たぶん500万円くらいする
最近、ぽわ光が習字に凝りだしたときいたとき、仙太郎は奇妙なこともあるものだと思った。ぽわ光は金釘流のド下手で、習字の時間には半紙に『勝訴』とつたない筆で書きなぐり、見せびらかしていたくらいだったのだ。
ぽわ光本人にきいても、
「まあ、ぼくも呉服屋の店主なわけで。ノークレーム、ノーリターン」
と、よく分からないことを言われて、けむに巻かれた。
仕事が終わると、ぽわ光は書卓に向かう。漆を塗った箱から出したのは、硯だった。
それは端渓硯と呼ばれるもので、特別な彫刻はないが、青緑の色の波が丸く重なって、伝説の鳥獣の目玉のように見えた。
世間ではこれに筆、墨、紙を加えて、文房四宝と呼ぶのだが、その他三つは消耗品であるのに対して、硯は一生ものである。
茶に使う水から家の門の造りまでこだわる文人趣味コレクションの出発点とも言えるのが、硯なのだ。
ぽわ光は消しゴムと酒を飲んだ晩、自分が文人墨客消しゴム(といっても、青いゴムではなく、きちんとした人間)と川下りを楽しんだ夢のようなものを見た。
いや、夢ではなかったのだろう。縁側で目を覚ましたとき、その手にはこの硯があったのだから。
そして、それ以来消しゴムは動かなくなった。
どうも、命より大切な硯を託したことで、満足した消しゴムは成仏して、普通の消しゴムになってしまったらしい。
ああ、とぽわ光は嘆息する。
もし自分の習字の腕前を知っていたら、決して硯を託したりしなかっただろうに。
「でも、託された以上はしょうがないもんね。日々精進して頑張りますからね、師匠」
と言いながら、硯に墨汁をどぼどぼ注ぎ込むそばにはもう動くことのなくなった文人墨客消しゴムが今にも『俗』と書きそうな躍動感溢れる姿勢で立っていた。
文人墨客消しゴム〈了〉




