地政学上の問題
「おれは、アルメニア紙が欲しい、と言ったんだ」
説教されるのは嫌いだし、誰かに説教もしたくない仙太郎が珍しく非難めいた口調で言った。
「だから、買ってきただろ?」
と、欧助がガラステーブルの上の細長い小さな紙の箱を電信キーのように人差し指でポンポン打った。
「これはアルメニア紙じゃない。アルバニア紙だ」
「どっちも似たようなもんじゃねえか」
「へえ、世界をまたにかけるバイヤーさんとは思えないこと言うねえ。アルメニアとアルバニアじゃ場所が全然違うだろうが」
「でも、これはイタリア製だぜ」
「イタリアの、フィレンツェの、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会付きの薬局に売っているアルメニア紙が欲しいって頼んだんだ。この偽物はどこで買ったんだ?」
「さあな、教会の名前なんか、いちいち覚えてられるか。とにかくイタリア製だ」
「どうせシチリアで買ったんだろ。とにかく、こんなのだめだ。小竹と話がしたい」
「我が女房どのはいま、チュニジアにいる。センスのいい箪笥を見つけて、それを買い取るのにちょっと手間があってな」
「とにかく、おれが欲しいのはアルメニア紙だ」
「これだって匂いはするだろ?」
確かに匂いはする。アルメニア紙に似て、甘い匂いだが、根本が違った。
アルメニア紙はどんなふうに使おうかといろいろ考えるのが楽しい。封筒に入れて郵送して、封を開いたときにこの匂いがしたら素敵だろうとか、『失われた時を求めて』を読むときにしおりに使うと素晴らしいなとか様々な想像ができる。それに匂いから浮かぶのは静かな教会のそばの美しい白い漆喰の建物、修道士の肖像画、シャンデリアが下がるアーチ型の天井、百年以上使っている古い棚に並ぶ白い陶器の壺だ。
だが、アルバニア紙から連想するのは、赤地に黒い双頭の鷲を描いた悪の軍団風の国旗、石だらけの耕作地、痩せた羊、経済自由化と同時に国民全員がマルチ商法に引っかかった経済感覚の危うさ、そして、短剣と猟銃が織りなす二つの家の陰惨な復讐の連鎖だ。その争いの原因は百年前、ラミズがイグリの顔へ口に含んだ焼酎を吹きかけたとかそんなものなのだ。
「使い道が思い浮かばないぞ」
「そんなことはない。果たし状や斬奸状に入れたら、相手の戦闘意欲を掻き立てられるはずだ」
自慢げに説明するのを見て、仙太郎は思った。高校時代、自分はこの欧助と並べられて、三馬鹿と称されていたのだ。
一方、現在、欧助の妻となり、欧助とともに世界をまたにかけたバイヤーをしている鵜殿芙紗子(旧姓、小竹)はその貫禄と大物ぶりから長老と呼ばれていた。何事も長老に任せれば、間違いない、と当時は言ったものだ。
「とにかく長老と話がしたい」
「だから、芙紗子はチュニジアだって」
「こんなもん、買わないぞ」
「騙されたと思って、店に置いてみろ。お前が思ってるよりも、世間は復讐に飢えてるかもしれないじゃねえか」
結局、押し切られる形で仙太郎はアルバニア紙を三十個買い取った。国旗を意識した真っ赤な箱に黒い文字で『Carta d'Albania』とある。本家アルメニア紙を真似て、スタンプで製造番号を捺してある。箱を開けてなかを見ると、細長い厚紙は真っ赤でただ黒い双頭の鷲だけが印刷されている。手紙にこれが差し込まれていたら、ただの嫌がらせにしか見えないだろう。
取引が終わって、ほくほくの欧助が言った。
「そういえば、親御さんにあったぞ」
「誰の?」
「誰の、ってお前のに決まってるだろ」
「おれはもう十年、両親と会ってない」
「へえ、おれと芙紗子はこの半年で五回あってる。ブダペストだろ、トリポリだろ、それにマルセイユとウィーン、カナリア諸島」
「いろいろおかしいよな」
「言伝頼まれてたんだ」
「何て?」
「いい加減結婚しろ、だとさ」
「余計なお世話だ。そんなゆうなら帰国しろってんだ」
「ま、とにかくおれは行くぜ。芙紗子が待ってる。あと三十時間以内にポルトガルにいなきゃいけないんだ」
欧助はアルバニア紙三十個を残して去っていった。