきたというのですから。逆に大丈夫かと不安になります。ですが、意外にジェフはあっけらかんとしています。犬になることには抵抗がないのです。だけど、城に行くことには今も気乗りしません。

「もう一度聞きます。よろしいのですね」

「はい。元々犬のような狼ですから」

「わかりました」

天使は胸元にあった一輪の花を抜き取りました。そして、その紫の花びらを一枚つんでジェフに差し出しました。

「この花は(しゅ)から預かっていたものです。主はこの時があることを予想されていました。森へ戻る直前にこれを口にふくみなさい。少し眠くなるかもしれませんが、目覚めれば、あなたは犬になっているでしょう」

「神様はボクが犬を選択すると知っていたのですか?」

「おそらくは」

ジェフはその花びらを受け取り不思議な面持ちで見つめました。

妖精の国から城へ行くには樫の木のドアおじさんを通らなければなりません。ジェフは天使から言われた通りに、出口の直前で手に持っていた花びらを口に入れました。甘い香りが口いっぱいに広がりました。すると、出口の光が急にかすんで見えました。意識がもうろうとして、歩いているという感覚さえなくなり、出口から出たところで倒れ込みました。既に深い眠りの中にジェフはいました。

やがて目覚めると、目の前にウィッチの心配げな顔がありました。森に来ても今日は妖精の姿のままです。

「大丈夫? 気分はどう?」

それにコクリとうなずいて、ジェフは手を顔にあてがいました。そして、その手の変化に気づいたのです。手は人間のものではなく、使い慣れた自分本来の狼の手でもありません。その手はちょっと小振りな、きっと犬の前足だ。ジェフは立ち上がりました。四つ足です。

「犬になったのよ」

ジェフは確認できる範囲でからだの変化を探しました。ですが、それほどの違いを感じません。

「シェパード犬だから、狼とあまり変わらないかな」

ウィッチも戸惑っているようです。

「でも、犬はやはり犬だわ。なんとなくだけど、見た目で違うってわかる。あなた自身の感想は?」

「わからないや」

「そうよね。外見はともかく、中身は変わらないものね。むしろ、その方がマリアには伝わるだろうし。さ。お城へ行こう」

「……」

「何してるのよ!」

犬になることには抵抗ないジェフですが、城のマリアへ会いに行くのはどうも気が進みません。でも、ウィッチの強引さにゆだねることにしました。いいえ。ゆだねるというより、なるようになれという心境が本当です。

犬になったというのに、箒の上ではまるで人間が座るような姿勢です。前足で箒の柄をつかんで、ちょっと人間の時よりは前かがみですが、なんとかなりそう。それは箒の魔法なのですね。

空飛ぶ箒は森を越え、村々を越え、小高い山に立つ城へとやって来ました。徐々に高度を下げると、なにやら下界が騒々しいです。どうやらウィッチたちを魔女と思い、城の兵士たちが騒いでいるようです。

「ちっ。ちょっと厄介ね」

ウィッチは城の上空をグルグル旋回しました。どこか警戒が手薄な場所を探します。しかし、そうしている内にも、兵士たちは隊列を組んで攻撃の準備を進めています。

マリアは急に騒がしくなった外の様子を部屋の窓からうかがいました。なにかしら。その視界の片隅になつかしい物が映りました。空飛ぶ箒です。あれは……。その時、ドンドンと銃声が響きました。兵士が空に向けて放ったのです。マリアは部屋を飛び出しました。城の一番高い塔へと走ります。

「キャッ! 急に何するのよ!」

鉄砲の音に驚いて、ウィッチは慌てて舞い上がりました。幸いにも弾はウィッチたちをそれてくれました。

「だから無理だって!」

珍しくジェフが声を荒げました。

「あたいたちのどこが怪しいっていうのよ! なにも撃たなくたっていいでしょ!」

空飛ぶ箒は十分に怪しいです。

「人間って、どうしてこうも物騒なのかしら。……見て。あそこ」

ウィッチが城の塔を指さしました。その塔の窓から誰かが手を振っています。マリアです。そばに近寄りたいのですが、また兵士たちが鉄砲をかまえていてとても近寄れません。マリアが兵士たちに何か叫びましたが、混乱の中で声が届かないようです。

「ウィッチ。引き返そう。こんなことなら無理にマリアに会っても、かえってマリアに迷惑かけちゃうよ!」

ジェフが叫びました。

「わかったわ」

ウィッチは箒をさらに上昇させ、城から遠ざかります。

遠ざかる箒をマリアはさみしく見つめ続けました。

「んもう。想定外だわ。人間って争うのが好きなのよね。付き合いきれないわ」

森への帰り道、ウィッチの腹立ちは収まりません。

「ありがとう。マリアが元気そうでよかったよ」

「本当にそうなの?」

「え?」

「本当にそれだけでいいの?」

「いいさ。もともと会えるなんて思ってなかったんだから」

ウィッチは森の中へと降りていきます。箒が着いた先はドアおじさんの近くです。地面に降り立ちジェフはほっと一息つきました。やはり地に足がつかないと落ち着きません。一方で、ウィッチはきつい目でジェフを睨んでいます。今まで見せたこともない怖い顔です。

「どうしたの? そんなに怖い顔して。ボクは満足してるよ。君には危険な目に合わせてしまってすまないし、感謝してる」

「そんなことどうでもいいのよ! ちっともわかってない! ジェフなんか、ジェフ……」

ウィッチはジェフに泣き崩れました。

「どうしたのさ。さっぱりわからないや」

「あなたの心の方がよほど不可解で迷路だわ。どうして人間なんかに恋してしまったのよ!」

「……」

「あたいのジェフ。どうか戻ってきて」

「ウィッチ……」

「ジェフ。あたい、あなたになら食べられてもいい」

ジェフは苦笑いしました。

「ボクはウサギは食べないよ。幼い頃、おかあさんが獲ってきたネズミの悲し気な目を見てからというもの、それが目に焼き付いて離れないんだ。ボクは狼なんかに生まれてきちゃいけなかったのさ」

「わかったわ。妖精の国に住むあたいが森の狼に恋したからいけなかったのよ。あなたもいい加減人間なんか相手にするのは諦めなさいよ。……と言っても、無理ね。あたいもあなたを諦める自信なんかないわ。だって、嫌いになろうなろうと思えば思うほど、好きが勝っちゃうんだもの」

ウィッチはジェフから離れて涙を拭いました。

「欲のない狼なのに、どうして恋には落ちるのかしら。……お願いがひとつだけあるの。あなたが妖精の国へ来ることになったら、必ずあたいのところへ来るんだよ。知らん顔なんて、絶対に許さないんだから。マリアが生まれ変わっても、プードルなんだから。あなたとはずっとすれ違いなんだよ」

最後はいたずらっぽく笑ってくれました。一方のジェフはまた苦笑いです。なぜって、ウィッチが望むものはつまり、ジェフが死ななくては実現されないからです。でも、ジェフは気にしません。だって、いつかはみな死ぬのです。それは生きものたちに必ず訪れるものなのです。むしろ死後にこんな素敵な場所があると知ったことは、却って楽しみが増えました。だけど、だからといって、死に急ぐようなことはしません。精一杯この世界で生きて、後悔したくないのです。欲のないことがジェフの取り柄でしたが、今初めて欲を持ちました。それは自分の心が納得する一生を送りたい。ジェフの行く手に小さな明りが灯りました。たとえ小さくとも、それはたしかに輝いています。

「わかったよ。その時はウィッチのところへ行くよ」

ジェフはやさしく微笑みました。

ウィッチは妖精の国へ帰っていきました。急にさみしさがジェフを包みました。振り返れば、こんな時はいつもウィッチがやって来て、ジェフを元気づけてくれたのでした。それがもうないのかと思うと、しんみりとします。ジェフはこれからどうしようかと迷いました。森で以前のように暮らすことも考えたのですが、やはりマリアの家に戻ることにしました。その内にマリアと再会できるとは思いません。ですが、マリアの匂いが残るあの家で暮らしたいと思ったのです。それにもう狼ではないし、犬となった今は人との暮らしが自然でもあります。


季節は流れて、粉雪が舞う頃となりました。ジェフはマリアの家で変わらない日々を過ごしていました。あれ以来ウィッチが姿を見せることはありませんでした。ヨーゼフも村まで来ることはできません。マリアのおかあさんが時々散歩に連れ出してくれるのですが、忙しいおかあさんが毎日ジェフに付き合ってくれることは難しいのです。自然とジェフは一人きりになることが増えました。森の狼だった頃は一人きりは仕方ないと思っていたのですが、ウィッチと出会ってからはむしろ一人で過ごす時間が少なかったのです。そんな日々になれてしまうと、今の一人きりが身にしみます。気持ちがふさぎがちになると、食欲もなくなります。ジェフは次第にやせ衰えるようになりました。

ああ。意外に早くウィッチのところへ行けるのかな。

そんなことを思いながらジェフは笑みを浮かべました。

ある朝。マリアの家の前に馬車が停まりました。それは城の馬車です。

ジェフがうずくまる小屋の前に誰かが立ちました。ジェフは力なくそれを見上げました。彼の意識は薄れつつありました。かすれる視界になつかしい顔が映りました。

ああ。ついに幻影が見えるようになった。ボクはもう死ぬんだな。でも、もう一度マリアを見ることができてよかった。

ジェフの目から涙がこぼれ落ちました。

「迷子さん。一緒にお城へ行きましょ」

それは聞き覚えのある声でした。そして、頭をなでてくれるその手の温もり、その匂い。これは。これは本当にマリアだ。そう確信すると、ジェフの視界ははっきりとマリアの姿をとらえることができました。

ああ。マリアだ。……マリアだ。

ジェフはよろけながらも四つ足で立ち上がり、マリアの元へゆっくりと歩きました。その弱ったからだをマリアは全身で抱きしめました。

「ごめんね。さみしかったね。ごめんね……」

マリアは泣いていました。それにジェフはくーんと甘えました。まだ力強さには欠けますが、懸命にシッポを振り続けるジェフです。

ウィッチ。まだ君の元へは行けないみたいだ。もう少し待ってておくれ。

ジェフはウィッチに思いを届けました。


おわり


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ