創作(フィクション)
「美は信用であるか。
そうである。
純粋美とは比喩である。」
(小林秀雄 『真贋』)
ここに未だ世に知られていない
とある芸術作品がある。
私はその作品を美しいと思っているのだが
他の人は誰も共感してくれない。
それはこの作品が
美しくないからではなく
評価者であるこの自分に信用がないからであると
私は気づいた。
やがて私が社会的な
信用や立場を築くにつれて
その作品は『美しくなっていった』……
芸術の評価自体が一つの創作です。
だから文芸評論も立派な文芸です。
芸術品や評論だけの話ではない、
この世のものは全て創作です。
この世には人間の作ったものしか存在しない。
橋や道路、街や国のみならず
海も空も太陽も宇宙も全部人間の創作物です。
それは自然史やビッグバンとは関係ない、
もっと単純な話であって、
人間の認識の能力が
真理を直接把握する能力ではなく
物事を解釈する能力だから、
人間は最初から最後まで
自分の解釈の中で生きているのだ
という意味です。
純粋な、絶対の認識というものはない。
人間は客観にはなれない。
人間は主観をやめることはできない。
人間は自分に釣り合った真理しか
知ることはできず、
その真理から離れることもできない。
だからこそ
自らの生の発展に有用な、
健全なフィクションとは何かを
考えることが必要なのです。
「悲劇は始め礼拝の合間に行う狂言であったが
やがてそれは壮重な政治的行為となり
父祖の偉業を一つ一つ、
純粋簡素な完全さをもって民衆に示すようになった。
人々は大きな感動に
全く魂を揺さぶられるような思いがしたのだが、
それは(ギリシャの)民衆自身が完全で偉大だったからだ。」
「ホメロス、ソフォクレス、
テオクリトスの名を挙げるに留めよう。
この人たちは私に感じるとはどういうことかを
教えてくれたのだ。」
(ゲーテ『文学論』)
人間理性は万能ではない。
人間個々人の意思や判断力は
人間自身が思っている以上に貧弱なものです。
だからこそ法や教育の制度、学問の体系が存在する。
人間固有のものと思える感情さえも
その形成には本人の気質や肉体の特徴以外に
文化や常識、環境から大きく影響されている。
環境、文化、伝統、歴史、制度からの乖離が
感情や意思・判断力の衰退を招くのは必然です。
文化とはフィクションです。
文明とはフィクションです。
法律とはフィクションです。
国家とはフィクションです。
日常はフィクションであり
生活はフィクションであり
平和はフィクションです。
紙切れが金を代行する、これはフィクションです。
家族が一緒に暮らす、これもフィクションです。
一日二十四時間、メートル単位、
あいうえお、ABC、
度量衡も言語もフィクションです。
人権も自由も礼儀も宗教も皇室も
全てフィクションです。
しかしフィクションであることは
無価値であることを意味しない。
人間はフィクションがなければ生きていけないのです。
間違いのないように言っておきたいのですが
純粋なもの、客観的事実は存在します。
医学、科学技術の多岐に渡る成果、
厳正な裁判を進めるのに必要な証拠品や資料、
精緻な幾何学模様、高度な数式、その芸術性、
それらの調査、研究、計画、開発、利用は
確かに厳密な客観性を保たねばできないことです。
もっと単純なところでは
シロはクロではない、
朝の次は昼、昼の次は夜、
男は女にはなれない、私は死んでいない、
これらも客観的事実と言えます。
フィクションとは客観的事実と対立することを
意味するものではない。
フィクションであるとは
主観主義であるという意味ではないのです。
むしろ主観と客観の対立という構図を廃するという点に
フィクションの本質があると言わねばならない。
その本質は遠近法的視点、
あるいは『力への意志』(ニーチェ)という
言葉で言い表すことができます。
それは主観と客観の彼岸、絶対のものの否定、
平易に言い換えますと
人間の認識そのものがフィクションだということです。
成功とは世間に認められることです。
それは学問でも芸術でも小説でも
他のどのような事業でも同じことです。
科学研究の成果もまた政治の信託を受ける、
これは健全な社会の姿です。
「宇宙は広くて大きい、
宇宙は真空でありかつ
膨大な諸々の天体や
エネルギーに満ちている」
というほぼ万人に共通の認識を
私が信用するのは何故か。
それは客観的事実であることを私が自分で
確認したからではありません。
私にはそれが客観的事実なのかどうか
確かめる術はない。
なのでこれは徹頭徹尾信用の問題であり、
私が定説を認めるのは
「辞典や図鑑を信用しているから」という
ただ一点につきます。
私が身に覚えのない罪で逮捕され
取調べを受けるとする。
刑事が犯行現場に残された指紋なり
DNAなりの照合結果なるものを
犯行が私によるものであることを裏付ける
決定的証拠として突きつけてくる。
私は警察が証拠を捏造していないことを信じるか、
あるいは弁護士と相談して外部の研究機関に
調査を依頼するか、
どのみち専門家でない者にとって、
知見のない分野に対しては
信用だけが関心事であることに代わりはありません。
道徳すらも事情は同じです。
よく「法律と善悪は違う」とか
「正義は時代や場所によって変わる」とかと
人は言うが、
道徳は文化と伝統の産物以外の何物でもない。
地域ごと時代ごとに異なる社会
異なる文化伝統がある以上
正義の基準もまた異なってくるのは当たり前です。
それを悲観するのは
根の深い普遍性への信仰があるからです。
そうやって人間の世界を超えたところに
普遍の道徳の根拠があると考えるのは
ニーチェが言うとおりカルトの発想です。
善悪の基準は信用と創作の技術でしか
作れないものです。
故に「人を殺してはいけない理由」が
法律や常識や感情など
人間の身の回りのもの以外の形で
存在すると考えるのは欺瞞です。
誰もが己の美や正義を主張でき、
なおかつ
誰もが互いに理解し合えない世界、
あらゆるものを疑いうる世界においては
信用とその蓄積のみが規範となる。
故に健全なフィクションとは
「信用の堆積物」であるフィクションです。
以前に外来語を使うことを極力避けると書いたことがあったが、
今回はあえて「創作」ではなく「フィクション」を採用した。
今回の内容では両者の微妙な意味合い(そして身近さ)の違いが
致命的だったからだ。