チョコレートを制する者は出版を制す
市役所というのはカフカの未完小説に出てくるような目の回る迷宮であり、その決済システムと稟議書システムに巻き込まれ、無垢や純朴といったものがあっという間に潰えてしまう。役所はマクロファージのように異分子をはじき出すので、そのなかに入るつもりなら容易なことではままならない。
――と、仙太郎に言われた浩平は、仙太郎曰く、これさえ持っておけば、役所のなかを好きなように歩き回れるというアイテムを売りつけられた。それは数字を動かすゴム印だったが、よく見ると、数字が『壱、弐、参……』と旧字体だった。どうやら、仙太郎・ザ・ゲス真面目にまんまと死蔵品を売りつけられたようだった。
「このゴム印を騎士がかかげるこん棒みたいに捧げ持ちながら、そう前腕と二の腕の角度をちょうど九〇度にしてうろつけばいい。それで、役人たちはきみを自分の仲間だと思うはずだ。まあ、念を入れて、役所に入って最初に手に入る申請書を持っていると安心だね。やっぱりハンコと紙はセットで持ち歩くことで相乗効果が期待されるわけだし」
「ほんとにうまくいくんですか? 警備員につまみ出されるのがオチじゃないですか」
「大丈夫だよ。このゴム印を手にして、いったいどんな申請書にハンコを押そうと思ってたのか思い出せない新米職員をふりをすればいい。市長専用おまるのしまってある部屋にだって入ることができるさ」
仙太郎の言うことはあながち嘘ではなかった。浩平は旧字体のゴム印を片手に、そしてもう一方の手には婚姻届を持ちながら、ふらふら歩いていくうちに市役所最上階の廊下にまで辿り着いてしまった。
そこは市庁舎の改築から取り残されたような古ぼけた廊下で、ぶつぶつと何か文句らしいものがきこえる助役の部屋や、やけに奥行きがある給湯室、市長専用おまるのある部屋が並んでいて、市長室はその廊下のどんづまりにあった。
ゴム印と婚姻届けで武装した浩平が近づくと、市長室の扉は触れるまでもなく開いて、浩平は楽々となかに入ることができた。
デスクには改革派と銘打って当選した青年市長がいた。青年市長は剥げていた。政治の世界では四十代を青年と呼んでいたからだ。市長は電話にかかりきりだった。
「――そうなんだ。ゲラがまわらないうちに印刷所が原稿を持ってこいとわめいている。もう職員八人が逃げ出した。校正係はケニアに旅行中で電話がつながらない。どうも電話のない地域にいるらしい。とにかく印刷所には印刷機を確保してもらわないといけないが、その確保には一日にチョコレート五枚を要求されている。法外な値段だよ。いったいどうやったら、そんなチョコレートが捻出できる。ペナルティが重なると、チョコレートはアーモンド入りに値上げされるが、そうなったら、奇術師フーディーニだってお手上げだ。正直な話、この世で一番権力を持っているのは印刷所だって思うことがある。もう、この際、記事を検閲されたことにして、原稿に黒線を引きまくってごまかそうかと思うが、助役は絶対賛成しないし、説得しているあいだにチョコレート相場が動いて、印刷機の確保にますますコストがかかる可能性がある。いっそのこと、印刷機を買ったほうがずっと安くつく気がするよ。でも、印刷機は一番安いのでも、チョコレート三百枚だから、元を取る前に任期が終わってしまう。ちくしょう、印刷機さえおさえておけば――」
そのとき市長の目線と浩平の目線がかちあった。すると、市長は全て心得ていたかのごとく微笑み、未決済の書類の山を顎で指した。
書類のてっぺんにはカード立てがあった。だが、それを手にするために浩平は市長室のなかにある机や椅子を全部重ねなければいけなかった。




