武士の稽古
茶道教室に通う時は着物を着なくてはいけないのか?と尋ねられることがある。そんなことはない。普段のお稽古では洋装の場合も多い。現に、私も滅多なことが無い限り、稽古で着物を着ることは無い。
身だしなみで大切なのは清潔感である。男女とも足袋の代わりに白い靴下を着用する。女性ならスカート丈は正座をしたときに膝が隠れ、トップスはお辞儀をしたときに胸元が開きすぎないものが良い。男性は上着、ズボン共に余裕があるものが、動きやすいし足が痺れにくい。
他にも、女性ならアクセサリーを外す、香水はつけない、髪はお辞儀をしたときに顔にかからない方が良いなど、注意点がある。
ちなみに、ウチの茶道教室では二部式のお稽古着を用意してある。いわゆる『着物風』の稽古着であり、私も愛用している。
今日は武士が稽古に来る日だ。他のお弟子さんは居ない。武士が小さい頃、男の子が茶道を習うのが珍しくて、ちょっかいを出すお姉さまが居たのだ。その人は、先生である母にすごく怒られたし、他のお姉さま方から顰蹙を買って辞めてしまった。そんな事は滅多にないことだが、母が気を使って武士の稽古は別の日にしたのだ。だから、今日の稽古は武士と母のマンツーマンである。
私はというと、水屋仕事に駆り出されている。いや、ある意味、私も稽古を付けて貰ってるようなものだから文句は無いけど・・・。
「雪吹、お菓子お願い」
「はーい」
今日のお菓子は『水無月』だ。水無月は、白いういろうの上に甘く煮た小豆をのせ、三角形に切り分けた和菓子である。京都では夏越の祓が行われる6月30日に食べる風習があるとか。六月のお稽古にぴったりな和菓子である。稽古を手伝えば、ご相伴にあずかれる。
玄関のインターホンが鳴った。恐らく武士だ。
「雪吹、出てー」
「はーい」
玄関へ向かい、ドアを開ける。やっぱり武士だった。
「いらっしゃい」
「ああ」
武士が靴を脱ぐのを見守りもせず。水屋へ戻る。勝手知ったる家だ。案内の必要もない。しばらくすると、稽古着を身に着けた武士が、ふすまを開けて入ってくるところだった。
「よろしくお願いいたします」
武士が「ああ」以外の言葉を話すのは稽古の時だけだな。そのためか、先生である母は武士をあまり寡黙だと思っていない。大きな誤解だ。
今日の稽古は武士が先に正客。私が亭主だ。帛紗を腰につけ、準備をする。帛紗を付けていることが、亭主であるという目印となる。帛紗は男女で色が違う。女性は朱や赤、男性は紫の帛紗が基本だ。
茶道口の建付に水指を置いて、ふすまを開ける。『真』のお辞儀をする。水指を持って立ち上がり、右足で敷居を越える。立つのも歩くのも考えながらだ。一つ一つの動作を心の中で確認しながら点前を進める。
私の点てた茶を母が運んでいく。
「お点前、頂戴します」
「どうぞ」
武士が茶碗に口を付ける。点前はお客が茶を飲んで終わりではない。拝見や片付けもあるのだ。武士から仕舞いの挨拶があり、『草』のお辞儀で受ける。
「お仕舞いにいたします」
道具を清め、拝見をし・・・最後に茶道口で『真』のお辞儀をし、ふすまを閉める。これでやっと、点前は終わりだ。
「次は武士君が亭主で、雪吹が正客ね」
これを何回か繰り返す日もあれば、課題が見つかって割稽古をする日もある。ともあれ、稽古は終わるものだ。片付けは武士も手伝ってくれる。
「毎年食べてるけど、水無月って好きだわ」
「ああ」
「武士は主菓子だと何が好き?」
「・・・きんとん」
「きんとんね~。美味しいけど、箸で取りにくいよね」
「ああ」
答えが返ってくるだけ良い。話せるだけ良い。私はヒロインじゃない方の幼馴染なんだから、この関係で良い。
「じゃあ、また明日」
「ああ」
武士は隣へ帰って行った。
「武士君、良い子よね~」
稽古が終わった後の母の口癖だ。
「そう?」
「今時、茶道を習ってくれる男の子って貴重よ」
「そうだけど、茶道部にだって男の先輩は居るよ」
「良いわよね~男の子の茶道。色気があって」
「はいはい」
稽古着を脱ぎながら、点前をする武士や勇気先輩を思い浮かべる。確かに格好いいが・・・。
「覚えてる?雪吹が小さい頃、間違えて帛紗を洗っちゃって、大泣きした時、武士君が慰めてくれた時のこと・・・」
「そんな小さい頃のこと、覚えてません」
はっきり覚えているのは、洗ってしまったためにクシャクシャになった帛紗と、かなりショックを受けた自分のことだけだ。
帛紗で茶杓を清めると、抹茶が付く。手で払うのだが、段々と汚れが目立ってくる。基本的には買い替えるのだが、小さい私は洗濯をすれば良いと思ったのだった。結果、正絹の帛紗は洗濯機によってクシャクシャになった。母には笑われたが、私の受けたショックは大きかった。良かれと思って洗ったのにと大泣きした。それを見た武士が「そんなに泣くな」と頭をなでてきたことなんて、もう忘れている。
「そんなことより、買い物行かないと今日の夕飯どうするの?」
「そうだった。雪吹、荷物持ちしてくれたら、もう一個、水無月を食べても良いわよ」
「仕方ないな」
決してお菓子に釣られた訳ではないが、母の買い物に付き合うことにした。
帛紗を洗ったのは、私の経験談です。