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その一

恋。それは切なくて、不可解で、とてもとても不思議な世界へと導いてくれる魔法の扉。その魔法の扉をのぞいた瞬間から、見るもの、触れるもの、聞こえるもの、すべてが迷宮への入り口につながるのです。

妖精ウィッチは今日も気ままなウサギになって遊び歩きます。真っ白なからだに長い耳。シッポはまんまる綿帽子。自慢の足で森の中をピョンピョン行ったり来たり。今日はどんな面白いことが待ってるの? ワクワクドキドキ。高く飛び跳ねては蝶々の羽に自分の鼻をこすりつけたり、地べたにくっつくほどに顔を近づけてアリのあとを追いかけてみたり。飛び跳ねるたびにビロードの毛並みがキラキラ輝きます。また今日は調子に乗って、草やぶに入り込んじゃった。食事中のバッタがびっくりしました。バッタは迷惑がって一段と遠くへ飛びます。ウィッチもあとを追って飛び上がりました。ところが、勢いあまって木の根っこに激突。着地した両足を思いきりぶつけてしまいました。痛さに目がくらくらします。しびれもあって足がジンジンします。しばらくはそこから動けそうにありません。こんなときに森の狼なんかに見つかったら大変。妖精とはいっても今はウサギの姿。妖精に戻るには、ケガをした両足で踏ん張りながらくるくる回転しなければいけないのです。とても今はできそうにありません。どうしよう。不安に思っていると、ふいにがさがさと何かが近づく気配がしました。緊張の面持ちで様子を見つめていると、そこに現れたのは最悪。森の狼だったのです。ウィッチは固唾を飲んで、狼に見つからないことだけを祈ります。でも、こんなときに限って、その狼はあたりをキョロキョロ。ついに狼と目が合ってしまいました。ウィッチは覚悟を決めるしかありません。あの時の記憶が余計にウィッチのからだをこわばらせました。

「やあ、ウサギさん。ごきげんよう」

ところが、思いがけずその狼は笑顔でウィッチにあいさつしてきたではありませんか。でも、怖さにウィッチは声も出ません。少しだけうなずくのがやっとです。

「どうしたの、ウサギさん……」

狼はその鋭い牙をちらつかせながら、ウィッチの様子をじっくりと眺めました。そして、

「おや? 足をケガしたの?」

万事休すです。狼に気づかれてしまいました。ウィッチはこれまで遊んでばかりいた自分を悔いました。こんなことになるなら、もっと魔法の勉強をしておけばよかった。悔んでも、後で気づくのが後悔です。

ところがところが、どうしたことでしょう。

「おうちはどこ? ボクが送っていってあげようか」

そう言いながら、狼はウィッチのケガした足をなめ始めました。それはもう、こわいやら、くすぐったいやら。

この狼は親切なふりをして、妖精の国へ入り込んで、凶悪の限りを尽くそうとたくらんでいるんだわ。なんてずる賢い狼でしょ。

ウィッチは絶対に言うものかと、固く口を結びました。でも、ペロペロする狼のベロはとてもくすぐったいのです。初めこそは必死でこらえていたのですが、あまりのくすぐったさに我慢しきれず、ついに大口あけて笑いだしてしまいました。

「ひゃーひゃひゃひゃ。もうダメ。許して。くすぐったいのー」

このときから、やさしいおおかみジェフといたずらな妖精ウィッチはとても仲の良い友だちになりました。


そして、もう一つ恋の扉が開きます。

出会いはそれぞれにあり、またそれぞれの物語をつむぎます。そして、それは人と人ばかりでしょうか。いいえ。ときに、人とおおかみとの間にも起こりえることなのです。たった一つの言葉が、ふとした微笑みがおおかみの一生を決めてしまうこともあるのです。そうです。こともあろうに、やさしいおおかみジェフは一人の女の子に恋してしまったのです。

マリアは美しい娘です。つぶらな黒い瞳。いちごのように赤く愛らしいくちびる。肩までのびた輝くつやのある黒髪。透き通るような白い肌。もう誰が見ても一度で胸ときめかせ好きになってしまいます。それはおおかみだって同じです。

ある日、ジェフが森の中を歩いていました。ジェフは、他の狼たちと違って、ウサギや野ネズミを食べたくありませんでした。だって可哀そうじゃないか。そう言って、ジェフはいつもキノコや木の実を見つけては空腹を満たしていたのです。でも、やはりジェフは狼です。お腹の虫がどうしてもお肉を食べたいと悲鳴を上げることがあります。そんなときは、いっぱい草を食べて無理やりお腹の虫を黙らせるのでした。今日もなんとかそうしてお腹の虫を黙らせたあと、きまってお腹が張って苦しくなるので、腹ごなしに散歩しているのです。

すると、どこからかきれいな歌声が流れてきました。誰だろう。ジェフはその歌声にひきつけられるように歩いていきました。

「わー……」

ジェフは小さく感嘆の声を上げました。木陰に隠れてそっと見つめる先に、一人の女の子が花をつみながら歩いていました。マリアです。口ずさむ歌声がとても軽やかで楽しそうです。まるで小鳥のさえずりのようです。ジェフはすっかりマリアにみとれてしまいました。だらしなく口を開けたままです。誰か教えてあげて下さい。

ふとマリアがジェフに気づきました。目と目が合って、ジェフはドキッとしました。なんてきれいな子なんだろう。

マリアはジェフに微笑みました。こんなことは初めてです。誰だってボクを見ると逃げ出してしまうんだ。それがジェフは何よりも悲しかったのです。でも、今目の前にいる女の子は逃げるどころか、やさしい眼差しでジェフに歩み寄ってくるではありませんか。ジェフは夢の中の出来事ではないかと疑ったほどです。

「どうしちゃったの? 迷子さん?」

マリアはそう言って、ジェフの頭をなでてくれました。ジェフはそれですっかり有頂天になってしまいました。しっかりシッポも振っています。

「一緒におうちを探してあげたいけど、これからおばあ様のところへお使いがあるの。この近くならいいのだけど」

マリアは少し困った顔でジェフに言いました。この際、どこだってかまいません。ジェフはマリアが歩いて行く方へ一緒に向かいます。

「あら。こっちにおうちがあるの?」

マリアにジェフは首をたてに振りました。

散歩する犬が時おり飼い主の顔を見上げるように、ジェフも時々マリアの顔を見上げては嬉しそうにシッポをふりふり歩きます。

「あれがおばあ様のおうちよ。私を送ってくれたのね。ありがとう」

マリアはしゃがんでジェフの頬にキスしました。ジェフが天にも上る心持になったことは言うまでもありません。

それからのジェフはまったくだらしないおおかみになりました。もともと強くもなかったのですが、このときのジェフは目も当てられません。何を見ているのか遠い眼差し。草むらに寝そべって、ぽかんと開いた口は、地べたにできた穴と間違えたトカゲが入ってきても気づかないままです。親友のヨーゼフが見かねてニワトリの卵をくわえて届けてくれました。お肉は食べないジェフでしたが、卵だけはまだひよこの姿になっていないからか、食べることがあったのです。木の実や草では栄養が足りません。卵なら少しは元気になるだろうと、親友の心配りだったのです。ヨーゼフは卵が割れないようにジェフの前に置くと、まじまじとジェフの顔を見つめました。ヨーゼフに見つめられても、ジェフはいっこうに気づかないようです。ヨーゼフは困ったとまゆげを下げました。

「いったいオレはどうしてこんな腰抜けたやつを気に入ってしまったのだろうかね」

ジェフが反応しないので、ヨーゼフの言葉はひとり言になってしまいます。

「ほら。お前が好きな卵を持ってきてやったぞ。はやく食べろ」

「ああ。ヨーゼフか」

「ああ、じゃないだろう。本当にどうしちゃったのさ」

「ボクにもわからない」

ジェフは卵を口に入れて割ると、中身をすすりました。これで少しは元気になってくれるといいのですが。

「お前のことだから、毒キノコでも食べたんじゃないのか?」

「覚えがないんだ。あの時から、記憶がすっとんじゃったみたい」

「いつから」

「あの子に会ったときから」

「ははーん。お前、恋わずらいか」

「……」

ジェフは力なくヨーゼフを見上げました。

「それで? 相手は誰だ。場合によっちゃ、オレが間に入ってやるよ」

そう言いながら、ヨーゼフはなんて自分がお人好し何だろうとおかしくなりました。

「言ってみろ。誰だ」

「名前なんて知らない。きれいな歌声だった」

「歌声? 狼は歌なんか歌わないぜ……お前、まさか……」

ジェフは相変わらずうつろな目です。

「だめだめだめ。人間を好きになってどうするんだよ。お前がよくても、向こうで逃げて行くだけじゃないか」

「あの子は逃げなかった。ボクの頬にキスしてくれた……」

とろんとした表情のジェフ。その目には、ヨーゼフは映っておらず、あの時のマリアの姿が浮き上がっているのでした。

「こいつはだめだ。完全にいかれてるよ」

ヨーゼフは何度も首を横に振りながら、去っていきました。

その様子を木陰からずっと見つめているものがあります。ウィッチでした。ジェフの具合をお見舞いにきて、他の狼がいるので、見つからないように隠れていたのです。ウィッチはその狼が立ち去るのをしっかり見届けたあと、木陰から出てきました。今日もウサギになっています。

「おはよう。ジェフ。気分はどう?」

「おはよう」

返事はしても、まったく気のない声です。

「相変わらずみたいね。……さっき盗み聞きしちゃたんだけど……」

ウィッチは少し寂しそうにうつむいて、ちらちらとジェフの方を見やります。なんだか言いたそうで言いにくそうな素振りです。でも、当のジェフは知らん顔。というよりぼんやりしてばかり。ウィッチのことなど今のジェフには見えていないのです。そんなジェフにウィッチはあきれ顔して、こう言いました。

「ジェフ。狼は狼。人間は人間よ。無理なものをいつまでも引きずってないで、きっぱりあきらめちゃいなさいよ」

ちょっときついウィッチの口調でした。言われっぱなしのジェフでしたが、しばらくウィッチを見つめ返したあと、ようやくだらしなく開いていた口を閉じて、こう言いました。

「ボクは狼だけど、生きものでしょ? 人間も生きものだろ? 何が違うの?」

「違うじゃない。あなたは四つ足だし、人間は二本足よ。あなたにはシッポがあるけど、人間にはないわ」

「そんなの、そんなに違わないと思うなあ」

「じゃあ、あなたは人間と話ができて? あなたの言葉は人間に通じるのかしら?」

「うーん。それはできない。でも、思いは伝わると思う」

「それはあなたの思い過ごしよ。人間にはわかってなんかいないわ」

「そうかなあ」

「人間はあたいたちのことを(けもの)と呼ぶのよ。信じられる? 獣よ」

「獣? そうなんだ……」

ジェフはうつむきました。ずっと人間とは心だけは通じ合えると信じていたのです。うなだれるジェフを見てウィッチは少し言い過ぎたかなと反省しました。そして、いいことを思いつきました。

「ジェフ。こんなところでひとりでいるから気持ちが沈むのよ」

ジェフを落ち込ませたのはウィッチなのに気づいていません。ジェフはマリアに思いを寄せてぼんやりとはしていましたが、落ち込んではいなかったのです。でも、自分の罪に気づかないウィッチはジェフの気持ちなどお構いなしに、ひらめいたアイデアを話し始めました。

「あたいたちの国へいきましょ。そこには仲間がいっぱいいるわ。ひとりぼっちはよくないわよ」

「ボクはひとりぼっちなんかじゃないよ。毎日君は遊びに来てくれるし、時々だけどヨーゼフだって」

「ふたりだけじゃない。妖精の国にはもっとたくさんの仲間がいるのよ。みんないいやつばかりよ。ジェフだって、みんなに囲まれたらあっという間に元気になるわ」

「そうかなあ。ボクは好きな仲間がふたりもいてくれたら、満足だけど」

「なにみみっちいこと言ってるのよ。そんなだから人間の女の子なんかにだまされるのよ」

「だまされてなんかないよ。きれいな歌声を聞かせてくれて、一緒に散歩しただけなんだから」

「だまされたは言い過ぎかもしれないけど、その子はきっと勘違いしているのよ」

「勘違い?」

「ジェフのことを犬だと思ったのよ。狼だと知ったら、すぐに逃げ出していたわ」

「そうなのかなあ……」

またうなだれるジェフです。

「ほら。いちいち落ち込んでないで、妖精の国へいきましょ。仲間がいっぱいできれば、そんな悲しい思い出なんてすぐに忘れてしまうから」

少しも悲しいとは思ってないし、彼女を忘れてしまうのもいやな気持でしたが、ウィッチがあまりしつこく勧めるので、ジェフは仕方なく立ち上がりました。

「あたいのあとを着いてくるのよ」

ウィッチはピョンピョン飛び跳ねていきます。楽しいことに夢中にさせて、人間のことなんか忘れさせてしまおうというウイッチの魂胆です。でも、妖精の国が必ずしもジェフにとって楽しい場所になるとは限りません。現にウィッチはその妖精の国を抜け出して、こうしてジェフの住む森へ遊びに来ているのです。

森の奥に古くから生き続けている大きな樫の木がありました。ウィッチがジェフを連れてきたのは、その樫の木だったのです。ウィッチはその根元まで来ると、あたりの様子をキョロキョロとうかがいました。そして、誰もいないとわかると、樫の木の太い根っこをコンコンと叩きました。すると、樫の木の幹の一部がゆっくりと持ち上がりました。そこに現れたのはふたつの目玉だったのです。その目の下には大きな穴も開いています。それはきっと口でしょう。なんと樫の木には目と口があったのです。

「やあ、お帰り。今日は早いじゃないか」

穏やかなやさしい声で樫の木はしゃべりました。

「今日はお客様を連れてきたのよ」

「ほー。お客?」

そう言って樫の木はジェフをじろりと見つめました。ちょっとこわい目です。

「大丈夫なのかい? そいつは狼じゃないか」

「平気よ。ジェフは心やさしい狼なんだから。天使様も知っているのよ」

「そうかい。ならいいが」

そう言って樫の木は口をさらに大きく開けました。まさか、それが妖精の国への入り口なのでしょうか。

「なにしてるの? 中に入るわよ。早く入ってあげないと、ドアおじさんがくたびれちゃうじゃない」

ウィッチがせかせました。口の中に入っていくなんて、まるで食べられてしまうみたいで気持ちいいものではありませんでしたが、ウィッチが平気で入っていくので、ジェフもウィッチの後ろにくっついて入りました。

口の中は真っ暗でした。でも、不思議とウィッチの姿は見えました。なんだかウィッチのからだが光っているように闇に浮き出ています。ジェフは自分の前足をたしかめましたが、暗くて見えません。ウィッチは妖精だから輝いているのかな、とジェフは思いました。長いトンネルの先に小さく光が見えてきました。きっと出口です。

しばらく暗い中を歩いていきなり明るいところへ出ると、眩しさに目がついていけません。徐々に明るさに慣れたジェフの目には、赤や青や緑や紫に黄色といった、いろんな色にあふれた景色が飛び込んできました。ジェフが住む森の緑とは比べものにならないほど、色たちが騒がしいまでにひしめいています。それはジェフが見たことのない花々でした。花畑がずっと広がっています。花なのに、一つ一つが鳥のように歌っています。中には居眠りしている花もあります。ところどころには木が生えていて、その幹には入り口の樫の木と同じように目と口があって、こちらを見つめています。ここは妖精の国なんだ。ジェフはあらためて思いました。ふと後ろを振り返ると、今出た穴がふさがれていました。それは口だったのです。入った時と同じ樫の木の口でした。口から入って口から出たのです。

「ジェフ。何ぼーっとしてるの。着いてこないと迷子になるわよ」

そうウィッチに言われてジェフは前に向き直りましたが、そこにもうウィッチはいませんでした。いるのはショートヘアにキラキラ輝く丈の短い白いワンピース姿の女の子だけです。可愛いけど、ちょっと気の強そうな目をしています。上に尖った耳がちょっと人間の姿とは違います。

「何見てるの?」

その女の子がジェフに言いました。その声はなんだかウィッチに似ています。あれ? ひょっとして?

「君はウィッチ?」

「そうよ。これが妖精ウィッチの本当の姿よ」

ワンピースの裾をつまんでウィッチはお辞儀しました。

「へー。見直しちゃったー」

「お生憎さま。ファンクラブの募集はもう締め切ったのよ」

ウィッチは笑ってベロを出しました。

「この国にあるものを食べれば、ジェフだって妖精になれるのよ。ただし、この妖精の国にいる間だけだけどね。何か食べてみて」

「え? ボクも妖精になっちゃうの? なんだかこわいなあ」

「何もこわいことなんてないわよ。ジェフの心が姿に現れるのよ。あなたの心を見てみたいわ」

「それならなおのこと気が進まない」

「大丈夫よ。ジェフはやさしい狼だから、きっと姿もやさしそうな男の子になるわ。痛かったり、苦しんだりしないから、何か食べてみて」

ジェフはうなずいて、目に留まったキノコをパクリと食べました。すると急に視界が高くなりました。四つ足だったのが二本足で立ち上がったからです。

「思った通り、ジェフはやさしい男の子になったわね」

ウィッチは嬉しそうにジェフのそばに歩み寄りました。

なんだか不思議な感覚です。二本足で、そればかりか手がある。もちろん、その手は毛むくじゃらではありません。指も五本あります。ジェフは自分の手を物珍しく見つめました。

「その恰好は猟師みたいね」

ウィッチに言われてジェフが自分の姿を眺めると、鉄砲こそ持ってはいませんが、前に一度見たことのある猟師の姿になっていました。

「ジェフが人間を想像するとその恰好だったというわけよ」

「ふーん。なるほど。ボクが知ってる人間はこんな感じしかないものな」

「知ってる人間が猟師なんて、ちょっと悲しくない?」

「どうして?」

「だって、猟師って、森の生きものたちにとっては敵じゃない。ジェフにとって人間は敵でしかないのね」

「そうでもないさ。ボクが見たことのある人間が猟師というだけで、人間がボクの敵にはならないよ。それに、狼が猟師に追われることなんてないよ」

「そうか。猟師にとって狼は獲物じゃないものね。その点、あたいたちウサギは大変よ。猟師だけじゃなく、狼や狐もいるし。いつもびくびく」

ウィッチは歩き始めました。ジェフも並んで歩きます。なんだか二本の足だけで歩くのはぎこちないです。

「ウサギに変身するからさ。もっと他の生きものになればいいのに。たとえば、狼とか」

「ウサギは、あたいが妖精になる前の姿なのよ」

「妖精になる前?」

「あたい、ウサギだったの。一度死んで、妖精に生まれ変わったのよ」

「生まれ変わり?」

「そうよ。生きものは死ぬと妖精に生まれ変わるの。人間は動物や花や木に生まれ変わるって」

「へー。人間は動物や花や木にか」

ジェフは周りを見回しました。歌っている花たちは人間だったんだ。そして、狼やウサギだった自分たちが今は人の姿になっている。不思議な世界です。空気もふわふわとして、からだが浮き上がってしまいそうです。それは漂っている香りのせいかもしれません。ジェフはこの香りが気に入りました。森の中でも春になると広がる香りです。ジェフはそれだけで幸福な気持になるのでした。

「おはよう」

そこへ誰かが声をかけてきました。ちょっと小太りだけど、可愛らしい男の子です。ウィッチの弟でしょうか。

「おはよう。ソデチン」

ウィッチが手を振ってこたえます。ソデチンと呼ばれたその男の子はこちらに歩いてきました。

「ウィッチ。その人はだあれ? 見かけないでふね」

「紹介するわ。ソデチン。ジェフよ。ジェフ。こちらソデチン」

ウィッチはジェフとソデチンを交互に紹介しました。

「はじめまして。ボク、ソデチンでふ。よろしくね」

「どうも。ジェフです」

ふたりは握手して互いに微笑みました。もう友だちになったみたいです。いつもと違うソデチンの積極性にウィッチはちょっと目を丸くしました。

「ソデチンはひょっとしてウィッチの弟?」

「ううん。ボクら似てる?」

ふたりを見比べてジェフは首を横に振りました。

「ソデチンは妖精になる前はカメだったのよ」

「そう。ボクはカメさんでふた」

三人は歩き始めます。どこへ向かっているのでしょう。

「カメさんのときはずっと人間に可愛がってもらって幸せだったでふ。でも、その人間がいなくなってしまって、とても悲しくて、それでボク死んじゃったでふ。でも、また今はこうしてウィッチや君と友だちになれて楽しいのでふ」

「ジェフとソデチンは人間が好きなところが似ているわね。ソデチンは実際に人間に飼われていたのだからわかるけど、ジェフはどうして人間が好きなのかしら」

ウィッチは指をあごにつけて首をかしげました。

「ボクは人間が好きなんかじゃなくて、たまたま好きになったのが、人間だったというだけだよ」

「ふーん……」

うなずきはしたものの、ウィッチは納得していないような顔つきです。

「妖精の国って、広いんだね。空も青いし」

ジェフは空をあおぎました。真っ青な空に白い雲がポカリポカリと浮かんでいます。あの暗いトンネルの先にこんな世界が広がっているなんて、誰が想像できるでしょうか。

「ジェフがいる世界と同じ広さの世界がここにはあるのよ」

「へー。そうなんだ」

「ジェフたちの世界は神様がお作りになって、この妖精の世界は天使様がお作りになったのよ」

「全部天使様からの受け売りでふよ……イテッ」

余計なことを言ったソデチンの頭をウィッチは軽くたたきました。

「天使様?」

「そう。これからその天使様のところへ行くのよ」

三人が向かう先に緑の丘があり、丘の上に白い立派なお城がありました。三人はそのお城につながる一本道を歩いていきました。


お城には大きな門があり、そこに門番が左右にふたり立っていました。遠目には人間のように見えたのですが、段々近づくにつれ、それが木で作られた人形だとわかりました。まるで生きているようです。

「どんなご用ですか?」

突然、木の門番がしゃべりました。本当に生きていました。大きな目玉でジェフのことを見ています。

「お客様をおつれしたのよ。天使様に取り次いでちょうだい」

いつもと違ったウィッチのすました声です。その声は門番を通して別のところまで届いているようです。

「……はい。かしこまりました。今から門を開けます」

誰かの指示が門番たちには聞こえたようで、みしみしと木がきしむ音をさせて、木の門番ふたりは重そうに門を押し開けました。内に開かれた門から中をのぞくと、真っ暗です。でも、真ん中に輝くように白い道が一本上に向かってのびています。ウィッチはその道へ歩いていきました。ウィッチがその道に両足を乗せると、道がひとりでに動くのか、ウィッチはどんどん高く上がっていきます。上りながらウィッチはジェフに手を振りました。そして、自分と同じように道に乗るよう指示します。ジェフは道に乗りました。横にちゃっかりソデチンも便乗しています。ジェフが乗ると同時に道はゆっくりと動き出し、ふたりを乗せてどんどん高みへ上がっていきます。上がっていく道の先がパッと明るくなりました。真っ暗な壁に扉が開いたのです。ウィッチはその中へ吸い込まれていきました。当然、ジェフも同じルートをたどります。

一歩足を踏み入れると、日差しが射し込んでいました。その瞬間、ジェフの脳裏にある記憶がよみがえったのです。それはもう昔に忘れていた記憶です。ジェフが生まれたときのこと。おかあさんのお腹に顔をうずめておっぱいを飲んでいたら朝陽が射し込みました。その時の光と温もりを思い出したのです。それはおかあさんの温もりでもありました。ジェフの頬を涙がこぼれました。


マリアは幾日ぶりかで森を歩いていました。また、おばあさんへのお使いです。おかあさんが焼いたクッキーを竹かごに入れて持っていくのです。森の中を歩くことに、おかあさんが心配しないわけではありません。でも、マリアはいつも通い慣れた道と気にしませんでした。それに、おばあさんに早く会いたい気持ちが近道を選ばせるのです。おや。それでは、どうしてマリアは花を摘みながら歩いているの? そんな寄り道しないで真っすぐ行ったらいいじゃない。と、みなさんは思うことでしょう。だけど、それは許してあげて下さいね。美しい花たちを見るとつい歌いたくなってしまうのです。それがマリアの素敵なところなのですよ。

あの迷子さんは無事におうちへ戻れたのかしら。ときどきあの時の光景がマリアの脳裏に浮かび上がるのです。ところで、マリアはジェフのことを狼だと気づいているのでしょうか。それとも、ウィッチが言うように、犬と勘違いしているのでしょうか。みなさんはどう思います?

ジェフのことを思い出しながら、マリアは今日も美しい歌声を奏でながら歩いていきます。すると、その歌声に興味を示すものがあります。それは木陰からじっとマリアの様子をうかがっていました。ヨーゼフです。ヨーゼフはその歌声を耳にして、きっとあの人間がジェフの心を奪ったに違いないと思いました。ヨーゼフはゆっくりとマリアに近づきました。マリアに気づかれないように。驚かさないように。でも、抜き足差し足なんて、狼の柄ではありません。すぐにボロが出て、枯れ枝をバキバキと踏んでしまいました。その物音にマリアは振り返りました。一瞬何だろうと見つめます。そこには一匹の……狼です。それはたしかに狼です。マリアは恐れおののき後ずさりしました。これはまずいと思ったヨーゼフはマリアにジェフのことを問いただそうと思いました。

【お嬢さん。ちょっと聞きたいことがあるのだが】

ですが、それはマリアには狼の唸り声としか聞こえなかったのです。マリアは恐怖のあまり、持っていたクッキーを竹かごごと投げつけて走り出しました。

【おい。ちょっと、待ってくれよ!】

マリアに狼の言葉はわかりません。それは吠えるようにしか聞こえないのです。

マリアは無我夢中で走りました。深い森の中をさらに奥へと。混乱して、おばあさんの家とは反対の方角へ向かっていることにマリアは気づきません。途中で小枝にでもひっかけたのか、ブラウスの袖は破れ、お気に入りのペティコートも見るも無残なありさまです。それでもマリアは走り続けました。森の奥へ、奥へ。そうしてたどり着いたのは、あの樫の木です。勿論、マリアはそれが妖精の国への入り口だとは知りません。

マリアは疲れ果てていました。もう一歩も前へ進めそうにありません。もしここであの狼に追いつかれてしまったら、もうそれで終わりです。なんという運命でしょう。どうしてこんな突然に私の命は絶たれてしまうのでしょう。どうか神様、お助け下さい。どうぞ救いの手を差し伸べて下さい。どうか……。マリアの涙が樫の木の幹にこぼれ落ち、しみ込みました。その哀れな姿に、もう樫の木は黙っていられなくなりました。人間に声をかけるのは掟を破ることになるのです。でも、どんな罰を受けようとも、樫の木は構わないと思いました。樫の木は目を開き、マリアを見つめました。それにマリアは気づく気配がありません。目を閉じ、ひたすら神様にすがっているようです。

「お嬢さん……お嬢さん」

呼ばれてマリアは後ろを振り返りました。でも、どこにも誰もいません。

「お嬢さん。わしじゃよ。この樫の木なのじゃ」

マリアは言われて樫の木を見つめ、息をのんで驚きました。

「驚かせるつもりはないのじゃ。それより早くここからお入りなさい。何にそんなにおびえているのか知らんが、わしが助けてあげよう。さ。早くここにお入りなさい」

そう言って、樫の木は大きく口を開けました。マリアはそれをおそるおそるのぞき込みました。穴の先は真っ暗です。誰だってためらいます。その時です。木立からあの狼が姿を見せたのです。マリアは慌てて樫の木の穴へからだごと飛び込みました。それをたしかめると、樫の木は何事もなかったように口を閉じました。

「あれ? 今さっき、あの子を見つけたと思ったのだがなあ」

ヨーゼフは樫の木の前で小首をかしげました。樫の木はニンマリと微笑みました。

マリアは暗闇の中手探りで歩いていました。希望は遠く微かに見える小さな光です。きっとあれが出口のはず。そう思わなければ、気がおかしくなってしまいそうです。そして、彼女の願い通りにそれは出口でした。暗がりから顔だけ出すと、眩しい光に一瞬立ちくらみました。それでも勇気を振り絞って、マリアは外に出ました。マリアはここが妖精の国だとは知りません。不安なときはいつもそうするように、大きく息を吸って一度目を閉じました。そして、ゆっくり息を吐きながら開いた視界に入ってきたのは、一面に広がる花畑です。落ち着くと、気づかなかった花たちの歌声も耳に届くようになりました。

ここはどこだろう。見たこともない景色です。見渡す限りの花畑なんて聞いたこともありません。それもいろんな種類の花が咲き乱れているのです。バラのようでバラではない。ラベンダーのようでラベンダーでもなく、チューリップのようでもチューリップではない。不思議な花たちです。その花たちが花弁を揺らしながら歌っているように見えます。初めて聞く歌のはずなのに、マリアのからだは自然にステップを踏みました。なんだか心の内からワクワクしてくる歌です。先ほどまでの不安も忘れて、マリアは楽しくその歌に合わせて踊りました。マリアが踊り始めると、どこからか子供たちが現れてマリアと一緒に踊ります。男の子と女の子それぞれ三人ずつ。みな同じような白黒の縦縞模様の半袖と紺の半ズボンを着ています。子供たちはマリアを中心に次々と手をつないで大きな輪を作りました。歌に合わせてクルクル回ります。手を叩いたり足を上げたり、示し合わせたように息もピッタリです。笑顔がこぼれます。

ひとしきり踊り疲れて、マリアはその場に座りました。子供たちもマリアの周りに集まります。しばらくは息が切れて、言葉をかける代わりにマリアは子供たちの顔をひとりひとり眺めまわしました。みんな愛らしい顔立ちの子供です。マリアが住む村では見かけない顔でした。しかも、六人ともよく似ています。六つ子? からだの大きさこそ少し違う子もいるようですが、本当に六人ともそっくりなのです。

「みんなどこから来たの?」

ようやく息も整って、マリアは子供たちに聞きました。

「ここに住んでいるんだよ」

子供たちの中では一番小柄な男の子が答えました。ちょっと利かん気の強そうな目をしています。

「ここはどこなの?」

「妖精の国だよ」

今度は六人が一斉に答えました。同時だったのがおかしいのか、鼻をブヒーブヒー鳴らして笑いました。この六つ子たちは子豚の生まれ変わりなのでしょうか。そういえば、どこか鼻の形が丸くて子豚みたいです。それがまたおかしいのか、互いに顔を見合わせては笑い転げます。

「妖精?……の国?」

マリアは辺りをもう一度見回しました。たしかに不思議な光景なのは間違いありません。マリアは子供たちにゆっくりとうなずきました。

「お姉ちゃんはどこから来たの?」

また六人が同時に言いました。そして、同じようにブヒーブヒー鼻を鳴らして笑い転げます。同じ言葉を同時に発声することが嬉しくて仕方ないようです。これがそれぞれに違う質問だったら、さっぱり聞き取れないことでしょう。

「森からよ。樫の木の穴から通り抜けて来たの」

「ああ。ドアおじさんだね」

一番小柄な男の子が言いました。他の五人は互いにふざけ合っています。もうマリアとの会話に飽きたようです。その男の子だけはしっかりとマリアを見つめています。小柄だけど、一番しっかりした男の子です。

「私、元の森へ帰れるかしら」

「来たのと逆を通れば帰れるよ、きっと……あ、ドアおじさん、またどっかにいっちゃったあ」

その男の子は横を振り向いてから、樫の木があった付近を指さしてマリアに教えました。男の子が言うように、そこに樫の木はありませんでした。樫の木が勝手にどこかへ行ってしまうなんてことがあるのでしょうか。唯一の帰り道がなくなって、マリアは途方にくれました。

「私、どうしたらいいの……」

子供たちを前にしていなかったら、大声を出して泣いてしまいたいほどです。

「ドアおじさんを探すしかないよ」

男の子はとても冷静に答えました。他の五人は相変わらずふざけています。今はもうそのことに夢中になっているようです。子供にはよくあることですね。

「どうやって探せばいいの?」

マリアは立ち上がりました。じっとなんかしていられません。早くしないと日が暮れてしまいます。知らない国の夜は不安ばかりです。

「聞いて歩くしかないよ」

「誰に? 僕たちは知らないの?」

問いかけながらマリアは四方を見渡しました。どこまでも広がる花畑のところどころに木が見えます。あの中の一本ならいいのだけど。あまりの広さに疲れがどっと押し寄せてきます。みるみる力が抜けて、マリアはまたしゃがみ込んでしまいました。

「大丈夫?」

六人が一斉に声をかけてきました。六人の目がマリアに注がれています。

「なんだか急に疲れちゃったみたい」

「僕たちのおうちにおいでよ」

六人はまた一斉に答えて、笑い転げました。


真っ白な壁を背景にして、ジェフの前には三人の女性が宙に浮いて見守っています。広くて天井の高い部屋には何もありません。ひょっとして外に出たのかとも思いましたが、それにしては森も山も見当たりません。やはり大きな建物の中なのでしょう。その三人の女性をジェフは不思議に見つめました。翼を広げているわけでもなく、どうして浮いていられるのか。それに、どこか冷たく感じました。まるで血の通っていない人形のようです。隣では、ウィッチとソデチンが両膝を床につけて頭を下げています。姿は人間でも狼のジェフにはそれが天使に対する礼儀だとは知りません。ただ茫然と立っているジェフに気づいて、ウィッチが目で合図しました。ジェフはウィッチを真似て両膝を床につけました。生まれて初めての仕草でぎこちなく、姿勢もなんだか曲がっています。

「いらっしゃい、ジェフ。歓迎します。あなたのことはよくウィッチから聞いています。心やさしい狼なのですね」

真ん中の女性が微笑んで言いました。やわらかく歌うような声です。ところが、両側の女性たちは眉ひとつ動かしません。本当に人形のようです。

「たしかに、あなたの瞳はとてもきれい。それは慈しみで満たされています。あなたの思いがもっと広がれば、あなたたちの世界は今よりやすらぎ溢れるものになるでしょう。ウィッチ。あなたはよいパートナーに巡り合えましたね」

「えへっ。ありがとうございます」

ウィッチは女性に深く頭を下げました。ジェフもウィッチのように頭を下げます。

「ただし、この国はあなたから見れば、死後の世界です。生者(せいじゃ)を長く留まらせるわけにはいきません。三日を越えれば、徐々に歪が生まれてくるでしょう。ウィッチ」

「あ、はい」

ウィッチは顔を上げました。

「承知していますね。四日目の朝陽が射す前にジェフを元の森へ戻してあげるのですよ」

「はい。天使様。そのようにいたします」

再びウィッチは頭を下げます。

それからジェフたち三人はお城をあとにしました。

「天使様にもお許し頂いたし、遠慮なくいられるわね」

ウィッチはそう言ってジェフに寄り添いました。お城から帰る丘の一本道です。隣をソデチンもトコトコ歩いています。

「なんだか不思議な感じだった」

ジェフがつぶやきました。

「何が?」

ウィッチはジェフの腕に自分の腕を回してジェフの顔を見上げました。天使に、ジェフのパートナーと言われて気をよくしているのです。

「天使様って、なんだか不思議だ」

「そりゃあ、この世界じゃ神様みたいなものだもの、不思議で当たり前よ」

「ウィッチは神様を見たことがあるの?」

「神様? ……あたいがウサギだった頃でしょ? ないわ。ジェフはあるの?」

「ない。でも、なんだか違う。想像していたのと、なんだか違う」

「あなたの想像じゃあ、違うに決まってるでしょ」

「そうかもしれないけど、しっくりこないよ。あの部屋に入った最初は、なつかしい温もりを感じたんだ。それはおかあさんに抱かれているときの思い出と重なった。でも、目の前にいる天使様にはそれを感じなかった。まるで作り物みたいだった。そうだ。お城の門番と同じだ」

「お城の門番?」

ウィッチは後ろを振り向きました。遠くにその門番が立っているのが見えます。木で作られているから、彼ら二人はいつだってあそこに立ち続けているのです。

「そうねえ……」

ウィッチもそれはどこかで気づいているみたいで、言葉を濁しました。しかし、考え直したのか、こう言いました。

「そりゃまあ、そう思わないこともないけど。でもね。天使様を疑ってはいけないわ。天使様はこの世界を守ってくれているのよ。それはたしかだわ。時々感じるもの。」

ウィッチもジェフと同じ思いを持っているようです。それがわかったジェフはこれ以上天使様のことを話すのはよくないと思いました。それはただウィッチを傷つけるだけのように思えたからです。


六つ子の家は少し歩いた場所の小川の流れる岸辺にありました。道々マリアは、ここが妖精の国なら、この子たちも妖精なのかしらと思いました。妖精だとしたら、その家はどんなものだろう。期待がふくらむばかりです。ところが、子供たちが案内してくれた家は小さな木造の小屋でした。それはマリアの村にもごく普通にある小屋でした。むしろ小さいくらいです。この子供たちに合わせればそうなのかもしれませんが、親がいるはずです。それとも妖精だから、親はいないのかしら。はしゃぎながら家の中へマリアを引き連れていく子供たちに、彼女は問いかけました。

「おとうさんやおかあさんは? いらっしゃるのなら、先にご挨拶しないといけないわ」

「そんなのいないよ」

「僕たちだけなの?」

「そうだよ」

答える度に六人が声を揃えます。鼻も鳴ります。

小屋の中は散らかし放題でした。テーブルの上には食器が散乱し、床には子供たちの遊び道具が所狭しと放置されています。マリアは思わずため息を吐きました。もし樫の木がすぐに見つからなければ、しばらくここに居ることになります。今夜だけならまだ我慢できたとしても、それ以上寝泊まりするとなれば放ってはおけません。マリアの気持ちが許すはずがありません。マリアは覚悟を決めて、腕まくりしました。

まずは子供たちへ言い聞かせなければなりません。どんなに片付けても、そのあとから散らかされてしまったら、いたちごっこです。マリアの決心などよそに、子供たちは好き勝手に遊びまわっています。はしゃぐ彼らに手を叩いて止めさせました。

「よく聞いてちょうだい。いいですね」

マリアはわざと少しきつい目をして子供たちを見つめました。こわいお姉さんにはおとなしくなる子供たちです。まずは子供たちの名前を知らないことには話のしようもありません。名前を聞きましょう。でも、六ツ子を区別できるでしょうか。ちょっと自信がありません。マリアは指を顎に当てて小首をかしげました。

「どうしたの? お姉さん」

六つ子はまた同時に声を出します。

「私はマリアっていうのよ」

「マリア? マリア。マリア。マリア。マリア……」

六つ子の連呼が止まりません。それをマリアはまた手を叩いて止めました。

「みんなのお名前を教えて」

「ボクはイッピー」

「わたしはニッピー」

「ボク、サッピー」

「わたしシッピーよ」

「ボクはウッピーさ」

「わたしロッピーです」

六つ子とは言いながら、やはりそれぞれに個性はありそうです。それに、こうして順番に並んでいるから今はわかるけど、いざバラバラになったら、誰がイッピーで誰がニッピーなのか、わかりません。六つ子たちを眺めながらマリアにあるひらめきが灯りました。

そうだわ。同じ服だからいけないのよ。

「みんな同じ服しか持ってないの? 違う色の服はないかしら」

「違う色の服?」

そう聞き返したのはイッピーでした。あの小柄でしっかりした男の子です。長男に違いありません。

「たとえば、あなたは青い服」

そうマリアが言うと、イッピーの服は青色に変わりました。え? 驚いたマリアはもしやと思い、頭に浮かぶ色を順番に示していきました。

「じゃあ、ニッピーは赤」

するとニッピーは赤い服になりました。

「サッピーは緑。シッピーは黄色。ウッピーは黒。最後にロッピーはピンクよ」

マリアが色を示す度に子供たちの服はその色にたちまち変わっていきます。六人すべてが言った通りの色になって、マリアは思わず手を叩いて喜びました。

「すごい。魔法なの?」

「こんなの簡単さー」

自慢気にイッピーが胸を張りました。

「これからはその色の服でいてちょうだい。お願いね」

「うん」

六つ子たちは元気よくうなずきました。

「それと、これもお願いです。このお部屋をよく見てちょうだい。散らかしっ放し。これでは失くし物がいっぱい出ます。大切な物を失くしてしまった人はなくって?」

マリアが尋ねると、六つ子たちは思い当たる事ばかりのようで、全員が無言で首を縦に振りました。

「お姉さんが整理整頓のお手伝いをするから、みんなもちゃんとお片付けして下さいね」

「はーい」

六つ子は元気よく手を上げました。聞き分けはいいのですが、ちゃんと守れるでしょうか。

「それではお片付けはじめ! 誰が一番きれいにできるかな?」

マリアの号令で六つ子たちはワイワイ言いながら片付けを始めました。その様子を眺めながら、マリアはホッと肩の力を緩めました。

片付けが終わったのは夜遅くのことでした。さすがに六つ子たちだけでなく、マリアも疲れ切って寝てしまいました。六つ子たちのベッドは小さくて、とてもマリアが休める大きさではなかったのですが、六つ子たちが古くて使っていないベッドを納屋から三つ持ってきて、マリアのために一つに合わせて用意してくれたのです。そんな六つ子たちの優しさに触れ、今日はいろいろあったけど、最後はおだやかに眠ることができそうです。マリアの寝顔にも微笑みがありました。

翌朝、マリアは窓から射し込む日差しに目覚めました。六つ子たちはまだ寝ています。マリアはそっと起き上がると、小屋の外に出ました。朝の空気はヒンヤリとしていて、とてもすがすがしく、マリアはゆっくりと深呼吸しました。両手をいっぱいに広げ、陽の光をからだに浴びます。妖精の国に来ていることなど忘れてしまいそうです。すると急にお腹の虫がグーと鳴きました。そういえば、夕べは何も食べてなかったのです。あの子たちはどんなものを食べるのかしら。妖精の好物なんて知るはずもありません。ふと目をやると、小川のほとりに何本かの木が生えていて、それに実がなっていました。なんだか見覚えのある赤い実です。マリアは近づきその実を手に取りました。それはリンゴによく似ていました。でも、リンゴが実る季節ではまだありません。ここが妖精の国であることを思えば、やはりこれはリンゴのようには見えますが、リンゴではないのでしょう。だけど、甘くいい香りです。マリアの食欲をほどよく刺激してくれます。妖精の国に毒になる物なんてないわよね。マリアの空腹が都合の良い理由を作り上げます。マリアは手に持ったその実を口に近づけ、こらえ切れずに少しだけかじりました。甘酸っぱい果汁がマリアの口いっぱいに広がり、二口目が彼女の喉を潤しました。それから三口、四口とマリアは立て続けに食べました。と、途端に、マリアの視界が低くなりました。え? 何が起きたの? マリアにはなにがなんだかわかりません。マリアは知らなかったのです。妖精の国にあるものを食べれば、人間は動物になってしまうことを。今、彼女は小さな子犬にその姿を変えてしまっていたのです。

そんなことが起きているとも知らず、六つ子たちはようやく目覚めました。マリアがベッドにいません。部屋中どこにもいないことに気づいた六つ子たちは小屋の外を探しに出ました。四方を探す内に、小川の近くにいる子犬に誰かが気づきました。そこには可愛いプードルが一匹途方に暮れた様子でたたずんでいたのです。六つ子たちはすぐにそれがマリアだと知りました。プードルの足元に食べかけの実が落ちていたからです。

「マリアおねえちゃんだね」

イッピーがプードルになったマリアを抱き上げました。それにマリアはうなずいて、涙声で聞きました。

「わたしどうなっちゃうの? 元に戻れるの?」

もう、いくつもの不安が重なって、これから自分がどうなってしまうのか気が遠くなってしまいそうです。

「妖精の国にいる間だけだから。森へ帰れば、元の人間になるよ」

「そう。それなら、少し安心したけど……。でも、本当に森へ帰れるかしら」

また泣きそうな声です。

「ボクたちが探してあげるよ。今日はみんなでドアおじさんを見つけに行こう」

ブヒー。ブヒー。ブヒー。兄弟が鼻を鳴らして手を上げました。


「おはよう。ジェフ。よく眠れた?」

ウィッチが窓から顔をのぞかせました。ここはソデチンの家です。夕べジェフは、この大きな木を丸くくり抜いた家に泊まったのです。屋根の形がカメの甲羅みたいです。天井から吊り下げられたハンモックにジェフとソデチンは寝転がっています。

「おはよう。なんだか人間のからだは不便だね。いつもの寝方だと息苦しくて、落ち着く格好を見つけるのに苦労したよ」

狼はうつぶせ寝だから、人間の姿になったジェフには違和感があったのでしょう。

「あははは。慣れるしかないわね。それより、今日は何する?」

「何する?」

「何やって遊ぼうかって、聞いてるのよ」

「まだ森には帰らないの?」

「えー! 昨日来たばっかりじゃない。何言ってるのよ」

ウィッチは不機嫌な声で頬をふくらませました。そして、話が遠いと思ったのか、ドアを開けて中に入ってきました。そこへまだ寝ていたソデチンが半分眠気まなこで起き上がりました。

「おはよう。ソデチン」

ソデチンの脇を通りながら、ウィッチはソデチンの頭を軽くなでました。なでられてソデチンはまた寝てしまいます。カメは一日のほとんどを寝て過ごすようなものです。

「ジェフ。あなた、あたいが何のためにここへ連れてきたか、わかってないみたいね」

ずいとジェフに迫ります。なんだかちょっと怖そうなウィッチ。

「あなたが落ち込んでいるから、連れてきたのよ。それを、もう森へ帰りたい? どういう言い草かしら」

決して落ち込んでなんかなかったけど。そう思いましたが、ジェフは反論しません。言い争いは好まないのです。

「うん。悪かった。ごめん」

「え?」

あっけなく謝られて、ちょっと拍子抜けのウィッチです。だけど、さっきまでの怒り顔は一転上機嫌になりました。

「どこ行こうかあ」

「よく知らないから、任せるよ」

「う~ん……。そういうのが困るんだけどね。何か希望ない?」

「希望? 特には……」

考え込むように首をかしげるジェフは横目使いでウィッチを見ます。ウィッチはジェフの答を待って、真剣な眼差しです。いよいよジェフは回答に困りました。欲のないのがジェフの取り柄と言えば取り柄なのです。その時。一羽の小鳥がピロピロさえずりながら窓の外を飛んでいきました。それを眺めて、ジェフはつぶやきました。

「空を飛んでみたいな」

「え? なに?」

ウィッチはジェフに耳を近づけました。

「いいんだよ。無理にとは言わないから」

「空? 空ねえ……」

ウィッチは腕組みして考え込みました。実はまだそんな魔法を勉強したことがないのです。自分さえ飛んだことがないのに、どうしてジェフを飛ばせることができるでしょう。

「いいよ。じゃあ、この国に川はあるの? 川を見にいきたい」

「あるわよ。いっぱい。ここら辺なら、六つ子の小屋が近いわね」

「六つ子?」

「そうよ。前は豚だったの。豚って、六つ子とか当たり前だから」

「ふーん」

「これが小憎らしいガキんちょなのよ」

「まだ子供?」

「妖精の国では年を取らないから、子供で生まれ変わったものはずっと子供なのよ。でも、実際は年上だと思うなあ。あたいより先輩なんだから」

「子供のときに死んじゃったってことだよね。何か事情があるのかなあ」

「さあてね。聞いたことないけど」

ウィッチはあまり興味がなさそうにその話は切り上げ、ひとまずはその六つ子の小屋を目指しました。

さて、みなさんはもうお気づきですね。そう。ジェフたちが向かおうとしているのは、マリアがいるあの六つ子の小屋なのです。まさかこの妖精の国で巡り合えるなんて。ジェフの頭の片隅にもありません。でも、残念なことに、お話はそう簡単にハッピーエンドにはならないのです。

その頃、プードルになったマリアを抱いたイッピーを先頭に、六つ子たちは樫の木のドアおじさんを探しに小屋を出ていきました。

「どこへ行くの?」

プードルのマリアがイッピーを見上げました。

「そうだなあ。クマッタにまずは聞いてみようか。クマッタならそこらじゅうを歩き回っているから、ドアおじさんがいそうな場所をきっと知ってるよ」

「でも、クマッタはどこにいるのさ」

ウッピーが肝心なことを聞きました。

「うーん……どこにいるんだろう」

イッピーが小首をかしげます。心もとない返事です。

「わたし、カワセミの森で見たことがあるわ」

ニッピーがちょっと希望のもてることを言ってくれました。

「それはいつのことさ」

ウッピーがすかさず突っ込みます。そういう性格のようです。

「いつだったかしら……」

頼りないニッピーです。話はまた振出に戻りました。振出に戻りましたが、六つ子の行進は止まりません。宛てがあるのでしょうか。それとも、宛てはないけど、とりあえず進んで行くのでしょうか。

「結局、どこへ行くの?」

マリアがまた同じことを聞きました。それにイッピーは首をかしげて答えました。

「わからないや」

やはり、宛てはなかったようです。それでも六つ子は行進を止めず、その先に見える深い森へと向かっていくのでした。

マリアと六つ子たちが森へ向かっている頃、ジェフはウィッチとソデチンに連れられて小川へときました。六つ子の小屋がある小川です。

清流はところどころに顔をのぞかせた岩に流れを変えて、左右に分かれたり、渦を作ったりしています。流れが岩にぶつかり、流れと流れがぶつかりして音が生まれているようです。それは水の音というのでしょうか。ちょっとした草むらにジェフは仰向けに寝転びながら水の音に耳をかたむけました。人間の姿になって、この姿勢が一番楽だと知りました。狼であれば最も無防備な状態です。だけど、母親に甘えるときはこんな風だったと思い出しました。ジェフの隣にはソデチンも寝転がっています。いつの間にか彼の寝息が聞こえてきました。ウィッチはというと、彼女だけが立ったまま二人を見下ろしています。ちょっとまた不機嫌な様子です。

「つまんない」

ついにウィッチの堪忍袋の緒が切れました。

「なんで二人とも寝てばっかりなのよ」

「ウィッチもこうしてごらんよ。気持ちいいよ」

「結構です」

ウィッチは寝転がるどころか、寝そべる二人の周りをグルグル歩き始めました。まるで、すきがあれば今にでもおそいかかりそうな雰囲気です。あぶない、あぶない。

「ねえ。つまんない!」

仕方なくジェフは起き上がりました。ソデチンは相変わらず夢の中です。

「ウィッチはボクが落ち込まないように心配してくれたんだろ? ボクの心がやすらかなのは君にも喜ばしいことだと思うけど」

「だけど、それじゃあ、森にいた時と変わらないじゃない。もうゴロゴロばっかりで」

なんだか勝手な言い分だとジェフは苦笑いです。ウィッチは遊び相手がほしかっただけなんだ。ま、それはわかっていたことだけどね。

「ウィッチはどうしたいの? 君のしたいことに合わせるよ」

「川まで来たんだし、水遊びに決まってるでしょ」

「川の水は冷たいよ」

「なに年寄りみたいなこと言ってるのよ。最初だけよ。慣れたら平気よ。これからどんどん暖かくもなるし」

そう言い残すと、岩間を伝ってウィッチは川へと入り始めました。最初こそは冷たいと小さな悲鳴を上げていましたが、その内にざぶりとからだごと浸かりました。そして、川の中ほどまで進むと、ふっと沈んで見えなくなりました。ジェフは初めの内は腰を落とした姿勢でその様子を眺めていましたが、ウィッチが川に沈んだ辺りから心配になって立ち上がり、彼女の姿を川面に探しました。「ウィッチ!」と叫んでも応答がありません。なかなか浮き上がってもきません。ジェフは意を決して彼も川の中へと入りました。一歩踏み入れた足先から冷たさが頭まで走りました。だけど、ためらっている場合ではありません。ウィッチはどこへ行ってしまったのでしょう。まさか溺れてしまったのか。ジェフもからだを水に入れて泳ぎだしました。勿論、犬かきです。

すると、突然、ジェフの後ろから何者かがおそいかかってきました。それはジェフの頭を水面に押しつけてきます。こいつがウィッチも水中深く引きずり込んだのか! 慌てたジェフは口からいっぱい水を飲み込んでしまいました。苦しくもがくジェフの耳に聞きなれた笑い声が届きました。

「ひゃーひゃひゃひゃ。驚いた?」

それはウィッチでした。彼女のいたずらだったのです。ジェフは呆れるやら、腹が立つやらでしばらくは黙ってウィッチを睨みつけていました。ジェフにしては珍しいことです。それほどウィッチのことを心配したともいえます。立ち上がれば川底はそんなに深くはなく、ジェフの胸から上は水面に出ました。ウィッチも首から上が出ています。よく確認すれば溺れるなんて考えにくいことなのでしょうが、川遊びの経験がない狼のジェフにすれば、慌てるのはもっともなことなのです。ウィッチもそれに思い至ったのか、はしゃいでいた表情はちょっとうつむき加減になり、一、二度頭を下げます。謝っているふうではありません。すると、いきなりジェフに抱き着いて口づすると、すぐに離れてペロッと舌を出しました。

「ごめん。心配したね」

ウィッチはそれだけ言って、岸へ向かいました。残されたジェフはただ茫然とするばかり。

岸に上がったウィッチはずぶ濡れで、着ている服が透けて肌が見えます。不思議にキラキラと輝いてとてもきれいです。服を脱いで固く絞ると、近くの木に干しました。丸裸になったウィッチは両足ついて二、三度クルクル回ります。そして、彼女はいつものようにウサギに変身したのです。その間にジェフも岸に上がってきました。しかし、ジェフは狼に戻れません。妖精の国にいる間は人間のままなのです。木に干した服が乾くまで、ジェフは丸裸です。

「人間の裸って、なんとも頼りないのよね」

ウサギのウィッチは腕組みして考えました。

「うまく行くかしら」

なんとも不安なコメントをつぶやいてジェフを見つめます。何をするのかとジェフは心配顔です。ウィッチは目を閉じ口の中で何かブツブツ言っています。きっと呪文です。それから両手を上に掲げて、先ほどウサギに変身した時と同じようにクルクル回りました。するとつむじ風がウィッチの足元に立ち上がって、逃げる間もなくジェフを包み込みました。つむじ風でジェフの姿が見えません。つむじ風が起きている間中、ウィッチも回っています。そして、ウィッチの回転が止まったとき、つむじ風も止んで、ジェフの姿が現れました。なんだか緑におおわれています。何があったのでしょうか。

「ちょっと失敗しちゃったけど、それで我慢して」

ウィッチに言われて初めて気づいたジェフは自分に何が起きたのかと、見つめました。緑と見えたのは草のかたまりみたいです。どうやらジェフは草で出来た服を着せられたのです。

「もう少しオシャレにしたかったけど……。いいわよね」

失敗して同意を求められても答えようがありません。

「ちょっとかゆいんだけど」

「葉の先が触れるからよ。その内慣れるわ」

また勝手な言い分です。その時、ソデチンがようやく起き上がりました。寝ぼけた目でジェフやウィッチをぼんやり見つめます。当然ですが、彼に今の状況は理解できません。


プードルのマリアと六つ子たちは森の奥までやってきました。ここはニッピーがクマッタを見たというカワセミの森なのでしょうか。途中、彼らは木々を眺めながら来たのですが、ドアおじさんと呼ばれる樫の木は見当たりませんでした。木々にはそれぞれに目と口がついているのですが、ドアおじさんやクマッタの居場所を尋ねても知っている木は一本もなかったのです。その内に、湖が現れました。その真ん中辺りに一隻のボートが浮かんでいます。

「あ! あれはクマッタじゃない?」

ロッピーがすぐに見つけました。

「本当だ。あれはクマッタだ」

他の五人も鼻を鳴らして喜びました。皆ボートに手を振ります。マリアも振りたいのですが、プードルではできません。ボートに乗る人も気づいたのか、こちらへ漕ぎ始めました。ゆっくりと近づいてきます。その時間がマリアにはじれったいのですが、仕方ありません。

ボートが近づくにつれて、嬉しがっていた六つ子の表情が次第に曇りだしてきました。どうも人違いのようです。それもあまりいい相手ではないのでしょう。六つ子はすっかり無口になりました。そして、ボートはついに岸辺に到着しました。

「やあ、君たち。おいらに何か用かね」

ボートから立ち上がって岸に降り立ったのは、顔中ひげ面の男でした。髪の毛が逆立ってまるで箒の穂先のようです。すっかりヨレヨレになっていますが、黒いタキシード姿です。そんな恰好でボートに乗っていたなんて、しかも朝から。お世辞にも人の良さそうなタイプには見えません。

「悪い人なの?」とマリア。

「悪いやつじゃないよ。この国に悪人はいないんだ。一人をのぞいてね。でも、ちょっと面倒くさい」イッピーが面倒くさい顔で言いました。

こちらへ歩いてくるひげ面の男のことより、一人だけいるという悪人の方が気になるマリアです。

「誰かと思えば、六つ子君たちじゃないか。元気だったかい?」

「ええ。ヒカクさん。ボクたちは相変わらずだよ」

珍しく六人の声がバラバラです。それだけ苦手なのでしょう。

「そうかい。それはよかった」

なぜか納得顔で首を縦に振るヒカクです。それはうなずくというより、自分が話を切り出そうとするタイミングを計っている仕草です。どうやら、相手の話はろくすっぽ聞かずに、自分の意見ばかり主張するタイプのようです。これはたしかに面倒くさい。

「これからどこへ行こうというのかね」

「クマッタを探しているのだけど、知りませんか?」

「そうかい。それはよかった」

イッピーの質問にヒカクは上の空で、イッピーが抱きかかえるプードルに興味津々です。

「そのわんちゃんはどうしたの?」

今にも奪い取りそうなほどに近づくヒカクを警戒して、イッピーは二、三歩後ずさり、その代わりにウッピーが前に出てヒカクに聞きました。

「クマッタを見てない?」

ウッピーにさえぎられて残念顔のヒカクは鼻をかきながら答えました。

「あんなしょっちゅう困っているやつなんか知らないね。この世界には、本当に困っても愚痴ひとつ言わない妖精もいれば、さして困ってもいないのに困った振りが好きな妖精がいる。あいつがそうだな」

「ほら、始まった」

イッピーがつぶやきました。

「だいたいだな。この世界に、この妖精の国に、そんな困ったことなんて滅多にあるわけがない。そう思わんかね……? お、おい。どこへいく。話はまだ終わっちゃおらんぞ」

ヒカクが持論に夢中になりだしたスキに六つ子は一目散に駆け出していました。後に残されたヒカクはというとさぞかし怒るかと思いきや、何だか気持ちの持って行き場に困ったような顔を一瞬見せて、しかし、すぐに何もなかったように首をかしげています。

「怒らせちゃって大丈夫なの?」

走るイッピーの腕の中でマリアが心配しました。

「おこる? 何それ? 何の遊び?」

「え? 怒るって……」

マリアは何て説明したらいいのか、いい言葉が浮かびません。でも、どうして「怒る」という意味がわからないのでしょう。

「あの人、お話が途中だったわ」

「平気さ。明日になったら、今日ボクらと会ったことなんか忘れているんだ」

「平気。平気」

駆けながら、イッピーに合わせて五人が笑い声を上げました。


濡れた服が乾くまでと寝転んでいるジェフたちの方へ何やらぶつぶつ言いながら歩いてくる男がいます。妖精の国には似つかわしくない黒いタキシード姿です。髪の毛が逆立っています。先ほど六つ子たちに逃げられたヒカクです。

「わっ。めんどいやつが来た。あまり相手にしない方がいいわ。本当に面倒なやつなんだから」

ウィッチが気づいてジェフの耳元に言いました。二人とも寝たふりです。ソデチンは言われなくても寝ています。

「ひとの話を最後まで聞かんとは失礼なガキどもだ。どれ、ひとつ説教でもくれてやるか」

ぶつぶつ言いながら、六つ子たちの小屋へ歩いていきます。幸いにもジェフたちには気づかないようです。

「おーい。おいらだ。ヒカクだ。遊びにきてやったぞ。おーい」

ヒカクは小屋の入り口をドンドン叩きますが返事がありません。それはそうです。出かけているのですから。

「なんだ。留守か?」

ヒカクは鼻をかいて残念がりました。

「この世界には、二種類の男がいるな。客として歓迎されるやつと、歓迎されず中へも入れてくれないやつ。それが今のおいらだな」

おや。少しは自分のことをわかっているようです。ヒカクは重い足取りで立ち去ろうとして、途中で立ち止まりました。いやな予感です。ウィッチが薄眼で眺めると、どうやらこちらに気づいた気配。思わず舌打ちするウィッチ。

「おーい。そこで何してる」

ヒカクはジェフたちの方へ歩き出しました。最悪とウィッチは天を仰ぎました。

「なんとものんきな景色じゃないか。昼寝ならぬ朝寝か。おいらも仲間にいれてくれるか」

ジェフたちの同意を待つまでもなく、ヒカクはずしずしやってきては、ソデチンの隣に寝転びました。

「やあ。たまにはいいもんだな。久しぶりに空を眺めるような気がするなあ」

「……」

「おいらはヒカクっていうんだ。よろしくな。以前は違う名前だったんだけど、昔の名前は忘れちまった。みんながおいらをヒカクと呼ぶから、そう名乗ることにしたのさ。どうしてヒカクかって? ご覧の通り、なんでも比較して物事を語るからさ。つまりだ。この世界には、何も比べることなく済ませてしまう妖精と、何でも比較して物事の真理を明らかにする妖精がいる。それがおいらさ」

頼まれてもいないのにヒカクは勝手に自己紹介を始めました。ジェフもウィッチも寝たふりを決め込んでいるので、ヒカクの語りはひとり言になってしまいます。

「それにこいつも言えるな。この世界には一生同じ名前で終わるやつがいれば、気ままに名前を変えるやつもいる。物事にとらわれない、自由な生き方だ。それがおいらさ」

「……」

ヒカクはむっくりと起き上がり、ジェフたちを見つめました。自分が何をしゃべろうとまったく反応しない三人にいい加減気づいたのです。

「なんだ。本当に寝てんのか」

たしかにソデチンはしっかり寝ていますが、他の二人は狸寝入りです。それに気づいたか、気づかないか、ヒカクは再び仰向けに寝転がりました。

「どうして雲は空に浮かんでいるんだろう」

また声がしました。しかし、それはヒカクのものではありません。ジェフです。ジェフは目を開け、じっと空を見上げています。

「どうしてかねえ」

特別驚いた様子もなくヒカクが受け答えました。ソデチンを間に挟んで、ジェフとヒカクのぼつぼつとした会話が始まりました。いいえ。それは会話というほどでもなく、ひとり言の交換みたいなやり取りです。

「いつかは空から落ちてくるのかなあ」

「落ちてくるのかねえ。ま、雨がその昔は雲だったのかもしれん」

「霧か。霧は雲なのか……」

「ほお。霧ねえ」

その時、ジェフがむっくり起き上がりました。それをヒカクは横目で見つめます。

「雲と霧は同じだと思う?」

ジェフは真剣な顔でヒカクに問いかけました。

「同じような、違うような。雲が下りてきたところをあいにくと見たことがないんでね」

ヒカクは寝転がったまま、横目でジェフにニヤリと笑いました。

「あんた面白いことに関心があるんだな。そんなことを気にするやつにおいら初めて会ったよ。これからも面白い話が聞けそうじゃないか。よろしくな。さっき一度自己紹介したのだが、おいらはヒカク。本名じゃないけどね。あんたは?」

「ジェフ」

「ジェフか。おいらなんかよりは真っ当な名前だな。それにしても不思議な服を着ているねえ。おいらには草を集めて固めたようにしか見えんのだが」

「その通りだよ」

「ほお。本当にそうなのか。これは恐れ入った。最近の流行りかね」

「本当の服が乾くまでの、仮衣装さ」

「はっは。あんた、本当に変わりもんだな。気に入ったよ。ジェフと呼んでいいかい?」

「ああ。かまわない」

「じゃあ、ジェフ。前世は何だったのさ」

「前世?」

「そう。生まれ変わる前ってやつだ」

「ボクはまだ死んじゃないよ」

「なに? 生者がこの国に紛れ込んだのか?」

「天使様のご許可は取り付けてあるわ」

横からウィッチが口をはさみました。

「そうかい。それは賓客だ。失礼がないようにしておかないとな」

どこまで本気なのか分かりにくいヒカクの言い方です。

「ボクは森に住む狼。この国のきのこを食べたから、今は人間の姿になっているけど」

「そうかい。あんたは狼か。実はおいらも狼だったよ」

ジェフはヒカクを見つめます。

「まあ、そんな真剣に見なさんな。少々照れる」

ヒカクは視線を外しました。

「元狼と今狼というわけだ。さぞかし話が合うと言いたいところだが、おいらは狼仲間でも、ちょっと偏屈もんだったんでね。今でもその名残はあるけどね」

「ボクだって、普通の狼じゃないさ」

「ほお。どう普通じゃない?」

「肉が苦手なんだ」

「肉が苦手?」

ヒカクは起き上がってジェフをまじまじと見返しました。

「それで生きていけるのかい?」

「現にこうして生きているよ」

「なるほど。それは何よりの証拠だ。しかし、じゃあいったい、何をあんたは食うのさ」

「木の実やキノコに野草、それから……」

「もういいや。それ以上聞いたらこっちの胃がおかしくなりそうだ」

「ヒカクは今でも肉を食べるのかい?」

「妖精になってからは、まったくだな。そういう意味では、あんたに似ているかも。そもそも食欲というものが皆無だ。時々思い出したように、そこらへんの果実を口にすることはあるが、それは腹が減ったからじゃなく、昔の名残みたいなものだな」

「名残?」

「たまに何か口に入れて噛むという感触を味わう、そんなところか」

「ふーん」

ジェフはヒカクの話に感心したというような反応ではなく、ただ相槌を打っただけのようです。その証拠に視線はまた空を見上げています。

「あんたは珍しい狼だな。普通は妖精に生まれ変わってもおいらみたいに狼の名残でヒゲが濃いもんだが。あんたにはヒゲというものがないのだな。本当に狼だったのか? ははーん。なるほど。あんたは肉を食わなかったから、そうなったのだな。つまりだ。この世界には肉を食ってヒゲが濃くなる狼と、食わなくてヒゲのない狼とがいるってことだ。それがあんただ」

ジェフは空を見上げながら苦笑しました。意外にヒカクの話は聞いているようです。

「あんたは狼としたら変わりもんだろうが、あんたの選択は案外正解かもしれないな。どんなに広い世界に飛び出したつもりでも、食わなきゃ生きていけない。狼であれば肉を食う。ウサギやネズミをな。そいつらがいなきゃ、狼は飢え死にだ。結局は小さな世界ってことさ。その中でオレが一番だなんて威張ったところで、所詮はお山の大将だ。だが、あんたにはその心配がない。あんたが食うのは木の実にキノコ、それから野草か。そいつらはどこに行ったってあるじゃないか。飢える心配がないっていうのは、強いよ。最後に生き残るのは草を食うやつらだ、とおいらは思っていたよ。おいらもチャレンジしてみりゃあよかった」

「しなかったのかい?」

「しなかったさ。だから、おいらはここにいるんだ。食えない狼の末路ってやつさ」

「どうしてしなかったの? そんなに難しいことじゃないと思うけど」

「この世界には、自動士なやつと他動士なやつがいる。これはおいらが作った言葉だけどね。自動士は自ら動き出すやつだ。そう言えば、もうわかるだろう。他動士は他人に動かされる奴さ。おいらは他動士だったのさ。物事を比較して能書きをたれるなんざ、その典型じゃないか。他動士なやつは自分から道を切り拓こうなんて考えないんでね」

ヒカクは自嘲の笑いを浮かべました。

「さて、そろそろ行くかな。面白い話ができて楽しかったよ。また会えたら、会おう」

ヒカクは立ち上がると振り向きもせず、片手を振りながら去っていきました。しゃべるだけしゃべって気が済んだようです。

「この国にもああいう変なやつがいるんだよね。悪いやつじゃないんだけど」

「彼は自分を知ってるよ。他人とは違うって。持って生まれたものだから、今更どうにもならないこともさ。だから、彼はあんな考え方に行き着いたんじゃないかな」

「考え方?」

「世の中には二種類の男がいるっていう考え方さ」

「ああ」

ウィッチは納得しました。

「そうやって肯定も否定もしない。それぞれを認める。うまい転換の仕方だよね。ボクもそう思うようにするかな」

ジェフはヒカクの後ろ姿を見つめながら言いました。

「そうね。もっとめんどくさいかと思ってたけど、違ったみたい」

ウィッチもヒカクの丸まった背中をボーっと眺め続けました。黒いヨレヨレのタキシードを着て髪の毛が逆立っている後ろ姿は、まるで古びた箒が林の中をふらふらと歩いて行くようです。それを二人は無言で見送るばかりでした。

ヒカクの姿が見えなくなると、ウィッチにあるひらめきがまた灯りました。

「いいこと思いついたから、ここで待ってて。どこかに行っちゃダメよ」

「こんな葉っぱの服じゃあチクチクしてどこにも動けないよ」

「すぐに戻るから」

ウィッチは飛び跳ねていってしまいました。


ウィッチが向かった先はいばらの森です。この妖精の国で誰も寄り付かない場所です。ただ一人を除いては。それこそは六つ子たちが言っていた一人だけいるという魔女、ガブリエルその人です。そう。そのいばらの森はガブリエルが住む森だったのです。どうしてそんな危険な森へウィッチは向かったのでしょう。ウィッチの胸には、ジェフが言った「空を飛んでみたい」という願いを叶えたい一心しかありませんでした。大好きなジェフの喜ぶ顔が見られるなら、どんなに恐ろしい場所も厭いません。ジェフへの想いが今のウィッチを突き動かしているのです。

ウィッチが向かう先に大きな岩山が見えてきました。まるで鋭い牙を突き立てたような山の頂上は黒雲におおわれて見えません。黒雲の中では雷鳴が轟いているのか、幾筋もの閃光が横に走り抜けていきます。それは近づくものを威嚇するような光です。ここは昔、緑一面の草原だったのです。それがある時、ガブリエルが住み着くようになって、彼女が一晩でこのような岩山を作り上げてしまったのです。

岩山を幾重にも取り囲むいばらの隙間を潜り抜けてウィッチは進みました。元々いばらはウサギの住処なのですが、急ぐあまりに何度もトゲに触れ、からだじゅう傷だらけです。時々痛みに気が遠くなりかけますが、気力で前に進みます。やがていばらを通り抜け、岩山の麓までたどり着きました。それまで気づかなかったことですが、ウィッチの周りには色というものがありません。墨を引いたように黒の濃淡がわずかに違うだけです。岩山も黒光りしていて、そこには洞穴がさらに色濃く暗闇の入口を開けています。以前に、ウィッチはサトリから聞いたことがあったのです。サトリは自称仙人で、白髪と白いヒゲを長く伸ばした古だぬきの生まれ変わりです。そのサトリが大きな切り株に腰かけて言うには、

「いばらの森の中心に岩山があっての。その麓に行けば、洞穴がある。その洞穴を通れば、魔女ガブリエルの住む宮殿に行けるのじゃ。その宮殿には面白い道具がたくさんあっての。魔法の杖だの、空飛ぶ箒だの」

ウィッチはその空飛ぶ箒を求めて、ここまで来たのです。

洞穴は暗くまがまがしい口を開けていました。とてもひとりでは入っていけないほどにぶきみです。その奥からは風の吹く音がビュービュー響いています。油断して近づけば、その強風に吹き上げられてしまいそうです。ウィッチは慎重に中をのぞきました。とその時です。突然風が止んだかと思った直後、今度は中へ吹き込む風に変わって、ウィッチはたちまち穴の奥へと吸い込まれてしまいました。


帰りが遅いウィッチにジェフは次第に不安を募らせました。

「ソデチン。ボク、ウィッチを探しにいってくるよ」

ジェフは木の枝にかけた服を取って着替えます。もうすっかり乾いています。

「ウィッチがどこへ行ったのか知ってるでふか?」

「わからない。でも、じっとしてなんかいられないよ。なんだか心配なんだ」

「もし、入れ違いになったら、今度はウィッチが心配するでふよ」

「そんなに遠くまでは行かないと約束するよ。ウィッチが帰ってきたら、ここで待ってて」

「わかったでふ」

見送るソデチンに手を振って、ジェフはウィッチが飛び跳ねていった方向へ駆けていきました。

どうも二本足というのは速く走れません。これが狼の姿だったらと思うのですが、今は仕方ないことです。それでも懸命に走っていくと、向こうからのしのしと歩いてくる男がいます。とても大きなからだで、背丈はジェフが手をいっぱいに伸ばしてもその頭には届かないほどに見えます。お腹も大きく前に突き出ています。横幅も、ジェフが二人並んでもはみ出てしまうでしょう。まるで森一番の熊が人間になったような大男です。ひょっとしたらウィッチの姿を見かけているかもしれない。ジェフはその男に呼びかけました。

「あの。ここら辺を飛び跳ねていくウサギを見なかった?」

急に声をかけられて男はぎょっと立ち止まりました。からだの割には気の弱そうな顔です。

「うん。見たよ。たしかにウサギが一匹、いばらの森の方へ飛び跳ねていった。どうしてあんな恐ろしいところへ行ったんだろうねえ。くまった。くまった」

「いばらの森?」

「そう。あんなところ誰も行かないよ。魔女が住んでいるんだから。くまった。くまった」

「そこへはどうやって行けばいいの?」

「簡単だよ。このまま真っすぐ行けば、いばらでおおわれた森が見える。きっとウサギ君はその中へ入って行ったんだよ。くまった。くまった」

「女の子です」

「あ、そう? それは失敬。くまった。くまった」

「ありがとう」

ジェフは男へのあいさつもそこそこにいばらの森目指して駆けていきました。

どうしてそんな恐ろしい場所へウィッチは行ったのだろう。ジェフはウィッチの目的を知りません。だからウィッチが危険な場所へ向かった理由もわからないのです。

いばらの森はすぐに見つかりました。しかし、一面が鋭いトゲのある蔓におおわれて、中へ入って行こうにもどうにもなりません。トゲのある蔓が幾重にも生い茂って、一本をちぎり取っても、すぐに他の蔓が邪魔をしてきりがありません。途方に暮れていると、ふいに後ろから声がかかりました。

「なにゆえそのような邪悪な場所を好んで行こうとするのじゃな」

ジェフが振り返ると、そこにはいつの間に生えたのか切り株があって、その上に老人が座っているのでした。

「大切な友だちがこの奥へ紛れ込んだみたいなんだ。恐ろしい場所らしいから、早く助けてあげないと」

「そのいばらは、かなりのへそ曲がりでな。無理に押し通そうとすれば逆らうのじゃ。撫でておやりなさい。生きものはみな褒めたりやさしくすれば、心を開くものじゃ。ほれ。ものは試しじゃで」

ジェフは半信半疑でしたが、考えている暇はありません。老人の言うとおりに、いばらの蔓を指の腹でやさしく撫でました。するとどうでしょう。蔓がひとりでに動いて、ジェフの前に少しですが道ができました。ジェフは前に進みながら両側の蔓を撫でていきます。蔓は連鎖するようにジェフの行く手に道を開いていきます。そうしていばらのトゲでからだを傷つけることもなく、無事に通り抜けることができたのです。先ほどの老人にお礼を言おうと振り返ったジェフは唖然としました。今通ってきた道がなくなっているのです。また、いばらの蔓がからみあって元の暗い森になっていました。老人へは今度会ったときにお礼を言おう。ジェフは先を急ぎました。

ウィッチはどこへ行ってしまったのか。ジェフの目の前には岩山がそびえていました。その麓にひときわ怪しげな雰囲気を漂わせた洞穴がその口を大きく開いています。ジェフは直感であの中に違いないと思いました。穴からは狼の遠吠えのような風の音が聞こえます。穴の奥から強風が吹き上げているのです。ジェフは吹き飛ばされないよう姿勢を低くして穴に近づきました。そして、穴の入り口に立った時、ふいに風がおさまりました。変だなとジェフが小首を傾げた直後です。物凄い力でジェフは穴の奥へと吸い込まれてしまいました。

穴の奥は広い空間になっていました。いや、むしろ穴の外へ出たのかもしれません。しかし、陽射しはなく夜に包まれているようです。その闇の中、さらに色濃く黒い影のような円筒形の城の輪郭が見えます。それは妖精の国にふさわしくない邪悪な姿でした。城の前面に草地があり、そこにジェフは倒れていました。洞穴の中を強風に運ばれて飛んだ記憶があります。それから穴の外へ吐き出されて、この草むらに落ちたのでした。その後どれくらいここで倒れていたのかわかりません。落ちた時全身を打ったのですが、それほど痛みはありませんでした。草がクッションの役割をしてくれたのでしょう。ジェフは立ち上がると、城へ向かいました。この暗黒の世界に君臨する(ぬし)が住んでいるに違いありません。それはきっと魔物です。ウィッチはあの洞穴に近づいて、同じようにここまで飛ばされたはずです。この辺りにいないところを見ると、あの城へ魔物によってさらわれた可能性が高いではありませんか。遠目に門番はいないようです。ですが、大きな門は閉ざされて、ちょっとやそっとでは動きそうにありません。その門の横に脇戸が見えます。あれから入れないだろうか。ジェフは腰をかがめて小走りに駆け寄りました。城の主に見つかってはただでは済みません。そんな危ない予感がこの城からぷんぷん匂うのです。脇戸にたどり着いて、扉を強く押してみました。少し動きましたが、通れるほどには開きません。ただ、扉にガタがあるので、何度か押したら開くかもしれない。ジェフは数回肩から体当たりを繰り返しました。そして、バキッという音と共にジェフのからだは扉の中へ倒れ込みました。そこは大きな広間になっていました。天井も高く、ドームのようです。城を支える太い柱が等間隔に据えられているのですが、何本もあって遠くまで続いています。その広間の中央を入り口の門から奥まで長い廊下が貫いています。廊下の両側にはかがり火とその炎に照らされて巨大な兵士の石像がズラリと並んでいます。兵士はそれぞれに剣や槍に斧といった武器を持ち、これもまたそれぞれに違う鎧に全身を包んで立っているのです。もしこの兵士たちが動き出してきたら、嫌な想像ばかりが頭に浮かびます。城の門がどうしてあんなに大きく作られているのか、この石像を見れば自ずと答が出ます。それを考えるだけでも身の毛がよだちます。恐怖と戦いながらジェフは廊下を進んでいきました。

かがり火の揺らぐ炎に石像の表情がまるで生きているように変化して見えます。威嚇するように睨みつける兵士もあれば、冷徹な眼差しで見下ろす兵士の像もあります。そんな石像に四方を取り囲まれているのです。ジェフは生きた心地がしません。すると突然背後から何ものかに腕をつかまれました。ワッ! 心臓が飛び出そうなほどの恐怖です。ジェフは石像の横に引っ張られて転びました。

「シッ」

細い指でジェフの口元を押さえたのはなんとウィッチでした。魔物にさらわれてはいなかったのです。今は妖精の姿に戻っています。

「ウィッチ。探したよ」

「静かに……」

ウィッチはもう一度指をジェフの唇に当てて、辺りの様子をうかがいました。

「こんなところから早く出ようよ。みんな恐ろしいところだって」

「そんなことは先刻承知よ。でも、手ぶらじゃ帰れないわ」

気丈なウィッチの顔がありました。

「何をしにきたのさ」

「ジェフには内緒」

ウィッチはウィンクして可愛く微笑みました。

「ジェフは先に帰ってもいいわよ」

「それこそ君を置いて帰れるわけがないよ」

「じゃあ、着いてくる?」

そう聞かれてジェフはうなずくしかありません。

「あたいのあとをしっかり着いてくるのよ」

ウィッチは駆け出しました。ウィッチは廊下ではなく、かがり火の明るさが届かない石像の裏側を走っていきます。なるほどこれなら、石像の恐ろしい姿を気にする必要がありません。おまけに暗闇に紛れて見つかる心配もないわけです。

「どこにあるのかしら」

「何を探しているのさ」

「だから、内緒」

ウィッチは壁際に並ぶ部屋の入り口に立ち寄っては中の様子をうかがいました。どの部屋も扉がない代わりに暗くて中がどうなっているのか見えません。部屋の一つに入ると、ウィッチは手のひらに軽く息を吹きかけました。息は手のひらの上で小さなつむじ風を作り、それはたちまちキラキラとした光となって、部屋の四方に散らばりました。部屋の壁に付着した光で中は明るく照らされます。しかし、その明かりはいつまでも続くことなく、瞬く間にその寿命を終え部屋はまた暗闇に戻ってしまいました。その一瞬の明るさの中で、ウィッチはお目当ての物を探していくのでした。そして、三番目に入った部屋で、ウィッチは何か気になる物があったのか、一度消えた明かりをもう一度息を吹きかけて明るく照らしました。

「あった」

喜びの声を上げて、ウィッチはそれに駆け寄りました。その時はもう暗くてウィッチが何を手にしたのか、ジェフにはわかりません。

「見つかったの?」

「うん」

ウィッチがそれを大事そうに胸に抱いてその部屋から出ようとした時です。チリンと何か鈴のような音がしました。

「まずい! 見つかったわ!」

ウィッチは何もわからないジェフの腕を強く引いて駆け出しました。

「どうしたのさ」

「逃げるのよ!」

二人は門目指して猛然と逃げます。すると、後ろでドスンドスンと大きな重たいものが動き出す音がしました。何ともいやな響きです。でも、振り向いている余裕などありません。とにかくこの城から脱出することが先決なのです。しかし、物音は二人に追いつき追い越し、ついには行く手の門の方からも響きました。それはジェフが恐ろしい想像をした通り、あの石像が動き出した音だったのです。まるで生き返ったように、石像たちは全身を身震いさせました。そのせいで周囲には石像に降り積もった埃が濛々と舞い上がり、白く濁って視界が閉ざされてしまいました。ただ、それが二人に幸いしました。というのも、そのお陰で二人の姿も見えなくなり、石像が二人を見失ってくれたのです。大きな石像の足元を掻い潜って、二人は脇戸から城外へ飛び出ました。

草むらを駆け抜けて、洞穴を探します。二人を運んだ風の穴があるはずです。後ろでは城の門が大きな音を立てて開かれつつありました。そこから石像たちが押し寄せてきます。急がなくては。

風の穴は草むらの中にぽっかりとその口を開けていました。ビュービューと唸りを上げています。今は吹き上げている風が、穴に飛び込めばきっと吹き込む風に変わってくれる。ためらってはいられません。二人は手を繋いで穴に飛び込みました。案の定、二人のからだは風に乗って先へと運ばれました。一瞬落ちるような感覚があったのですが、気づけば長い横穴を空中に浮いて進んでいきます。まるでウォータースライダーならぬエアースライダーです。そして、狙い通りに、二人はあの岩山の外へ吐き出されました。少々手荒なすべり台ですが、お陰で助かりました。さすがにあの石像たちの巨体では風に乗ってくることはできないだろう。そうほっと息をついたのも束の間、その考えは聞こえてくる轟音に取り消されました。風にこそ乗れなかったのですが、風を利用して跳躍しながら石像たちがやってくるのです。二人は慌てました。二人の前方にはいばらの森が広がっています。この外へ出れば、魔女の力も及ばないはずです。ウィッチはウサギに姿を変えればなんとかいばらの隙間を潜って行けますが、ジェフは姿を変えられません。ウィッチは手に抱えた物にまたがりました。そう。それは魔法の箒です。

「あれ? 飛ばない。飛ばないっ! どうしよう!」

「逃げるんだ! そんなの捨てて!」

「ダメ。これはダメ! これはあたいの宝物なの!」

ジェフが取り上げようとした箒をウィッチが拒んで引き戻そうとした拍子に、ウィッチの手を離れて箒がいばらの方へ飛んでいきました。すると不思議なことに、その箒からいばらの蔓が遠ざかっていくではありませんか。ひょっとして。ジェフは箒を拾い上げて他のいばらに近づけました。するとまた、いばらは箒を嫌うかのように遠ざかり、そこには道ができました。これだ! ジェフはウィッチの手を取って、箒を前に突き出して進みます。その先にはいばらが左右に開いて道が次々にできていきました。振り返れば、今通った道がまたふさがれて、いばらの壁となっていました。これなら石像が進むにも時間を稼げる。その予想通り、石像の行く手はいばらに阻まれ、石像はその蔓を自分たちの持つ武器で薙ぎ払うのですが、それに逆らうように次々と蔓が石像をおそって、石像たちはたちまち立ち往生となりました。ジェフはあの老人が言った言葉を思い出していました。あれはいばらの森へ入ろうとした時でした。

「そのいばらは、かなりのへそ曲がりでな。無理に押し通そうとすれば逆らうのじゃ。撫でておやりなさい。生きものはみな褒めたりやさしくすれば、心を開くものじゃ。ほれ。ものは試しじゃで」

いばらは石像たちの仕打ちに腹を立てたんだ。ありがとう。いばらのみんな。お陰で助かったよ。ジェフは別れ際にいばらの蔓をやさしく撫でました。その蔓はジェフに応えるようにトゲを茎の中に納めました。

「掟を破ったな」

ふいに声が響きました。声の(ぬし)を探して見上げると、いばらの森の向こうにある岩山の頂上、黒雲をスクリーンにして浮かび上がる魔女の大きな姿がありました。魔女ガブリエルです。美しくも冷徹なその眼差し。血の色をした真っ赤な唇。その赤い唇がまた開きました。

「これで遠慮はなくなった。私は解放されたのだ。ほほほほーっ」

笑い声を残して、魔女は姿を消しました。それに呼応するように黒雲もかき消え、岩山の尖った頂上が現れました。ガブリエルが消え去った後も岩山を見ながら、二人はしばらく立ち尽くしていました。

「大変なことになった」

ジェフがつぶやきました。

「天使様に伝えないと」

ジェフはウィッチが持つ箒を見つめました。

「これじゃないわ」

ウィッチは箒を背中に隠しました。でも、ウィッチの瞳は不安に揺れています。

「あたい、どうすればいいの?」

「その箒のことを天使様に話すしかないよ」

「いやよ。いや、いや。そんなことしたら、天使様に取り上げられてしまうわ」

「ウィッチ。この国がどうなってもいいのかい?」

「いや、いや」

半べそをかきながら、ウィッチはかぶりを振るばかりです。

「とにかく、天使様へ会いに行こう。いいね」

ジェフはやさしくウィッチの肩に手をやりました。ウィッチはジェフにしがみついて泣きじゃくりました。


プードルのマリアと六つ子たちはカワセミの森へ来ています。マリアが最初にカワセミの森だと思っていたのは実はヒメマスの森で、ここが本当のカワセミの森です。ヒカクがボートを浮かべていた湖の下流に位置して、その湖からの水が注ぎこむ渓流があります。激流に水しぶきを上げる箇所もあれば、鏡のような穏やかな水面を見せる箇所もあり、変化にとんでいます。特に緩やかな流れのところではカワセミの絶好の狩場になっていて、多くカワセミが住んでいる。だから、カワセミの森なんだとウッピーが教えてくれました。すると、先ほどの森にはヒメマスがたくさん住んでいるのでしょうか。勿論、湖にですが。しかし、ヒカクは釣りを楽しんでいるふうではなかったですね。以上は余談でした。

「ニッピーがクマッタを見たのはいつだったのさ」

ウッピーが同じ質問をぶり返しました。事実を明らかにするには必要なことかもしれません。でも、あまりしつこいと嫌われます。

「う~ん……一昨日だったかしら」

「それならもうこの辺にはいないよ」

「同じ場所をグルグル回っているかもしれないわ」

ニッピーもねばります。

「当てがないよりいいよ」

イッピーがニッピーのフォローに回ります。

「当てが外れてなきゃいいけど」

ウッピーの鋭い突っ込み。ただ、気になるのは、本当に探しているのは樫の木のドアおじさんで、クマッタではないのです。マリアはその点が心配です。

六つ子たちは穏やかな流れの淵に来て、その川辺に座りました。ちょっと疲れたこともありますが、このまま進んでもクマッタに会えるとは限らないと気づいたからです。本当の目的はドアおじさんなのですが。

「あー、疲れた。疲れた。疲れた。疲れた。疲れた。疲れた」

六つ子が順番に寝転びました。

「あの。クマッタさんよりも、ドアおじさんを探してほしいのだけど」

マリアは寝転がっている六つ子たちにお願いしました。

「クマッタがどうかしたか?」

突然声がしました。どこからでしょう。なんとも甲高い耳障りな声でした。いやな予感です。第二のヒカク登場でしょうか。それともクマッタご本人の登場でしょうか。どうもそうは思えないのですが。

「クマッタなら今日見たぜ」

声ばかりがして、姿が一向に見えません。と思っていると、対岸にある木から何かが滑空してきました。小さなからだで全身に風を受けて、こちら側にある木に飛び移りました。ムササビです。ムササビは木の樹皮を器用につかんで駆けるように下りてきました。そして、地面に到達する少し手前でくるりと回転すると、人間の姿となって着地しました。ムササビらしく小柄で目が円い男の子です。その可愛らしい顔立ちに逆らうように、ちょっとゆがんだ口元が意地悪そうに見えます。六つ子たちと背丈はよく似ていますが、ふんぞり返ったその姿勢は明らかに六つ子たちを見下ろしています。何をそんなに威張ることがあるのでしょう。

「今日見たぜ」

同じセリフを繰り返しました。

「どこで見たの?」

マリアが聞きました。マリアは自分が今プードルになっていることを忘れてしまっています。

「ほ? 犬がしゃべったじゃないか。まだ人間からのなり立てか?」

男の子はしゃがんでマリアを見つめました。六つ子たちは起き上がってマリアのそばに集まりました。六つ子のバリケードです。この男の子は危ない妖精なのでしょうか。

「なんだ。なんの真似だ。オレ様は何もしやしないぜ」

「ムサビ。この子は人間なんだ。間違ってこの国に紛れ込んだだけなんだ」

イッピーが長男らしく兄弟を代表して前に出ました。ちょっと口元が震えているのは大目に見ましょう。

「ほう」

ムサビはニヤニヤと六つ子たちを眺めまわしました。

「生者が紛れ込んだってわけか」

「クマッタさんの居場所を教えて下さい」

六つ子のバリケードの中からマリアの声がしました。

「知ってる。知ってるが、そう簡単には教えたくないなあ」

いやあ、実に嫌な性格です。

「どうすればいいの?」

サッピーが言って、鼻を鳴らしました。

「今から面白い遊びをしようじゃないか。お前らが勝ったら、教えてやるよ。だが、オレ様が勝ったら、わかってるな」

ムサビはずっとニヤついています。

「またいつものあれかしら?」

そう言ったシッピーにムサビはずいと迫りました。迫られてシッピーは緊張します。

「いいだろ? 不満かい?」

「そんなわけじゃないけど」

シッピーはうつむいてしまいました。

「いいからもう始めろよ。ボクらは急いでいるんだ」

サッピーがシッピーとムサビの間に入って言いました。

「わかったよ。それじゃあだな……」

ムサビは顎に指をあてて考え込みます。いったい何が始まるというのでしょう。

「よし。いいか? まずはオレ様からだ」

誰もズルいとは言いません。ムサビ先攻がいつものルールなのでしょう。

「あれを見ろよ」

ムサビは川向うにある一本の木を指さしました。その枝に小鳥が一羽とまっています。カワセミです。

「あれはカワセミだ。この森はカワセミの森と言われるほどにカワセミが多く住んでいる。あのカワセミが今何をしているか、わかるか」

「魚を狙っているのさ」

サッピーが答えました。それに黙ってうなずいて、ムサビは膝を地面につきました。そして、小さなからだをさらに小さく折って、地面にひれ伏します。

「森羅万象をつかさどる神々に申す。その神々しき御言葉を賜れ。我らにその御心をお示しあれ」

ムサビはそう天に向かって叫びながら何度も起き上がってはまたひれ伏します。なんだか大げさなことが始まりました。

「これから必ず神が御言葉を下さる。それをしっかりと聞け。そして、その御言葉の示すものを答えるのだ。それがオレ様からの挑戦状だ」

おっと。意外や意外。謎解きの始まりです。ムサビは謎解きの達人なのでしょうか。それとも、ただの自慢屋? それにしても挑戦状とは。そういう大げさな言い回しが好きなタイプですね。

ムサビはそう言ったきり、ひれ伏したまま沈黙してしまいました。嫌な静けさがその場を包んでいます。こういう中途半端な緊張感が子供には苦手なのです。六つ子たちのお尻がムズムズしてきました。

「何も聞こえないよー」

サッピーがこらえきれずに声を出しました。すると、ムサビはやおら起き上がって、またニヤリと笑いました

「な、なんだよ」

サッピーは負けじと睨み返します。

「もう少し待っていましょうよ」

さっきのお返しか、シッピーがサッピーの袖を引きました。

「いや。もういい。答は出た」

ムサビは余裕の表情です。鳥のさえずりさえピタリとおさまっていたというのに、ムサビには何が聞こえたというのでしょう。

「ムサビには何が聞こえたの?」

ニッピーが聞きました。

「オレ様だけではないぞ。お前たちにだって聞こえたはずだ」

ムサビの自信満々な態度に六つ子たちは互いを見やりました。

「さあ。答を出してもらおうか。このまま降参では面白くないじゃないか」

「えーっ!」

六つ子たちの声が久しぶりに揃いました。

「カワセミだ。あのカワセミが川に飛び込んだのさ」

サッピーは先ほどムサビが指さした木を振り返りました。しかし、その枝にはまだカワセミがたたずんでいました。しょげ返るサッピー。ムサビは笑いを押し殺しています。楽しくて仕方ないようです。

「サッピーよ。答はサッピー」

六つ子たちの後ろから声がしました。マリアです。

「なにっ!」

ムサビは急に不機嫌になりました。正解だったようです。

「ムサビさんが謎を問いかけて、初めに声を出したのはサッピーだもの。これは声当て遊びでしょ?」

「ふんっ!」

いよいよムサビは不機嫌にそっぽを向いてしまいました。

「なーんだ。そうかあ」

六つ子得意の六重奏です。

「これでボクたちの勝ちだ。クマッタの居場所を教えてくれよ」

ウッピーが嵩にかかって追い打ちします。突っ込みを入れるのはウッピーの専売特許です。でも、話はまったくクマッタ探しになってしまいました。樫の木のドアおじさんを見つけて元の世界へ戻るはずなのに、すり替わったままです。クマッタがちゃんとドアおじさんの居場所を知っていればいいのですが。マリアの不安は少しも消えません。

「まだだ。お前たちの質問が残っている。それにオレ様が答えられれば、一勝一敗となる」

ムサビは負けん気も強そうです。

「いいわ。じゃあ、わたしが出すわね。みんないい?」

マリアは気持ちを切り替えて言いました。ここはとにかく、目の前にいるムサビからクマッタのことを聞き出すことが先決です。そうしなければ道も開けません。いつまでもこうしておかしな妖精と遊んでいる場合ではないのです。マリアに六つ子たちは元気よくうなずきました。六つ子たちからすれば、マリアは勝利の女神に違いありません。ただ、六つ子たちがムサビとの謎解き遊びに夢中にならなければいいのですが。

「初めは四つ足で、坂を登りだすと二本足になり、頂上から下って、終わりに近づくと三本足になるものは?」

なんと完全なナゾナゾです。ムサビは鼻で笑いました。しかし、しばらくすると、その顔に苦渋のしわができてきました。答が思い当たらないようです。

「どうしたのさ。わからなければ、ボクたちの勝ちだよ」

嬉しそうにウッピーがはしゃぎます。ほらほら。そんなに浮かれるとムサビが本気で怒りますよ。

「ヒントだ。ヒントをくれよ」

「ズルいよ。ボクらにはヒントなんかなかったよ」

すかさずウッピーの突っ込み。ウッピー絶好調です。ちょっと心配。すると案の定。ムサビは下をうつむいてピクリとも動きません。かなり危険な状態。

「くそー」

そう声を漏らして、ムサビは両膝を手でつかみました。悔しさに怒りが込み上げてくるのでしょう。ウッピーの挑発的な言動も拍車をかけます。顔を上げたムサビはいよいよ大声上げて怒りを爆発させる……と見えたのですが、一瞬変な顔をした後、大きく息を吐き出すと、二三度うなずいて終わりました。その変な顔は、喉元まで込み上げたものを吐き出すことも出来ず、また無理やり飲み込んだときのあのちょっと苦くて息が詰まったときの顔です。怒りという感情をこの国の住人はこうしてやり過ごしているのです。それは、怒りをどう処理したらいいのか、本人にはわからないからなのです。

「まいった。降参だ」

ムサビは素直に負けを認めました。ナゾナゾ遊びだから、子供相手に本気で怒っては大人げないと思ったのでしょうか。からだは小さくても、ムサビは大人なのですね。マリアは答を打ち明けました。

「それは人間です。人間は生まれた頃はハイハイで四つ足。成長すれば二本足で歩きだして、年を取って老人になれば、杖をついて三本足になります。坂道は人間の一生を表します。色々な苦労は坂道を上るようだとよく例えられます。その苦労を乗り越えて経験を積めば、坂道も下るように楽になって、でも、それは老いに向かう下り坂です。……なんだか、人間って、苦労するために生きているみたいね」

マリアは答を口にする内に次第に悲しくなってきました。こんな風に例えると人の一生は物悲しい。彼女の脳裏にやさしく微笑むおばあさんの顔が浮かんでいます。声当て遊びも、今出したナゾナゾも全部おばあさんが教えてくれたものでした。

ああ。早くおばあ様に会いたい。いったいどれくらいの時間が経っているのだろう。ここは妖精の国だから、私が住む世界とは違うかもしれない。きっとおばあ様は心配しているわ。心配のあまり死んでしまったら、どうしよう。マリアの心は一層ふさがりました。

「なんだ。そんなことか。人間とはつまらない生きものだな。オレたちムササビは生まれた時から死ぬまで四つ足で過ごす。それに気ままだ」

何が自慢なのかわかりませんが、ムサビは急に復活したように胸を張りました。

「じゃあ、教えてくれよ」

「何を」

ウッピーにムサビはしらばっくれました。

「クマッタの居場所に決まってるじゃないか」

ウッピーはちょっとむくれました。

「まだ勝負は決まっちゃないぜ。五番勝負だからな」

「そんなこと言ってないじゃないか」

いよいよむくれるウッピー。当然です。ムサビは大人げない妖精でした。前言を撤回します。

「受けないなら、いいんだぜ。クマッタの居場所をオレ様は言わないで済む」

ムサビは腕組みしてふんぞり返りました。なんて卑怯でしょう。みなさんはこんな大人にはならないようにしましょうね。

急に頭上を黒雲がおおい始めました。とても不吉な予感がします。みるみる辺りは暗くなって、みな空を見上げました。

「おいおい。雨かよ」

ムサビは口をぽっかり開けて空を見上げたまま言いました。

「普通の雲じゃないみたい」

マリアがつぶやきました。マリアの不安が伝わったのか、六つ子たちの表情にも不安が浮かびました。ムサビも口を開けたままマリアを見つめます。

「何が起きるんだ……」

ムサビの震えた声が一層六つ子たちの不安を掻き立てます。六つ子たちは身を寄せ合いました。

その時です。辺りにおどろおどろした声が響き渡りました。

「掟を破ったな」

その言葉の怖さにみな震えあがりました。自分たちがいったい何をしたというのでしょう。ただムサビとナゾナゾ遊びをしていただけなのに。理由のわからない怖さほど恐ろしいものはありません。まさかウィッチの仕出かしたことだとは知る由もないのですから。そして、すかさずまた。

「これで遠慮はなくなった。私は解放されたのだ。ほほほほーっ」

「な、なんだよいったい」

ムサビは額の冷汗を手で拭いました。その手は小刻みに震えています。

「見て」

ロッピーが指さしました。そこには今まで黒雲に隠れていた岩山の頂上が姿を見せていたのです。その頂上は鋭く尖って、まるで大きな牙を突き立てたように見えます。

「何が起きたの。わたし怖い」

ロッピーはイッピーにしがみつきました。

「魔女ガブリエルだ。ガブリエルが自由になったんだ。誰かが掟を破って、ガブリエルを解き放ってしまったんだ」

茫然としてイッピーがつぶやきました。他のみなも岩山を見つめるばかりです。

「とにかくこうしちゃいられない。早く天使様に伝えなくちゃ」

我に返ってイッピーが言いました。

「オレは寝ぐらに帰る。じっとしていりゃ、災いも降りかからないからな」

ムサビは宙返りするとムササビの姿になって、近くの木によじ登りました。

「クマッタはいばらの森をうろついていたぜ。あのガブリエルが閉じ込められていたいばらの森だ」

ムサビはそう言い残して、木の上からより奥深い森の中へと飛び移って行ってしまいました。

「いばらの森か……」

イッピーはマリアを見下ろしました。

「大変なことになったの?」

わかっていても聞かずにはいられません。マリアの目には絶望がありました。もう元の世界へは戻れないという絶望です。

「この国には一人をのぞいて悪人はいないって言っただろ? その一人が魔女ガブリエルさ」

「どうしてそんな魔女が?」

イッピーを見つめ返すマリアの目はうつろです。

「ボクらも知らないんだ。昔から住んでる。ずっといばらの森に閉じ込められていたんだ」

「どうして妖精の国に魔女なんて……」

「ごめんよ。マリア。クマッタを探すのは後回しだ。ガブリエルにこの国を支配されてしまうかもしれない。そうなれば取り返しがつかない。天使様のところへ行こう」

イッピーはマリアを抱き上げました。それと同時に六つ子たちは駆け出しました。

「天使様が魔女を退治してくれるの?」

「わからないよ。天使様でも勝てるかどうか。もし勝てるのなら、最初からガブリエルなんていなかったはずだから」

イッピーの返事はマリアのかすかな希望さえも打ち砕いてしまうものでした。マリアの瞳に涙があふれました。


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