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ワルツ文具堂飄奇譚  作者: 実茂 譲
水花火のガラス文鎮
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バランスの危うさと仙太郎のちょっとした後悔

 七時を過ぎると、吹き散らされた雲がいっせいに燃え、水町の横道は紫の空と茜の雲の下でピンセットでパリッと剥げそうな薄闇の幕を下ろす。

 そんななかで見る水花火はガラスのなかでジジジと鳴きながら、猫じゃらしにちょっかいを出すみたいに、ぱちっ、ぱちっと火花をはじき出した。

「イシシ。いーもん買ってもらっちゃった」

「大切にしろよ。なんてったってさんきゅっぱだったんだから」

「わかってるってー。家宝と同じぐらい大切にする」

「お前んち、家宝なんてあったっけ?」

「なーに言っちゃってんの、じろやん。あるでしょうが。八十二点の数学のテスト。ママったら、額に入れて飾ってるよ。今のわたしは、来やがれ、コサイン。敵じゃねえ、タンジェント。お前をたおすのには指一本で十分だ、ベクトル! って気分なんだよ」

「そりゃよござんしたね。こないだまで分数の割り算ができなかったとは思えない成長ぶりだ。おれもうれしい。おばさんによろしく」

「ママはじろやんに足向けて寝られないって言ってたよ――あっ、じろやん。来週の土曜日、空いてる?」

「空いてるけど?」

「ほら、千軒川の花火大会あるじゃん」

「ああ、あったな。そういえば」

「一緒に行こうよ。浴衣着てさ」

「いいけど、何もおごらないぞ。今のおれはリベリア並みの財政赤字を被ってる」

「わかってるって――いや、ごめん。わかってない。りべりあって何?」

「アフリカの国さ」

「あたし、アフリカの国はブラジルしか分かんない」

「お前見てると、人間ってものをろくに知らなくても、幸せにやっていけるんだなって気がするよ」

「今のはわかったぞ、じろやん。馬鹿にしただろ、コノヤロー」

 水町を出て、柳と別れ、自分の家へ帰る途中、信号待ちのとき、ポケットから取り出したのはスマート・フォンではなく、一冊のメモ帳――電報複寫簿だった。ワルツ文具堂の店主がおまけにくれたのだ。

 あれからじろやんと柳はワルツ文具堂にずいぶん長居をした。五時間近くいたが、客はほとんど来ず、隣近所がちょっと顔を見せる程度だった。他人事ではあったが、店としてやっていけるのか不安になったくらいだ。

 長居のあいだ、取り留めのない話をした。今の南高なんこうと十年前の南高。〈局内心得〉という言葉が持つかっこよさについて。仙太郎と同しクラスに神林薫かんばやしかおるがいたというのは驚いた。今、最も注目されている実力派若手俳優でキー局のドラマで彼を見ない日はないと言っても過言ではない。その神林薫が南高出身というのは知っていたが、同じクラスとなると、話のフォーカスはぐんと寄ってくる。

「ゲス真面目と呼ばれたぼくからすると、あいつは真面目すぎるんだよな。たから、クソ真面目って呼ばれていた。それにリアルマゾというあだ名も頂戴していた。だって、高校生で大学受験の勉強するのは分かるけど、大卒資格公務員試験の勉強まで始めてるんだから、こりゃ相当なマゾじゃないとできるもんじゃないよ」

 神林薫の話も昔の南高の三馬鹿の話も怪盗と自称美少女探偵の話も面白かったが、一番の話題は文房具のことだった。

 仙太郎と話しているうちに、これまでほとんど気にすることのなかった消耗品に魔法がかかったような気がした。

 一方の仙太郎は文房具についてじろやんに話すとき、少し申し訳なさそうな顔をしていた。文房具の魔法にかけられたら、いろんなことが疎かになるかもしれないし、何より将来は文房具屋になりたいと言い出すかもしれない。そうなってはじろやんの両親に叩き殺されても文句は言えない。文房具とはそれほど危険で、魅惑的な世界だった。

 文房具がきちんとそろった机はそれだけで一つの国なのだ。

 ペンや封筒、ホッチキス、インク壜、郵便物用の秤などが閲兵を待つ兵隊のようにずらりと並び、引き出しには切手の入った紙ばさみがあり、色褪せた丸い紙箱が倒れて、真鍮のハトメ鋲がこぼれているさまなど見てしまったら、どうすればいいのだろうか。

 万年筆が実は魂の解釈を司っていて、万年筆の種類ごとに解釈が違うことを知ってしまったら?

 そして、魂の在り方について最も納得させてくれる万年筆を握ったとき初めて、人は愛用すべき万年筆に巡り合えたと言えることは?

 仙太郎は高校時代、三馬鹿の一人であり、ゲズ真面目とも称されたが、それでも、この文具商売が持つ危うさ――それは常に魂に接し続けていた――について分かっていたから、テストでいい点取った幼馴染にプレゼントを買ってやる人の良い少年を文房具で魅了するのは少々反則だと思っていた。

 だが、そんな仙太郎の思いを知らず、じろやんは家に帰ると、自分の部屋で、机の引き出しを引っこ抜いて、一番奥に眠っていた色鉛筆を取り出していた。小学生のころ、親戚のおじさんにもらった外国製の高価なセットだが、絵心のないじろやんは一度も使ったことがなかった。

 それはファーバーカステルのアルブレヒト・デューラーで、専用の箱には三十六本の水彩色鉛筆に筆が一本ついてきている。

 色鉛筆のセットから特に意識せず数本を抜いて机に無造作に転がし、今日もらった電報複寫簿を置いてみた。それこそ仙太郎が最も恐れていたことだったが、じろやんは色鉛筆の偶然と電報複寫簿の存在のあいだにある種のバランスを感じ始めていた。

 それは綱渡り芸人のバランスであり、命に関わるものだった。人間が生きていくなかで、一見些細なことに見えて、その均衡にはその人の人生も運命も変えてしまうものがあるが、これもその一つだった。

 だが、じろやんはバランスの持つ危うさについて、まるで生まれて初めて火を見て、その熱さを知らない子どものように無防備で無垢だった。

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