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ワルツ文具堂飄奇譚  作者: 実茂 譲
水花火のガラス文鎮
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プライベート花火大会

 電報複寫簿の裏に『おやつ休憩 三十分で戻ります』と万年筆で書いて、ガラス戸の枠に画鋲で留めると、仙太郎はスジ入りのパナマ帽をかぶり、竹のステッキを手に水町を下っていった。

 切り取って一人占めしたくなるほど美しい青空に入道雲がかかっている。朝のうちは海のほうでくっきりしなかった雲が今では空の半分を食べてしまい、その白くむくむくした体のなかで飼っている豪雨と雷が出撃を待つ水雷飛行機のエンジンみたいに震えていた。気象予報士の資格やベテラン漁師のカンがなくても、これから大雨になることは一目で分かった。

 仙太郎は強い光を避けるように店の軒下のわずかな日陰を歩き、そのまま『おいかわ』へと滑り込んで、扇風機の前の席に座ると、氷出しの緑茶と水饅頭三種を注文した。

「これから雨が降るね」仙太郎は言った。

「そうだね」

 おいかわの店主は表に打ち水をしながらこたえた。

「今日の千軒川の花火大会も中止ですかねえ」仙太郎は切った水饅頭を口に運んだ。

「そうだろうなあ。でも、あんた、花火大会なんか行かないだろう? あんな人込みに好き好んで入ってくなんて、馬鹿のやることだって言ってたじゃないか」

「まあ、そうだけど、これには先行投資が絡んでるんですよ」

「投資? 花火屋の株でも買ったのかね?」

「話せば長い話なんですよ。水花火、八十二点のテスト、さんきゅっぱ」

 海の風と山の風が完全な均衡を作り出し、入道雲は一つところに留まった。そして、その後も舞打千軒市の住人全員の目に入りながら、不気味に聳え立っていた。目が見えない人はその存在を匂いで知った。入道雲から吹く風は湿った土のような甘い匂いがして、目の見えない人たちはその匂いの強さでこれから来る雨が通り雨なのか一晩じゅう降る雨なのか的確に言い当てることができた。盲学校に通う子どもたちは花火大会が中止になることを大会運営委員よりも先に知って絶望した。湿った土の甘い匂いは子どもたちから綿あめとソース煎餅を奪い、びりびりと痺れる空の爆発を奪ってしまったのだ。

 太陽がおんぶ山の端へかかり始めるころ、人々は千軒川の川辺へと疑り深そうな顔をしながら集まった。雨と雷ではちきれんばかりになった雲は藤の花のような影をまとって、柿色の光を浴びていた。これから降る雨は世界の終わりに降るような大地を叩きのめすような雨であり、花火大会どころか人の営むどんな活動だって停止するようなものだということは花火職人、運営委員、そして町じゅうから集まった人々にも分かっていた。だが、それだからと言って、千軒川の会場に足を運ばないことは可能性を殺すことだった。舞打千軒に住む人々が憤るのは、まだ小さな芽を引っこ抜いたり、真夏に一歳児を車のなかに置いてきぼりにしたときだった。彼らは可能性がもたらす天恵の価値を正しく知り、それを活かすことに喜びを感じていた。だから、花火大会会場が雲の下敷きになり、もうじき雨が降るであろうそのときまで観客たちは固唾を飲んで見守っていた。

 川の中州の花火職人たちはもはや花火大会を中止にしなければいけないことが分かっていたし、道具も片づけ始めていた。藁を巻いた花火の発射筒を車に積みながら、彼らは何かできることがないかと頭のどこかで考えていた。彼らもまた可能性の支持者であった。一つの可能性が潰えたら、新しい可能性を見つけることは舞打千軒の住人の得意なことの一つだった。

 花火師の親方は一番大きな玉を打つ発射筒を残した。そして、空を闇に閉ざし、今にも雨が降りそうな雲の底めがけて、十号玉をぶっ放した。花火の玉は雲の底を貫き、そのなかの雨と雷を爆発でめちゃくちゃにかき回した。黒い雲の内側が青、赤、緑、黄色と変じ、次の瞬間、雲の底に開いた穴から柱のような雨が花火師めがけて降り注いだ。最初は花火師のいる中州だけに降りかかっていた雨は花火師たちが中州から逃げて数十秒後には新たな獲物を求めて穴の大きさを広げ、川原の観客たちに襲いかかった。豪雨は運営委員会のテントを叩き潰し、観客は蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。

 じろやんと柳も雨に追い散らされた。柳の家へ逃げてきたころには二人とも濡れネズミだった。

「あら、二人とも大変ねえ。次郎丸くん、ちょっと待っててね。タオル持ってきてあげるから」

 柳の母親が用意してくれたバスタオルで雨水をふき取ると、柳は、

「第二次花火大会開始」

 と、宣言した。そして、ちょっと来い来いとじろやんを手招きした。

 柳の部屋は真っ暗だった。それでも柳はどこに何があるのか分かるらしく、バスタオルを重ねた上にじろやんを座らせると、レディースアンドジェントルメン、ともったいぶった様子で、机の上にごそごそ何かを用意した。

 そこに現れたのは小さな三つの光の玉――ガラス文鎮の水花火だった。

「さ、存分に見ていけ」

「見て行けって――これ、線香花火だろ?」

「ふふん。だから、じろやんはいつまでたってもじろやんなんだ。さあ、お前たち、じろやんに特訓の成果を見せてやれ!」

 柳はご機嫌を取るようにガラス文鎮を撫で、なかの花火たちをヨイショした。震える三つの玉がそろそろと動き始め、真ん中で一つの玉になった瞬間、花火がその花弁を思い切り広げた。

 小さな、小さな、だが、そこにあるのは間違いなく打ち上げ花火だった。気の遠くなるような細かさの花火が七色に弾けた。本物並みの音と光が部屋に満ちた。花火師もいないガラスの世界で二人の観客を満足させるためだけに咲く花火だが、耳を澄ますと、花火がバラバラバラと鳴るなかに、確かに「た~まやぁ~」「か~ぎやぁ~」と囃す人の声が聞こえた。

 じろやんは一瞬、床が抜け、自分がフローリングの床に沈むような錯覚を覚えた。

 そして、何かバランスが崩れたような感覚がしたと思ったら、じろやんはどことも知れぬ暗い穴へと落ちていた。

 はるか上に小さな三つの火の玉を眺めながら。

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